第54話 五人とひとりとお人形 1章

 きっかけは些細なことだった。

 ゼミの飲み会で、他愛のない話に興じていたときだった。

 ──俺の友達から聞いた話でさ。

 先輩がグレープフルーツサワーのジョッキ片手に、何の気なしに始めた話だった。

 普段は教授の助手がわりに、授業に必要な資料や、読んでおくべき論文について連絡してくれる人で、軽いノリの先輩だ。いつも必ずと言っていいほど、こうして何か話を始めるときには、しょうもないオチがつく馬鹿話だったから、俺達後輩はみんな、今日もどんな馬鹿なところに着地するんだろうと、半分ニヤニヤしながら続きを待ち構えていた。

 先輩はそんな俺達の期待をよそに、じっくりと間をとって話を続ける。

 俺の友達の同級生ってのが、まあ結構かわいい女の子でさ。双子だったんだよ。地方だけどさ、わざわざモデルとかタレントのスカウトが来るような、そのぐらいにはかわいかったって。まあ、親父さんが全部突っぱねて、結局そういうことにはならなかったみたいだけど──。

 そこまで聞いて、俺達後輩一同は、ふんふんとさも真面目に聞いているような顔を作っているが、今日はどんなオチが待っているのだろうと待ち構えている。先輩は素知らぬ顔でさらに先を語った。

 その双子なんだけどさ、あるとき、片割れがいなくなっちゃったんだよ。ほら、何年前だっけ、あっただろ、でかい台風で大雨降って、すごい水害があった災害。あれで何百人だか死んだり行方不明になってたけど、そのうちの一人らしくてさ。

 そこで、いつになく話がシリアスに傾き始めている不穏さに気がついて、後輩軍団の薄ら笑いが微妙な感じになっていく。期待は残りながらも、どうやら笑ってはいけない方向に行きそうな予感も漂っている。

 先輩はそこで、サワーの残りをやっつけて、ジョッキを置いた。

 それでさ。

 ため息を一つついてから、このあとをどう語ったものかとしばし逡巡してから、もう一度ふっと息をついて、口を開いた。

 それでさ、その双子の両親ってがね、ちょっとあってさ。元々がしっくり行ってなかったところに、娘の片方が行方不明になったもんだから、それきっかけでついに離婚しちゃった。で、残った片割れは母親に引き取られたものの、お袋さんは女の子が高校生になった頃に死んじまって、あとはまあ、疎遠になってた親父さんに生活の世話は見てもらってた。とはいっても、一緒に暮らすことはなくて、学費とか生活費とか、必要な援助をしてもらうわけだけど。離婚の原因の一つが、親父さんの職業でさ。子供の頃はさっぱりで収入が不安定で、それもあって夫婦でしょっちゅう揉めてたらしいんだけど、皮肉なもんで、離婚して一人になった途端に、親父さんの仕事向きはずいぶん良くなって評価され始めたんだ。だから、その頃には娘の学費やら何やら、面倒見ても痛くも痒くもなかったんだな。

 先輩はそこで、幹事がおかわりのオーダーを訊ねる声に手をあげて、次のサワーを頼んだ。それから、軽く身を屈めるように乗り出し、枝豆の残りを摘んだ。そして、さあここからがこの話のメインだ、と声をひそめて、その辺の空のグラスから残った氷を拾って噛み砕いた。

 

 俺の名前は八木真。セクシーに憧れながらも、まずはキュートから目指している大学一年生。ゆうべはゼミの飲み会に出席して、先輩や先生からタメになる話を聞けるかなと思ったら、何だか不思議な話を聞かされて、どう消化したものか始末に困っているところだよ!

 とりあえず、一人でモヤってるのも嫌なので、いつもの仲間と共有しちゃえ、とばかり、駅前の喫茶店でくっちゃべりついでに聞かせてるところだよ!

 ここまで話したところで、俺はアイスコーヒーをグラス半分ぐらいまで、ひと息にストローで吸い上げた。それで、と忠広がその隙を縫って口を挟む。

「今のところ、なんか不穏そうというかヤバそうってだけのよくある話でしかないんですが」

「しかもさ、母親が死んだあとは父親が生活に困らないように見てくれてるんだろ、いい話じゃん」

 結城が忠広の言葉を受けてうなずく。

 ばーか、と俺はちょっと意地悪く笑った。

「言っただろ、先輩はここからが話のキモだって言ってたんだよ」

 まあそうだけど、とやや不満そうに美羽子が口を尖らせた。

「それで、その話はどういう方向にいくのよ」

「そうだよ、現時点ではただ尻の据わりが悪いだけの話だぜ。ね、美羽ちゃん」

 源が美羽子に乗っかって物申す。このバカップルがぁ!

 でもよ、とそこでカツカレーを食い終わったまさやんがスプーンを置いて、コーラをがぶ飲みした。

「この先がキモだってことは、まだまだ先があるんだろヤギ」

「ああ、まあ、そりゃあな」

 うなずく俺に、そこで凛とした声が投げられた。

「興味深いな」

 もう外は新緑の季節で、初夏らしい日差しが眩しく、街ゆく人は夏の装いだというのに、比企は相も変わらずホットの紅茶をでかいポットで頼んで飲んでおり、ずっと黙って話を聞いていたと思ったら、たったひと言でこの場を支配しなすった。なんて奴だ。

「で、その後、親子はどうなったんだ」

 聞かせてくれと水を向け、比企小梅は次の一杯をティーカップに注いだ。

 俺はやれやれ、と肩を揉んで、ジンジャーエールの最後の一口を飲み干し、続きを思い出しながら話し始めた。

 

 先輩の友人の同級生は、高校の三年間は、親の離婚後に引っ越した母親の故郷で生活し、大学は同じ県内の県立大学に入った。そして去年。彼女は父親から、金のことは気にせず、もっと学びたいようであれば好きなだけ勉学に励みなさいと勧められたこともあって、大学院へ進んだ。

 事件、と言っていいのだろうか。とにかくその出来事があったのは、春先のことだったそうだ。

 生まれた街で暮らし続けていた父親から、地元にできた大きな美術館で個展を開くことになったので、久しぶりに帰ってこないかと手紙がきた。作品展ついでに、離婚以来まともに顔を合わせていなかったので、食事でもしてゆっくり話をしたいという。十年近くまるっきり、満足に連絡もとっていなかった父親相手に何を話したものか、戸惑いはあったものの、生まれ故郷がどう変わっているかもちょっとだけ気になって、日帰りでなら、と彼女は答えた。

 生まれ故郷は、鉄道の駅舎が建て替えられてきれいになっていて、駅前がちょっとだけ開けていて、子供の頃にはなかった洒落たイタリアンのカフェレストランができていて、昔あった煤けた弁当屋がなくなっていた。

 あったのは、せいぜいそのくらいの変化。どんな街にもある、よくある話だ。夜行バスで近郊の街に着いて、バスの座席で凝り固まった体をほぐし、汗を流すためにスーパー銭湯へ行ってさっぱりしてから、故郷の街へ向かった。

 元々痩せていた父親は、昔よりも痩せて、ちょっとだけ皺と白髪が増えていた。

 昔、時折家族で足を運んだレストランはまだ営業していて、父は敷地内のイングリッシュガーデンが見える席を予約してくれていた。お前は昔から好きだったなと父が言ったメニューは、自分の好物よりも、今はもういない片割れのそれの方が多くて、内心では複雑だった。

 完成からまだ数年も経っていない美術館は、彼女が通っていた小学校の跡地に建てられたものだった。公立小中学校の統廃合で廃校となり、その跡地を利用したのだそうだ。入口の広いロビーには、父の名前の入った大きなポスターが貼り出され、展示室の入り口にもイーゼルにかけられて置かれていた。

 展示室には、父の昔の作品と同じ雰囲気で、でももっと大掛かりだったり精緻だったりする作品が、整然と並びタイトルや制作年の札がついていた。そして。

 最後の大きな展示室へ入った。

 その部屋には、大型の作品が一つ展示されていただけだった。

 部屋の中央に、天井まで届きそうな円柱型の展示ケースが置かれていた。

 目に飛び込んだのはまず、色とりどりの花。大輪のもの、小ぶりで可憐なもの、とりどりだ。花と、それから、レースや薄い布のフリルをあしらわれ飾られている。リボンと、七色の宝石。シルクと花と、レースとリボンと宝石で彩られたそれには。

 少女の頃の自分と瓜二つの顔がついていた。

 

 そこまで話したところで、美羽子が小さくひっ、と声を上げた。

「うええ…」

 結城が情けない顔でうめき、忠広がまじかと漏らす。

「そんで、その人はどうしたんだよ、そのあと」

 まさやんがコーラの残りを飲み干して、氷をバリバリ噛み砕いた。

 ああ、と俺は答えて、メニューを広げて追加で何を頼んだものか物色しながら、先輩から聞いた顛末を語った。

「そこで、何がどうとははっきり言えないんだけど、とにかく薄気味悪いというか、薄ら寒いというか、耐えられなくなって、結局そのまま引き揚げたそうだよ。親父さんと夕飯をとって、夜行バスで戻るつもりでいたのを切り上げて。帰りのバスの中で先輩の友達に自分が見たもののことを、チャットで報告してきたって」

 どの程度リアルに作っていたのかは知らないが、見た瞬間に拒絶反応を示す程であれば、かなり精巧に作られていたのだろう。自分そっくりの顔の人形がケースの中に飾られている様子を想像してみると、確かにちょっと異様な感じで、うん、そりゃあドン引きしても仕方ないやと思ったものだ。

 どの程度精巧に作られているのかにもよるなと比企は言った。

「見た瞬間にそこまでの嫌悪感を抱かせるほどだ。よほどリアルに作っていたのだろうな。不気味の谷を感じさせる程度には」

「不気味の谷? 」

 源が何それ、と訊くと、元々は何の用語だったかな、と比企は答えた。

「仮想現実や機械で精巧に再現された人間の表情や仕草が自然であるほど、真物の人間との微妙な差異がくっきりとあらわれて、見る者に嫌悪感や恐怖を抱かせる、一種の認識の態様のことだよ。私は個人的に、それとは逆の物に対しても存在すると思っているが」

「逆ってどんな」

 首を傾げる俺に、あるだろうと比企はティーカップを干した。

「自分の容姿がどうしても受け入れられず、理想の姿に近づきたくて、あるいは好きなアニメのキャラクターや着せ替え人形になり切りたくて、全身整形を何度も繰り返す。人間が機械や絵画に自身の容姿を近づけようとすると、再現度が高いほど根源的で強烈な違和感がつきまとうだろう」

 ああ、と俺はぼんやりとうなずいた。たまにバラエティコンテンツやゴシップ記事で、そういう人物への密着取材やインタビューが出ることがあるけど、確かにその写真や映像は、何をしても消せない違和感があったものだ。

「人間は自然であるからこそ美しい。玄都の大老爺タァラウエは、自ら誇らないからこそ誇らしいと仰ったが、自ら美点をひけらかさないからこそ美しいんだ。師父も仰っていたことでね、私もそう思う」

 もちろん、病や怪我のために義肢や義体に入る人は、健康に生きて人生を楽しむために必要な手段だ、それはいいことだと思うがね、と比企は続けて、

「だが、やり過ぎはいけない。減量だって、適度にすれば健康を維持できるが、ガリガリに痩せるほどやってしまえば、むしろ体を壊すだろう」

 確かに。美羽子はしみじみうなずき、源が美羽ちゃんは過去現在未来の全てが最高なんだよ、と呼吸するように甘いセリフを吐く。

「その、先輩の知り合いの知り合いとかいう人はさ、その後どうしてるんだ」

 まさやんが話を引き戻した。

 そうだった。もとは先輩から聞いた、怪談とも奇談ともつかない奇妙な話について語っていたんだった。

「その女の人は、家に帰ってから、まず母親の遺品を調べたんだ」

 死後十年から経っているが、それでも手帳や役所の書類といったものはいくらか残している。クローゼットの奥の段ボールにまとめていた書類をかき回して、彼女は自分の片割れ、双子の姉妹が行方不明になった当時の母の手帳や、警察に捜索願いを出した時の覚書などを探した。そのあとに見つかったと知らせがあったのかどうか。仮に見つかったのなら、無事だったのか、それとも。見つかっていないのなら、捜索は続いているのか。

 だけど、結局は何も出てこなかった。いまだに自身の片割れは、どこで何をしているのか、いや、そもそも生きているのかいないのか、それすらわからないままだった。

 翌日、故郷の県警察に問い合わせると、母の死後、父親によって捜索願いが取り下げられていたことがわかった。

 ──結局、何もはっきりしていないってことがわかっただけだった。俺の友達ってのは、よくある話でその子と高校生の頃付き合ってて、別れてからも何かあると相談に乗ったり愚痴聞いてやったりしてたんだけどさ、どうにもすっきりしなくてさ。

 他人に話せば、何がどうおかしいのかすらわからない状況から、多少情報が整理できるのではないか。そう思って、先輩の友人は、大学で知り合った親友に、元カノの了解のもと、一部始終を打ち明けたのだという。

 先輩に話を聞かせる上で彼女が課した条件は一つ。野次馬根性でではなく、もしも真面目にこの不可思議な状況について考えてくれる誰かがあらわれたなら、その人物にだけ、もっと具体的な情報を提供し、真実を調べ上げて教えてもらいたい。友人は先輩の人脈の広さと人を見る目を見込んで、そういう人物に繋ぎをとってもらえまいかと相談したのだった。

 比企以外の全員が、表情を強張らせて考え込んだ。

「それで、この話、実は最後まで聞いてたのは俺だけなんだ」

 え、と顔を上げる一同。比企は紅茶を啜りながら、目顔だけで話を続けろと促してきた。

「ゼミ仲間全員が聴いてたのは、美術館で見た人形が自分そっくりだった、ってところまで。だからみんな、ちょっと薄気味悪い実話怪談でも聞かされた程度にしか思ってなかったんだけど、俺、妙に気になって、二次会の店に流れるついでに、先輩に訊いてみたんだ。さっきの話、ほんとにあそこでおしまいなんですかって」

 すると、先輩は気になるか、と空を仰いで、歩調をだいぶ緩めながら、友人から聞かされた後半部分を俺に語ったのだ。なるほど、こんな生々しい話、興味本位の他人にペラペラしゃべり倒せるものじゃない。

 俺と先輩は自販機でコーヒーを買い、通りがかりに見つけた公園で、ボソボソと小声で話した。

 二次会はそのまますっぽかした。そんな話を聞いてすぐに、カラオケで歌い狂って陽気にやれるほど、俺は切り替え上手じゃなかった。

 ふん、と比企は鼻を鳴らした。

「その先輩、なかなかやるな。前半部分だけでやめておけば、ただ不気味な人形を見たというだけの怪談だが、話の主人公がその事実をどう受け止めたのかに思い至る者には、その後の彼女の行動、自分がなぜこの話を知っているのかを聞かせる。話自体は二段落ちの構成だが、後半部分を伏せ、キャッチーな前半部分だけで済ませれば、信頼に足る人物かどうか、聴衆をふるいにかけられる」

 今回のケースでは、どうやら先輩のお眼鏡に適ったのは八木君一人だけだったようだね、と比企はティーポットから次の一杯を注ごうとして、すっかり空になっているのに気づいた。

「八木君は先輩に、話は本当にそこで終わったのかと訊ねたことで、無責任な御見物衆から信頼できる後輩へランクアップしたのさ」

「それって俺、喜んでいいの? 」 

「いざとなるときに頼れる、困っている者を思いやれる男だと評価されたんだぞ。もっと喜ぶべきだろう。それに、できる範囲ででも行動を起こせば、君が困ったときにその先輩は味方になってくれるぞ」

 そうは仰いますがね。ほんと、喜んでいいんですか。複雑なんですが。

 

 先輩の友人は、福島県の小さな街の出身だった。四国の山間の街から引っ越してきたとかで、高校で出逢った彼女は、だからたまにあっちの訛りが出るのだと笑ったそうだ。あっけらかんとよく笑う女の子で、生死不明の姉妹のことも、両親の離婚のことも母親との死別のことも、だって本当のことだし、と話した。ちっちゃいけどお祖母ちゃんが家を遺してくれて助かった、と笑ってから、だからあたしのうちならエッチなことしても邪魔入らないわよん、なんて冗談を言ったそうだ。豪快な女性だ。

 そんな女性だが、自身の分身ともいうべき双子の片割れについては、端的に「あたしと真逆だった」とだけ語っていたようだ。おとなしくて、いつも黙って話を聞いている。顔はそっくりだけど、中身はまるでかけ離れていた。磁石で言うならS極とN極だとも。

 死んだ母は彼女が、父親は片割れが、それぞれお気に入りだったそうだ。母は彼女の社交的な陽性の朗らかさを喜び、父親はただ静かに「俗っぽい」とだけ評した。

 父親は芸術家。若い頃は絵画を主に製作したそうだが、彼女が物心ついた頃には、半立体やオブジェなども手がけていた。時折はよい値で売れもしたようだが、常にそうとは限らない。一家は市役所勤めの母の収入で、どうにかやっていた。

 収入が安定しないことは、少しずつ夫婦の間に入った亀裂へかかるちからになり、それは水害のあとの暮らし向きをどう立て直すか、そこで取り返しようもないほど粉々になり、そして。一人が欠けたことで、家族はバラバラになり、彼女は知らない街で中学生時代を過ごした。

 虐待されていたわけではないけれど、どこかの一線から先には決して立ち入らない、立ち入らせない父親に対して、どうしてもどこかしら他人のようにしか思えず、だから父親のことは特に誰かに話すこともなく、彼女の日常の中では死んだも同然の存在に成り果てていたのだが。

 だから、母の葬儀以来、最低限の連絡以外の一切を絶っていた父親から、突然手紙が来たことは、ひどく驚くと同時に、死人から手紙が来たくらいの奇妙な感覚だったようだ。そして、会いに行って、彼女は思いもよらないものをその目で見た。

 急用ができて戻らなくてはいけなくなった、と言葉だけ取り繕った彼女に、父親はそうか、と大して残念でもなさそうな風情で答えて見送った。作品展のカタログを持っていくかと訊かれたが、あの最後に見た作品が、なぜだか無性に忌まわしくて、急いでいるふりでごまかし引き揚げた。帰りの夜行バスの中で昔の恋人、先輩の友人にことと次第を打ち明け相談するうちに、やっぱりもらっておくべきだったか、とも思ったが、後の祭りだ。帰宅してからでもネットで検索するなりして、改めて調べればよいと思い直した。翌日、昼食をとりながら、携帯端末で父の名前と作品展で検索をかけると、作品展のサイトが出てきた。サイトを閲覧すると、故郷で展示を行ったあとは東京と大阪でも開催するようだ。展示作品リストを見る。オブジェ、半立体、作品スケッチ。その全てにタイトルと製作年、使用した材料や画材が補足項目にある。だが。

 あの、最後に見た作品についての記述はなかった。確か、あの人形に添えられていたプレートには、素っ気なく「無題」とだけ記入されていたはずだが。

 どういうことなのか。

 自分が知る限り、父は世間並みの生活維持能力、定職につき、生活に必要なだけの金を稼ぎ、家庭を維持する能力には欠けていたが、その分真面目で、出品リストにないものをつけ足して堂々と陳列するような行いは、彼女の記憶の中の父とはそぐわなかった。

 違和感しかない。何かが大きくずれている。でも何が、どの程度、どんな具合にずれているのか、うまく言葉としてあらわせない。もどかしい。そのもどかしさがまた、更に違和感を強めている。漠然としすぎているし、何よりいささか薄気味悪くて、大学の友人達には気軽に相談できる話ではなかった。

 所在は互いに分かってはいたが、疎遠になっていた父からの、突然の招き。出品作リストにない作品の展示。その大きな「なぜ」の中心に、あの、美しいのに、美しいからおそろしい人形がある。

 ──あたしが見たのは何だったんだろう。

 渦巻く疑問は、そこに集約された。

 きっと、それがわかれば、父の人となりにはそぐわない行動の理由もわかるのだ。

 まず、確かめるべきことがある。あと数日で、故郷での作品展の期間が終わる。そのあと、東京での会期が始まる。そこでもあの人形が展示されるのか。されるのだとしたら、どんな補足情報が添えられるのか。

 彼女は昔のボーイフレンド、ゆうべ自分の体験を打ち明け相談した友人に、自分の代わりに一度、作品展へ足を運び、それを確認してほしいと頼んだ。もしも人形があったなら、自分も都合をつけて東京へ出るので、作品の有無を教えてほしい、と。

 東京の大学へ進学後、就職していた友人はわかったと応じ、自分だけでなく、厄介なことになったときに頼れる知己が多い友人にも、相談して同行してみようと言った。

 こうして話は流れに流れ、友人が先輩へ相談を持ちかけ、先輩はゼミの飲み会の場で実話怪談を語る体で助っ人に足る人物を探し、その網に見事、俺は引っかかってしまったのだ。

 運がいいのか悪いのか。

 

 先輩は俺達七人の顔を見て、おいおい、と呆れたような声をあげた。

「こりゃまた大人数できたな」

 おしぼりで手を拭いてメニューを広げ、アイスコーヒーな、と即決。それから隣に座った源にメニューを回し、その向こうに座る美羽子と比企に、ああ女の子達は何にする、とレディファースト。美羽子は桃のミニパフェ、源は烏龍茶。比企は俺達が飲み物を決めてから、紅茶をポットで、とだけ答えた。

 密談するならここだろう、と、大学前駅の反対側のカラオケボックスに入り、一番大きな部屋をとり、コの字型に置かれたソファーで額を集めて話を始める。今朝、講義が始まる前に先輩を捕まえ、この前のあの話のことで、と切り出すと、先輩はちょっと驚いたように目を丸くしたものだ。

「そういう不思議な現象に詳しい仲間がいるんです」

 へ、と小さくため息をつき、それから先輩は、お前午後空いてるか、と耳打ちした。放課後、どこかゆっくり話ができる場所で。どこにするかはお前に任せる、あとで連絡してくれ、とひと言、先輩は教官室へ、腕いっぱいに抱えた本を運び込んだ。

 そして放課後。いつもの仲間を引き連れた俺を見て、先輩は訝しげに眉根を寄せたが、それでもカラオケボックスに入り腰を下ろすまでは、何も言わなかった。

「こいつらが俺の仲間です。何かトラブったとき、いつもこのメンバーで乗り越えてきました。人に話しちゃいけないことの判断も俺よりちゃんとできるし、頼りになりますよ」

 俺の紹介に、先輩がああ、とぼんやりうなずいた。

「どうも、本郷教室ドクターコースの能見です」

 全員がそれぞれ名乗ると、さて、と先輩は肩を揉みながら、君ら八木からどんな話を聞いたのかな、と切り出した。

「先輩の友達の元カノさんが、疎遠になってた親父さんの美術展に招待されて、」

「そこで自分そっくりの気味が悪い人形を見て」

「でも何がどうおかしいのか飲み込めなくて、元カレさんに相談して」

「元カレさんもどこがとは言えないけど違和感持って、先輩に相談した、ってことですよね」

 源、忠広、結城、まさやんが順々に答える。見事に要点が纏まってるなと先輩は感心した。

「で、君らが賢いことはわかったけど、八木とはどんな関係なのかな」

「俺ら全員、同じ高校だったんですよ。ずっとつるんでて、受験勉強も一緒にやって、大学受けて」

 忠広が答える。

「笹岡はヤギと忠広の幼馴染で源と付き合ってるし」

「なるほどね。もう一方の、比企さん、だったか。君は彼らとも笹岡さんともちょっと感じが違うけど、やっぱり高校の仲間ってこと? 」

「ですね」

「ああ比企さんは、」

 結城と俺が答えると、比企は戦友ですよと俺の言葉に続けた。

「彼らと一緒にトラブルに当たって、共に解決してきました。受験勉強も、それ以外も」

 ちょっと面食らいはしたようだが、先輩はそうかとうなずいた。

 個室備え付けの内線電話でドリンクメニューの注文をして、それで、と先輩が仕切り直したところで、お待たせしましたあ、と店の受付にいたにいちゃんと、にいちゃんと揃いのカラオケ屋のエプロンをつけた女の子が、ドリンクの乗ったお盆を手に入ってきた。それぞれが自分の注文したものをお盆から受け取っていくが、誰だフライドポテトなんて頼んだのは。

 店員コンビが引き揚げたところで、先輩はもう一度仕切り直した。

「それで、だ。君らはこの話を聞いたとき、どう思った」

 問いかけられて、うーん、と天井を仰いだり頬杖ついたり、思い思いの格好で考え込む六名。残り一名、苺色の髪の女がそうですね、と口を開いた。

「前半部分だけを聞けば、ただぼんやりしている分薄気味悪い実話怪談の域を出ませんね。前段のオチも、人によってはだからどうした、で終わるでしょう。ただ尻の据わりが悪いだけの話ではありますが、後半部分を聞くと、気になる部分がいくつか出てきます」

「へえ。どこが気になるのかな」

 先輩が興味深そうな顔で促した。そうですね、と比企はワンクッション置いて、いいかな、と俺達全員に確認。異論なく、みんなが比企に代表を任せた。

「比企さんが一番上手にまとめてくれるし、お願い」

 美羽子の言葉に源が大きくうなずいて、では、と比企が居住まいを正す。

「まず我々は、能見先輩のご友人が昔交際されていたご婦人の体験談を、八木君からの伝聞という形で知りました。が、このご婦人が体験し、先輩がご友人を通して聞いたこの話を、彼女が認識した順序で捉えることは、起こった現象の薄気味悪さに目を奪われ、実際に何があったのかを見極めるのが難しくなります」

 そこでポットから紅茶を注ぎながら、比企はそこで、と続けた。

「私は一度、事実として確認できた事象を、時系列に並べ直して検証してみました。この順番で、疑問点を並べてみましょう」

「視点を変えてみようということか」

御明察ヴォワラ。結果、以下の点が妙に引っかかりました」

 比企が一つ一つ、指を折って数え上げたのは以下の通り。

 ・先輩の友人の元カノのご両親の不仲は、生活の不安以外に何があったのか。それは具体的な事件や事象が伴うものだったのか。

 ・元カノさんの双子の片割れは、故郷の水害で行方不明になったというが、どのような事故に遭い、生存の可能性はあったのか。あるいは遺体が発見されるなど、はっきり死亡を確認できる事実はあったのか。

 ・母親の死後、なぜ父親は娘の捜索願いを取り下げたのか。

 ・学費や生活の援助以外は疎遠になっていた父親が、なぜ急に自分の作品展へ娘を招待したのか。

 それから、これはまだ現段階では個人的な興味、としか申し上げられませんが、と付け加え、比企は最後の指を折った。

「作品展の最後の作品、自分そっくりの人形を見たという話でしたが、それはどの程度精巧に作られていたのでしょう」

「おーい比企さん、それ完全に興味本位で訊いてねえか」

 まさやんがジョッキコーラをずるずる飲みながらツッコミを入れると、まあな、と比企は否定しない。

「個人的な興味だよ。目にした瞬間、見る者に拒絶を感じさせるほどの不気味の谷を垣間見せる人形なんて、どんなものか気になるだろう」

 済まして紅茶を飲み、次の一杯を注ぎながら、私の疑問は以上です、と締めくくった。

「メルシ・ド・ヴォトル・ラタンシオン」

 何がご清聴ありがとうございます、だ。先輩がキョトンとしてるぞ。

「いかがでしょう、採点をお願い致します」

「あ、ああ、うん、すごいな俺より整然と捉えてるな君」

「彼らとのディスカッションのおかげです。独りでできることには限界がある。ダイアローグこそが物語を前進させますから」

 先輩はなるほどね、と苦笑いして、ジャケットの内ポケットから携帯端末を出し、ネットに繋いで俺達に画面を示した。

「どうやら俺は、見事に大当たりを引き当てたみたいだな。八木、」

 お前の友達、すごいな、とひと言、先輩は端末を指して、俺達全員の顔を見回した。

「これが件の芸術家、例の人形を作った男の作品展のサイトだ。東京での開催は来週の土曜日からだ。──どうだ、」

 俺達と一緒に、人形があるのかどうか、確かめに行ってみないか。

 先輩はそう言って、アイスコーヒーを一息に半分近くまでぐいぐいと飲んだ。

 まじかよ。

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