第52話 五人とひとりと春の旅立ち 2章

 どうも、人間だけどヤギ、皆様おなじみ八木真です。この春、無事どうにか志望校に合格して、大学生になりました。

 神田の古書店街で、あれよあれよという間に、源の親父さんの知り合いだという古書店の、カックイイ店主の姐さんに、お昼をご馳走になり、楽しく話をして、すっかり仲よくなった日曜日から一夜明けて、月曜日。

 放課後の喫茶店アトリエの二階席で、やっぱりクダまく俺達ご一行。

 きのうは結局、比企は店主の姐さんに勧められるまま、ビールのロング缶を四本空けて帰ってきたのだったが、亡くなった歴史学者の家から大口買取したというリストを見てからは、話題はそこに出ていた書物についてに変わった。

 雲隠六帖、というものをご存じだろうか。源氏物語を構成する五十四のエピソードの、続編なのだそうだけど、そんなもんがあるなんてまったく知らなかった。だって高校の古文の授業でもやらなかったし。古文の細川だって、そんな話しなかったぞ。

 古典文学専攻の美羽子も、親父さんが海外の大学で日本の古典文学を教えてる源も知らなかった。比企によると、概略程度のことしか知らないが、とは言っていたけど、どうも紫式部本人が書いたものじゃなくて、後世に誰かが書き継いだものだとするのが、定説になっているそうだ。この部分のみ作者は不明、主人公・光源氏の出家を描いた「雲隠」から始まるこの六つのエピソードは、一巻ごとのボリュームは©︎紫式部のオフィシャルな源氏物語と比べるとすごく短くて、ざっくりストーリーだけをダイジェストで書いているものみたいだ。いうたら同人誌みたいなもんか。公式でエンドマークがついたその後をファンが補完したり、行間を膨らまして「たぶんこうだった」と考察したりするやつ。

 案の定、研究者の間ではとうの昔に偽書、つまりニセモノばったもんとして判定されていて、ゆうべ源が親父さんに、あの姐御の古書店に行ってきたと報告ついでに、姐さんが買取した本の中に雲隠六帖があったらしい、と話の種にしたところが、親父さんはさも愉快そうに、彼女もどこに売ったものか頭を痛めてるだろう、なんて言っていたそうだ。

 つまり、あの姐さんが売ろうと思ったところで、まともな研究者はまず買わないし、偽書コレクターみたいな変人では、こんな有名なものならとうに買い集めているだろうし、またそんなマニアックなものを集めるコレクターは、人数が限られている。

 そこへおあつらえむきに、言い値で買うと申し出た人間があらわれた。

 亡くなった歴史学者の書斎から引き取った、膨大なコレクション、それを言い値で丸ごと買い取りたい──。

 学者の書斎には、なぜかシリーズ六冊揃いではなく、雲隠一冊だけしかなかったそうだ。姐さんはこれまでの仕事と同じように、店舗のサイトの入荷報告ブログに、自分の店で引き取った学者のコレクションの、作品リストを載せていたのだが、その翌日、そいつはやってきて、前金と称して少なくない金を置いて、他の誰にも売らないでくださいと言い置いて帰ったのだと、姐さんは言った。

「何もこのコレクションでセット購入しなくたって、っていうものが半分弱あるからね、おかしなお客もいるもんだ、と思うくらいだけどさあ」

 引き渡しは今度の土曜日。前金を置いていった、これといって特徴のない男が、社長の家へ配送してくれと言って置いて行った住所に、車で配送に行くことになったのだそうだが、

「みんな暇ならさ、一日バイトしてみない? 」

 とりあえず予定を確認しますと、返事を留保して引き揚げたのだが、土日は講義もサークルも、剣道部も休み。アルバイトも、ぼちぼち探してみるかな、程度でいたので、正直俺は行ってもいいなと思ってしまった。

 アイスコーヒーをじゅるじゅるストローで吸い上げながら、どうする、と額を集めて相談中。

「朝から夕方まで手伝って、日当がひとり頭三万だって」

 源の言葉に、結城と忠広、美羽子がそれぞれ答える。

「やだ魅力ー」

「お昼も出してくれるって言ってたよな」

「予報見るとお天気もいいみたい」

 俺も行くぜとまさやんが言った。

「妹が映画見たいから連れて行けってうるさくてよ」

 軍資金が欲しいのだろう。

「比企さんはどうすんだ」

 俺が訊ねると、そうだな、と奴は苺色の髪を掻いた。

「ちょっと気になるからな、私も参加するよ」

「何が気になるん」

 アイスコーヒーの氷をバリバリ噛みながらまさやんが訊ねると、そうだな、と比企は次の紅茶をポットから注いで、

「どんな人間が雲隠を欲しがるのか、だな」

 なるほど。

 

 結局、七人全員が揃った土曜日の朝。配送先は青梅市の山に近いエリアだというので、行きがけに俺達を姐さんがピックアップしていくことになっていた。集合は東駅のロータリー前。汚れてもいい格好で来るようにと事前に伝えられていたので、全員見事に軽装だ。普段スカートが多い美羽子も、サブリナ丈にロールアップしたジーンズにギンガムチェックのブラウスとカーディガン姿だ。一方で、比企はなぜか、いつもの防弾チャイナに膝丈バルーンパンツと軍用ブーツ、白い軍用コートという姿だった。さすがに愛用の二丁拳銃とナイフは持っていないようだけど、仕事か、それに準ずるときのスタイルだ。こいつは何を警戒してるのか。

 案の定、ワンボックスの年季が入った車で乗り付けた姐さんは、比企の姿を見てその格好で大丈夫かと訊ねたが、しれっと作業用ですと答える。うん、確かに作業用だよね! この格好で怪獣相手に格闘したりしてるもんね!

 後部のスライドドアを開けると、向かい合わせのベンチシートが展開されていて、助手席に比企、後ろに俺達六人が乗り込んだ。ベンチシートの後ろの荷台部分には、段ボールの箱が積まれていて、箱の蓋には何が収まっているのか、本のタイトルが書かれていた。

 姐さんは、車の運転があるから、さすがに酒は飲んでいなくて、ドリンクホルダーにはペリエのボトルが刺さっていた。サクッと終わらせようね、と言って、それからキシキシ笑う。

「早く終わらせて早く帰れば、明るいうちから呑めるからね」

 欲望に素直な人だなあ。ちょっと引き気味に、そうっすね、と答える俺達に、姐さんは楽しそうに、今日はフライドチキンにしようね、と朗らかに言う。あ、これ下手すると昼ぐらいで終わらせて、午後は俺達にチキン食わせながら、自分は酒を飲むつもりだ。

 窓の外は、新緑が枝に芽生え始めた木々が朝の日差しに眩しく、車は小一時間で青梅市内の、結構な山の中の、瀟洒な洋館に着いた。

 あらかじめ訪問の時間を伝えてあったのだろう、表の門は開け放たれていて、ライトバンは洋館の玄関先、屋根庇が張り出した車止めに乗り付けて止まった。

 玄関ホールはなんだかがらんとしていて、奥から男の人が出てきて、にこやかに俺達を出迎えた。

「お待ちしておりました。遠いところをありがとうございます」

 中肉中背、髪はさっぱりと短髪にして、きれいなシャツとスラックス、黒のローファーという姿。顔立ちも、これといって特徴はないけど、誰が見てもそう悪い印象は与えない。見事なモブ顔で、でもにこやかに出迎えてくれているので、友好的な雰囲気を醸し出している。

「お連れの方は? 」

 にこやかな感じは崩さず、俺達を見て訊ねる。姐さんはあっさりと、搬入用のスタッフです、と答えた。

「結構ボリュームがありますから。ああ、どちらにお運びしましょうか? 」

「そうですね、突き当たりのドア、あの部屋にお願い致します」

 特徴のない男は、先に立って長い廊下の突き当たりのドアを開いて案内した。両開きのドアの中は、和室にしたら二十畳ぐらいあるだろうか、広い部屋だった。床には絨毯が敷いてある上にソファーとテーブルがあって、埃よけの布がかけられている。絨毯から外れた、ドアの正面の床の辺りを指して、この辺りにまとめておいてください、と言って、男は屋敷の奥へ引っ込んだ。

 屋敷の中は土足で上がっていいみたいで、玄関には靴脱ぎスペースも三和土もなくて、搬入自体はせいぜい二度三度程度の往復で済んだものの、そういう点では楽だった。

 搬入が済むと、お疲れ様です、ありがとうございます、と男が戻ってきて、お急ぎでなかったらお茶でも、と客間へ通された。三人掛けのソファーを向かい合わせに二本と、その間に二人掛けのソファーを一本。テーブルにはオレンジの輪切りがたくさん入ったアイスティーのピッチャーと、かちわり氷の入ったグラスが八つ。俺達がソファーに収まると、お疲れ様です、と男がアイスティーをついでくれた。

 アイスティーは程よい甘さと、オレンジの爽やかな香りでおいしかった。が。比企はグラスを手にしながら、時折ふっと思い出したように、茶菓子がわりにゼリーを運んでくる男に、世間話でもするような感じで、すごいお屋敷ですね、あれだけのコレクションを丸ごと買い上げるなんて、きっと本がお好きな方なんでしょうね、などと話しかける。男の方も、にこやかに受け答えしている。どうやら彼は、コレクションを買った社長の秘書室長で、社長は生憎留守にしているが、代わりに搬入の立ち会いを任されたとかで、ある程度のことはこの屋敷の中の采配を一任されているらしい。

 そうなんですか、と比企はおっとりとうなずいた。

「私も、古書店でアルバイトするくらいですから、このお屋敷のご主人ほどではありませんが、やっぱり本が大好きでして。あれだけのものをポンと買い上げるほどの方なら、相当な蔵書をお持ちなんでしょうねえ」

「ええ、この屋敷の図書室は、社長ご自慢のコレクションが並んでいますよ。招待されたお客様がたは、皆さん大層感嘆されます」

「それは興味深い。気になりますね」

 比企はゼリーをひと匙、口に運びかけて、そこでそうだ、とちょっと悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「ご迷惑でなければ、ちょっとだけ拝見できませんでしょうか」

「え、」

「あれほどのものを丸ごと入手された方がどんな蔵書をコレクションされているのか、後学のために拝見したいなと。──お願いします」

 今にもえへへ、と笑いそうな、見事なおねだり顔。見た目だけは妖精みたいなスラヴ系の美少女だから、初対面の相手ならまず騙されるだろう。姐さんもだよねー、気になるよねー、なんて乗っかって、男は困ったなあ、と苦笑いしていたが、自分のルックスをこれでもかと悪用する比企にころりと騙された。

「仕方ないなあ。まあ、本がお好きな方なら、やっぱり気になりますよねえ。ご案内いたします」

 モブ顔の秘書室長は、美少女におねだりされてまんざらでもない顔で、こちらへどうぞ、と俺達を促した。

 図書室はさっき本を搬入した部屋の隣で、最初の搬入部屋の倍くらいの広さだった。窓の側に本棚を作り、逆側はクラシカルな壁紙と焦茶の腰板だけの壁で、おそらく直射日光で本が日に焼けないようにしているのだろう。広い部屋を二分するように、二枚の絨毯がやや離れて敷かれていて、その上には、片側には背の低いソファーとテーブルが、もう一方にはテーブルと椅子が二脚置かれていた。窓際にはロッキングチェアが一脚、サイドテーブルが傍に控えている。

「お済みになりましたら、お声をかけてくださいね」

 秘書室長がそっと席を外し、無邪気な好奇心でキラキラした顔の比企が、ありがとうございます、とさも嬉しそうにお礼を言って見送った。

 男が屋敷の奥へ引っ込んだのを確かめると、比企はいつもの悪い顔でニヤリと太い笑みを浮かべる。あまりの豹変ぶりに、姐さんがギョッとしているが、そんなことにはお構いなし、奴は書棚をざっと見た。

「店長さん」

 不意に比企が呼びかける。姐さんが不意をつかれて、へ、と間の抜けた返事をした。

「ああ、肥後君、結城君、すまない、扉は開けているが、さっきの秘書氏が戻ってこないか、それとなく気を配ってくれるかな」

「おう」

「カシコマ! 」

 二人がすっとそれとなく、扉の近くに移動したところで、この屋敷の主人のことですが、と切り出した。

「これまでに、古書店のネットワーク上で、大口の売買の記録や記憶に残るような顧客だったのでしょうか」

「え? うーん、少なくともあたしは初めてのお客ね。商売仲間からも聞いたことはないかな」

 たぶんそれなりに古書店を利用したこともあるのだろうけど、普通に店を訪れ、数冊をパラパラと買って、というような、よくあるお客の一人であったのだろう。姐さんの答えに比企は、でしょうねとうなずいた。

「だってこの屋敷の主人は、さして本が好きではありませんから」

 …は? 

「ついでに社長でもないよ」

 はあ?

「いや、この言い方は誤解を生じるな。もっと正確にいうなら、さっきの秘書がここの主人だ」

「え」

 嘘やん。

 

 ありがとうございます、とても素敵な蔵書でした、などと比企は抜け抜けと言い放って、ニコニコと秘書氏にお礼を述べた。

 そのままゾロゾロと、お邪魔しました、と俺達は辞去した、その去り際。

 すっと比企が踵を返し、男に向き直った。

「最後に一つだけ。あれは早く手放してしまうことをおすすめします。あれのために不要なものまで買い集めたのでしょうけど、命あっての物種といいますから」

 一瞬だけ、男がハッと打たれたように顔を上げた、ような気がした。

 

 帰りの車中。信号待ちの間に、ねえ、と姐さんが比企に訊ねた。

「さっきのあれ、どういうこと? 面白かったからいいけどさ」

 あ、面白かったんだ。

「のっぽ君と野武士みたいな彼を扉口に貼り付けたのはどういうこと? 」

 比企はしれっと答えた。

「肥後君と結城君は気配に敏感ですから。源君もそうですが、彼は笹岡さんの護衛についていてもらおうと思ったので」

「じゃあさあ、あのお客さんとの取引が過去にもあったのかっていうのは? 」

「それは、」

 そこで比企はちょっと考え込んだ。どこからどう話したものかな、と赤毛を掻き回して、そして諦めた。

「ちょっとややこしい話になるので、戻ってからゆっくりとでもいいですか。私も確認しておかないといけないことがあるので」

 そこで美羽子が、何かピンときたのだろう。源とうなずき合った。それから、後部座席の全員に耳を貸せと集めて、小さくもしかして、と言う。

「お仕事で何か関わってるのかも」

「お仕事? って探偵の? 」

「まあ、まるっきりないとは言い切れねえよな」

「あのなんだっけ、源氏物語のパチモン探せって頼まれたとか? 」

「パチモンて」

「うんうん、パチモンだな結城よ」

 訊き返す源、うなずくまさやん、のほほんと推測を述べる結城に、ブホッと噴き笑いを噛み殺す忠広、しみじみと結城の天然ぶりを再確認する俺。俺達の会話は、大学に入ろうと状況が不可解であろうと、何も変わりゃしないのだ。常にこのノリ。シリアスなんか糞食らえだ。

 種明かしは神田に戻ってから、姐さんの店のカウンター奥、この前と同じ茶の間で行われた。

 シンクの脇の食器棚から、バラバラの取り皿を出して配り、そうだ忘れないうちにね、と姐さんは俺達全員に日当の入った茶封筒を配った。取り皿を配り、ケンタッキーのバケツからチキンを出して配るのと同じノリだった。

 紙コップを出して配り、飲み物は冷蔵庫から好きに出して飲んでくれと言って、自分はやっぱり冷蔵庫からビールのロング缶を出して飲み始める。

「あーいいからいいから、ほれ若ぇ衆、遠慮すんな! 」

 一番冷蔵庫に近いところにいた忠広が、ほれほれ、と促されて冷蔵庫を開けると、アイスピーチティーとコーラとサイダーのペットボトルが入っていた。あとはぎっちりみっちりビールのロング缶と、岩下の新生姜のパックと、卵と納豆とマグロの赤身だけ。何食って生きてるんだこの人。

 その間、携帯端末で何がしか確認していた比企は、ふん、と鼻から息を吐いて端末をしまった。それから、一同を見回し、さて、と前置きしたところで姐さんが差し出すロング缶を受け取り、タブを開けてぐいぐい飲んだ。

「さて諸君、さっき私が皆に言ったことで、そこそこ混乱させてしまったようだ。些細なご縁ではあるが、店長さんは源君と笹岡さんがお世話にもなったし、こうして知り合ってしまった以上、見て見ぬ振りも寝覚めが悪い。ということで、今回の出来事の種明かしをいくつかしようと思う」

 そして、比企はいつものように淡々と、いつものように非日常丸出しの話を、麒麟一番搾りロング缶を片手に語り始めた。まったく、締まらないったらない。

「コードブックというのを知っているか」

 そこで盛大にゲップを一つ。チキンを手でほぐして骨から分けたのを食って、紙ナプキンで手を拭いて、もう一度ビールを飲む比企。

 全員が首を横に振る。話の流れからして、ギターのコードは関係ないだろう。

「ここでいうのは、楽器のコード表ではなくて、いわゆる諜報の世界でのものだ。組織の全員が特定の本を持ち、本のページ数や行数、単語や文字数を数列化して、解読の際には、指定された本を照らし合わせて読み解いていく。オッテンドルフの暗号というやつだ」

 なるほど。わざわざ「これが暗号表でございます」と言わんばかりのものを持ち歩かず、既成の本を全員でお揃いにすれば、いちいち新しく暗号を考える手間も作る面倒もないということか。

 俺がそう言うと、比企は御明察〈ヴォワラ〉、とうなずいた。

「そうだな。それに、暗号解読しているところを誰かに見られても、例えば観光地図やペーパーバックを使っていれば、ただ地図を確認していたり読書しているだけのようにしか見えない」

 そこで声が上がった。

「それはわかったけどさ、スパイの情報交換の方法が、さっきのお客さんとどう関わってくるの」

 姐さんが挙手して、げええっふ、とでかいゲップをした。自分で自分のゲップにウケてケタケタ笑う。

 そこが本題ですと比企はロング缶を空けた。姐さんがはいよ、とわんこそばのように次のロング缶を出す。

「今の話を踏まえて、これを見てほしい」

 携帯端末を出し、どこやらのデータベースに繋いでから、姐さんに部屋の照明を消してくださいと頼んだ。

 部屋が暗くなると、端末の画面を拡大した映像がちゃぶ台の上にぽわんと浮かぶ。

「あ」

 結城と源が同時に声を上げた。そして、そのまま声は尻上がりに続いて、尻すぼみの半疑問形で終わった。

 似てるような似てないような。映像は男性の顔写真で、のっぺりした顔には、右の眉尻と左頬に小指の爪ほどの黒子があった。

 どこかで会ったような会わないような、黒子以外は特徴のない顔だ。

「これは東京露人街、病院坂の美顔クリニックのカルテから引っ張ってきたデータだ」

 また剣呑なところから剣呑なデータを。比企はちゃぶ台の真ん中に置いた端末を操作しながら、今の写真は四年前のものだと言った。

「施術後の顔がこれだ」

 映像が切り替わる。

 比企を除くちゃぶ台を囲んでいる全員が、映像を見て、あー! と素っ頓狂な馬鹿声張り上げた。

 眉尻と頬の黒子を取っただけのその顔は、なんとなれば、さっきあの緑に囲まれた洋館で会った、秘書室長氏のものだったのだから。

「この男の正体は、ざっくりいうならアナキストでテロリスト。所属する組織は〈核なき大戦〉の末期に、軌道上の国際実験都市コロニーを、いかなる国家にも属さない自由都市として存在させようという自由主義から派生した団体の下請けで、まあ、母体団体に都合の悪い人物の口をちょっと塞いだり、いささか荒っぽいやり方で情報や活動資金を得て上納したり、そういう仕事をするものだ」

「うえー」

 結城が情けない声で情けない顔をする。

「要するに、命じられればなんでもやる、ダメな便利屋だな。この男はその組織で、主に情報を扱っている。濡れ仕事は得意科目ではないらしい」

「濡れ仕事ってなんだ」

 忠広がコーラでチキンを飲み込んで訊いた。

「私は好きではないが得意だ。要するに殺しだな」

 姐さんが、淡々と答える比企を見て目を丸くしている。

「で、そんな男がなぜ、源氏物語の偽書と名高い雲隠なんかに関心を示したのかというと、だが」

 比企はそこでビールをぐいぐい飲んだ。

「最初にコードブックの話をしたね。あれだよ」

 そこで姐さんが、待って、と掌を広げて何かを押しとどめるジェスチャー。もういい? と部屋の照明をつけ直してから、もしかして、と続けた。

「その組織が、雲隠をその暗号表? で合ってる? にしたってこと? 」

 半分は正解です、と比企は答えた。

「ただ、どこの誰がコードブックとして使ったのか、主語の部分が違うんです」

「おいおい、ここで新たな人物が登場かよ」

 まさやんがチキンにかぶりつきながらぼやいた。ほんともう、どこまで話が広がっていくんだ?

「新たな登場人物は、だが既存の人物だ。戦友諸君は去年の今頃に一度会っているはずだよ。何を隠そう私の父親だ」

「はあ? 」

 姐さんと比企以外の全員が、目を丸くしてあらん限りの大声で激しく反応した。

 私の過去は以前にちょっと話したと思うが、と比企は涼しい顔で続けやがる。

「私の父親は、防衛省の中でも情報分析、有体に言えば諜報だね、そういう仕事をしていたのだが、省内で組織された機関の長をしていた。上は内閣と皇室のみ、結成された目的が目的だ、構成員や運営は自由度が高く、だから実の娘を工作員として仕込んで使うことができたんだ。機関長自ら、我が子を国家のために差し出した上、誰よりも厳しく仕込んだとあっては、部下の士気も変わるだろうしな」

 まあ実際桁違いに士気が上がったがなと、比企はさっき骨からバラしていたチキンと、岩下の新生姜のスライスを一緒に口へ放り込んだ。

「で、私が所属していた頃にはもう違うコードブックを使用していたが、親父殿の若い頃に使用していたのが、例の雲隠でね。あれを使用していた事実が漏れれば、とんでもないことになる」

「どうなるの」

 おずおずと美羽子が訊ねると、うん、と比企はうなずいて、ロング缶の残りを干した。飲む? と、今の話を聞いて軽く引き気味ではあるが、姐さんが次のロング缶を差し出す。

「姐さん引いてるのに酒すすめるんすか」

 思わず突っ込んでしまった。もう店長さんでなく姐さん呼びだけど、当然のようにナチュラルに受け止められてる。

「えー、だって、大勢でいるのに独りで飲んでるのつまんないんだもーん」

「てゆうかこの前も迷わず比企さんにだけすすめてましたよね」

「坊や、酒飲みはねえ、顔見ればなんとなく仲間がわかるのよ」 

 うっふっふ、じゃないでしょうが。ダメな大人だなあ。

「さて、ここで今回のこいつ、雲隠がなぜコードブックになったのか、その経緯と、冒頭のテロ組織の情報屋が買い込んだコレクションの、元の持ち主についてだ」

「歴史学者、って言ってたよな」

 あんまり聞いたことない名前だけど、と源が思い出しながら相槌を打つ。

「在野の学者で、細々とだが、それでも地道に研究を重ねていた方だったそうだよ。表向きは、だけど。実際には、親父の機関の外部アドバイザーのようなことをされていた。そちらの仕事の方がウェイトが重かったようだね」

「諜報機関と歴史学者がどう関係あるの」

 比企の答えに俺が思わず漏らすと、意外とあるぞとあっさり切り返された。

「諜報の世界は歴史の知識がなければやっていけない。誰がきのうまでの敵で、誰が明日には敵に回る可能性を秘めているのか。歴史の事実の積み重ねと、今起こっていることとを照らし合わせ、その渦の中にいるのがどんな人物なのかを併せて、次の一手、その次の一手を選ばなくてはいけないんだ。敵に回した相手がどんな歴史観で世界を見ているのか。自分達の行動は、その歴史観から鑑みると相手にどう捉えられるのか。それによって、相手の行動パターンを推測するんだ」

「複雑だな」

 結城がコップにサイダーを注ぎながらうへえ、と項垂れた。

「軽蔑すべき敵よりも、尊敬にあたる敵を見よ、ということだ」

「毛沢東語録? 」

 姐さんがボソッと突っ込んだ。

「さすがご商売柄、基礎教養に明るいですね」

 比企はニコニコ。ご機嫌だな。誰、と囁き合うカップルに、キミ達のお祖父さんが生まれる前の時代の人よと答えた。

「中国共産党の指導者。政策で何千万も殺しちゃって、自分も裁判にかけられて死刑になっちゃった人」

 結城が情けない顔をした。

 それで、とまさやんが軌道修正した。

「その学者さんとやらは、今度のことでは何をしたんだ」

「お、野武士君いい質問」

 姐さんの中では、まさやんのイメージはもう野武士で固まったみたいだ。 

 比企もいい質問だとうなずき、この先生こそが雲隠をコードブックとして提供した人物だ、ととんでもないキモとなることを、ビール片手に言い放った。

「親父の先代の機関長の頃で、本を探しているという話を、世間話程度にしていたところが、それならいいものがある、と教えたのが、かの歴史学者だったそうだ」

「でもさ、こんなに手に入りにくい、どころかほぼ手に入らない激レア稀覯本なんて不向きなんじゃないのか」

 源がうーん、とチキンをつまみながら首を捻るが、いや、と比企は否定した。

「これほど最適なものもそうないよ。存在は広く知られていながら、それでも入手は限りなく困難。表紙に書かれたタイトルはポピュラーだからどこででも堂々と広げられて、でも中身は誰も知らない稀覯本だからこそ、同じものを持っている人間は仲間だと即座に判断できる」

 だから漏れると大変なんだと比企は首をほぐすように回した。

「使用目的が隠微なものだからね。漏れてしまえば〈核なき大戦〉以前からのスキャンダル発覚にも繋がりかねない。教科書に名前が載るような歴史上の人物や、今現在の大物政治家の祖父母の代の人物の、表沙汰にはできない諸々が溢れ出る可能性もある。そうなれば、日本はもちろん、当時からの友好国や国際団体にも飛び火しかねない」

 テロ組織が欲しがり、私が買い手のことを気にした理由も、これでちょっとはわかってもらえるかな、と言って、比企はロング缶を開けてひと息に飲み干した。

「いやあ、隙を見て回収しておいて正解だったな。あの秘書の顔を隠し撮りして情報屋組合に送ったら、まさかこんな情報が釣れるとは」

 一仕事したあとみたいなテカテカした笑顔で、比企は防弾チャイナの背中に手をやって、ゴソゴソと何か取り出した。

「あー! 」

 姐さんが指差して叫ぶのも無理ないって。だって。

「雲…隠、って、え、その本、」

 美羽子もポカンとしている。

「持ってきちゃったのー? 」

 源が頭を抱えて天井を仰いだ。

「いや、今の話聞いちゃえばさあ、まあ仕方ないとも思うけどさあ、」

 忠広が首をブンブン振る。

 比企の手には、実に誇らしげに、姐さんが買い取った歴史家の蔵書の中にあったという、あの雲隠の本があったのだ。

 まじか! 作業中、ライトバンと屋内を往復する間に、顔写真を馴染みの情報屋にデータ送信して照会したのだろうけど、それにしたって手が早すぎる。

 俺は深い深いため息をついた。

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