第51話 五人とひとりと春の旅立ち 1章
駅から出てすぐ、目の前のロータリーから、一分咲きの桜並木が続いている。
俺と親父、お袋と同じように、正装の親子連れがゾロゾロと桜並木へと進んでいく。真新しいスーツ姿は俺と同年代の若者ばかり、付き添いの母親の中には、着物姿のおばさんもいる。
前を歩く人の中に、俺と同じくスーツ姿のまさやんと結城、源が、両親と一緒に歩いているのが見えた。声をかけるとすぐ気がついて合流。源はお祖父さんお祖母さんだけでなく、海外暮らしのご両親が急遽帰国して、一緒に歩いていた。
「よっ」
「おーヤギー! 」
いつもと違うスタイルではあるけど、卒業式が終わったあとの春休みもずっとつるんで遊んでいたので、緊張感も何もない。ふと通りの向こうを見たら、ツーピース姿の美羽子と、スーツで身を固めた忠広が両親と歩いているのが見えて、思い切り手を振ると、すぐに気がついた。おじさんおばさん達も気がついて、こっちにやってくる。
保護者軍団が和やかに語り合う前を歩きながら、俺達は桜が少しだけ綻び始めた並木道の空を見上げて、大丈夫かなとため息をついた。
「比企さん、入学式に間に合うかしら」
「せっかく全員揃って合格したのにな」
そう、俺達六人は、あの夏の怪獣騒ぎも、そのあとに続く受験勉強も無事乗り越え、揃って行こうなと励まし合って受験した、大河内学園の大学部に無事合格した。今日はその入学式。本当なら、この場には俺達の学力を大きく向上させた最大の功労者、俺達の盟友である赤毛のロシア娘がいるはずなのだが。
そのとき。
不意に、俺達が今まさに向かっている大学の、校門前の広場辺りが騒がしくなった。
嘘だろ。
アクション映画で見るようなごっつい軍用ヘリがホバリングしている。地上三メートルくらいのところなので、回転翼が人にぶつかることはないが、風がすごい。ドアのないヘリから、ポロポロと人が落ちてきた。いや、降りてきた。
スーツ姿の長身の男性が二人。一人は日本人で、もう一人は金髪の外国人。最後の一人は、しなやかな細身と苺色の髪の、
「…比企さん」
美羽子が呆然と漏らした。
ヘリは三人を下ろすとすぐに飛び去った。
お前はどこの高須クリニックだ。
桜木さんとヴォロージャさんは、それぞれ俺達の親に名刺を配ったので、あっという間に信用を勝ち得てしまった。桜木さんはキャリア官僚だし、ヴォロージャさんもね、出した名刺がトリスメギストス・ファーマの取締常務になっていて、今日は上品で華美になりすぎないツーピースとパンプス姿の比企を、デジタル一眼で撮影している。
「大奥様も入学式をこの目で見たいとおっしゃっていたものの、本家の采配などで多忙を極めておられるので、それならばせめて、
比企はしわい顔をしているが、曽お祖母さんのたっての希望らしいので、やめろというわけにもいかないのだろう。
ものごっついヘリがいきなりホバリングしてきて、そこからどえらい美少女とイケメン二人が降りてきたので、どうしたって注目を浴びまくりだけど、最大限急いで、間に合うように最速の移動手段を使ったらこうなったのだそうだ。
春休みの間、比企はロシアの本家に帰り、曽お祖母さんの手伝いをしていたのだ。
ああ疲れた、と比企はぼやいて、肩を軽く揉んだ。
「やれ後継は誰にするんだとうるさい長老がたを黙らせて、社交界には適当に顔を繋いで、伯父上が戻ってきたのをお相手していたが、まったく年寄りどもめ、曽お祖母様はあと二百年は現役だというのに、気が早いにも程がある」
まあ、戻ってくる方法がどうであれ、まずは。
「おかえり比企さん」
「お疲れ」
「また四年間よろしくな」
俺達が口々に労いと挨拶をかけると、比企はそうだな、とうなずいた。
「ああ、またよろしく戦友諸君」
俺の名前は八木真、人間なのに仲間達からはヤギと呼ばれている。無事に受験戦争を勝ち抜き、第一志望の大学に合格して、高校からの仲間達とまた四年間、そこそこ陽気にそして楽しくキャンパスライフを満喫する、予定の、ちょっとかわいい今日から大学生。ちなみに彼女募集中、おっぱいのでかい美女がタイプです。
さて、新学期で進学したので、ここで改めて、イカれた仲間を紹介するぜ!
まず、俺の幼馴染の忠広! 高校で出会った最高の仲間・まさやん、結城、源! そしてもう一人の幼馴染で、源の彼女・美羽子! そして真打、ちょっとした事件がきっかけで知り合った、俺達のブレーンというより最終兵器・比企! そして比企の相棒で、比企が絡まなければ爽やかイケメンお兄さん・桜木さん!
ということでね、大学に通っても、この面子で変わらずお付き合い願います。
さて。
去年の夏の怪獣騒ぎから、お前達は何をしてたんだとお思いの方もいらっしゃるだろう。なので、ぶっちゃけてお話ししますね。
ずーっと受験勉強してました。ええ。マジで。
週末には家が広い源んちか結城んちで集まって勉強会して、野郎五人はそのまま泊めてもらって、美羽子は比企の仕事がない週末には、勉強会の帰りにそのまま泊めてもらって、比企と桜木さんに苦手科目などを見てもらっていたようだ。平日の、これまた比企の仕事がない日には、上海亭から桜木家に流れて勉強会。苦手科目を東大文一卒にビシビシ鍛えられ、桜木さんが新メニューに挑戦したときには夕飯をご馳走になり、予備校の模試や冬休み講習に参加し、とにかく合格範囲ギリギリだった学力を、必死に伸ばしていった。
その甲斐あって、受験前には担任の細川からも合格間違いなしとお墨付きをもらった。が、俺達が揃って合格できたのは、去年と一昨年の夏に比企と共に戦った、あの怪獣退治の件も、少しばかりあったのかもしれない。面接試験のときに、試験官として参列していた教授三人全員が「君この右から二人目の子でしょー? 」と、怪獣退治に協力したと表彰されたときの、あの新聞記事を出してニコニコしていたのだ。まさやんのときには、去年の表彰されたときの記事と合わせてネットニュースの写真を見せられたというから、大学側の心証は、そう悪くなかったのかもしれない。
それを思うと、比企には助けられてばかりだ。そりゃあ、危ないピンチを何度も助けてもらってきたけど、まさか進路まで、回り回った形とはいえ助けられたなんて。
入学式が無事終わって、講堂から出ると、比企は喉が渇いたな、と近くの自販機で紅茶を買って一気に飲み干した。そのグッドルッキングで、ぶふぇえ、って、そんなおっさんみたいな息を吐くなって。ゴミ箱を見つけた比企の手から、ヴォロージャさんがさりげなく空のペットボトルを取って捨てに行く。
それでは、とヴォロージャさんがデジイチ片手に、にこやかに提案した。
「せっかくですから、皆さん揃って記念撮影などいかがでしょう。写真が出来上がったらお届けいたしますよ」
おお、それはいい、と六家族と探偵と監督官が、ゾロゾロと校門の前へ出た。校舎と桜を背景に、みんなで記念撮影。周りを見れば、親子で端末のカメラで撮影している人もいる。しかし、動画撮影もするなら携帯端末で十分じゃないのかと思ったら、ヴォロージャさんが言うのには、デジタル一眼の方が画質が格段にいいので、スナップも動画も集合写真もなんでもござれなのだそうだ。
そういえば、比企のご両親はどうしたんだろう。少なくともお袋さんの方なら、来れば比企も喜びそうなもんだと思うんだけど。
ヴォロージャさんに訊ねると、ああ、と笑ってあっさり教えてくれた。
「晴信様がフランス警察の依頼で、対テロ部隊の白兵戦の講師として出張されておりまして、睦月奥様も同行されています。お帰りは今月末とのことです」
あー、そっか、あの親父さんなら、そういう講師は最適かも。何せ八極拳の達人だもんなあ。
ヘリを見たときにはぶったまげながらも、何せこれが初対面なもので胡散臭そうにしていた親父や、忠広、結城、まさやんの両親も、桜木さんとヴォロージャさんの名刺を見てちょっと警戒心を薄れさせ、更に入学式が終わって、連れ立って帰る頃には、すっかり信用しきっていた。
そして翌日から始まるキャンパスライフは、俺の想像していたものとはちょっと、いや、かなり違っていた。
入学式のあと、俺達七人は学園駅前の喫茶店に溜まって、明日からの大学生活について、あれこれとだべっていた。
職業柄、どんな場所にも出入りする比企によると、新入生へのサークル勧誘は実に恐ろしい勢いでぐいぐい来るとかで、学生のふりをしたり、また知り合いの学生を利用したりして、新興宗教やタチの悪いセミナー、マルチビジネスに引き摺り込まれる危険もあるそうだ。やだコワイ! なので、
「できるだけ大人数で、可能な限りこの全員で行動するのが最善だ。もし、あまり勧誘がしつこいようであれば、裏技がある」
そして教えてもらった秘密の暗号。どの程度効くのかはわからないけど、まあ、比企のこういうときの言葉は、与太と思って聞いていると実はガチなので、騙されたと思って試してみるのも一興か。
喫茶店はどうやら大学の生徒達をメインターゲットにしているようで、空いていた二階席の向こうでは、何かリポートでも書いているのだろうか、茶髪の男が分厚いハードカバーや辞書をめくっては何か書き付けていた。テーブルの上には、分厚い本と端末の隙間にコーヒーカップが置かれていて、そうか、大学に受かったと報告したとき、祖父ちゃんが懐かしそうに若い頃の話をして、コーヒー一杯で粘れる店に入り浸った、なんて言っていたが、こういうことだったのか。
なんだかちょっと大人になったような気分でコーヒーをたしなみ、皆上機嫌で夕方には解散した。
翌日。
正門から続く並木道は、新入生とサークル勧誘の上級生達でごった返していた。
人いきれで息が詰まって、ちょっと並木道から逸れていた美羽子と、付き添っていた源を見て、すかさず近寄ってくる、貼り付けたような笑顔の、でも目は全然笑ってない数人の男女が、それはかしましくボランティアサークルとやらの勧誘を始める。雰囲気が異様ににこやかでハイテンションで、すっかり怯えた美羽子を背中に庇い、源はものの試しで、きのう比企に教えられた言葉をそのまま口にしたのだと、合流後に語った。
「俺達、本郷先生のゼミ生です」
途端にやたらとしゃべりまくっていた男女が、ぴたりと静かになった。そして、気持ち青ざめ目を泳がせながら、そそくさと引き揚げてゆく。
あまりに効果テキメンすぎて、怖いくらいだったと、源は呆然としていた。
種明かしはあっけないものだった。
講義が終わったあと、七人全員が顔をそろえたところで、比企が俺達を連れていったのは、本郷と札がついた教官室だった。
部屋の主は俺達の話を聞くと、それは愉快そうに笑ってから、比企に向き直り、お久しぶりです、とビシリと直角にお辞儀した。え。まさか。
「大尉、ご健勝そうで何よりです」
「そう畏まるな本郷曹長。今は教師と学生、立場が逆だ」
…お知り合い?
「紹介しよう。こちらは私の自衛官時代の部下、本郷だ。私が引退する際に、自分も除隊すると言って聞かなくてな、推薦先は自分で好きに書けと書類を作ってやったらご覧の通りだ」
「というわけだ。ひとつよろしく頼むよ」
「そういえばお前、今は何を教えているんだったか」
「社会学です」
意外と普通。比企の元部下ってことは、もっと物騒なこと教えてそうなイメージだけど。あと、体はすげえでかくて肩に重機乗ってそうな感じのマッチョ系なんだけど、人当たりが穏やかですっごい紳士な感じ。
「テロとカルトがどのような土壌で生まれるのかについて研究し教えているよ」
って全然穏やかじゃなーい! 物騒なこと教えてるー!
あれほどやる気がなかった比企が、俺達と一緒に受験して大学に入ったのは、どうやらこの大河内学園なら、校風が自由で、しかもこうして知り合いがいるからということだったようだ。うん、まあこいつの頭なら、その気になれば東大京大はもちろん、海外の一流大学も鼻毛で入れるんだろうけど、それでもここに入学したってのは、なるほど、好き勝手がやりやすいからか。
かつて東京の郊外、福生市には、第二次大戦中に陸軍の飛行場が建設され、終戦後には施設ごと米軍に接収された広大な土地があった。が、俺達が生まれる前に起きた〈核なき大戦〉の結果、米軍は撤退、土地は日本に返却され、新たな都市計画のもとで、一大学園都市へと生まれ変わった。
大河内学園。附属幼稚舎から小学校、中等部、高等部に大学、大学院。更に文系理系を問わず、付属の研究施設も敷地内に備えている。私立大学でありながら、利益は追わず公立学校とさして変わらぬ学費と、望むものには高い専門教育を提供している。返却不要の奨学金枠の広さや、地方からの進学者が移住しても生活に困らないよう、商店街や学生向けアパートやマンションなどの環境が整えられていることから、学生にも保護者にも人気の学校だ。
学園が創設される以前は福生市の敷地だったが、今では独立した学園都市として、交通機関も乗り入れ、福生市よりもはるかに栄えており、その昔は国道沿いに米軍人相手のブティックや家具屋、ダイナーがあったそうだけど、今では学生向けのそれにとって替わり、昔アメリカの基地があったなんて見る影もない。
昔は米軍基地、今は洒落た現代的なキャンパス。俺は学食で、高校生だった頃と変わらず、仲間と揃って昼飯を食っていた。
俺達、野郎五人はジーンズやハーフパンツにシャツやパーカーという変わり映えしないスタイル。美羽子は淡い蜜柑色のブラウスに緑のスカートとスニーカー。そして、比企はというと、これが、見事にいつも通りだった。黒い芋ジャージの上衣の下は「だってしょうがないじゃない。ブタのくせに生意気なんだもの」と書かれたTシャツ、色の抜けかかったブーツカットジーンズに、さすがに通学なのだから下駄はやめなさいと桜木さんに言われたのだろう、愛用の軍用ブーツで足元を固めている。何も持っていないように見えるが、どうせこいつのことだ、丸腰は落ち着かないとか言って何かしら持っているに決まっている。
そんなよれよれの格好をした、西洋のお姫様顔の絶世の美少女が、涼しい顔で大盛りメニューを何品も頼んでモリモリ食っているのだから、どうしたって人目を引く。そして自動的に、俺達もまた、あのちょっと変わった美少女の友人だと、どうも有名になっているようだった。困ったもんだ。
俺とまさやん、結城の三人は、散々迷いはしたが、あの本郷教授のゼミを受講することにした。まさやんと結城は何となく、まるで知らない人の講義よりは興味関心を持てるだろうと言っていたが、俺は比企にすすめられて受講を決めた。
「地政学を志すなら、あれの講義で得られる知識は知っておいて損はないと思うよ」
のん気に他人へ助言などしているが、そういえば比企は何を専攻するつもりなのだろう。
「比企さんはどのゼミ受けるのさ」
俺が訊ねると、ん、と奴は顔を上げた。
「そういえば比企さん、どこの学部に入ったの」
美羽子も気になっていたのだろう、重ねて訊ねた。あれ、と比企は苺色の髪を掻き回して、言ってなかったか、と漏らしてからあっさり答える。
「民俗学」
また地味なものを。
しばらくは平穏な、世間並みに楽しいキャンパスライフが続いた。
源とまさやん、結城は大学の剣道部に入った。結構レベルは高いけど、大学や顧問の方針が「楽しくやれなければ強くなれない」だとかで、血眼になって練習練習、というのとは真逆の姿勢で、週の半分程度しか活動日はないし、無理に出席しなくてもうるさいことは言われないそうだ。美羽子は、メンバーが女性しかいなくて、活動も週に一度お菓子を作ってお茶を飲むだけで、源とのデートに支障が出ないと言う理由でお菓子作りサークルに入った。忠広と俺は、映画愛好サークルに入った。出席しようがしまいが楽だという、ただそれだけのことで決めたのだが、正直、まさやんや源達とワイワイやるのが何より楽しいので、サークル活動が全て、なんてことにはしたくなかったから、このくらいゆるい方がちょうどいい。こんなことを考えてるのは俺だけかと思っていたら、結城も部活がガチでやるノリじゃなくてよかったと、放課後にあの駅前の喫茶店で集まったときに、えへへえ、と笑いながらカレーを食っていて、密かにちょっと安心したのだった。
比企はというと、これがまた、らしいといえばらしいのだが、サークル活動にはまるで興味を示さなかった。授業が終わるとあの喫茶店の二階席に陣取って、紅茶をばかすか飲みながら、読書をしているか、どこかとメールやチャットのやり取りをしているかで、高校の頃とさして変わらなかった。
四月も気がつけば半ばを過ぎて、すっかり花が散った桜は若葉が顔を覗かせる頃。それは、唐突に起こった。
「今度の日曜、暇? 」
今ではすっかり入り浸りとなった、大学最寄りの駅前の喫茶店、あとりえの二階で、源が訊ねた。
全員が暇だと答えると、源は美羽子と顔を見合わせてよかったねえと安堵する。なんだなんだ。
アイスコーヒーをじゅるじゅるストローで吸い上げると、どうしたと忠広が訊き返した。
「美羽子んちの親父さんに結婚反対されたとかか? 」
「気が早いよ! あと三年待たないとできない話だろ」
「ヒューヒュー! 」
やる気のない掛け声をかけながら、俺もどうしたんだと源に訊ねた。
「いや、それがさ」
源と美羽子が、ね、とうなずき合って言うには、二人が専攻している日本古典文学の授業で、一年生はまず、崩し字を読めるように学習するのだそうだ。テキストがわりに古書を一冊、前期の授業で読み進め解読し、現代語に翻訳しながら、崩し字を読む技術を身につけていくのだそうだ。テキストはもう配られているが、
「ちゃんとした古語辞典が必要になってさ」
だが、
「今はほら、端末で検索できちゃうから、本屋さんでもあんまり辞書とか置いてないのよね」
確かに。本屋だって、ちょっとした街の中でもないとないしなあ。
「で、親父と辞書の話したら、古本屋で探すと意外と使い勝手のいいものが手に入るって」
そういえば源の親父さんは、まさに日本の古典文学を大学で教えているプロだったっけ。源は親父さんから、馴染みの古書店を何軒か教えてもらって、辞書を探しに二人で行くことにしたのだそうだが。
「どうせならみんなで出かければ楽しいよねって」
二人でニコニコ笑ってうなずいている。邪魔になるだろうと言いかけて、だけどそういえばこいつら、なんやかやうまいこと時間を見つけては二人だけでデートしたりもしてるし、邪魔であれば美羽子がまずはっきりズバッと言うだろう。
二人でじゃなくていいのか、と言いかけた結城に、美羽子がひと言、すっごい美味しいカレー屋さんがあるんだって、と言うと、カレーかあ、とあらぬ方を見遣ってヨダレを垂れた。
比企も仕事は入っていないとかで、全員が集合した日曜日。揃って神田神保町の古書店街へ、俺達は足を踏み入れた。
初めて訪れた古書店街は、ちょっと不思議なところだった。
道の片側にだけ古書店が軒を並べている。道の両側に古本屋が並んでいるんだと思っていたら、どうもそうじゃない。もっとこう、視界いっぱい古書店だから古書店街じゃないのか。
俺の顔を見て、比企が薄くにやっと笑った。そんなに肩透かしを食ったような顔をしていたのだろうか。
「いいんだよこの店の並びで。見たまえよ」
比企はすっと通りをなぞるように指で示しながら、古書店は全部、北向きに間口を開けているんだと言った。
「ああ、なるほどね」
「そっか」
源と美羽子がポンと手を打つ。
「日に焼けると本が傷むからか」
まさやんがやや遅れて、なるほどなとうなずいた。
車道を挟んだ反対側は今風のオフィスビルやショップが並び、一方で道のこちら側は、昭和レトロな古書店が軒を並べている。俺達は道すがら、店を覗き軒先に並んだワゴンの中を冷やかし、お目当ての古書店にたどり着いた。
「こんにちはあ」
いささかおずおずと、入口から奥へ声をかけると、源を先頭に、そろそろと店内へ踏み込んだ。サッシの引き戸は大きく開け放ってあって明るくて、入りにくいことはないのだけど、なんとなく様子を窺ってしまう。ちょっとだけ、外よりもひんやりとした空気だけど湿っぽさはなくて、微かに紙と墨とインクの匂いがした。
店の奥では、妙に貫禄のある女の人が、まだ昼前だというのに缶ビール片手に読書していた。カウンターの奥は小上がりの茶の間になっているようで、その上り框に、マヨネーズとあたりめの皿と、淡いピンクの漬物がのった小皿が置かれていて、隅に缶ビールがまだ何本も並んでいる。しかも全部が五〇〇ミリリットルのでっかい缶だ。手に持ってるのも同じロングサイズ。何者なんだこの女の人。
すいません、と声をかけると、女の人はお、と目を丸くしてから、だらしなく笑って、いらっしゃいと言った。
「大牙君でしょ。源センセんとこの」
「親父のこと知ってるんですか」
そこで女の人は立ち上がって、ロング缶の残りを一息に飲み干してから、ぶはあっ、と実に幸せそうにため息をついた。立ち上がると、すらりと背が高い。身長だけなら、一七〇センチくらいあるだろう。シャツとジーンズにエプロン姿で、スタイルはモデルさんみたいだけど、いかんせんどうにも酒臭かった。年齢はよくわからない。二十代か三十代だろうか、かっこいいんだけど、表情は酒が回っているおかげで緩んでいて、実際のところどうなんだろう。読めない。
カウンターから出るついでに次のロング缶を手に取って、女の人はケタケタ笑った。
「聞いてるわよお。この前センセから電話きてさあ、倅がこういうものを探して行くと思うからよろしく頼む、って。ふーん、センセより奥様に似てるわね。かーわいい」
そこで、源の左腕につかまっていた美羽子に気がつくと、やだあ! とでかい声張り上げて、缶の口を開けてぐいぐいあおってから、やだかわいい! と大喜び。
「センセからかわいい彼女がいるって聞いてたけど、この子でしょ! やだ二人並ぶとかわいい! 」
やだあもお、かわいいいいい! と更にビールをぐびぐび飲んで、女の人はかわいいからサービスしちゃおう、とカウンターに戻った。
「ああ、あたしこの店の主人。よろしくね」
腰までの黒髪をいい加減に括った、ファッションモデルみたいなスタイルのかっこいい謎の女の人は、あたりめをガジガジ噛みながらあっさりと名乗った。
比企以外の全員が驚愕した。
かっこいい姐さんは、カウンターの下から何冊か、分厚い辞書を出して見せながら、一通りどんなものか説明した。ビールを飲みながら。すごくきちんとしてるんだけど、合間にビールとあたりめと漬物とゲップが挟まるので、締まらないこと甚だしい。しかしまあ、その様子を見て比企が実に羨ましそうに、いいな、と小さく漏らしたのは、聞かなかったことにしよう。
「外で昼間から飲んでたら、桜木さんに叱られるんじゃない」
「あれはなんでまた、あんなにうるさいんだろうなあ」
源と美羽子はカウンターに並んだ辞書を見て比べている。店主の姐さんはピンクの漬物をつまみながら、こっちは語彙が多くてこっちの方が詳しいよ、とプロらしく説明しており、物珍しさで結城が源の肩越しに、一緒になって説明に聞き入り、まさやんと忠広は店内を歩き、俺と比企は、カウンターの前のガラスケースに並んだ稀覯本をなんとなく見ていた。
カウンターで辞書を物色しているバカップルは、二冊に絞ったものの、どちらを買うか迷った末、三本めのロング缶を開けた店主の「片方ずつ買って一緒に使えばいいんじゃない」のひと言で決めて購入。どうやら先のサービスしちゃう、というのは本当だったようで、値札よりいくらか安く売ってくれた。
会計を済ませて帰ろうか、と引き揚げようとした俺達を、店主がお茶でも飲んでいけと捕まえた。カウンターから奥の茶の間に上がって、七人でお茶をご馳走になった。
「あー、ねえピザとるけど何が好き? 五枚くらい取っちゃおうか」
「いや俺らすぐお暇しますので」
「お構いなく、あの」
遠慮する源と美羽子に全員で揃ってうなずくけど、酒臭い姐さんはいいから、と笑って取り合わない。
「この前、大口の買取があったんだけど、そのとき引き取ったものをまるっと言い値で買い取りたいってお客が来てさあ。引き渡しは来週の予定なんだけど、前払いだって、かなりの額出してくれて。臨時収入があったからね、今あたしは金持ちなのよ」
そういうことだから若者は大人しく奢られなさい、と姐さんはキシシと笑ってビールを飲んだ。
「随分景気のいい話ですね」
ピザが届いて、全員でワイワイつまみ食べ始まったところで、比企がのほほんと姐さんに言った。比企は何かを見抜いた姐さんにロング缶を出されて、もうすでに二本めに入っている。でしょお、と姐さんもうなずいた。
「一月の終わりぐらいだったかな、歴史学者が亡くなって、落ち着いたところで遺族から、個人の蔵書の鑑定と買取を頼みたいって話が来たのよ。で、あたしが何度かお宅に伺って、何せすごい量だから、何度かに分けたんだけど、やっと終わって、うちで動きそうなものだけ残して、あとは横のつながりで専門の店に回して、そしたら引き取ったコレクションを丸ごと売ってくれって」
まあ、この商売じゃあ、ないわけじゃないけど珍しい話ではあるわね、と姐さんはチーズ増量マルゲリータをばっくり食った。
興味をそそられたのだろうか、比企が目録を拝見できますか、と言うと、ちょっと待って、とピザの脂をシンクで洗い流して、カウンターに戻った姐さんが、ほい、とプリントアウトしたリストを出してくる。比企も丹念に手を拭いて受け取った。
三枚綴のリストを見ている比企の眉が、一瞬僅かに寄って、すぐに戻った。
「あの、この最後のページのこれですが」
「あら気がついた? 」
姐さんが薄ピンクの漬物を口に放り込みながら、にやっと笑う。
「意外な人が気づくとはねえ。あたしもまず偽書だと思ってるけど。こんなもの、どこから手に入れたのかしらねえ」
「何なになに」
隣に座った結城がリストを覗き込む。反対側から美羽子と、その隣から源も覗き込んだ。
テーブルの反対側の俺達も覗き込む。比企はリストの真ん中辺りを指差した。
「…源氏物語? 」
「別に何にもおかしいことないじゃん」
忠広と結城が小首を傾げるが、あ、と美羽子が小さく声を上げた。
「ねえでもこれ、こんな名前のもの、源氏物語に入ってないわよ」
「えー? 」
よくよくリストを見れば、源氏物語と書かれたあとに、一文字空白、それから書いてあったサブタイトルは。
「雲隠? 」
確かに聞いたことない。高校で、古文の細川にさんざん叩き込まれた源氏物語の中には、こんなサブタイトルはなかった。
「歴史に名を残した偽書の一つ、中でも特に知られたものがこれ、源氏物語・幻の続編と名高い雲隠六帖だ」
「そういうものばっかり集めるマニアもいるからね、引き取ってはいたけど、扱いが微妙で面倒でね」
どこにどう売ろうかと考えるいとまもなく、引き取ったコレクションを譲ってほしいと問い合わせが入ったのだそうだ。
言い値で構わない、なんて言ってきてさあ、と姐さんはついに、シンクの下から赤霧島の一升瓶を出して湯呑みにドバドバ注いだ。
「おとなしそうな、目立たない感じの、そうねえ、事務員みたいな人だったわよ。勤め先の社長が古書好きで、代理で来たんだなんて言ってたけど。買い手はその社長なんだって」
比企はロング缶を飲み干して、ふん、と鼻から息を吐いた。
「その話、もしかしたら本命は雲隠六帖かもしれませんよ」
あくまでも私の勘でしかないけどね、と言って、比企は豪快にゲップをした。
姐さんがケタケタ笑って、まだあるけど、とロング缶を差し出した。
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