第55話五人とひとりとお人形 2章

 土曜日の朝は、初夏の清々しさに溢れていた。気持ちのいい快晴、風は爽やかで、日差しは眩しく、行楽にはもってこいの日だ。

 そんな爽やかな休日に、俺はあんまり爽やかじゃない用事のため、いつもの仲間達といつものように、大学前駅の改札で待ち合わせをしていた。

 まさやんと結城、俺、忠広、それから、今日こうして仲間が集まるきっかけとなった、不思議な話を俺に聞かせた、ゼミの能見先輩に、今回のきっかけとなった話の出どころ、先輩の友人の神林さん。ここに源と美羽子、比企が揃えば、全員で国立市内の小さな美術館へ向かうことになっている。

 源と美羽子が連れ立って改札を抜けてこちらへ来た。美羽子はサマーブラウスにカーディガンと麻のスカート、源は麻のジャケットに細身のパンツを合わせていて、さりげないペアルックを決めている。末長く爆発しやがれ。

「あれ、比企さんは? 」

 源と美羽子がキョロキョロしかけたところに、俺の後ろから待たせたようだな、と声がかかった。

「すまない、調べておきたいことがあって、学校のデータベースを閲覧していたんだ」

「休みの日にまで学校って、何してんだよ比企さん」

 忠広が呆れるが、比企は気になったものでねと答える。しかし、こいつは何を警戒しているのか。いつもの防弾チャイナに黒い膝丈バルーンパンツ、アーミーブーツに白い軍用コートとハンチングといういでたちだ。まあ、いつもの緩み切ったファッション、芋ジャージに下駄と珍妙なTシャツよりはまだバリっとしているが。どうせ丸腰は落ち着かないとか言って、コートの下には愛銃とナイフを隠しているんだろう。知ってる。

 合流した比企の姿にいささかぎょっとしたものの、先輩達は気を取り直して、よし全員揃ったな、と改札を通った。

 電車を待つ間に、比企はコートの内ポケットからコピー用紙を数枚出して、ざっと目を通してから俺に寄越す。

「情報を共有しておこう。皆で回し読みしておいてくれたまえ。できれば現地へ到着する前に」

「へ」

「例の、能見先輩のご友人の知り合いだというご婦人の片割れの件だ。水害で行方不明になったというのでね、ご出身の地域から、該当しそうな災害の報道を総浚いして見つけた」

「すげえな」

「大学のネットを経由して、大手新聞各社のデータベースに入り、年代と地域を指定して当たったら出てきたよ」

 どうやら地方版の縮刷の、必要な部分を拡大したプリントのようだ。見出しには「大堤防決壊 街を呑み込む洪水」「死者・行方不明者 併せて千人を越す」なんてある。かなりの規模の水害だったようで、台風で増水した川が堤防を決壊し、元々の荒天により膝近くまで水が溜まるほど雨が降っていたものだから、川沿いの街はひとたまりもなかった。何軒もの家が押し流され、家人がよせというのに田んぼを見回りに行った爺様が死に、子供が溺れかけ、流されなかった住宅も床上浸水で、住人は二階部分だけで生活せざるを得なくなった、と記事には書かれていた。

「ああ、それから最後のは、ちょっとした興味本位だ」

「興味? 」

 最後の一枚までプリントアウトをめくると、今度は地方紙のカルチャー欄と思しきものだった。

 見出しは「水害の悲しみと共に 復興の願い込め芸術祭開催」。日付は水害の報道の、二年後だった。文面をざっと読むと、どうやら地域の復興アピールと、遠ざかった観光客を呼び込むために、県出身の著名な画家の呼びかけで、付近の地域在住のアーティストや写真家がプロアマ問わず集まり、アートイベントを開催するという紹介記事だった。記事には参加したアーティストの一覧がついており、主催の画家や、サポーターとして名を連ねる漫画家は、俺でも名前を聞き作品を目にしたことがある人だったが、そのリストの中に、赤いペンで丸くざっと囲われた名前があった。

 北森清一〈オブジェ、半立体〉

 これから俺達が乗り込む作品展の芸術家だ。

「ところで半立体って何」

 俺の質問というほどでもないぼんやりした問いに、比企が淡々と答えた。

「絵画の表面に、石やら貝やら貼り付けて作る作品だよ。絵の具の盛りで立体感を出しているわけではなく、立体的なものを貼り付けているから立体的な作品、で半立体」

 わかったようなわからんような。

 カルチャー欄の記事には、件の北森氏が作品の前に立っている写真に「『水害で行方不明になった娘を想って描き上げた作品です』と北森さんは語る」というキャプションがついていた。絵自体は相当大きなものらしく、作者はすぐ前に立っているので見切れて端の部分だけが写り込んでいる。

 ちょうど電車が来て、ガラガラの車内でシートに尻を置いたところで、俺は隣に座った美羽子と源にプリントアウトの束を渡した。

「比企さんから。情報共有しとこうって」

 二人と、源の隣から忠広が覗き込んで一通り目を通し、それから忠広の隣の結城とまさやん、先輩が同じように記事を読んだ。あの外国人の女の子は何者なんだ、と神林さんが首を傾げるが、そこはあまり触れないでやってください。その話になると時間かかるので。

 比企は扉のすぐ脇に立っていて、俺はその側、七人掛けのシートの端に腰掛けていたのだが、二駅ほど過ぎたところで不意に、八木君、と自分の携帯端末の画面を示した。

「北森氏と契約している画廊のサイトだ。割と初期からの彼の作品を、ほぼ網羅していると思われるアーカイブだ」

 ちょっと面白いぞと言って、俺に端末を渡す。受け取って、作品一覧を見ると、そこには絵画とオブジェの写真が半々くらいで並んでいた。あらかたの写真の上にソールドアウトのマークが入っており、なるほど、確かに人気はあるのだろう。端末の画面でさっとスワイプしながら流し見ただけだが、どんな作風なのかは推し量れた。

「気がついたかい」

 顔は穏やかに笑っているが、比企の目は笑っていない。

「何が」

 端末を返しながら問う俺に、奴は静かに答えた。

「人形がないだろう」

「あ」

 

 大学前駅から拝島駅を経由して、JRで快速東京行きに乗り換える。国立駅で降りて、大学通りをまっすぐ、一橋大学を通り越してすぐ右に折れる。しばらく歩くと、木立の新緑に埋もれるような、クラシカルな洋館があらわれた。門には小さくギャラリーと書かれている。ここが今日の目的地だった。

 玄関扉を入ると、ホールの隅に受付があり、俺達はそこで人数分のチケットを買い、館内へ。漆喰の白壁とブラウンの腰板、寄せ木細工のタイル床。広い部屋には大きな作品が二つ三つ、小さな部屋には小ぶりな作品がそっと置かれていた。

 真鍮の歯車や真空管、コイルや螺子で作られた繊細そうなオブジェ、ガラスや細い銅線を張り巡らせた絵画。

 よくわからないけど、それでも全体のイメージはちょっとクラシックでころんとした作品で、この洋館で開催するにはぴったりな展覧会だった。

 展示の最後、二階の大広間にあったのは、大きな、壁いっぱいの絵画だった。ゆったりと水面に漂う少女が描かれている。ふわふわと長い髪が広がり、ドレスはひらひらとわずかな波になびく。ごくごく細い銅線や銀線、花の形にあしらったガラス、小さな歯車の群れは水草の葉のイメージだろうか。

 タイトルは「オフィーリア ver.2」となっていたが、その顔立ちはかなりオリエンタルな雰囲気だった。

 比企は黙っていた。黙って広間の入り口あたりで立ち止まり、狼のような目で部屋全体と絵を見渡していた。

 おかしいな、と神林さんが呟く。

あきが見た人形が見当たらない」

「でも展示はこの部屋で終わりみたいっすよ」

 まさやんが、他の部屋へ抜ける扉がないか周囲を見ながら答えた。部屋のどんつきには、天井まである大きなフランス窓が壁一面に造られていて、順路はここからテラスへ出て、隅の階段から庭へ降りて、そのまま庭を散策するもよし、入り口の玄関へ戻って帰るもよし、とにかく展示はこれで終わりみたいだった。

 部屋の真ん中でおかしいなと顔を見合わせる先輩と神林さんに、すっと比企が近づく。

「能見先輩、神林先輩」

「は。あ、えーと、比企さん、だっけ、何かな」

「一旦撤収しましょう。受付にいた女性は展覧会のスタッフでしょう。この手のイベントは、主催者の身内で雑務をこなすことも多い。ちょっとカマをかけてみますので、適当に話を合わせてください」

「ああ、うん」

 釈然としないながら、ひとまず同意する二人。では行こうか戦友諸君、と比企はパン、と手を打った。

 テラスの階段から庭へ降りて、テニスコート二面くらいの面積を、花壇の間を縫うように煉瓦が敷かれた小径を歩く。小径といっても一本道で、ただ庭の花を楽しむだけのものだから、さして時間は食わない。花や庭に興味がない人間だったら、二分もかからないだろう。源は色とりどりに咲く花と一緒に美羽子の写真を端末で撮影してるし、まさやんと結城は近場のラーメン屋を検索してるし、同じ庭を歩きながら天と地ほども反応が違う。

 比企は何やら考えながらゆっくりと歩き、ふん、と小さく鼻を鳴らしてから、玄関ホールへ抜ける扉を開いた。

 受付には、さっきチケットを売ってくれた四十過ぎたくらいの女の人と、夏物のスーツ姿のおじさんがいた。比企はおじさんの顔を見て、小さくオーチンハラショウ、と呟いた。

「さっき画廊のサイトを見ただろう。そこのオーナー、北森氏のパトロンだ」

 がっちりした体で、画商と言われてもピンとこない。ゴルファーと言われた方がしっくりくるおじさんだ。

 比企は受付に歩み寄ると、のほほんとした調子で、すてきな展示でした、ありがとうございます、と声をかける。

「まあ、ありがとうございます」

 ばっちり化粧してるけど、たぶん土台の顔つきが派手なのでさほど違和感はない女の人が、にこやかに応じた。おじさんの方も、若い方にそう言っていただけるのは、開催した甲斐があるというもので、と喜んでいる。おお、これぞザ・世間話。和やかな空気に包まれた中で、比企がところで、と切り出した。

「実は、今日は一つ楽しみにしていた作品があったんですが、」

「おお、どの作品でしょう」

「『オフィーリア』かしら。北森先生、会心の作だって仰ってましたもの」

「サイズもそうだが、製作中の先生の熱の入れようと言ったら、並大抵ではなかったからなあ。最初の『オフィーリア』より、サイズも完成度も引き立っているし」

 そこで比企がやんわりと否定した。

「いいえ。高知での会期中に、精巧に造られた人形が出ていたと知人から聞いていたもので、東京でも見られるかと期待していたのですが」

 そこで主催者二人が顔を見合わせた。

「あら、ねえもしかして」

「あれか」

 おじさんの方が、いささか気まずそうに、どこでその話を、とそれでも愛想よく訊ねる。

「実は、私達は大学の美術愛好サークルで、他大学のサークル仲間から、法事で里帰りついでに立ち寄ってみたら、素晴らしい作品を観たと、それはもう自慢されたもので。そんなに良い作品なら、これは是非観ておきたいと、こうして足を運んだ次第です」

 そうでしたかと二人はニコニコと、いささか戸惑ったような笑みでうなずいた。

「せっかくお越しいただいたのに、それは申し訳ないことをしました」

「展示されている作品も魅力的ですが、知人が見た作品は、東京には来ていないのでしょうか」

 すげえな、いかにも無邪気な美術好きってテイを醸し出してる。そんなにすごいなら観たいけど残念、といいたげな、食い下がりはしないけど悔しい、という謙虚なオタクの習性をここまで再現するとは。しかも、こいつは見た目だけなら美少女なので、そんなにも惜しまれると、言われた方は悪い気はしないだろう。

 案の定、おじさんも女の人も、いや弱ったなあ、こんなに楽しみにしてもらえてたなんて、とまんざらでもなさそうだ。

「まあ、そんなに楽しみにしてくださってたのね。でもごめんなさいね、あの人形は、実はまだ完成作ではなかったんですって」

「私が偶然、先生のアトリエにお邪魔したときに見かけましてね、これだけのものが日の目を見ないのは勿体無いと説得して出品を持ちかけたんだが、完成作品ではないので、高知会場で最終日にだけ、という条件で、どうにか展示したものだったんですよ。だから、先生の強い希望でカタログにも掲載せず、今はアトリエで製作が続いております」

 そうでしたか、と比企は幾分萎れて、それでも愛想よくうなずいた。

「先生が仕上がりに納得されていないなら、仕方のないことですね。いつか完成して公開されるのを楽しみに待つことにします」

 そこで女の人が、ちょっと待って、とひと言、声を低めておじさんに、社長、確か何枚か写真撮っておいたって言ってませんでした、と訊ねる。

「こんなに若い子が大勢で、あれを見るのを楽しみに来てくれたのに、このままだなんて何だかかわいそうじゃないですか」

「ううん、まあそうだな。──ああ皆さん、」

 そこでおじさんは、比企と後ろに控えていた俺達に、先生には内緒ですよ、と言って、内ポケットから紙焼きした写真を出してみせた。

「これが、お知り合いの観た例の作品ですよ。つくづく運のいいお友達だ。場所が場所なので、あまり大々的には宣伝していなかったんですがね。しかも最終日にご覧になるとは」

「本当ですね。本人も、これで向こう十年の運は使い果たしたと言っています」

 それはそれは、とおじさんは愉快そうに笑って、そうだ、と写真を差し出した。

「よかったらこれは差し上げましょう。元データは私の端末に保存しておりますし、そこまで楽しみにしてくださっていたのに、手ぶらでお帰りいただくのも心苦しいですからね。ただし、」

 ブログやネットには出さず、皆さんでご覧になる限りの使用でお願い致しますよ、と断って、画廊の社長さんは写真を比企に手渡した。

「先生にバレたら、大変なことになりますから」

 大きくうなずく俺達御一行。比企はオタク中学生が尊敬する漫画家にサインをもらったレベルで顔をテカテカさせて、ありがとうございます、と丁寧にお礼を述べた。

 社長さんと女の人ににこやかに見送られて外へ出ると、初夏のお昼どきの日差しは眩しく、比企は光溢れる空とは真逆のドス黒い笑みで、まさかこんなブツが手に入るとはな、と言った。悪い顔だなあ。

 しかしまあ、見事なオタクっぷりだったが、あれじゃあ画商の社長さんだって騙されるだろう。

「比企ちん、あのオタクの再現すごいリアルだったんだけど」

 結城にまで言われてる。当人は澄ました顔で、防衛省いちがや時代からの友達にオタクの腐女子がいたからモノマネしてみたんだ、なんてほざいている。

「久しぶりに会ったら上司と結婚していて、これで腐女子から貴腐人にクラスチェンジだと言っていたな」

 こいつの交友関係はほんともう計り知れない。どこでどんな人間と付き合ってるんだか、知れたもんじゃない。

 比企はニヤリと太い笑みで振り返り、情報整理をしておこう、と宣った。 

 

 その写真に収まっているのは、少女の人形だ。

 うっすらと開きかけた唇と目は、今にも開かれ何かを語り出しそうだ。その声はどんな響きなのか。その眼差しは何を語るのか。

 長い黒髪は、ところどころ細い三つ編みにして、ビーズや造花や色とりどりの石を編み込んでいる。うっとりと夢見るように煙る眉、優しい頬の丸み、愛らしい小鼻。胸の上で指を組んだ手も小さく、爪は艶やかな桜貝の色だ。色の白い、頬と目縁、唇に薔薇色を淡くひと刷毛引いた、繊細な少女の人形だった。

 人形は、真っ白い薄衣を纏っていた。透けるほど薄い布を、丹念に何枚も重ねて作って、レースや花や宝石をあしらったドレス。頭も真っ白い、鳥の羽やレースで飾られたヘッドドレスをつけ、ただ静かに微睡んでいる。

 おそろしいほどの情熱と手間を惜しむことなく傾けたのだろう。よくできている、という言葉がそぐわないほどに、それは精巧に、可憐に作られていた。なんだか、

「人間みたい」

 美羽子がちょっと薄気味悪そうに漏らす。

 そうだ。

 何も知らない者に、ただこの写真だけを見せたら、きっと人間だと言うだろう。そのくらい、生々しかった。リアル、と言うのとはちょっと違う。もっと感覚として深い「本当らしさ」だ。

 きれいで愛らしいのは本当だけど、なんだかちょっと、背骨に絹糸のような薄気味悪さが絡みつく、そんな人形だった。

 俺達はギャラリーから、大学通りの老舗喫茶店に河岸を変え、店の奥のボックス席で、さっきもらった写真を順々に見ていた。

 写真が一巡して、最後に神林さんが受け取って見る。一瞥して、息を呑んだ。

「神林さん? 」

「どうした神林」

 向かいに座った忠広と、隣に座る能見先輩が訝しげに声をかける。ああ、と顔を上げた神林さんは、血の気がひいていた。

「高校の頃の、暁だ」

 俺らはキョトン。比企はティーカップ越しに神林さんを鋭く見遣った。

「高校一年で、入学と同時に同じクラスになった。あの当時の暁そっくりだ」

 小さく喘いで、目の前のアイスコーヒーを一口含み、どうにか息を整えた。

 神林さんから写真を受け取って、比企はテーブルの上に置いた。そして、まずいものでも食ったように顔をしかめてから、関係があるんだかないんだか、よくわからないレクチャーを唐突に始める。

 

「精巧に作られたものであれ、素朴な造形のものであれ、なぜ人形は、ときに不気味なのか。皆、考えたことはあるか」

 全体を収めたもの、正面からと、頭の斜め上の位置からと、バストアップを収めたものと、三枚の写真を並べながら、比企は切り出した。

「人間は往々にして、自身の理想の似姿として人形を形創る。しかし、理想を完全な形で具現化した結果、それを見る者の側にどんな心理を掻き立てることになるか。──まずは完全な理想を再現した容姿がイデアを思い起こさせる。太陽を直視して目を灼くようなものだ。そして同時に、自分の現実の姿、理想とは及びもつかない無惨な現実を叩きつけられ、それは自分の心の裡にある薄暗がりを見せつける。人間は、同時に光と闇の谷間を見るのだ」

 大袈裟な、と言いかけた言葉を、先輩二人が済んでのところで飲み込んだ。比企はそんな二人の反応すら織り込み済みなのだろう、目だけで笑って、紅茶を飲む。

「それだけではない。光と闇の谷間を見ながら、また同時に人は違うものを、人形を通して見る。人体の理想形として作られながら、今にも動き出しそうな細密さでありながら、命を予感させる人形は、人間の被造物であるというその事実によって、生命を得ることは永遠にない。命を予感させながら、それでいてその予感を決定的に裏切る、驚愕と不安。いわゆる不気味の谷というやつだ」

 不気味の谷。そういえば、この前もそれについて、ちょっと話をしていたような。

「不気味の谷って、この前比企さんが言ってたあれか? 」

 まさやんがクラブハウスサンドを口に放り込んだ。まさしく、とうなずくロシア娘。

「それが生々しく、今にも動き出しそうなくらいに生々しく造られ、あるいは映像の中で生き生きと動いてみせることで見る者に生命の予感を抱かせるほど、それが決して現実にはなり得ないのだと明確に思い知らされたときに、人間は強い嫌悪と違和感、驚愕と恐怖を感じる。あるいは逆に、生きている人間が、無機物であるはずの人形やアニメーション、絵画で描かれるイデアそのものを自身の肉体で再現しようとするとき、つまり、生あるものが命を持たぬ無機物に近寄ろうとするときにも、人は強烈にこの二つの谷間を見せつけられるんだ」

 しかも、これは人間の形をしており、神林先輩のご友人のご婦人は、かつての自分そっくりの姿だと言っていたんだろう、と比企はカップを干して次の一杯を注いだ。

「これはかなり強烈だな。繊細なご婦人であれば軽いトラウマになるくらいはあるだろう。実際、神林先輩もこの写真を見て、知り合った当時のご友人にそっくりだと仰っている。そうでしたね先輩」

 神林さんが、ああ、とぼんやりうなずいた。

「まあ、暁は結構逞しいやつだけど、それでもさすがに堪えたみたいだ。親父さんが何を考えてるのかさっぱりわからないって、混乱してたよ」

「でしょうね。暁さん、でしたか、ご友人は実に健全で健康な精神をお持ちの方のようだ、無理もない。それこそが真っ当な反応です」

 能見先輩が小さくうめき、神林さんが息を呑んだ。

「暁の親父さんは、一体何を思ってそんな、娘そっくりな人形なんか作ったんだ」

 息を呑み、吐き出すように漏らして頭を抱えた。

 比企はカップをとって唇を湿らせ、吐息と共に低く呟く。

「その昔、人間と機械、生物界と無生物界を区別しなかったデカルトは、五歳で死んだ愛娘そっくりの人形をフランシーヌと名付けて、娘そのもののように愛したそうだ」

「え」

「デカルトってなんか教科書に載ってなかったっけ」

「哲学者とかなんかそんな感じじゃなかったか」

 俺と結城と源が驚きの声を上げた。まじか。え、だって娘ってことは、奥さんもいるわけじゃん。まさか夫婦でお人形を娘って呼んでたの? ご近所さんとか親戚とかさあ、気持ちはわかるけど気まずくね?

「自分そっくりの人形って、かなりホラーよね」

 美羽子が自分の肩を抱いてうーっ、と天井を仰いだ。確かに、ホラー映画でそういうのありそうだよな。

 比企がそこで、ふと何かに思い至ったように顔を上げた。

「確か、暁さんは双子だったんだよな」

「ああ、」

 神林さんがうなずく。

「それも、かなりそっくりで性別も一緒だということは、おそらく一卵性の双子だったのでは。いかがですか神林先輩」

「だと、思う。暁からははっきり詳しく聞いたことはなかったけど」

 そうですかと応えて、比企はありがとうございますとひと言、さらに考え込む。

「おーい、」

 忠広がアイスコーヒーのストローで比企の額をつついた。

「何考えてるんだよ比企さん」

「比企ちん隠し事ってよくないと思うのアタシ」

 結城がうなずく。比企は眉間のしわを深くして、いやしかし、とボソボソ低くうめいている。そして、不意に顔を上げると、テーブル席についた俺達一同を狼のような目で見回した。

「なぜ暁さんは、この人形を見て即座に、きょうだいを模したと思わず、自分の似姿だと思ったんだ」

「それは」

 虚をつかれる俺達。

 そうだ。言われてみれば確かに。

 双子なら、自分の片割れ、相棒の姿だと思ってもおかしくはないだろうに。

 実際のところはどうなんだかなと比企は言った。

「北森氏が自身の娘のどちらのつもりでこの人形を作ったのか。問題はそこにかかると思う。それがわかると、ことの薄気味悪さはもう少し受け止めやすくなるのじゃないか」

「だよなあ」

 俺もなんとなくだけどそう思う。そうでなければ、あの画廊のサイトに載っていた北森氏の作品にひとつも人形がないことも、説明がつかないだろう。俺が言うと、八木君は捨て目が効くなとうなずいた。

「そうだ。オブジェや絵画をお得意としていた北森氏が、なぜ今になって人形なんだ」

「作ってみたくなった、とかじゃないのか」

 能見先輩がおいおい、と苦笑するが、比企は目線一つで先輩の笑いを引っ込めさせた。

「能見先輩、人形は侮ってかかると痛い目を見ますよ。人形を作る芸術家は、往々にして人形ばかりを何体も作る。納得いくまで作り続ける。それでも納得いかずに死ぬまで作る。絵画やアクセサリーを手掛けたとしても、それは人形を作る上での余録でしかないのが実際です。呪術でも依代に人形を使うことが多いですし、女児が人形を使ったままごと遊びをするのと、実際の育児との相似性という側面もある。人形は人間の鏡像。見る角度を誤れば、像は歪みます。歪んだ像の恐怖に囚われぬよう、慎重にいきましょう」

「ああ、…ああ、うん」

 いささか鼻白んで、先輩はあいまいにうなずいた。

「しかも、北森氏のこの人形は、気が向いたので興味が湧いたので作ってみた、という門外漢の軽さは考えられない完成度だ。これだけのものを作れる技量と情熱とオブセッションがあるなら、なぜ他に一つも人形を作らなかったのか、それもまた謎の一つです」

 実に不可解ですね、と比企は結んで、手を上げて店員さんを呼び、紅茶のポットのおかわりを注文した。

 

 帰りの電車内で、比企は実に険しい顔をしていた。美羽子や俺達が話しかけるとにこやかに応じるが、それ以外はずっと、何やら考え、時折小さく呟く。何にそんなに引っ掛かっているのか。何をそこまで気にするのか。

 源とまさやんも気がついて、どうしたと声をかけた。

「今我ら、鏡もて見る如く。視る処朧なり」

「うん? 」

何人なんぴとか鏡をとりて、魔ならざるものあり。魔を照らすにあらず、つくるなり。即ち鏡は瞥見すべきものなり。熟視すべきものにあらず」

「おいおいどうした」

「おーい比企さーん」

「しっかりしろ、餅つけ! 」

 二人にやいのやいのと声をかけられ、はっと顔を上げた比企は、ああすまない、とため息をついた。

「今日見たものについて、いろいろ整理していたんだ。しかし、」

 そこで肩を揉みながら、赤毛のロシア娘は盛大にぼやいた。

「双子と人形とは、こいつはまた、思わせぶりな要素てんこ盛りじゃないか。しかも人形の作者は双子の父親。腹にもたれて仕方ないやな」

 忠広がぼやき節を受けて、比企さん腹減ってんだろ、と分析する。おそらく比企なりに、先輩二人をドン引きさせるのもどうかと気を遣ったのだろう。さっきの喫茶店ではお茶ばっかり飲んでいたので、いい加減腹を減らしていてもおかしくない。こいつはそれこそ、牛一頭くらい平気で食い尽くせそうな胃袋の持ち主だからな。

 ああまったく、とため息をついて、とりあえず地道なところから外堀を埋めていくしかあるまいよ、と比企はうんざりしたように言った。

「まず北森氏と暁さんご姉妹の人物像を表で辿れるだけ辿って、場合によっては高知と福島へ行って、って、ああ、でもこれ仕事じゃないんだよな」

「だ、大丈夫だって、無事解決すれば、先輩達が焼き肉くらいはおごってくれるだろうし! 」

「できると思えばできる、できないと思えばできない、諦めんなもっと熱くなれよ! 」

「比企ちんがんば! 」

「諦めたらそこで試合終了だよ! 」

 なんだよ持ち出しじゃないか、とやさぐれたエヘヘ笑いを垂れ流す比企に、みんなで励ましの声援を送る。

「ね、がんばってみよ、比企さん。あたしも何かできることあったら手伝うし」

「俺も手伝うよ」

 美羽子と源がうなずいた。ありがとう、と比企はやさぐれながら応じて、まずは打てる手から打っていくよ、と伸びをした。

 しかし、比企は今回、完全に仕事以外の範疇で起こったことに巻き込まれているので、いつものような特級探偵の権限は行使できないのだが、一体どうするつもりなんだろう。どうやって行動可能な範囲を広げ、ラチをこじ開けていくんだろう。

 その日はそのまま大学前駅へ戻って、そこで解散となった。

 

 月曜日、俺はいつものように講義を受けに教室へ向かう。と、向こうから能見先輩がやってきた。俺を見て、ちょうどよかった! と破顔する。

「土曜日はお疲れさん、ところで、」

「どうしました」

「この前の、お前の友達な。今週の土日のどっちかで、また集まってもらえないか」

 え。いきなり何が。

 そこで先輩は声を低めて、俺に耳打ち。

「例の、神林の元カノな。あいつがおとといの美術展のことを報告したら、上京して自分で確認したいって」

 まじか。

 俺はわかりましたとうなずいた。

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