第50話 五人とひとりとサマーキャンプ 7章
空が茜色から雀色に暮れて、木立や建物が影絵に変わる。湖畔の岸辺と、岸に沿って走る道路の片側車線はロープを張って、見物客向けのエリアとしてあって、屋台が出て、お好み焼きや綿飴、焼きもろこしの香ばしい匂いが漂う。俺とまさやんは、たこ焼きを分け合いながらそれとなく周囲を見回した。
俺の名前は八木真。仲間からは人間なのにヤギと不名誉な言われようだが、事実としてカワイイ系男子高校生。どこにでもいる、フツーのカワイイ少年な俺は今、何の因果か、怪獣退治の手伝いをしている。
湖畔の道路へ入る、駅から伸びる通りとの丁字路には「きぬすぎ湖花火大会 会場 きぬすぎ町観光課」と横断幕がかけられて、空気は夏の初めの爽やかな暑気だけど、蝉の声も鳥の声も聞こえない。ただ、会場には賑やかに音楽が流れ、そんなことには誰も気づいちゃいない。
そう、ただ何となく小さい町だな、くらいにしか思っていなかったが、今やっと名前がわかった。きぬすぎ町というのか。由来が何なのかはわからないが、とにかく今、俺達はこの花火大会の会場を二人ひと組でばらけて、それとなく周囲を窺い、いざというときのために構えていた。
組み分けはまず、美羽子・源組、それから結城・忠広組に俺・まさやん組、そして比企・桜木さん組の四組。俺や美羽子、忠広の三組はそれぞれ、駅や街道に出られるエリアで待機して、何かあったときにはでかい声で、周囲に避難を呼びかける。比企と桜木さんは湖畔に降りていて、いざ怪獣出現の際には上陸させないよう応戦。で、財前は何をしているのかというと、奴は会場内を自由にうろうろして、いつでも飛び出せるようにしているのだった。
財前は会場内をチョロチョロ歩き回り、さっきは俺とまさやんの肩を叩き、振り返れば、イカ焼きを齧り狐のお面を頭にひっかけ、ヨーヨーをぶら下げお好み焼きとくるくるポテトの串を持ち、全力で満喫してやがった。
何か話しかけているのはわかるが、口いっぱいに頬張っているのでさっぱり解りゃしない。まずは飲み込んで口を空にしてからにしろ。
「暇っすね」
「その割には全力で楽しんでるなお前」
俺の言葉に、だって、と答える。
「これで出てこなかったら、楽しんでおかないと来た意味ないし」
まあこんだけうるさくしてりゃ、俺なら出てきますけどね、と財前はお好み焼きをバクバク食った。
「野生動物ってね、殺気には敏感なんすよ。特に、ピンポイントで自分に向けられてるものにはね」
夜店の明かりに照らされた横顔は、どこか愉しそうで、薄暗くて、とても凶暴で、眼の奥にうずくまる光は、比企の目にとぐろを巻くそれとそっくりだった。
なんだかんだ言ってこいつら、やっぱり姉弟弟子だ。
そして、どこか眠たげにぽん、ぽんぽんぽん、とポップコーンが爆ぜるような音がして、夕暮れの最後のかけらが西に残った空に、キラキラと大輪の花火が開いて、花火大会が始まる。
会場から歓声が上がり、花火は次々と上がってゆく。湖上に色とりどりの花が咲いて、滝のように火花が流れる。子供達がキャアキャアと喜び笑って、会場は熱気で包まれる。
しゅぱん、と思っていたより地味な音で、光の点が夜空にひゅるひゅると浮き上がり、パラパラパラ、とはじけて花火は開いた。ただ丸く開くだけでなく、楕円に、星みたいに、色々な形で一瞬だけの花が、夜空に開いてゆく。俺もまさやんも、思わず見とれてしまった。俺達全員の連絡は、この前の怪盗騒ぎで使った骨伝導式スピーカーマイクを使っていて、そのおかげで、美羽子や結城達も同じように花火を楽しんでいるようだ。
最初の花火が上がってから、二十分も経った頃だ。
「来るぜ」
「来たな」
財前と比企が、同時につぶやいた。同じように愉しそうな、殺伐とした声で。
それからやや間を置いて、山の方から低い地鳴りのような、低い音と振動。そして。
湖の岸から、小さなざわめきと悲鳴が上がった。
湖の湖面が、もこりと山になっている。
驚きの声が半分。残りの半分は、大会の演出だろうと思って次の展開を窺う声だ。それから、一瞬の静寂。
──そして、それは起こった。起こるか起こらないか、半信半疑でいたそれは、あまりにもあっさりと、簡単に起こった。
夜目にも黒々と立ち上がる影が、湖にひとつ。山へ続く道路にひとつ。その姿形はとてもよく似ていて、恐ろしいほど巨大で、とにかく猛々しかった。
山から影が近づいてくる。湖から影が這い上がる。ゆっくりと、ゆるゆると、影がうっそりと動く。地響きは強く、大きくなっていく。
来やがった。
ほんとにほんとに来やがった。まじかよ。やばいやばいやばいやばいやばいやばい!
俺の頭をやばい、の三文字だけがぐるぐる回る。暑さからじゃない汗が額から落ちる。
みなもとくん。ひごくんゆうきくん、笹岡さん、
「八木君! 」
俺はそこで我に返った。
「作戦開始だ、いくぞ戦友諸君! 」
比企の声が俺を打った。そうだ、あれがどんなものなのか、俺達は嫌というほどよく知ってる。こんなに大勢の人達に、逃げろと声をかけられるのは、俺達しかいない!
俺はまさやんとうなずき合った。
思い切り息を吸い、ぐっと息を呑んで。
「…あっちだっ、あ、あっちに行こう! 」
俺は腹の底から、出せる限りのでかい声を張り上げ、受け持った逃げ道へ走り出す。
俺とまさやんの後ろから、数人がパラパラと、戸惑い気味の小走りでついてきた。すぐにその人数は増え、我も我もと大勢が続く。
しかし、湖の奴は目敏く、湖畔の見物客の群れを見つけやがった。尻尾を一打ち、もう一打ち。水面に叩きつけ、大波を起こす。体を振って暴れ、津波のように湖水が襲い掛かる! 波打ち際の人が、ごっそりと波にさらわれ、湖では規格外の怪物が、大口を開けて待ち構える。波にさらわれた人から、岸に残った人から、さっきまでとは違う色合いの悲鳴が上がった。
適当なところで道の端によけて、入り口の辺りまで引き返すと、美羽子達も結城もうまくやったようだ。屋台の照明ばかりが賑やかに明るい会場は人影もまばらで、みんな俺達が誘導したルートへ続く出入り口から出てゆくのが見えた。ただ一人を除いて。
空っぽの会場のど真ん中に、ジーンズとアロハの少年が立っている。財前だ。
岸辺の見物客達も桜木さんが誘導したのだろう、すっかり人影はなく、ただそのど真ん中で、脇差片手に不敵に立ちはだかるのは、白いコートの探偵だった。
「戦友諸君、湖畔道路の会場はどうだ」
実に淡々と訊ねる比企。
「…ああ、ほぼ全員脱出したよ」
俺が答えると、そうかとこれまた淡々とした返事。
「ありがとう。それではこちらも始めよう。あとはどこまでうまくお膳立てができるか、だな」
「それじゃ姉ちゃん、そっちゃ任すぜ! 」
財前の声は浮かれている。こいつの思考回路はどうなっているのか。
「二匹とも湖畔道路に、だったな。誘導は引き受けた。お前はあれの準備にかかれ」
「おう! 」
闇になお白く映える比企のコートがはためいた。
俺達は逃げ損ねた人を見つけては、二人ひと組で代わるがわる、一番近い出口へ手を引いて連れてゆく。美羽子と源が、小さな子供を二人連れた夫婦を出口へ連れているが、子供が怯えて泣き、思うようにいかない。そこに、山から出てきたあのデカブツが、後ろからぬうっ、と近づいた。
しまった!
まさやんと結城が飛び出しかけた、その刹那。
ばきん! とすごい音がした。
「よっしゃ間に合った! 」
財前の声だ。
見ればデカブツは、ヨタヨタとおぼつかない足取りになっている。いいのを一撃、モロにもらったのだろう。ピンクの浴衣に、歩くたびピッピピッピ音がする、幼児向けのサンダルをはいた女の子を助け起こして、財前は数メートル前をいく美羽子を差した。
「あのお姉ちゃんのとこまで行けるか」
子供がうなずく。
「走るなよ。転ぶから、ちょっとだけ早く歩くんだ」
女の子が美羽子を追ったのを見届けてから、財前は周囲を見回す。バラバラにぶっ壊された屋台から、プロパンガスのボンベを引っ張り出した。おい待て、それはどう見積ったって片手でそんなふうに担ぎ上げるもんじゃないぞ。
「確か、姉ちゃんの話じゃ、直で触るなって言ってたよな。体液もやばい、皮膚接触もダメ。となると、遠隔でタコ殴りかな、まずは」
ガスボンベを次々と、デカブツが踏み荒らした瓦礫や無事な屋台から掘り出して集める。奴が湖に気を取られている間に、十本は集めただろう。
その間、比企はというと、こちらはこちらでひどかった。
まず、湖の上をすごい勢いで走り、水面から怪物に向けてソニックブレードをぶちかましやがった。それも、立て続けに何発もだ。水上からってどうなってるんだよ。忍者が水の上歩くときに使ってる、何だっけ、ああいうのでも足にはいてるのかと思ったら、
「あれ、たぶん足が沈む前にすごい速さで次の足を踏み出して、それを繰り返してるんだと思うよ」
桜木さんがやれやれ、と言わんばかりに解説。つまり、すげえ脳筋で物理法則を乗り越えてるってことかよ!
だからだろうか、比企は一切立ち止まらずに攻撃し続けている。それと同時に、波にさらわれた人を見つけては、数人ずつ肩に担いで拾い上げ、岸辺へ下ろしてまた湖面に戻る。
財前も、こいつもやっぱりなんかもう、ひどかった。
よっしゃとひと言、鼻歌混じりに集めたボンベを思い切り、山から来た奴にぶん投げ始めた。面白いように顔面と胸、腹にボコボコ当てていく。うはーえげつな、とため息をつく結城。
「ところでさあ、」
ぶん投げながら、どうでもいいことを思いついたという感じで切り出した。
「なんかあれとかデカブツとか呼ぶのも、わかりにくいし面倒だから、なんか名前つけませんか」
「そうだな」
比企も淡々と乗っかった。こいつもこういうの、好きだな。
「ゴジラとラドンとかどうすか」
「いや、奴らは飛ばないんだから、ラドンにいさんの名前は不適当だ。ニコイチならサンダとガイラだろう」
またよくわからないことを言い出す。
「何だよそれ」
逃げ損ねた最後のカップルの背を押しながら、俺が突っ込むと、八木君はサンダとガイラを知らないのか、と抗議が入った。
「いや知らねーし! 」
「それはいかん、東宝特撮は大人になる上で必須項目だ! 観ておかなくてはいかん、立派な大人になれないぞ! 」
「姉ちゃんガメラとイリスは? 」
「だから、奴らは陸上タイプだから飛行する個体名をつけるなと言っているだろうが! 」
「じゃあアンギラスとエビラ! 」
「いい線いってるが、あいにくエビラは甲殻類だ! 」
比企は湖の上で大暴れしながら、淡々と弟弟子によくわからんダメ出しをする。ついに分身して攻撃し始めやがった。その間、桜木さんは比企に水から引き上げられたり、湖畔から逃げ損ねた人を誘導しているが、何せ一人でやってるので、あと数人ではあるが大変そうだ。
「俺ちょっと手伝ってくる。桜木さん、そっち行きます」
「俺も行く」
スピーカーマイク越しに声をかけた俺に、まさやんが同行してくれた。
湖畔に降りて、まばらに散っている人を出口へ連れてゆく。と、波打ち際に、ずぶ濡れの親子連れが佇んでいた。
「早く逃げて、こっちです! 」
声をかけながら駆け寄ると、あら、と母親の方がこっちを振り向いた。
「あなた達この前の」
え。
「…つ、」
「釣具屋のおばさん? 」
俺とまさやん驚愕。
「この前のにいちゃん! 」
濡れ鼠になったまま、母親に抱きついて震えていたのは、比企に怪獣退治を依頼した、あの悪ガキだった。
「二人とも早く」
坊主を抱き上げておばさんの手を引くまさやんだが、待って降ろして、ともがく坊主。
「にいちゃんが、まだ湖にいるんだよう! 」
「にいちゃんって、えーと、遊びに来てるとか来るとか言ってた、従兄か」
訊ねる俺に、うん、と顔をくしゃくしゃにして答えた。ひぐっ、としゃくりあげ、泣き出す寸前のそのとき。
「八木君肥後君、見つけたぞ」
比企の声が割って入った。
「え」
「何を」
見つけたって何を。反射的に訊き返す俺とまさやん。
「何をって、その従兄だ。ガイラ(仮)の間合いに入るが行ってくるよ」
会場からの照明で照らされた、巨大な恐竜とも蛇ともつかない奇妙な、獰猛であることしかわからない生き物の足元、泡立つ波にもてあそばれて、若い男が一人もがき、どうにか浮いていた。
白いコートが猛然と真っ直ぐに走り抜ける。
「待って姉ちゃん、何でそっちがガイラ? 」
財前のすっとぼけた問いが、そのあとを追った。
比企のいうサンダ(仮)は、目を回しながらそれでも踏ん張って立っている。財前の投げるボンベを、全部きれいにもらっているのだ。去年のあいつは、比企と戦いながら成長していたというのに、これはどうしたことか。
財前はあっさりと片付けやがった。
「え? そんなん成長する前に、そんな学習とか悠長にやってる暇なんか与えずにぶっ叩き尽くせばいいじゃないっすか」
この脳筋野郎!
俺はおばさんの背を押して、いきましょうと促した。
「従兄のにいさんはあのお姉ちゃんが助けるって言ってる。坊主、お前、怪獣が来ないあっちで、にいさんが戻ってくるの待てるか」
まさやんに担がれ、もがきながら泣いている坊主に言うと、鼻を啜りながら、まっでるう、と答えた。
「よく言った坊主。男には、待つことが必要なときもあるんだ。憶えとけ」
まさやん、何その漢道格言。痺れる!
そんなことしてる間に、比企はガイラの足元にうまいこと滑り込んだ。パニックになってる若者相手に、落ち着くようにと声をかける。
「大丈夫、まず深呼吸して。ゆっくりと。右手を上に伸ばして。持ち堪えて! 」
一瞬ですり抜けざまに、伸ばされた腕を摑んで水から引っ張り上げる!
ふっとガイラが足元を見た。
「しくじった」
比企がボソリと漏らす。
「目が合った」
きっと、そんな、とか、助からないんですか、とか、その手のことを言われたのだろう。比企はいつもと同じ淡々とした調子で説明した。
「いいと言うまでしっかり目を閉じて、つかまっていてください。奴を振り切ります」
次の瞬間、ズドンという音と一緒に水面が割れたように飛沫が立ち上がり、一直線に水の壁ができた。
「え」
「な」
「ちょ」
俺とまさやんと桜木さんは、湖畔の波打ち際でそれを見た。回線越しに驚きの声をあげるのは、美羽子や結城、忠広、源。
その壁が消えると、波打ち際に立っているのは、ハーフパンツとTシャツ、サンダル姿の若者を米俵みたいに担いだ、白いコートの探偵。俵じゃなかった、肩に担いだ人をポイと下ろして、ではあとは頼んだ戦友、と言い捨てて、湖の上を弾丸みたいにすっ飛んでいく。
ガイラ(仮)は、ちょうどこっちへ向かって、比企を追って進みかけたところだ。
「やべー弾切れるー! 」
財前が泣き言を言うが、比企は取り合わない。俺達もあいつなら死にゃしねえと思ってるので、生温かい目で見守るばかり。
「直接殴るなよ。昼間説明しただろう、投擲か得物で叩くかにしておけ」
注意する比企の息がちょっと乱れてるのは、ここから見るに、水面を蹴りながらなんと分身して戦ってやがるからだ。脇差を抜いてがんがんに斬りつけ応戦している。相変わらずの万国びっくりショーだな。
まさやんが手を貸して立たせた、あの悪ガキ坊主の従兄は、どうにか立ち上がって湖を見ると、あの人は一体、と呆然として俺に訊ねた。うん、訊きたくもなるよね。
「説明してると何時間あっても足りないので、まずは逃げましょう」
背を押して出口へ追いやる俺。
骨伝導スピーカーマイクを通して比企の声が届いた。
「戦友諸君、見物客は全員避難できたか」
「浜には誰もいないよ」
桜木さんが応答。道路の会場も、忠広が大丈夫だと答えた。
よし、とひと言、比企は次の指示を出す。
「ありがとう戦友諸君。ここから先は
「あーもー、弟づかいが荒いよな姉ちゃんは! 」
「文句ばかりは一人前だなお前は。お口を縛ってとっとと準備にかかれ」
「あいヨォ! 言われなくても」
何が始まるんだか知らないが、比企は湖面を滑るように移動して、湖畔道路の会場側、デカブツ二体の間に立つような位置へ回り込む。
夜目にもヒラヒラと白いコートは、いやでも目についた。それは、奴らにとっても同じことだろう。
比企は両手をざあっ、といっぱいに広げ、左右に衝撃波で攻撃、と同時に真上へ高く、デカブツ二体の背よりも高く跳び上がった!
それぞれ腹と喉へまともに衝撃波が入り、そこで、お互いにばっちり目が合う。
「えー! 」
今殴ったのはお前だろう、と言わんばかりに、がっちり組み合って激しく戦い始める二頭! だが、山から出てきたサンダ(仮)の方は、財前がさんざん頭や胸にガスボンベを投げ当てており、まだ多少目が回っているのか、すぐに奴らは湖畔道路の上で揉み合い始めた。
嘘だろ。
比企は自由落下しながら、後ろの湖側へ落ちざま、空中で思い切り蹴り飛ばす。怪獣二匹はタタラを踏んで、湖畔道路のど真ん中へまろび出た。
俺は去年の夏、あの怪獣騒ぎのあとに何となーくアーカイブで観た怪獣映画を思い出していた。あの海辺の民宿での夜に観たゴジラと、でっかい蛾が戦っていた。どうやら他の怪獣とゴジラが戦ったり、何匹も怪獣が出てバトルロイヤルになったりしている映画もたくさんあるみたいだけど、どうして怪獣はみんな、出会い頭に戦うんだろう。
比企が蹴り飛ばしたその一発は、とてつもなく重い音がした。大きな、そうだな、ときどきお城の石垣とかで、人間の身長よりも高くて、横幅も大人が何人か並んだのと同じくらいの岩があるけど、ああいうのを思い切り蹴り付けたような、そんな音だった。
派手に水音を立てて比企が湖に落ちる。
どうした? さっきまで水の上をはちゃめちゃなスピードで走り回ってたのに、どうした。
怪獣二匹はそれを尻目に取っ組み合いを続けている。よく似た姿、でも微妙に、どこがどうとはうまく言えないけど違う。顔は、湖から出てきた奴の方が気持ちワニっぽい。山から出た奴の鼻面はちょっとだけ短めで、トカゲに近い感じ。鉤爪はどちらも鋭いけど、湖にいた奴には水掻きがあるように見える。二頭は尻尾をビシビシと打ち鳴らし、噛みつき合い引っかき合い、人間なんかもうどうでもよくなってるのだろうか。似ているような、そうでもないような、この二つの異形の生き物は、それでもその目つきだけは背筋が凍るほどにそっくりだった。去年の夏に遭遇した、こいつらのオリジナルともまた、恐ろしいほどにそっくりだった。
自分以外の生物を脅威とは感じない、人間の知恵すら粉砕し凌駕できると疑わない、冷たく鋭い知能と酷薄な、感情なんてとても呼びたくはない情動。奴の目には、自分以外の生き物はすべて、今夜のお夕飯にしか見えないのだろう。人間ですら、牧場で食肉になる予定の牛や豚を見るときでさえ、もっと優しさをもって見ることだろう。俺だって、食べればおいしいのはわかっちゃいても、仔豚や仔牛を見ればかわいいなと思う。でも、こいつらにはそんなことは永劫ないだろう。そのくらいのことは、奴らの目を見れば誰だってすぐに悟れる。
そういえば財前はどうしただろう。
気になって、俺は浜辺から湖畔の会場へ入る通路を走った。さして距離はないけど、それでも奴らに悟られないように、細心の注意を払いながら、そっと様子を窺える位置まで近づいた。
財前は、ぐいと大地を踏み締め、呼吸を整えているようだった。鼻からたっぷりと吸う。歯をかすかに鳴らしながら、ゆっくりと歯の間から吐く。
比企は? 比企は何をしている?
「…桜木さん、」
俺はできるだけ小声で、そっとスピーカーマイク越しに呼びかけた。財前の集中を妨げないように、デカブツ二体に気取られないように。
「どうした八木君」
「比企さんはどうしました。さっき湖に落ちたところは見えたけど」
「え、」
「浜に戻ってませんか」
桜木さんがえ、と掠れた声で漏らす。まさか。
「戻ってないんですか」
「そんな、でも」
「さっき、湖から出た奴を思いっきり蹴り飛ばして、湖畔道路に押し上げたんだ。その反動で落ちたとこまでは見たんです」
「ということは、会場の明かりは届いてる辺りだね」
わかったとひと言、桜木さんからの通信が途切れた。
「桜木さん? え、待って桜木さん? 」
湖面を見ると、明かりの届く辺り、サンダだかガイラだかの陸へ上がったときに崩れた辺りまで泳いできて、桜木さんが水の中へ潜る様子が見えた。足がスポンと水面から沈む。
え。まじか。って、いや、溺れてたら大変だ。即見つけてやらないとやばい。向かうところ敵なしの比企だって、溺れちまってはそうもいかない。
「マコどうしたのねえマコ、」
「おいヤギ比企さんどうしたんだよ」
今のやりとりは当然、仲間達全員に筒抜けだ。美羽子や忠広、まさやん、結城、源が、何があったと一斉に訊ねた。
息が切れて桜木さんが顔を出す。二度、三度。それでも諦めずにまた潜る。湖の縁の辺りはどの程度の深さなんだろう?
何度目かの潜水で、桜木さんはゆっくりと水面に顔を出した。
「ちょっとマコ今のって、比企さんどうなってるのよ! 桜木さんは! 」
「待て落ち着け、今桜木さんが比企さん見つけたから」
「まじか! 」
まじもまじ、すげえな男の執念。大してしっかり届いてるわけでもない明かりだけを頼りに、夜の湖に落ちた人一人、水中ライトすらなしで見つけ出して掬い上げたのだ。どんな確率だ。忠広も同じことを考えたのだろう、すげえ執念だな、と小声で漏らした。
そのまま桜木さんは浜辺まで泳いでいく。途中、自力で息を吹き返したのか、足がつく辺りまで来たところで、比企がよろよろと立ち上がった。
「…状況は、」
どうにか絞り出した声。全員が思わず黙り込むのに、更に状況は、と重ねて比企が問うた。
「…相変わらず、道路の上でとっ組み合ってるよ。道路は半壊、会場ぐちゃぐちゃ、道路沿いにあった消防の詰所は全壊」
まさやんが答えた。
「
「なんか踏ん張って呼吸整えてる。これってなんかチャージしてる? 」
おそらく一番近くにいるであろう俺が答えると、そうかとひと言、比企はこっちに向かって歩き出した。
歩きながら更に確認を続ける。
「私が湖に落ちてから、どのくらい経った」
結城が冷静に応じた。
「まだ大して経ってないよ。五分も経ったかどうか」
「そいつは重畳」
そこで俺の後ろから比企の声が聞こえた。
「みんな、小虎は何か唱えていたかな」
「いや、まだ」
俺が首を振ると、そうかと比企がうなずく。
「だがそろそろ始まるな。タイミングよくお膳立てしてやらなくては」
呟いて、比企が財前の方へ近づいていく。ってちょっと待て! その左足! 脛のとこパンパンじゃん!
「待った比企さんその足はやばい! 」
引き止めようとする俺を、比企はにやりと太い笑みで押し留めた。
桜木さんが追いついて、左足を見ると顔色を変える。やや離れたところで、テントの屋根が吹っ飛んだ屋台を見つけると、迷わず走って瓦礫を掘り出した。何か持って戻ってくる。
「どうせ、行くなって言っても行くんだよ小梅ちゃんは! 僕は知ってるんだよ! 」
怒りながら、拾ってきた二の腕くらいの長さの鉄棒を、ガムテープでぐるぐるに巻き付けて留める。
「無茶はやめろっていつも言ってるのに、君はさあ! 友達だって、心配してくれてる内が華なんだよ! それにさあ、僕の気持ちとか、これっぱかしも考えたことなんかないんでしょ、知ってる! 」
その辺に落ちてた枝と板を、ガムテープの残りでグルングルンに固定して、即席で松葉杖を作って持たせる。
あ、行かせるんだ。心配だし怒ってもいるけど行かせるんだ。
「まあもうそういうのは、言いたいことはあるけど仕方ない、僕は小梅ちゃんの邪魔はしないけど、でもさあ、君の心配してる人間が何人かは確実にいるってのは、頭の中に置いてくれてもいいよね! ね! 」
「へ」
いや比企さんそこは驚くところじゃないだろ。
「いいから、そういう時間のかかる話は後でゆっくりと! まずはやらないといけないことを片付けておいで。どうせまだ終わりじゃないんでしょ」
桜木さんは松葉杖の強度を簡単に確認して、大丈夫そうだと踏むと比企に持たせて助け起こした。
なんかよくわからんが、と比企がぼんやり受け取って、
「行ってくる」
一歩二歩出たところで、ちょっとだけ振り向く比企。
「すまない。──ありがとう」
「え、」
虚をつかれてポカンとする桜木さんと俺。でもさ、これは無理もないよね。
松葉杖をつきながら、比企が突き進む。
怪獣二頭が揉み合いながら踏み荒らし、アスファルトが割れて転がるその間を、足場の悪さもものともせずに歩みゆく。じっと立って何かの準備をする財前を追い越し、怪獣が揉み合い殴り合い、くんずほぐれつの諍いを止める気配のない、それを前にしてやっと立ち止まった。
「姉ちゃん」
ずっと黙っていた財前が口を開いた。いつもとはまるで違う声音で、いつもとはまるで違う調子で。その声と口調は、なぜだか比企のそれを思わせた。どこまでも果断で、どこまでも冷徹。
「行けるか」
「お前はどうだ」
比企がいつも通りに淡々と応じる。
「俺はいつでも」
あっさり答える財前に、わかったと比企がひと言。
「では始めよう」
「了解」
そして、財前がスッと居住まいを正した。
「ただいま殺戒を破ります」
揃ってどこか空の向こうへ手を合わせる。
財前が左足を踏み出した。
「天蓬」
空気が瞬時に変わった。
「天内」
湖のすぐそばで、やや蒸していたのに。
「天衝」
さっと爽やかな風が蒸した空気を吹き払う。
「天輔」
財前は唱えながら足を交互に踏み出す。
「天禽」
デカブツ二頭が何かを感じたのだろうか、不意に静かになった。
「天心」
比企が手近なアスファルトの岩を、片手で摑み上げる。バイクくらいのでかさのやつだ。
「天柱」
ぐい、と比企はピッチングフォームをとり構える。
「天任」
そのまま投げ上げた岩は、組み合った格好のままの二頭の前に高く放り上げられて、
「天英」
最後の一歩を踏み切った財前が、岩に向かって高く跳び上がった。
「
俺と桜木さんのいる辺りからは、その様子がよく見えた。
財前は、ぴたりと岩に拳を当ててから、ぐっと腕じゅうの、いや身体中のちからを全て拳に込めて、岩に衝撃を与えたのだ。少なくとも俺にはそう見えた。
ざばあっ! と音がした。
どっと吹く湖面を渡る風に、塵が舞う。壊れた屋台の灯にキラキラ光りながら、どこへともなく散っていく。
サラサラと、光の加減で七色に染まりながら風に散っていく塵はきれいで、あっという間にどこかに消えていった。
「…きれい」
美羽子がぽつりと漏らす。
「あ」
忠広がそこで我に返った。
「あ」
一瞬遅れて今度は結城が、怪獣、と慌てて言った。
「どこ行った、サンダとガイラ! 」
「え」
俺もそこではっと気がついた。いない! あんなクソでかい、いやでも視界に入るクソでか怪獣が、一瞬で消えてる! 何これ手品?
見れば財前が、ダブルピースで調子をこいている。
「やったぜ成功! しかも空中で踏み込みも溜めもなし! 俺ちゃんやりました! 」
比企が即成の松葉杖に寄りかかりながら、まったく、とため息をついた。
「お前、才はあるのだ、調子に乗らず少しは謙虚なふりだけでもしておけ」
アロハの襟首摑んで弟弟子を連行、俺と桜木さんのところへ戻ってきた。
釣具屋の親子と従兄のにいさんも来る。
「やあ
「…怪獣は? 」
「化け物の最後は、倒されて塵へ還るのがお定まり。もう出てくることはないよ」
「ありがとう! 」
おばさんがそこで比企を見て、それにしても、とふっと笑う。
「ずぶ濡れでひどい格好よ。うちでお風呂使ってから帰りなさいよ」
「…そんなにか? 」
比企が桜木さんの脇腹を軽く小突いて訊ねた。
うん、髪はバサバサだし、お言葉に甘えた方がいいと思うよ。
とりあえず、高校三年の夏の、怪獣退治はこうして終わった。
俺がもしやと思った財前の大技は、あの場で見て推測した通り、ゼロ距離から瞬時かつ爆発的な衝撃波を発生させ、緩衝物の向こうに置いた目標を爆散させるというものだったそうだ。やだコワイ! 皮膚だの筋肉だのの毒も、ここまで爆発四散し尽くしちゃうともう、環境には無害だそうで。
で、李先生が見てるとか見せるとか言ってたのも、
「師父のことだから式飛ばして見てるっす」だとかで、本人来てなくても問題ないみたい。
これから電車で小一時間、俺達のホームタウン・こだま市へ戻ったら、勉強会を口実に出てきた俺やまさやん、忠広、源は結城の家に泊めてもらって、美羽子は比企と桜木さんのマンションに泊めてもらう手筈になっている。一夜の大騒ぎが終わればまた、日常に帰るし俺達はどこにでもいる受験生に戻るのだ。
結局、比企だけでなく「みんなも土まみれでひどい格好」と言われ、釣具屋で全員が順番に風呂を借り、何度もお礼を言って引き揚げた。
あの釣具屋の親子にはすっかりお世話になってしまったなあ。そのうち、何かでお礼しないと。
来年、大学に受かったらまた遊びに来よう。今度は単純に、日帰りで遊びに。そしてあの店でボートでも借りて、坊主の宿題を見てやるのもいいかもしれない。
大人はこんなふうに、来年のために今年をがんばらなくてはいけない、なんて、こんなことがどの程度あるんだろう。とはいえ、ぼんやりでもなんでも、目標ができて、やるか、と思えることもできた。あとは俺が実際にがんばって実行できるところへ走っていくだけだ。
歩く向こうに、ぽわんと夜目にも明るい駅舎が見えてきた。
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