第57話 五人とひとりとお人形 4章

 アトリエを兼ねたリビングは、天窓からの日差しが明るくて、だから余計に俺は、この部屋でたった今交わされた会話をどう受けとめたものか、正直ひどく戸惑っている。

 俺は八木真、どこにでもいる、ちょっとかわいい大学一年生。ひょんなことから知り合った友人のおかげで、奇妙な事件や不思議な出来事に巻き込まれたり立ち会ったり、おかげで退屈なんて、してる暇がない。

 

 先週の土曜日、大学の近くのイタリアンでの食事会のあと、暁先輩は父である北森清一の作品展へ出向き、自分が北森清一の娘であること、所用があって東京へ出たついでに、父がお世話になっている画廊の社長さんにご挨拶できるかと思って立ち寄ったことを受付のスタッフに伝え、その場で社長さんとのアポを取り付けた。翌日、先輩は社長さんと面会し、挨拶もそこそこに、これまでほとんど連絡なんてよこさなかった父親が、急に作品展に招待し、あの人形を見せたのは、何がそうさせたのかと訊ねた。当然、俺達七人揃って、面会場所となった喫茶店の、ちょっと離れたボックス席で様子を見守っていたのは言うまでもない。

 そこで社長さんの口から出たのは、思わぬ事実だった。

 北森清一は、病魔に犯されている。

 ステージ四の膵臓がん、余命は、よほど保って半年。医者が言うには、いつ死んでもおかしくないそうだ。が、当人の強い希望で、治療も延命措置もなし、ただ痛みを抑えるための投薬だけ施されている。発見したのは今年の春先。あんまりやつれているのを見かねた社長が、人間ドックを受けさせたところで見つかり、念のためにと専門医の診察を受けた結果、末期のがんだと判明した。

 ──お嬢さんに知らせたほうがいいと、私も言ったんですがね。

 社長さんはコーヒーを啜って、ため息のように漏らした。

 先生もそうだねとうなずいてらしたもんで、てっきり、お嬢さんには病気のことをちゃんと知らせていて、もうご存知だとばっかり思っていたんですがね。

 社長さんは、実に気まずそうに視線をコーヒーカップの中に落として、あの人形もねえ、ともう一つため息をこぼした。

 先生は割と、制作途中のものが人目に触れても気になさらないというか、我々がアトリエにお邪魔したときに、その辺に製作中のものが出しっぱなしになっていて、むしろその段階で我々から出る感想や意見を、作品にフィードバックされることも多かったんですがね、と社長さんは続けた。

 ──あの人形だけは、誰の目にも触れないよう、大切に製作されていたようですね。私もうちのスタッフも、アトリエで一度も見たおぼえがないんですよ。

 何っじゃそら。

 

 そして一週間。俺は今、高知県の山中、北森清一のアトリエにいる。

 暁先輩は社長さんとの面会のあと、父親に会いに高知へもう一度行くことに決めた。

「会って話さないと何も始まらないでしょ」

 確かに。でも、何をどういう順番で訊けば納得いく答えが得られるのか、暁先輩には不安もあった。はぐらかされたら。それどころか、何一つ口に出さなかったら。

 そこで先輩は、助っ人として比企の同行を求めた。

「たぶんあなたの方が、嘘とか隠し事とか、見抜くのうまいと思うのよ」

 女性の直感ってすげえな。

 わかりましたと比企は答えた。ただし、引き受けるにあたって、一つ条件をつけた。

「八木君も同行してもらいましょう。元々、能見先輩からこの話を聞いて我々仲間に持ってきたのは八木君です。彼の直感は侮れません。それに彼ら戦友達によれば、私は普通に生活する普通の人が、何を不思議と思うのかには、実に鈍感だそうなので」

 ちょっと待って待ってちょっとー! 思わず声を上げる俺に、比企はあっさりと言ったものだ。

「心配ない八木君、旅費は私が持つよ。ただ、こんな説明の難しい事情で旅に出るのはやりにくかろう。皆で何か、アリバイになりそうな理由をでっちあげてもらえるとありがたい」

「そだね、そもそもヤギの持ち込み企画だもんな」

「最後まで見届けるならヤギが適任だろ」

 源とまさやんがうなずく。

 そこで勢いよく挙手した結城が、俺んちに集まるってことで! と宣言した。

「金曜の夜からホラー映画大会やろうぜ。で、ヤギが高知に着いてゲージツ家の先生と会えたらさ、回線で俺らも話聞いてればいいじゃん」

「いや、お前んちだとおばさんとかばーちゃんに、なんでヤギいないのって訊かれたら詰みだろ」

「じゃあオールでカラオケ大会でもするか」

「それ体力的に、保ってひと晩だろ」

「うえー」

 忠広とまさやんの厳しいダメ出しに、結城ががっくり肩を落とし背を丸めた。

 結局、俺は講義で難しいテーマのレポートを書かないといけないので、学校の図書室に籠って資料を漁るという名目で、金曜の夕方に出発することになった。あんまり早いうちから留守にするなんて言うと、逆に怪しまれる。俺は木曜の夜に、幾分げっそりした顔をしてみせて、教授から出されたテーマが難物で、レポートに難儀しているとお袋にこぼしてから、翌朝、今日から日曜まで図書室の資料庫にあたってレポート書きに集中すると言い置いて、簡単な着替えと洗面具だけ持ってうちを出た。親父もお袋も、単位を落とすなと日頃からうるさく言っている手前、我が子が率先して学問に励んでいることを歓迎し、食事はきちんと摂りなさい、と三日分の飯代として一万円くれた。

 すまねえお袋。俺、レポートじゃなくて、死期が近い芸術家の行動の謎に追い込みかけるんだ。

 

 講義も終わった夕刻、大学前駅の改札には、いつもの戦闘スタイルの比企と、なぜか桜木さんが俺を待っていた。

「僕はほら、小梅ちゃんを公私に亘ってサポートしたいしするのが仕事だから。やりたいことが仕事って最高だよね」

 アッハイソウデスネ。

「それに、八木君がいい子で信頼に足るとわかってはいるけど、僕以外の男性と二人で旅行なんてさせられるわけないよね。ね」

 すごいな、この本音を隠さないストロングスタイル。てゆうか必死か!

「そんじゃヤギ頼んだぞ」

「俺らみんな、いつでも回線入れるようにして待ってるから」

「物理では一緒に行けねーけど、回線越しでも全員お前と一緒だ」

「なんかあったら頼れよな。知恵くらいならなんぼでも貸すぞ」

 忠広、結城、源、まさやんが俺の肩を叩く。

「マコ、比企さんのこと助けてあげてね。あたしも大牙君と一緒に、ネット越しだけどあんたについててあげる」

 美羽子がLサイズのレジ袋を出して、みんなで食べて、と差し出した。随分ぱつんぱつんに膨れているが、重みといい、たぶん差し入れの夕飯だろう。ありがたく受け取って、俺達三人は出発した。

 電車で羽田空港に出て、最終便の一つ二つ前の飛行機で高知へ。高知市内のやたらと立派なホテルの、結構いいお部屋が今夜の宿だった。飛行機もビジネスクラスだったし、さすがにオゴリとなると、大丈夫なのかと心配になる。が、比企が言うには、三人固まった席で押さえられたのがビジネスクラスだっただけなので問題ないのだそうで。

「小梅ちゃん、普段は食べることか本くらいにしかお金遣わないのに、こういうときだとためらいなく遣いまくるんだよね」

 桜木さんがのほほんと述べた。

 その夜は、本当にざっくり程度にしか事情を聞いていなかった桜木さんに経緯を話し、深夜一時を回ったところで眠りについた。

 翌朝、待ち合わせ場所のはりまや橋にあらわれた暁先輩は、桜木さんと比企が並んでいる姿を見て目を丸くし口をぽかんと開けていたが、美少女がイケメン引き連れているのだ、無理もない。

 そこからレンタカーを借りて、暁先輩の案内で北森氏のアトリエを目指す。

 街を抜け、長閑な田園風景が広がり、やがて窓の外は森林に変わった。風景が変わると同時に、道も徐々に、整備された舗装路から、つぎはぎのように補修の痕跡が残る生活道路、しまいには車輪の轍が残る山道に様変わりしていく。やがて、山間にぽっちりと、緑に半ば埋まるようにあらわれたのは、一軒のログハウス。俺はそっと、端末を立ち上げチャットルームにアクセス。イヤホンのケーブルは、目立たないように襟足から服の中を通し、ズボンの尻ポケットに収めた端末のジャックに刺した。ゆうべチャットで示し合わせていた通り、留守番しているみんなが次々と音声でログインしてくる。

 先輩はきのうのうちに訪問を伝えていたらしく、出迎えた男は、ヒョロヒョロと痩せて、それでも穏やかな笑顔で俺達をリビングへ招き、お茶を振舞ってくれた。

 しばらくぶりだねと娘に笑いかけた、この痩せこけた男が、北森清一氏だった。幾分広い額と、さっぱりと短く切った髪、背はさして高くない。人当たりはよく、アトリエを兼ねたリビングも玄関も、掃除が行き届いていた。

 天窓からの日差しが眩しいリビングで、俺達は北森氏に挨拶して、和やかに世間話、となる前に暁先輩が口火を切った。

「随分痩せたと思ったら、父さん、がんだったんだね」

 出されたお茶をひと息に飲み干して、暁先輩は切り出した。

「画廊の社長さんから聞いた。こういうことはさ、ちゃんと家族に話すもんなんだよ」

「ああ、連絡しそびれてつい」

「急に作品展なんて言ってくるから、おかしいと思ったら」

「すまない」

「それにあの人形、あんなものいきなり、何の説明もなしに見せて。何考えてるの」

 先輩が本音ストレートでぶつけた言葉に、北森氏はキョトンとした顔で娘を見た。

「何を言っているんだ」

 心底意外そうな顔。この表情は何なんだ?

 いやあすまんすまん、でもなく、今度は気をつけるよ、でもなく、ただただ心底から、思わぬことを言われたと言いたげな、何でこの会話の流れでこんな顔になるんだ?

 俺は、北森氏のこの不可解な表情が、何だか本当に忌まわしく感じられた。あの人形の写真を見たときと同じような、うっすらとした違和感と、本能的な気味の悪さ。前後の脈絡がつながらなさすぎて怖い。何考えてるのこのおっさん。やだキモい! 何でそこで鳩豆顔になるの?

「お前は宵子のきょうだいなのに。わからないのか」

 困ったような苦笑いで、訳のわからないことを言う。

「薄情な子だな」

 それから、ゆっくりと立ち上がった。病気で体力が落ちているのだろうか、気力と、残った体力で踏ん張って立ち上がるような感じだった。

「暁、会っていくかい? よろしければ、お友達の皆さんもご一緒に」

 玄関から外へ出る北森氏に、勿怪顔で続く暁先輩と俺、桜木さん。比企は狼のような眼で、じっと北森氏の一挙一動を見守っていた。

「今日は賑やかだな。あの子も喜ぶだろう」

 ポツリと漏らして、北森氏はゆっくりと、ログハウスの裏手の森に向かう。

 

 森の中を、北森氏に続いて歩いていく。仲間はみんな、ただ黙ってことの成り行きに耳を澄ませている。

 十分も歩いただろうか、森の中に、裂け目のような黒々とした洞窟の入り口があらわれた。

「ああ、こっちだ。この中だよ」

 北森氏が気軽な足取りで中へ入っていく。後に続く俺達は、思わず顔を見合わせた。比企は眉根を寄せ、更に表情を険しくしている。

 何を警戒してる? 

 ただでさえ白い顔は血の気が引いていて、頬を硬ばらせ、じっと場の様子を窺っている。こいつは何を警戒し、何をおそれている? だが今は、北森氏のあとに続き、先に何があるのかを見届け、成り行きに身を任せるしかない。

 洞窟は一本道で、森の中を歩いたのと同じくらいだろうか、体感ではそのくらいの距離だった。中はひんやりと肌寒いくらいの温度。俺と桜木さん、暁先輩は、手に持っていたジャケットやカーディガンを羽織った。

 いきなり視界がぼんやりと明るくなった。

 洞窟の岩壁のあちこちに、淡い光の塊がぽやんとわだかまっている。そのおかげで、中の様子を見ることができた。

 光苔だ。光の塊は、光苔のコロニーだった。それが何十と天井や壁に張り付いて、洞窟の中に湧き出す泉を照らしている。泉は洞窟の奥まで伸びていて、そちらは天井が抜けているのか、うっすらと明るくなっている様子は、日光のあたたかみを感じさせた。

 泉の汀には、一艘のボートがあった。

 どうにか全員が乗り込んで、比企がオールを漕ぐ。ゆっくりと、北森氏が指し示す方へボートを進めた。

「いつもは私一人だからね、この体でもどうにか、オールを捌けるんだけど。お客様にこんなことをさせて申し訳ない」

「お構いなく」

 日の光が入り込んでいる奥の方へと漕ぎ進め、ボートは隣の岩室へ入った。室の天井を見上げると、わずかな亀裂から光が溢れている。そのせいだろうか、泉には水草がいくらか、どこからか湧き出る水の、ごく微かな流れにふわふわとそよいでいた。そっと手を浸してみると、滲み入るような冷たさだ。

 その、日差しが落ちかかる辺りを北森氏が示す。

 そこで俺は、ふと何かの匂いを嗅いだような気がした。

 光苔でいっぱいだった隣の岩室までは、湿っぽいというか、水の匂いとでもいうのか、水場独特の匂いだけだった。それが、この岩室には、もう一つ他の匂いが、言われて気がつくかどうか、そのくらいうっすらと漂っている。比企の顔を見やれば、静かにボートを漕ぎながら、表情はいよいよ厳しいものに変わっていた。

 桜木さんが、何だろう、と小さく漏らす。

「何の匂いだろう、これ」

 俺だけじゃなかった。桜木さんも、この匂いに気がついたようだ。ただ、じゃあ何の匂いですかと訊ねられると、ちょっと即答はできない。判別できるほど明確な特徴を捉えきれない、そのぐらいの仄かな匂いなのだ。ただ、あるということはわかる。

 ほんとだ、と暁先輩も鼻をひくつかせた。比企が鋭い小声で、めるど、と吐き捨てた。

「シン、あんた芝で解剖学の講習受けたはずだ。憶えてるか」

 唐突に切り出す。ああ、と桜木さんは、匂いの正体を摑めないものかと、周囲をクンクンと嗅ぎながら答えた。

「低温、湿潤な環境下で起こる屍体現象にはどんなものがあるか」

「え」

「高温で湿潤なら腐敗が始まる。高温で乾燥していれば干からびる」

 干からびるということは、

「ミイラ? 」

 俺の小さな呟きに、うん、と比企はうなずいてから続ける。

「低温で乾燥していればフリーズドライになるが、低温で湿潤であれば、脂肪や蛋白質が分解され脂肪酸に変わり、更に水中のカルシウムやマグネシウムと結合して鹸化し金属石鹸となる。脂肪酸が形成される過程では、独特のチーズ様の発酵臭が発生するんだ」

 比企は岩室の天井を見遣って、そう、と低く、お告げをする巫女のように言った。

「ちょうど、こんな風に」

 回線越しの仲間達と、桜木さんが息を呑んだ。仲間は何なのかわからないながらも、ただならぬことが起こっているのだろうという予感から。そして、きっと桜木さんは、今の比企の解剖学知識から、何が起こっているのか察したのであろう。

 比企は何を暗に示しているのか。

 桜木さんがまさか、と掠れた声でうめいた。

 ━━おい、どうした、比企さんスイッチ入ってないか。

 忠広がただならぬ雰囲気を察して呼びかけるが、ああ、と答えるのが精一杯だ。

 そこで北森氏が、ここだとうなずいて、水面の一角を指した。天井の裂け目から光が差しこぼれ、スポットライトを当てたように明るくきらめく、その水底に。

 俺は見た。

 

 水底にたゆたう長い黒髪。水が湧き出す微かな流れにたなびく薄絹。ゆったりとまどろむように微笑むまろやかな頬、今にも愛らしく歌い出しそうな唇。薄く閉じられた瞼の縁には夢の予感が漂う。

 それは、あのもらった写真で見た、暁先輩が見たという、件の人形。

 

 北森氏が優しくほら、と語りかけた。

「暁が来てくれたよ。久しぶりだろう。それに、お友達も一緒に遊びに来てくれてるんだ」

「父さん」

 暁先輩が怯えを押し殺し、誰に話しかけてるの、と訊ねる。ねえ。誰に話しかけてるの。

「何を言ってるんだ」

 北森氏が心底意外だと言わんばかりの口調で訊き返し、そして、俺はもちろん、みんなが驚愕するひと言をあっさりと口にした。

「宵子に決まってるじゃないか。自分のきょうだいを忘れたのか」

 本当に薄情な子だな。

 回線越しに、仲間が揃って驚きの声を上げた。

 暁先輩は目と口をこれ以上ないほど開けてはあ? と応じるのがやっと。

 桜木さんは何が起こっているのか、推測が現実に追いついたのだろうか、愕然としている。俺は何が起こっているのか、理解しきれておらず、また理解したくないとも思っていた。

 比企は。

 比企は険しい表情と狼のような眼で、ひたと北森氏を見据えていた。たぶん、比企はこの幕も予想していたのだろう。ただし、最悪の最悪な展開として。その、保険の保険のような推測がど真ん中を射抜いてしまったということか。だからこそ、こいつはこんなに腹の底からいやだと言いたげな表情なのだろう。

 比企はぐっと息を整えて、北森氏に問いかけた。

「北森先生。宵子さんは、今生きているのですか」

 問われて北森氏はキョトンとする。面白いことを訊くお嬢さんだなあ、と、さも楽しそうに、のほほんと、ウフフと笑った。水底の少女と顔を見合わせるような角度で、それはニコニコと。

「訊くまでもないことだろうに、ねえ」

 そうですか、と比企はため息のように答えた。

「暁先輩。甚だ残念ですが、こうなるともう、私にできることはさしてありません。力及ばず、申し訳ありません」

「え、」

「どうやら、」

 比企は俯いた顔をきっと上げた。

「どうやら先輩のお父様は、不気味の谷の向こうへ行ってしまわれたようです。こうなってしまっては、もはや常識の世界へ連れ戻すのは不可能でしょう」

「どういうこと。待って、わかるように説明して」

 暁先輩がうろたえた。無理もないよ。比企は先輩を気遣うような眼差しで一度見てから、北森氏を見据えた。

「よろしいでしょうか北森先生。およそ人類は、十年から息もせずに水中に漂って水底に沈んでいられはしません。そんなことができるのは、死体だけなんです」

 北森氏は奇妙なほど澄んだ眼差しで、ニコニコと穏やかに耳を傾けてはいるが、心のうちがまったく窺えない。怖い。俺は、この人が何を考えて、この人の目に世界がどう映っているのか、それがさっぱりわからない。わからないことがこんなに怖いなんて。

 この断絶を、比企は不気味の谷だと言った。

 推測ができない。想像が及ばない。絶対に手が届かない彼岸。そういえば、彼岸とは彼方の岸辺と書くのじゃなかったか。こちらと向こうの間には、渡ることなんてできない激流が、深い深い谷が横たわっているから、渡ってこの目で確かめようがない。

 比企は更に言葉を重ねた。

「北森先生、残念ですが、我々には宵子さんの声は聞こえません」

 もう、俺は北森氏を正視できない。あの目が怖い。あの穏やかで邪気のない微笑みが怖い。この人は、どこでどんな道を見つけ、こんな境地に至ったんだ。

「北森先生、」

 比企が静かに、厳しい口調で問いかけた。

「今、宵子さんは何かおっしゃっていますか」

 北森氏は。

 北森氏は、ただ黙って、困ったように小首を傾げた。

 わかりましたと比企はうなずいた。

「北森先生、あなたはもう、他の誰もが当たり前に見ている垣根が見えなくなってしまったようですね」

 そして、ボートの後ろに座っている俺と暁先輩、桜木さんに、白い顔を更に白く硬ばらせ、水面を指して告げた。

「先輩、宵子さんはご覧の通り、きっちりお亡くなりになっています。今ここにいるのは、宵子さんのご遺体が屍蝋化したもの。作品展で先輩が感じられた、言語化できない違和感と悍ましさの源泉の正体がこれです。生者が遺体を見たときに感じる、凄まじい違和感と本能的な恐怖。遺体だとは認識せずとも、無意識に感じたそれが先輩に疑問を抱かせた」

 そんなことは、もうこの光景を見れば嫌でもわかってしまうことだった。だから、比企のこの言葉は、俺達ではなく北森氏にこそ聞かせるためのものだった。

「やっぱり」

 あたしの予想は正しかったのね、と暁先輩は低く呟いた。

 

 どこから話そうかな、と困ったような笑顔で考え込む北森氏に、比企はどこからでも、と端的に答えた。

「お好きなように始めてください」

 明るいアトリエに場を戻し、洞窟は寒かったろうからと温かいお茶をすすめられ、俺達は北森氏の告白に耳を傾けた。

 街を水害が襲って、水が引き、誰の行方がわからないのか、情報が統一され始めると、宵子さんの姿が見えないことに気がついた。北森氏にとっては、娘というだけではない。芸術家として致命的なダメージだ。モデルであり、創作上のイメージの源泉であり、もはや宵子さんは、我が子というよりもミューズとでもいうべき存在になっていた。

 あてどもなく街を捜し回り、虱潰しに捜し、それでも見つからず、警察や自衛隊の捜索隊もまだ足を踏み入れていなかった街外れの、藪だらけの山林へ行ってみた。

 ごくたまに通りかかったときにはゴミが浮いていた農業用水の溜池は、水が入れ替わってゴミも流され、すっかりきれいになっていた。その、池の中ほどに。

 ああ。

「オフィーリアだと、それだけ思ったのを覚えてるよ」

 水の中ではんなりと薄い笑みを浮かべ、ふわふわと髪を漂わせたその姿。

 つい数日前に体験した水害の猛威が、児戯のように感じられるイメージの奔流。降りかかるそれに、どうにか耐えながら北森氏は、人っ子一人通らず、カラスの鳴き声さえ絶えた野っ原で、一人大汗をかきながら、ずぶ濡れになりながら、宵子さんを引き上げた。

 こんな場所に置いてはいけない。

 この子がいるべきは、もっと美しい場所だ。

 それしか考えていなかった、と北森氏はニコニコと穏やかに語った。

 遺体隠匿の犯罪について告白しているのだとは、とても思えない、奇妙にあっけらかんとした明るさだった。

 この人は、こんなにも世間の常識からずれてしまったのだ。

 捜索の脚として乗っていた軽トラの荷台に寝かせて、毛布をかぶせて、そのままこのアトリエまで運んだ。毛布をかぶせたのは人目を避けたかったからではなく、

「仰向けに寝かせていたからね、宵子が眩しいとかわいそうだろう」

 そうして、子供の頃、父親の畑仕事について来たときに秘密の遊び場にしていた、あの洞窟に運び、見つけたときと同じ、水に沈んだ状態にした。最初は、あの光苔でいっぱいの岩室に。数日後、奥のあの岩室を見つけ、そちらへ移動させた。

 妻と別れ、一人になって、作品が評価され収入が増えると、北森氏は真っ先に、アトリエと洞窟のあるこの山一帯の土地を買った。

「宵子はうるさいのが嫌いな子だからね。私有地になっていれば、ここには迂闊に誰も近づかない」

 やっぱり、この人の中では、宵子さんは生きているのだ。俺が見たって、きっちりかっちり生きていないのに。確かに見た目はきれいで、今にも動き出しそうではあるけど、でもそれは、実際にはそうならないという大前提があって、もう変えようがないのだとはっきりしているから、そう思うだけだ。

 死体を見た、という気味の悪さは薄いけど、それは宵子さんの体の状態がとてもきれいに保たれているからでしかない。生きているはずのものから生命を感じない、その激烈な違和感は、拭いようなくあった。

「どうしてあたしを呼んだの。なんで今になって宵子をあんな風に人目に晒したの」

 理解できない、と言わんばかりに暁先輩が訊ねると、北森氏はあっさりと答えた。

「どうも私は先が長くないみたいだからね。あの子を孤独にするのは忍びなかったんだ。母さんが死んでしまった以上、暁にしか頼めないだろうと思ったんだ」

「宵子の死体でしょ」

「死体はあんなにきれいなままで何年もいられないだろう。まあ、どうもそうとはいえないみたいだね。お前のお友達の、さっきのお話によれば」

 比企は屍蝋と言っていたか。

「遺体を長いこと、低温の水や万年雪の中といった、酸素が乏しく、水分が多く、菌類の繁殖できない環境下に置くと、ああして遺体の容姿は損なわれないまま、化学変化により肉体が変質するんです。ただ、大きく環境が変化すると劣化が始まり崩れてしまうそうですが」

 桜木さんが補足説明した。

「そうか」

 北森氏がポツンと漏らす。そうか。

「宵子は死んだのか」

 そんな当たり前のことを飲み込むのに、この人は十年以上もかかって、しかも娘とその知り合いに指摘されないと気づきもしなかったのか。

 そのとき。

「何を馬鹿なこと言ってるのよ! 」

 暁先輩が叩きつけた。

「まさか自分の父親が、そんなことも見失うほど浮わついてるとは思わなかった。人間は死ぬときは死ぬし、生きてるときはどんなに死にたいと思ったって生きてるのよ! それこそ、殺したって死なないこともあれば、殺す気なんか毛程もなくたって些細なことで死なせちゃうこともあるわよ。だからって、生死の区別もつけるのをやめるって、そういうことじゃないでしょ! そんなことで何かが解決できるわけあってたまるか! 」

 うん、ほんとそれ。暁先輩のこの言葉は、ずっと俺が入れたかったツッコミをスパーンと入れてくれた。ありがとうございます暁先輩。

 死んだと認められないからって、生きてると思い込むってのは正直どうなん。いや、無意識にそう思ってるんだろうけどさ。仕事しろ無意識!

 

 暁先輩とは、高知駅の前で別れた。

 先輩は夜行バスで帰宅し、俺達は比企が押さえたあのホテルでもう一泊してから、明日の昼間の新幹線で帰る。

 先輩が乗ったバスを見送り、ホテルの近くのレストランで夕飯をとっている間、話題はなんとなく、北森氏のことになった。

 死を理解する人間は稀だと比企は言った。

「我々の多くは覚悟でなく、愚鈍となってこれに耐える。死なざるを得ないから死ぬわけだ」

 でもさと桜木さんが、生ビールのジョッキ片手にため息をついた。

「いくらなんでも、作品のモデルでもある自分の娘が死んだのを認識できないって、どういう心理なんだろう」

「ですよねえ」

 俺も激しき同意しかない。もう暁先輩はいないので、俺は端末をテーブルの上に出して、留守番している仲間とチャット回線を繋いで、スピーカー機能で全員でワイワイと、北森氏との面会の中身について語り合っていた。

「話の邪魔したらいけないと思って、ずっと聴いてたけどさ、すげえ現実認識の歪め方だよな」

 まさやんが呆れたように言うと、忠広もだよな、と同意。

「何があそこまで目を逸らさせたんだろ」

 源も不思議そうに返す。

「北森さんはどうしてるの」

 美羽子の問いに、比企はアトリエにいるよと答えた。

「死ぬまであそこを出る気はないそうだよ」

 明日になるのか、半年先なのか。それこそわからないけど、北森氏は死ぬまで宵子さんの遺体をあのままにして、そのそばを離れずにいたいと望んだ。

 病で余命幾許もない父親から生きがいを奪うのもどうかと思うし、何より事がことだから世間に騒がれたくないと、暁先輩は宵子さんの遺体について自分に処理を丸投げせず、北森氏自身が落着させることでそれを認めたのだが。

 結城がのほほんと、すげえ執念だなと曰った。

「意地でも死んでるの認めないって、よっぽどそこ探られたら嫌なことでもあるのかな」

 そこで比企が、ピクリと肩を硬ばらせた。

「結城君、さすがだな」

「え」

「何が」

 褒められた当人はもちろん、全員訳がわからずにいるが、すぐに桜木さんが顔を上げた。

「まさか、」

「シンは気がついたか。私はそのまさかを疑っている」

「待って俺そのスピードにはついていけない」

「どういうことなの比企さん」

 忠広が泣き言を吐き、美羽子が訊ねるのにうん、と応じて、赤毛の探偵はそっけなく爆弾発言を放り込んだ。

「あくまでも推測の域でしかないが、北森氏が宵子さんを殺したのだろう」

 まじか! ってちょっと待て、まじか! 

「だって北森さんは宵子さんがいないと作品作れないって」

「イメージを得るためならなんでもやるのが芸術家だ。私の知り合いには全裸でないと何も描けないというイラストレーターもいる」

「どんな変質者? 」

 源の反論にしれっと残念な実例で答える比企。冷静に質問するのやめろ結城。

 比企は淡々と続けた。

「おそらく、でしかないが、あの北森氏の様子から見るに、殺意ではなく、文字通りイメージを求めて首を絞めていたのだと思われる。死なない程度にちからを込めて。あの人形の衣装をみんなは覚えているだろう。首元はどうなっていた」

 確か、そうだ。幅の広い、蝉の羽みたいな薄い生地のリボンが巻かれていて、

「あの、やたら幅が広いリボンチョーカー」

 美羽子が呆然と返答した。

「リボンを何本か重ねていたからね、首に跡が残っていてもわからないだろう。水害に巻き込まれた遺体を見つけたというには、宵子さんの状態はきれいすぎる」

「比企さん、その話、暁先輩には」

 まさやんが窺うように訊ねる。いや、と比企は答えた。

「一切告げていない。これは、この場かぎりの話だよ」

「そんならいいんだ。こんな話、あの人には酷だろ」

 ぶっきらぼうだけど女性を気遣うナイスガイ! やだ、まさやんカックイイ!

「小梅ちゃんはこの事件、どうするつもりなんだい」

 桜木さんが水を向けると、比企はどうもしないよと返した。

「告発するのは簡単だが、そのあとどうなる。先のない病人を糾弾し、死んだら死んだで今度は、残された先輩が父親への中傷を一身に浴びせられ、死人を恨み、きょうだいへなんとも言い難い嫌悪と違和感を抱えて生きることになる。誰も幸せにならない」

「知るのは俺達のみ、か」

「それが一番だな」

 まさやんと忠広が言って、全員がうん、と静かにうなずいた。

 何があったのかなんて、本当のところはわからない。ただはっきりしているのは、どんなことがあったにせよ、それは一人の人間の認識を歪め、不気味の谷の向こうへ渡らせてしまうほどの衝撃を与えたという、それだけ。

 生と死、生物と無生物、虚構と現実、自然物と人工物。不気味の谷は、その気になって探せばどこにでも転がっている。問題はそれにどう向き合うかだ。

 俺は北森氏へ思いを馳せた。

 現実に起きたことを受け止めがたくて、自分の物差しを作り替えて、世界を見る眼差しを変えてしまったあの人は、幸せなんだろうか。

 ポロポロとこぼした俺の言葉に、比企は八木君、と穏やかに答えた。

「幸せというのは個人差が激しい。北森氏は、不気味の谷を渡ったところでそれを見つけてしまったんだろう。巡り合わせだったんだよ」

 

 人間の幸せはどこにあるんだろう。

 俺は、目の前で地酒をかっ喰らう赤毛の探偵をぼんやりと見遣り、たまさか出会った芸術家の、痩せた背中を思い出した。

 随分と要領が悪いですよ、あなた。

 人間は、なんかおいしいものを食べたとか、よく眠れたとか、そんなことだけでも意外と幸せになれるんだから。そんな誰も行かない気味の悪いところまで探しに行かなくたっていいのに。

 手っ取り早く手に届く幸せから追求することにして、俺は目の前のピザに手を伸ばし頬張った。

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