第53話 五人とひとりと春の旅立ち 3章
実におそろしいことに、さっきから比企はビールのロング缶片手にご機嫌で、もう俺達、どんなリアクションするのが正解なのかわからないまま、曖昧な引き笑いで弱々しく相槌など打っております。
大学に無事入学して早々、些細なきっかけで単発のアルバイトをすることになった俺と愉快な仲間達だけど、雇い主である姐さんが経営する古本屋が買い取った本の中に、とんでもないものが紛れ込んでいたのだ。
一部のマニアやコレクター、研究者の間では有名な、紫式部の「源氏物語」の偽書。真っ当な研究者は歯牙にもかけず、稀覯本や偽書のマニアは血眼になって探す、その名も「雲隠六帖」。その冒頭の一冊、雲隠の巻が、姐さんが大口で買い取ったコレクションの中に紛れていたのだ。
更に、コレクションの持ち主だった故人の歴史学者というのが、比企がかつて所属し、奴の親父さんがいまだに長として働いているという防衛省の機関で、外部アドバイザーのようなことをしていたとかで、厄介なことに、この学者は機関の仕事に、雲隠の巻を使っていた。
諜報機関に必要な暗号表に、雲隠の巻を使うよう助言したのだそうだ。そして。
数十年を経て、物故した学者の遺族がそれとは知らず、故人の蔵書を捨てるよりは、読んでくれる誰かのところに譲る方がよかろうと古書店にまとめて売り払った。その買い手が、神田の古書店街に店を構える、今俺達と一緒にややげっそりしながら比企に相槌を打つ、大酒飲みの姐さんだった。
アルバイトがなければ、比企も親父さんも、暗号表の親本となったものが売り払われたなんて気づきもしなかっただろう。だから、流出する手前で気づけてよかったと比企は安堵し上機嫌なのであった。
しかも、姐さんが買い取った学者の蔵書を丸ごと買い上げると言ってきた一見の客の正体は、なんとテロ組織の情報専門の工作員で、身分を偽り、目的を悟られまいと全て買い取ると言ってきたのだ。姐さんが買い取った書籍のリストに雲隠だけしかなく、残りの五巻──巣守、桜人、法の師、雲雀子、八橋の五冊がないこと、買い取りたいと言ってきたのが一見の客であること。比企はそこに引っ掛かりを感じたのだと言った。
微かな違和感をおぼえ、記憶をたどり、姐さんに聞いた客の名前と身分から、その正体を調べ上げ、結果、比企のぼんやりとした違和感は確信となった。
歴史学者の名前をどこで聞いたのかを思い出し、雲隠の巻にまつわる隠された来歴を思い出した比企は、アルバイト中に応対に出た男の顔を隠し撮りしてこっそりと、付き合いのある情報屋に身元を調べさせたらしい。それで確信がいよいよ固まりきったので、隙を見て比企は、肝心の雲隠を密かに抜き取り持ち帰った。いやあ、我ながらいい仕事したなと比企は実に清々しい顔で、ビールのロング缶をあおった。
ぶはあ、と満足げにため息をついてから、赤毛のロシア娘はゲタゲタ笑った。
「さて、うちの因業爺はこいつをいくらで買うのかなー」
しかしまあ、何年も前にいっぺんきいたんだか読んだんだかしただけの人の名前を、こいつはよくまあ思い出したもんだ。
どうもみんな同じことを思ったようだ。
「何年前に聞いたか知らないけど、よく思い出せたよなあ」
結城がぼんやりと、チキンの軟骨のところをしゃぶりながら言った。
「職業柄、そういう風になってるんだよ私は。一度会った人の顔と名前は忘れない」
「職業柄ってあなた」
忠広が突っ込む。それにしたって。
「比企さんはどの辺で、鉄板で怪しいと思ったんだ」
まさやんがサイダーを紙コップに注ぎながら訊ねた。そこは俺も気になるところだ。比企はロング缶の残りを腹に流し込んで、姐さんが次の一番搾りロング缶をわんこ蕎麦のように渡す。
「まず、故人の蔵書を遺族が処分したルートでこいつが流出するのは、まあないことではない」
ちゃぶ台の上に雲隠の巻を置いて、とん、と白すぎるほどに白い手が表紙を軽く弾く。
「で、まあ今話したような過去のある書物だ。裏の世界の人間は、どこの本屋が買い取ったのか、鵜の目鷹の目で探し回るだろう。同業者同士で足の引っ張り合いも起こる。この数日、情報屋と諜報屋の界隈がどうも騒がしくて、店長さんの仕事と故人の名前とが繋がった瞬間に合点がいったんだ」
俺達の知らないところで、ほんとに世界はもう、いろんなことが同時に起こりすぎだろ!
「あの屋敷で、私が図書室を見たいと言っただろう。ほぼ間違いはないと踏んでいたんだけど、あの部屋を見て確認できた。店長さんが一緒に見たいと言ってくれたおかげで、たいして怪しまれずに済んだのは本当に助かったよ」
ありがとうございます、と礼を述べる比企に、姐さんはサムズアップ。それだけならまあかっこよかったのだが、すぐに湯呑みに焼酎をドバドバ注いで飲み始めたのは、どうにも締まらない。
比企はロング缶をぐいぐい飲むと、諸君らも見ただろう、と岩下の新生姜を摘んだ。
「なんだあのラインナップは。あんなもの、大型書店で岩波文庫をまとめ買いすれば揃う程度のものだぞ。古書店の新入荷リストを漁るほどの書痴を偽装するのなら、せめて『あらしの白ばと』か『ウィチグス呪法典』くらいは持ってきたらどうなんだ」
「いやわからんって」
「『妖術注釈書』とか『妖蛆の秘密』とか、あるだろうが! もっと! 」
「だからしらんって」
「やろうと思えばできるだろう! この店にだって『山海経』に『淮南子』くらいのものは置いているぞ! なぜベストを尽くさないのか! 」
「そうだそうだあ! つっまんないもんばっか並べやがって! 一瞬仕入れたもん売ったのを後悔したわよあたしは! 学校の図書室かっての。何よあのくっそつまんないラインナップはあ! 」
姐さんまでやいやい言い始めた。いいかげん酒が回っているのだろうけど、それにしたって、古書店の主人と、自室の壁一面を天井まで書棚にしてぎっちり蔵書を詰め込んでいる愛書家とが、揃ってここまでクソミソに貶すってのは、何を根拠にしてのことなんだろう。
「つまんないって、何がどう評価のポイントになってんだよ」
呆れ気味にまさやんが言うと、本バカ二人は揃って、決まってるだろうが! と顔を上げた。
「なんだあの没個性は! 愛書家のふりをするなら、もっと趣味嗜好を察せられるラインナップで固めたらどうだ! 」
「そうよお! あんなお行儀のいい書棚、どんな人間が買い集めたのか、顔が見えないのよ! 当たり障りなさすぎて、個性がないっちゅうの! 」
「店長さんのおっしゃる通りだ。愛書家を偽装するなら、せめてそこまで徹底してみろ! やるならテッテ的に! なぜベストを尽くさないのか! 」
「よく言った! 殊勲甲! 気に入った、飲め! 」
姐さんは食器棚からもう一つ湯呑みを出して、自分の飲んでる焼酎をドバドバ注いで比企に差し出した。赤毛の書痴は受け取って、ぐいぐい飲んで満足そうにため息なんかつきやがった。
「赤霧島最高」
当たり前のように固い握手を交わす、ウワバミ女二名。いやだから、こわいこわいこわい。
比企はそこであ、と何か思い出したように手を打つと、端末を出して電話をかけた。
「私だ。無事に回収したぞ。いくらなら出せる糞爺」
酒の効果か、言葉こそひどいがすっかりご陽気だ。どうも相手の出した値段にご不満だったのか、そんならブラックマーケットに、と言いかけたが、すぐによしよし、とうなずいた。
「じゃあそれで。見つけたのが実の娘でよかったな。他人様と商談なんかしてみろ、もっとふっかけられても文句なんか言えんぞ。指十本で済んで何よりじゃないか。ではな。引き渡しは後程」
機嫌よく電話を切った。実の娘ってことは、電話の相手は親父さんか!
「指十本って何」
結城がのほほんと訊ねながら、次のバーレルの蓋を開けた。全員の取り皿に一つずつチキンを配るが、美羽子は断って、ビスケットにメープルシロップをかけている。
「指一本で百万。まあでも、日本円だから相場を考えれば破格のお安さだな」
つまり、
「かける十で、」
「いっせんまん? 」
そんな、酒飲みながらついでの電話でやりとりする金額じゃねえだろ!
そこで比企は、さて、とロング缶に残っていたビールを腹に収めて、愛用のゴツい腕時計をチラ見した。高校の頃から思ってたが、どう見ても女持ちの時計じゃないだろ。ただでさえ細い腕が、余計に細く見えてしまう。
「そろそろ頃合いか。今話したような事情だからな、我々が引き揚げてすぐに、お目当てのものを確認しようとするだろう。だが肝心のお宝はこの通りだ」
ちゃぶ台の上の和綴の本をとんと軽く指で弾く。
「日を改めて問い合わせてくるのか、それとも」
ニマニマしながら携帯端末のマップを開くと、懐かしや、一昨年のクリスマス前の事件で見た、あのマーカーのマークが圏央道から国道十六号線へ入ったところだ。おお、と比企は実に楽しそうに声を上げた。
「どうやら今まさにここへ向かっているようだぞ。なかなか骨があるな」
うそーん。
「え。くるの? これから? テロリストが? 」
ざわっとして硬直する一同。だが、赤毛のロシア人は焼酎をガブガブ飲みながら、心配ないと安請け合いしやがる。
「履歴を見るに、濡れ仕事は不向きな奴のようだからな、どうにかなるだろう」
さて、と立ち上がると、比企は姐さんにひと言、ちょっと失礼します、と声をかけ、カウンターへ出る上り框に腰を据えた。
小一時間ののち。店の表から、ごめんください、といかにも人当たりのよさそうな声がかかった。
書架の間を奥へ入ってくるのは、朝に訪れたあの屋敷にいた男だ。ニコニコと穏やかな、でも目の奥は笑っていない顔。
この小一時間の間に打ち合わせた通り、姐さんは茶の間の奥へ俺達と引っ込み、カウンターには比企が入っている。相変わらず焼酎の湯呑みを片手に、茶の間の上り框には、ぬるくなり始めているのだろう、うっすらと汗をかいた麒麟一番搾りのロング缶がずらりと並んでいる。
比企は実に愛想よく、いらっしゃいと声をかけた。
「おや、先ほどのお客さまですね。店主は生憎、所用で留守にしておりまして」
すっとぼける赤毛の女に、そうですか、と相槌もそこそこ、実は先ほど届けていただいた本ですが、と、やや焦り気味にモブ顔の男は切り出した。
「どうやら、一冊足りないようなのですよ」
「それはそれは」
「とぼけないでいただきたい。私の雇い主はカンカンですよ。どうにか宥めて、こうして受け取りに伺ったんです」
「そうでしたか。それにしてもまた、随分と気づかれるのが早いですねえ」
じれたような口調の男に、嫌味なほどの余裕綽々ぶりで答えると、比企はそれでと切り出した。
「何が足りなかったのです」
「それは」
男が即答した。
「リストにありましたでしょう。これです。源氏物語、雲隠の巻。社長も大層楽しみにしていたと言うのに」
「そうですか」
そこで比企の声音が変わった。にこやかさをかなぐり捨てた、今にも放たれる矢のような鋭さ。
「随分と気づかれるのが早い。まるで、」
まるで、それだけのために一切合切を買い取ったような。
ふん、と軽く鼻で嗤って比企は続けた。
「なんだか、我々が引き揚げるとすぐに、それっ、と一冊だけを捜したかのような速さだ」
男は何を言っているんです、と胡乱げに言葉を返すが取り合わない。それにしても、と更に続ける。
「おかしな話だ。あんなに没個性な、岩波文庫ででも揃いそうなタイトルの世界名作全集チックな蔵書の持ち主が、なんであんなマニアックなものを欲しがるんです。まともな研究者は鼻も引っ掛けない偽書ですよ」
「それは、」
「社長さんとやらがここ最近で急にお宗旨を変えたというんですか。それにしたって、だったら六巻全て揃った状態で入手したいと思うのが人情でしょうに、なぜ雲隠だけしかない、不完全なコレクションを欲しがるんでしょうねえ」
「な」
「かといって、あの図書室には残りの五巻がある訳でもなし、どうにも不可思議だ」
あなた、と比企はそこで男にとどめを刺した。
「社長とやらがそんなにまでして欲しがった雲隠の続き、残り五巻のタイトルをご存知ですか」
男がため息のように、はあ、と喘ぐ。
「源氏物語の偽書であることくらいはご存知でしょうが、では、親本である源氏とはどのような相関をなす書物なのか。どのような内容の書物で、どういった素性のものなのか。ご存知ではありませんか」
「何、を、」
「おや、どうされました? 秘書であれば、雇用主が求める以上の周辺情報を、いらないことまで調べ上げて、訊ねられたら即答できるくらいの準備はしているでしょうに。当然、あなたを秘書にしている社長とやらが源氏物語の偽書を欲しがれば、あなたの職掌であれば、今私がお訊ねしたようなことくらい、即座に答えられるはずですよ」
「そ」
「まあ、答えられるものではないでしょうね。社長なんかいないんだから」
そこで比企は、それは愉しそうに嗤った。なんかもう、悪の親玉みたいなドスが効いていた。
「ネタは上がってるんだ。こちらはあんたの正体だってとうに知ってる。ここで手を引くのが一番利口な判断だと思うぜ。なあ
ドタッ、と音がした。コールスローサラダのカップ片手に覗いてみれば、あのモブ顔男が、冷や汗でずぶ濡れの顔色を土気色に変えて、カウンターの前でへたり込んでいた。
「あ、あ」
プルプルとチワワ並みの震えっぷりで比企を指差して、どうにか口から押し出した言葉は。
「あんた何者だ」
そこで比企は、実に愉快そうに言ったものだ。
「あんたと同じ穴の狢さ。雇い主が違うだけ、元同業者だよ。そうだな、市ヶ谷の魔女って名前を聞いたことあるか」
その途端。
「あああんた、あんたあんたまさか」
男はこれ以上は無理だろうと思うほど目を剥き、口をあんぐりと開けた。
「私もあんたと同じくだらない人間だが、私とあんたじゃはいてる靴が違う」
あうあうと呻くばかりの男。その様を見て、比企はどこか哀しそうな苦笑を微かに滲ませつぶやく。
「まったくなあ。裏通りを歩くのはしんどいもんさね。労多くしてってやつだ。だから諦めろと言ったろう」
「手間をかけたようだな、助かったよ」
夕方近くになってから店にひょっこり顔を出した比企の親父さんは、如才なく俺達にやあ久しぶりだねと挨拶すると、あっさりとひと言で済ませてから、それで
「それが人に助けられた者の吐くセリフか」
「娘が手厳しい! ありがとうございますお陰で日本の国防は安泰です! …これでいいのか」
「教えられないと礼の一つも満足に言えないのかあんたは。これだから出世なんかするもんじゃない。立つ場所が高くなると、他人に便宜を図ってもらっても当たり前だと居直るようになる」
「ひどい。これでもパパは部下思いってみんなに言われるのに」
親父さんが萎れるが、みんなって誰だよとあっさり切り捨てる比企。相変わらず親父さんには当たりが強いな。
比企はまずどこから水が漏れていたのか、確認が必要だろう、と言って、親父さんの後ろに控えた、ボディビルダーみたいな体格の男二人に目配せだけで指示する。
軽くお辞儀して出ていく黒スーツの男達を、ビールのロング缶片手に見送る比企。親父さんが顔をしかめた。
「女の子だろう、昼間から酒はやめなさい」
「腑抜けたことを。私は女の子なんて軟弱な存在の前に、道士で探偵だ」
バッサリ袈裟斬りで片付けてから、靴を脱がず茶の間に膝立ちで上り、比企はちゃぶ台から和綴の本をひょいと取った。
「今回は運がよかっただけだ。気をつけろ」
ばさっと乱暴に手渡して、ビールをザバザバ腹に流し込んだ。豪快にゲップを一つ、比企はそこで、そうだと親父さんに声をかける。
「仕事料のことだが、今回の協力者、この店の店主さんに半額を振り込んでくれ。気づいたところで回収しようにも、店主さんがいなかったら不可能だったろう」
「わかった。だがいいのかお前」
「いいも何も、今回私は何もしていない。ただ偶然見つけて、偶々ものの正体を知っていたから親父に知らせた、それだけだ」
え、と姐さんが声をあげた。
「それ言ったら、あたしも何もしてないわよ。いつも通りに大口買取のお宅に配送して、いつも通りに搬入しただけだもの」
「店長さんのいつも通りの行動がスクリーンになったので、私が自由に動けました。店長さんが最大の功労者ですよ」
わかったようなわからんような。
「店長さんのいつも通りの仕事のおかげで助けられた者が、勝手に感謝してお礼をするだけなので、気にせず受け取っておいてください。源泉はいらないようにして振り込みますから」
「ちなみに、半額ってどのくらい入ってくるの」
姐さんがシリアスな顔で訊ねると、親父さんが片手を広げて見せた。
「所得税だの諸々法的に必要なものを差っ引いて、手取りで五百万」
あっけらかんと親父さんが笑って、金額を聞いた姐さんは、黙ってシンクの下から一升瓶を出して封を切った。ラベルには「武勇」とでっかく書かれていた。
「よっしゃ祝杯だ! あんたら今晩暇なら泊まっていきなさい! 朝までやるわよ! 」
あとはもう、飲めや歌えのどんちゃん騒ぎで、親父さんは茶の間の上り框に腰掛け、そんなにもらったんじゃ心苦しい、せめて一杯ご馳走したいと姐さんに引き留められ、食器棚から出した寿司屋でもらうような湯呑みで、一升瓶から並々と注がれて振る舞われた。
「受験勉強でさんざん細川先生に叩き込まれた戦友諸君も、お仕事柄で店長さんもご存知だろうが」
比企が湯呑みに注がれた武勇をぐいっとあおり、口を湿らせてから、種明かしを始めた。男の正体や、姐さんが買い取った本の元の持ち主から辿った真相への道は、さっき聞かされた通りだが、今度は「雲隠」という書物そのものからどう真相に至ったのか、という種明かしだ。
「そもそもが親本の『源氏物語』は全五十四話。最初のエピソード『桐壺』から始まり『夢浮橋』で締め括られる、光源氏というスケコマシの一生、及び子供や孫の世代の生き様を描いた物語だが、執拗とも思えるほど丹念に、時系列を追って綴られる物語は、時折奇妙なほどスッパリと空白の部分が存在し、その空白を補完するようにして作られたのが、今回の騒ぎの元となった雲隠を含む六冊の補作、世にいう『雲隠六帖』だ」
語りながら、比企はコートの内ポケットを探り、愛用の万年筆とメモ帳を出して書き付ける。それから俺達にメモを示した。
「まず、私が回収しさっき親父に渡したのが、このスピンアウトとでもいうべき六部作の冒頭、雲隠。『源氏』で幻と匂宮、この二帖の間を埋める同名の巻が存在したらしい、と言われるが、この巻は『源氏』本編ではいつの間にかペロッと坊主になっていた光源氏の出家を描いている」
なるほどな。授業でさんざん読まされたけど、あれだけ女とみれば見境なかった光源氏が、巻が変わった途端に出家しました、とか言われても、正直俺、どう受け止めていいのかわからなかった。細川が大まかな説明してくれても、クラスのほとんどがあまりの超展開に鳩豆顔だったもんなあ。で、雲隠の、あの本の中身がそういうストーリーだってことは、やっぱり昔の人も、展開が前衛的すぎてついていけなかったってことだ。俺達と一緒だ。
なんて時代を超えて昔の人に共感を覚える俺をよそに、比企は話を続ける。
「続く巣守、桜人、法の師、雲雀子、八橋は、時代を変えて『源氏』本編のネクストストーリー、五十四帖のラストを飾る夢浮橋の後日談だ。匂宮の即位、薫と浮舟の結婚、その後の二人の出家までを描いている」
つまり。
「まあ、行間を埋めてほしいファンなら読むのだろうが、今で言うと二次創作の同人誌みたいなものだよ。公式ではないから、ごく一般的な読者は読まずとも困らないし、人によっては解釈違いで逆鱗に触れたりもする」
「詳しいわね」
姐さんが武勇をぐいぐいやってから、冷静に突っ込んだ。昔そういう知り合いがいたので、と答える比企。親父さんがボソッと、ああ白戸くんか、とうなずいた。親父さんも知ってる人みたいだ。
それで、と比企は湯呑みに残った武勇を飲み干して続けた。姐さんがわんこそばのように次の一杯を注ぐ。
「あの屋敷の本棚を皆も見ただろう。あんなお行儀がよくて没個性な蔵書の持ち主だ。いうたら教科書だけ読んでさも読書が趣味だというような人間がだ、どこで夏コミ三日目に出品される同人誌みたいなものを読もうと思うんだ? それも、全巻セットで入手したいというならまだしも、なぜ六部作セットのうちの一冊だけがほしいと思うんだ? 他の五冊すら入手してはいないのに、だ。しかも店長さんには、残り五冊の手配を頼まれた様子も見られなかった」
「まず偶然見つけた一冊目から読もうと思った、ってのは」
「あと五冊セットであるとは知らなかったんじゃねえのか」
結城がおずおずと、まさやんがすっと挙手すると、ないなと比企は一蹴した。姐さんもうんうんとうなずく。
「そもそもがおかしな話なんだよ。書痴であれば、今はこれしかないけど本当は全六冊ですと言われたら、じゃあ揃いで置いてる店で買うよと答えるさ。現在進行形で発行されているシリーズものや漫画なら、少しずつ集めるというのも当然ありだが、古書を買い集めるほどの蒐集家だよ。コレクションでもあり、また書籍として読む楽しみも味わうために買うのに、なぜ一冊だけなのか」
「その通り! 大体、あんなのよほどのマニアでもなければ買わないものなのよ。で、マニアはまあマニアだからさ、他のもの読んでる中で存在を知れば巻数も調べるし、全巻揃いで欲しがるわけよ。うちの棚見ればわかるでしょ」
確かに。全巻揃った本はセットでまとめられて、タイトルと値段を書かれた札がついて並んでいる。
一冊だけとか歯抜けで集まっているとか、およそ書痴には嫌われるんだと比企は言った。
「しかも、あの世界文学名作全集で固めた蔵書とは、およそ馴染まないものだ。他にも味のある、偏った趣味のものがあるなら、もう少し様子を見てとも思ったがね、あの図書室はいけない。どうせ偽装するなら、細部にまで手を抜かなければあの男も怪しまれなかったろうに」
恐るべきは本馬鹿、書痴の知識とオタクならではの情熱。あの男は、古書に対する愛書家の執拗な入れ込みようを舐めていたのだろう。そして、一番敵に回すと厄介な奴に目をつけられてしまったのだ。
本当に、何かことをなすなら、比企の言うように「テッテ的に」やらなければならないのだろう。
いやあ、すっかりご馳走になっちゃったなあ、と親父さんがほろ酔い加減で機嫌よく引き揚げるのを見送ったところで、そういえばさあ、と姐さんが湯呑みに酒をなみなみと注ぎながら、
「あの秘書だかテロリストだか、あの人、あっさり逃しちゃったけどいいの? 捕まえとかないとまずいんじゃないの、知らんけど」
知らんのかい。
だが比企は、あの男なら問題ありませんよとあっさり答えた。
「あの男には首輪がついてますから」
「首輪? 」
「戦友諸君は一昨年の冬に、湾岸で見ただろう。あのときと同じように小型の
なるほど。泳がせて行動範囲を観察して、組織丸ごと検挙しようということか。
頭いい、というよりも。
「コンジョが悪い! 」
「悪知恵! 」
結城と忠広が天井を仰いだ。
「親父さんには、それは」
源が訊ねると、ああ、と比企はしれっと言いやがった。
「言わなくてもわかるだろう。何せ、この手を私に教えたのは親父殿だからな」
ほんともう、この親子は仲がいいんだか悪いんだか。変なところばっかりそっくりだよなあ。
比企は湯呑みの酒をざばざば飲み、ぶはあっ、とため息をついた。そして、苦笑を浮かべてもう一度酒をあおる。
「春は旅立ちの季節というが、あの男はきっと、これからもうどこへも落ち着いてはいられまいよ。なまじあんなものに手を出そうとなんてしたんだ。手に入れ損ねたと弁明したところで、組織にはネコババを疑われ、裏の世界の連中からは隠し持っているのだろうと狙われる」
そっか、と姐さんがしみじみうなずき、湯呑みを弄んだ。
「つまり、あの人はもう、死ぬまで旅をするしかないってことね。永遠の旅路、か。つらいね」
「あの男にとっては、世界中が
思わぬ臨時収入にご機嫌がよくなった姐さんがこの前同様ピザの出前を取り、すっかりご馳走になって、外が暗くなり始めた頃に俺達は、比企を残して引き揚げた。いくらでも飲める口の比企が残ったので概ね満足したようではあったが、それでもやっぱり、姐さんは泊まっていけと引き留めたものだ。
「若い子と同じ空間にいれば若さを吸収できるのよ」とか言っていたが、やめなさいって。どこの魔女だ。
エスピオナージ、という言葉がある。比企によれば、まさしくスパイの活動そのものを指していう言葉なのだそうだ。文字通り「暗い裏通りで」命のやりとりをしながら、それは決して俺達が歩く賑やかな表通りには影すら落とさない。
神田駅で電車を待ちながら、俺は春の宵の風に頬を撫でられながら、あの男がこれからどこへ行くのか、ぼんやりと想像してみた。仲間のところへ戻る。でも何の手土産もなく、手に入れたものを隠していると疑われ、あるいは疑われているだろうと思い、逃げ出し、どこへ行ってもあの古ぼけた和綴じの本を隠し持っているのだろうと付け狙われ──。
電車が来て、座席に腰を据えたところで、ふと比企が言っていた言葉が気になって、端末を出し検索してみた。
アナザーカントリー。同名のタイトルの映画もあるようだが、ストーリーを見るとこれではないだろう。もう一つヒットした方を見る。
ヘミングウェイの短編小説。日本語訳では「異国にて」だそうだ。つまり、あのモブ顔の男にとって、もう世界中が安住の地ではない、僅かな期間、腰掛けるように転がり込んですぐに去るしかない場所なのだろう。仕事にもつけず、友達もなく、誰とも腹を割った話なんてできない。ただ、生きて流されてどこかへ転がっていく。
それはどこまでも続く、いつ終わるのかもわからない空白みたいなものだろうか。
俺は検索画面を閉じて、隣や向かいのシートに座る仲間達を見て、そして、何だかえらく安心した。
こいつらといる限り、俺は大丈夫だし、俺もまた、こいつらの誰かに何かがあれば、きっとみっともないほど慌てて、どうにかしようと駆け回る。だから、大丈夫だ。
俺達のホーム、こだま市に戻ったら、みんなで比企に電話をかけてみよう。そうだ、もうあいつだって、きっちり俺達の仲間の一人なんだから。
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