第49話 五人とひとりとサマーキャンプ 6章

 茹だるような夏の正午の湖畔、湖面を渡る涼しい風に吹かれる木陰の四阿で、俺達は今、すっげえ聞きたくない話を聞かされている。十分前までは平和に勉強会をしていたはずなのに。

 俺の名前は八木真。ごくごく普通の、どこにでもいるかわいい男子高校生。なのに今、俺は六人の仲間達と共に、謎の怪生物による騒動に巻き込まれている。

 どうしよう。俺、受験生なのに。

 

 きのうの月曜日、思いもよらぬ人物が比企に仕事を依頼して、しかもあっさり引き受けるという誰も予想していなかった展開になったのだが、比企は午後に俺達のホームグラウンド・こだま市へ戻ると、即座に動き出した。

 まず、知り合いだという警察の偉い人に電話をかけ、金曜日の夕方、森の中で遭遇し戦ったあの生物から切り落とした尻尾の分析結果を回すように頼む、と言うより完全に命令口調で、いやあの、それ大丈夫なのか。叱られませんか。

 こいつがどこかへ電話をかけると大概そうなんだけど、このときもやっぱりすげえ態度がでかくて、傍で聞いててハラハラしっぱなし。

「私だ」

 これだもん。もしもし、とか比企です、とか名乗るのは、俺達や同級の誰かやら、そういう相手に対してだけで、仕事の付き合いとなるともうこれで済ませちゃう。

 端的に手短に、小さな湖畔の町で起きた事件の概要を伝えてから、すごく素っ気ない口調でひと言。

「科研で遺伝子の解析をしているはずだ。そのデータが欲しい。耳を揃えてこちらによこせ。ASAPでだ」

 それだけで電話切っちゃうんだからね。もっとちゃんとコミュニケーションを図れって。アイサツは大事だって古事記にも書いてあるんだぞ!

 それから今度はもう一本、別なところへ電話をかけるけど、もう何語でしゃべっているのかさっぱりわからない上、おそろしく早口で会話している。途中であの町の名前がどうにか拾えたのと、最後にしぇいしぇいー、お・るゔぉわーる、と終始実に機嫌よく電話を切ったのとが、さっきとはえらい落差だった。

 やれやれ、と端末をカバンに放り込む比企に、美羽子がちょっと驚いて、今のは何語かと訊ねると、奴はうーん、と考え込む。

「何語というか、何カ国語かを適当に混ぜてるからね。よくいうところの城砦弁だよ」

 東京露人街の中だけで使われるスラングというか混成語クレオールというか、だそうだ。

 もうほんと、なんでもありだなこいつ。

 まあ、それはいいとして。

 あとの方の電話は何を頼んだんだろう。

 なんてことやっていての今日だ。サマーキャンプは中止になっても、俺達は受験生。集まって朝から勉強しようとはなったものの、比企の仕事もまた気になる。それに、何かで俺達の手助けが必要にならないとも限らない。で、結局こうしてまたこの町へやってきて、湖畔の四阿で勉強会をしているのであった。ベンチとテーブルもあるし、涼しいし、山の中とはいえ都内、ネット環境も電話回線も、繁華街の中とさして変わらない。

 実際、図書館だろうと桜木さんのマンションだろうと、まさやんや結城、源の家やファミレスだろうと、仲間がいて参考書や教科書があれば勉強はできるのだ。比企はいい顔をしなかったが、俺と、意外なときに意外な賢さを見せる結城による「手が欲しいときには去年みたいにすぐ手伝える」「去年の件とも繋がりがあるかもしれないし、ここまで関わってしまった以上一蓮托生だ」と聞こえのいいことを並べたて、こうして勉強がてら待機しているのであった。ちなみに美羽子だが、散々ついてくるなとね、男の世界だとね、釘を刺したんですよ。ええ。ぶっちゃけ邪魔だとも言ったの。なのについて来るって聞かないの。

「何が男の世界、よ」

 ばっかじゃないの、と鼻で笑って、

「そんなこと言ってたら比企さんはどうなのよ」

 アッハイ正論。でも帰ってお願い。

「は? 大牙君いるのになんであたしが帰るの? 」

 だから。お前の彼氏は心配で帰れって言ってるの。

「あのねえ、いい加減しつこいわよマコもヒロも。あんまりしつこいと、幼稚園の夏祭りの肝試しで二人揃っておしっこ漏らしたこと、チャットルームで晒すわよ」

 あの、いや、えーと、なんでしょう、はい、…ようこそ!

 んで。今、湖畔のベンチで雁首揃えて、遊覧船の営業所に控えている比企からの音声通信を受けて、いくぶんげっそりしている俺達は、冒頭に述べた通り、正直知りたくない話を聞かされたところだ。

 なんとなれば、あの金曜日の夕方、比企がデカブツから切り落とした尻尾の分析結果が、何より嫌な結果だったのだ。

 去年夏のうしお海岸に出没し、比企と桜木さんと地元の警察に猟友会、漁協、そして俺達の手で駆除、というより退治されたあのキメラ生物の遺伝子と、尻尾の肉片や骨髄から採取された遺伝子が酷似しているというのだ。

 完全に一致、ではないところが気になる。

 どうやら去年のあいつの遺伝子を百とすると、今回出たあのデカブツは八十五パーセント一致、残りの一割五分はなんなのかというと、

「ヒョウモンダコというのを知っているか」

 いや知らんし。

 何それ、と美羽子が端末を出して検索。俺の端末はテーブルの真ん中に置いて、スピーカーとマイクをオンにして、全員で話ができるようにしているのだ。

 あらきれい、と美羽子が検索で出てきた写真を見て歓声を上げた。確かに女子の好きそうな、コバルトブルーにレモンイエローのちっこいタコが写っていて、水族館にでもいれば女子ウケ間違いなしであろう姿だ。

「体長は十センチ前後、テトロドトキシンを筋肉や表皮、唾液腺に含み、唾液腺には更にハパロトキシンも併せ持つ。海岸などで発見した際には、決して触れず、どうしてもつかまえるしかない場合も、ペットボトルや瓶に入るまで待って、水族館などに保護してもらうのが最適だ」

 え。こんな女子にウケそうな、やたらとカワイイな見た目なのに? 触るとやばいの? テトロドトキシンってなんだ。

「そのテトロドほにゃららってやばいの」

 結城がのほほんと訊ねて、やばいよと比企はあっさり答えた。

「俗にいうフグ毒のことだ。一〜二ミリグラムの経口摂取が人間の窒死量で、加熱しても消えないその毒性は、青酸カリの八五〇倍と言われている」

 まじか。てゆうかお詳しい。

「だってそりゃあ、職業柄」

 それで、欠けた一割五分をヒョウモンダコの何で埋めたのかというと、当然、

「表皮には微量ながら毒性があった。更に筋肉組織には、そりゃもうたっぷりと」

 え。嘘。

「俺触っちゃったよ! 」

 指でつまみ上げただけだけどさあ! 一瞬だったけどさあ!

「直接触れた面積がごく狭いものだったのと、時間もわずかだったようだし、八木君にはさして症状が出なかったのだろう。が、サンプルを持ち帰った警察官は現在病院で、人工呼吸器のお世話になっている。回復まではしばらくかかるが、健康には問題ないそうだよ。ただ、皮膚から吸収してしまったテトロドトキシンが分解排出されるまで、もう少しかかるだろうな」

 やだコワイ! 俺ちゃんガッツリあれを触ってたら、今頃デッドオアアライブだったってこと? ヒィイ!

 つまり、奴がもう一度姿をあらわしたとして、できるのは直接触らない方法での駆除。

 うん? 待てよ?

「比企さんめっちゃ素手でぶん殴ってなかったか」

 まさやんが気づいて訊ねると、ああ、まあなあ、と比企はヘヘッと照れたような笑い。

「私はもともと、毒物や劇薬には耐性があるんだ」

 すると、不意にそこへ割って入ったのは、もうすっかり聴き慣れた声。

「あ、やっぱりみんなと話してるんだね。──みんな、小梅ちゃんはなんか聞いた風なこと言ってるけど、今両手がちょっと痺れてるからね、細かい手仕事なんかはまるで無理なんだよ。きのうまで普通にしてたけど、取り繕ってただけだよ。まったく、友達に見栄を張ってどうするの」

 桜木さんがたしなめたところで、誰かが比企を呼ぶ声が微かに聞こえる。すまない、とひと言、比企は席を外し、桜木さんが交代。

「今ねえ、小梅ちゃん、スプーン持つのもやっとって感じなんだよ。だからごはん食べるのも大変」

「ですよねえ」

「うん。おにぎりだとかサンドイッチも持つのがちょっときついみたいで、だから今は僕が食べさせてるんだけど」

 ファー! 満更でもない口調で、やめて! わかったから!

「でもさ、そうなるとこの前のあいつは、殴って倒すってわけにいかないっすよね」

「だよなあ。殴ったら触るだけで毒にやられるんじゃあ、なあ」

 忠広とまさやんが眉根を寄せて考える。

「かといって、刀や銃もなあ。去年だって、比企さんの奥の手でやっとだっただろ」

 源もため息をついた。

「まったく、タチの悪い改悪してくれたもんだよねえ」

 そこで、回線の向こうがちょっとざわつき始めたようだ。比企が戻ってきて、桜木さんに何か耳打ちしている様子だ。すぐに俺達にも話しかけてきた。

「戦友諸君。今はどこに…ああ、さっきは湖畔の四阿だと言っていたな。まだそこにいるのかな」

「ああ、移動はしてないよ」

 源が答えるのを聞いて、そうか、とひと言、山には近づかないようにしてくれ、と言う。

「どうも餌場をこの辺りに変えたようでな、きのうも登山コースから見える辺りで、ハラワタを食われた熊の死体が見つかった。人間の行動範囲に近づいているところを見るに、奴はどんどん大胆になっている。人間を脅威とは思わなくなった証拠だ」

「まじかよ」

「とにかく、少しでも怖いと思ったら、迷わず町を出て引き揚げてくれ。こんな化け物狩りに付き合うことはないぞ。何よりみんな受験を控えている。一生が決まってしまうんだ、化け物なんかに関わっている暇はないだろう」

 ギョッとする忠広に、比企は構わず逃げろなんて淡々と答えているが、いやでも、去年のあいつが更にタチが悪くなって戻ってきたとあっては、俺達は誰も、他人事のように比企と桜木さんに丸投げしてイチ抜けた、なんて没義道もぎどうなこと、できるわけがない。男子全員が無言でうなずき合い、更に美羽子が立ち上がって大きくうなずいた。

 そのとき、回線の向こうがバタバタと慌ただしく動く気配がした。

「はあ《シトー》? 」

 何か報告を受けたらしき比企が声を上げて驚き、吐き捨てるようにめるど! と叫ぶ。そこではっと気を取り直したようで、すぐにみんな揃っているな、といささか張り詰めた調子で確認した。

「いるよ」

「トイレや買い出しで席を外しているメンバーもいないな」

「全員揃ってるよ」

 まさやんと俺が答えると、そうか、とやや安心した様子で小さく息をついてから、比企はその場を動かないでくれたまえ、と言った。

「万一移動が必要になったら、必ず全員で。肥後君、源君、結城君の誰かが少しでも嫌な気配を感じたら、迷わず電車に飛び乗って帰宅するんだ。いいね」

「…わかった」

 剣士トリオの名が出たのは、比企なりに三人の天性の勘を信じているからだろう。一体何が起こった。

 俺はカラカラに乾いた喉に麦茶のペットボトルの残り一口分を流し込んでから、比企さん、と呼びかけた。

「何があった」

 比企は端的に答えた。

「奴が出てきた」

 

 あの、つい数日前にハイキング客が遊覧船の沈められる様を目撃し、比企と桜木さんが警察の鑑識班を庇って死闘を繰り広げたあの山の中腹で、大きな木がわさわさと揺れて、倒れた。

 そこからチラリと見えるのは、小指の先くらいのトカゲのような、ワニのような、なんともつかない生き物の顔。すぐにそれは、遠目にはブロッコリーの寄せ集まりみたいな山の木立に紛れて消える。

 そのとき、俺達は信じられない、いや、信じたくないものを見てしまった。

 湖の向こう岸に近い辺りで、ザバザバと白い泡が立つ。もこりと水が山となって、派手な水音を立てて水面が裂ける。むっくりと立ち上がるように姿をあらわしたもの。

「…嘘だろ」

 俺は自分の目を信じたくなくて、思わず呟いた。その声は、自分のものなのに、変に掠れて裏返りかけて、みっともないくらい弱々しかった。

 夏の昼どきの、うるさいほどの日差しを浴びてなお、そいつは悪い夢みたいにうっそりと佇んでいた。

 ワニやトカゲを思わせる長い口吻、湖水でぐっしょりと濡れ、きらきら日を浴びて光を反射する皮膚には毛がなくて、Tレックスのような二足歩行の姿勢は、もう少し背筋が伸びて、前脚は恐竜よりもちょっとだけ腕のようにも見える。背中の大きなひれをひけらかし、そいつはじっと山のほうを睨んでいた。

 俺は震える手で、どうにか端末のカメラをオンにした。回線はまだ繋がっている。比企にひと言、見ておいてくれと断ってから、チャット回線で映像を送る。俺の意を察して、忠広も端末を出して写真を撮っていた。まさやんは山の様子もうまくフレームに収めて、両方が確認できるように撮影している。そう、山に出たあいつもまた、相変わらず顔を出したり隠したりを続けていたのだ。

 不意に山のデカブツが湖の方へ顔を向けた。湖の化け物と目があったのだろうか。しゃあ、と口を大きく開く。湖の奴も同じように大きく口を開けて、尻尾で湖面をバシバシ叩いた。

 二匹はしばし睨み合い、そして、元来た方へと引き返した。

 カメラをオフにして、通信のみに戻すと、比企の声は強張っていた。

「八木君、こちらでも確認した。ありがとう」

「あと、まさやんと忠広も何枚か写真撮ってあるよ」

 そうか、と呟くように答えて、比企は重たい息をつく。

「全員、怪我はないかな」

「大丈夫。こっちはちょっと波が荒くなったくらいだよ」

「ならよかった。…しかし、」

 どうしたものかな、と比企はどんよりした声で呻いた。

 そりゃあ、俺達これまで、斜め上の事態には何度も遭遇したけどさ、今回のは破格すぎて、どんな反応したものか、正直困ってる。

 だってさあ。

「二匹かよ! 」

 結城が誰にともなく突っ込んだ。

 去年、あれだけ大騒ぎして、比企はボロボロになりながら、どうにか退治したあいつと同じような、いや、もっとタチの悪い奴が、二匹。たぶん、退治するなら同時にでないと、どちらか片方を取りこぼしなんてしたら警戒されてしまって、退治のハードルは天井知らずになるだろう。だからやるなら同時だ。それ以外ない。とはいえ。

 あんなでかいものを同時に二匹って、どうすりゃいいんだ。

 まだ荒立つ波がたっぷんたっぷん打ち寄せる岸辺を見遣りながら、四阿で幾分青ざめた顔を寄せ合い、来る途中で買っていた昼飯のおにぎりやサンドイッチをもそもそと食いながら、無言で座っているくらいしか出来ずにいた俺達のところに、比企がやってきた。桜木さんも一緒だ。

 比企はさっきは映像をありがとう、確認したよ、といつもと同じように淡々と言いながら、四阿のベンチの空いたところに尻を落ち着ける。隣に桜木さんも腰掛けて、いやあまいったね、とため息をついた。

 比企と桜木さんは、依頼を受けたので捜査陣に挨拶しておこうと、遊覧船の営業所の一室を借りて控えている市警察の偉いさんたちのところに顔を出したところで、デカブツ出現の急報が入ったのだそうだ。

「体長もどうやら、去年のものより一回りほど大きくなっているようだ。おかげで警察では火のついたような大騒ぎだ。あんなもの、倒せる装備がどこにある」

 桜木さんが手に下げていた袋からサンドイッチを出して比企の口に持っていく。しゃべりながら、それを見もせずにサンドイッチを一口齧り、もぐもぐやって飲み込んでから、ナチュラルにしゃべり続ける。

「部長刑事に泣きつかれて、こっちはこっちで大変だったよ。とはいえ、あんなものが出てきてしまったら、並みの装備では手も足も出ないのは事実だ」

 もぐもぐ。

「仕方ない、気は進まないができることはしていかないとな。奴に連絡を入れないと」

 もぐもぐ。

 …俺達は何を見せられているんだろう。比企が真面目に話しているだけに、ツッコミを入れていいのかどうか、気を遣ってしまう。結局ひとパック全部、この調子で食い切ってしまったが、桜木さんがいい仕事したみたいなドヤ顔なのがなんとも。

「奴って誰に連絡するの」

 美羽子が訊ねる。あ、もう流すことにしたのか。うんそれが一番いいかも。

 比企はもうひとパックを袋から出したが、うまく封を切れないようで、桜木さんが受け取って封を切る。まだ手が痺れてるって言ってたっけ。

 比企はうーん、と袋の中を物色してお茶のボトルを出し、

「あれを倒せそうな奴」

 慎重にボトルの蓋を開けながら、上の空で答えた。ギリギリでお茶をぶちまけずに済んで、ゆっくりと両手でボトルを持って飲む。

「まったく、これだからフグ毒は面倒なんだ。拮抗薬がないから、自然に抜けるのを待つしかない」

 やだこわーい。

「まじでー。やだフグこわーい」

 思わず結城と二人でキャッキャしてしまった。

 それにしても、あんなもんを倒せる奴、ってことは人間なんだろうけど、そんな人間いるのか? どんな万国びっくりショーだ。

 比企は端末を出して、ゆっくり操作。自分で持って電話をかけようとしたが、手が痺れているからだろう、どうしても取り落としてしまうので、諦めてテーブルに置いて、スピーカーとマイクを使うことにしたようだ。誰に電話したんだ、と思う間もなく、すぐに電話がつながった。

「もっしー」

「私だ」

「なんだ姉ちゃんか」

 え。なんでいきなりこいつ?

小虎シャオフー、お前明日の夜は暇か」

 比企は淡々と訊ねる。てゆうかなんで財前に電話したん?

「いや暇だけどなに急に」

 うん、そりゃあ怪しむよな。いきなりお前暇か、はねえ。すると、比企はニヤリと太い笑みを浮かべた。

「そうか、暇なんだな。ならばよい。──お前、あれを師父から教わったそうだな」

 どこまでものにできているか、確かめてみる気はあるか。

 比企の言葉に、財前が息を呑んだのが電話のこちらからでもよくわかった。

「…いや、まあやってはみたいけどさあ」

 掠れて喉に引っかかった声で答える。どうしようもなくワクワクしながら、それでも、現実には無理だろうと思って尻込みしている、そんな感じ。

「あんなでかい的、いるわけないじゃん。姉ちゃんだって」

 知ってるだろ、と言いかけた財前を、比企のひと言が遮った。

「的ならいるぞ。それも、二匹もな」

 沈黙。

 どういうことだ。比企は財前を担ぎ出して、なにをさせるつもりなんだ。

 ただ、なんだかとんでもなく、不可能だらけの局面が大きく変わるような、そんな予感がした。

 まじか! と素っ頓狂な声をあげて、財前がはしゃぐ。待て、この話のどこにはしゃぐ要素があるんだってばよ。

「そういうことなら行くぜ! 場所は? 手筈は? 」

 ねえ、なんでこの子はこんなにウキウキしてるの。比企は仕様のない奴だなと笑った。

「詳細はあとでまとめて送る。明日の午後にブリーフィングだ。あれをやる以上、師父には私からもご報告しておく。お前は心置きなく暴れる支度をしておけ」

 わかっぱー! とふざけた返事があって、あっさり通話終了。

 どうやら弟弟子を一枚噛ませるつもりみたいだけど、一体なにをさせるのか。

 電話を切った比企は、実に悪い笑顔でうなずいた。

 それにしても、

「あれ、って言ってたのはなあに」

 美羽子が訊ねると、ああ、と比企はもうちょっと穏やかな笑顔に変わって答える。

「ちょっとしたアクロバットだよ」

 何っじゃそら。

 

 その午後、比企から言われたのは以下の通り。

 明日は町中がわさわさと落ち着かないから、きっと奴らは湖畔の様子を窺い、夕方には行動を始めるだろう。花火大会が始まれば、会場は連中にとってはただの餌場。そこへあんなものが出て来れば、阿鼻叫喚の地獄と化すのは目に見えている。そこから先が俺達の出番だ。

 見物客にそれとなく紛れ込み、混乱して逃げ出そうとする人達を安全な方へ誘導する。ルートは桜木さんが警察から聞き出して、避難に適した場所を教えてくれる。その間、比企が奴らを牽制し、本命の財前が仕留める、という寸法だ。

 って、え、ちょっと、ちょっとちょっとちょっと待って。は?

「仕留める」ってなに。去年、一匹であれだけ苦戦したんですが? なんなら比企さん、あなたすげえボロボロで腕ぶち折れてましたよね? それを、なんで財前一人が仕留められるの? おかしくね?

 俺はもちろん、忠広も結城もまさやんも源も、美羽子も同じ意見なんだけどね。なんなら桜木さんも意見したんだよ。二人でなんて無理だって。でも聴かないの。

「まあ見ていたまえ。見ればわかる」

 それしか言わずにニヤニヤしてるの。んもーう。隠し事はダメでしょー!

 で、警察の協力とかは頼まないってあっさり断言していて、比企が言うには「むしろチョロチョロされると小虎の邪魔にしかならない」だそうで、一体なにをどうするつもりなんだか。

 まったく困ったもんだ。

 

 翌朝、城址公園駅の前でいつものように待ち合わせたのは総勢九名。毎度おなじみいつもの俺達五人に美羽子、比企と桜木さん、それから、

「セーフ! 誰がなんと言おうとセーフ! 俺ちゃん時間通りの華麗なる到着! やりましたー! 」

 愛用のスポーツサイクルで滑り込み、あほの子丸出しのダブルピースでやってきたのは財前琥珀。比企の弟弟子、俺達の後輩。

 自転車を駐輪場に放り込んで戻ってきた財前を、ため息と共にぶん殴る比企。

「なにが華麗なる到着だ。五分前行動と常に教えているだろう」

 平手で凄まじく音が響いて、いかにも痛そうだが、財前はいってえ、と頬を押さえはしたがケロリとしている。花火大会とあって、本当は浴衣を着たかったが目的が目的だ、行動しやすいよう、サマードレスとバレエシューズという格好で出てきた美羽子の服を褒め、源とブンデスの中継の話で盛り上がっている。比企は俺が見ていたのに気がついて、財前をさしてひと言、叩き方にコツがあるんだ、と言った。

 全員が全員、見事に機動性を重視している。足元はスニーカーで固め、ジーンズやハーフパンツ、上はTシャツやパーカー、ちょっとでも時間に余裕があればと持っている勉強道具は、ボディバッグやリュックに収めて、万一のために全員、端末用のバッテリーとコードも持ってるという周到さだ。桜木さんもジーンズにスニーカー、サマーニット姿でいつもと変わらぬイケメンぶり。

 いつもと同じ、というと、比企もまたそうだった。ただし「いつもと同じ」は「戦闘時」にかかっているのだが。

 夏だというのに白い軍用コート。黒い膝丈のズボンに登山用ソックスと軍用ブーツ。今日のチャイナ服は真っ白い金属光沢の地に、八重咲きの薄紅色の花が咲き誇っている。目深にかぶったのは夏用のハンチング。コートの背中が妙に直線的だと思ったら、なんとこいつ、ご自慢の国広の脇差を、背中に隠して帯びていたのだった。いつも持ち歩いている二丁拳銃はというと、あんなでかい的が相手では、豆鉄砲にしかならないので置いてきたという。

 で、呼び出されてホイホイ出てきた財前はというと、これが見事な肩透かしだった。もっとそれっぽく武装するのかと思ったのに。

 スニーカーにジーンズ、までは俺達と一緒だが、なぜかこいつ、上半身裸の上からアロハシャツを着ていた。それも、前ボタンを留めずにただ袖を通して引っ掛けているだけ。そのシャツから覗く腹筋胸筋は、悔しいが桜木さんとどっこいの見事なエイトパックで、しかもあちこち傷だらけ。こいつの人生、ここまでに何があった。てゆうか手ぶらって。財前の持っているものといったら、ジーンズの尻ポケットに突っ込んで、ベルトを通すところにシルバーアクセのチェーンで繋いだ、飴色にこなれた革の財布だけだった。

 そこに、フラッと李先生がやってきた。

「おはようございます師父」

 比企が礼儀正しく挨拶し、あれ師父どしたの、とのん気に訊ねる弟弟子の頭を、表情ひとつ変えずにはたく。

「いってえ」

「しゃんとしろ。今日はあれを師父に披露するのだろう」

 しっかり励めと小突く。李先生は俺達にもおはようさん、と声をかけ、それから財前の頬をむにゅっとつまんだ。

「お前のことだ、一度見れば何をどうするのかはわかるだろう。あとは実際にやって度胸をつけるだけだ。お前の流儀でやってこい」

「応よ! 目ん玉ひっくり返してやるぜ! 」

「口の利き方を弁えろ」

 バシッと弟弟子の後頭部を叩く比企。いつものことなのか、李先生はそれに構わず、まあ楽しんでこい、と気楽に言って、弟子二人の背を両手で軽く叩いてから、ふっと息を軽く吹きかける。

「ま、これで間違ってもくたばるこたァねえや」

 くるりと背を向け、手を振った。

「え、今の何」

「李先生、今何したの」

 キョトン顔の俺達に、比企はちょっと安心したような柔らかい顔で答えた。

「私と小虎に福気フーチーを授けてくださったんだ」

 幸運のまじないとか、そんな感じのことだろう。でもガチの仙人がそんなことしてくれるとなると、やだ、なんかすっごい効きそう。

 比企の読み通りにことが運ぶなら、今日の夕方が決戦のときだ。

「さあ、それでは行こうか戦友諸君。状況開始だ」

 コートの裾をひらめかせ、比企がひと言、先陣切って歩き出した。

 今夜は長くなりそうだ。

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