第47話 五人とひとりとサマーキャンプ 4章

 耳が痛くなるほどの静けさが、森の只中にポッカリ開けた草原を押し包んでいる。草原の真ん中には、鉄パイプを青眼に構えた桜木さんと、一歩踏み出した足を肩幅に広げ、グッと腰を落として踏ん張り構える比企。二人と睨み合うのは、信じられないほど大きな、そう、頭の先から尻尾まで、十メートルはあろうかという巨躯の、おそらくは爬虫類であろうことだけはわかる生物だった。

 コモドオオトカゲというのをご存知だろうか。成長すれば三メートルにもなるという、大型の爬虫類だ。噛みつかれれば指は落ちるし、手足であれば毒液が傷口から入り込み、腫れ上がって最悪死んでしまう。強いて似ているものをあげるなら、このオオトカゲだろうか。でも、それだって似ている、くらいに留まっている。

 顔つきはトカゲというよりも、ワニと言ったほうが近い。長く伸びた口吻には、飛び出た釘を並べたみたいな乱杭歯が覗き、しゅうしゅうと息を吐く。二足歩行の様子は、立ち上がったトカゲというよりもTレックスのそれを思わせた。だけど。

 何よりも見る者を嫌な気持ちにさせるのは、その目つきだっただろう。なんとなれば、この獣の眼差しは、確かに知性を感じさせたのだ。人間ではない、獣の知性を。目の前の相手を食い散らかすだけのための、理解しあうことをカケラも必要としない知性だ。

 森のへりで、ぐるりと等間隔に散って怪物の様子を窺う制服のお巡りさん達は明らかに、規格外のこのデカブツにビビり散らしていて、はっきり言っちゃうと、こんなんで比企と桜木さんの援護なんかできるのかと心配になるが、今はもう、このお巡りさん達の持っている、捕獲網を撃ち出すバズーカしか手段はないのだ。

 森の中で突如始まった大立ち回りを、息を呑んで見守っている俺は八木真。ただの高校生なのに、怪事件や大事件に遭遇し続けてはや一年ちょっと。

 トラブルは、いつだって俺の都合などお構いなしなのだ。

 

 おっさん二人が無線で二言三言やりとりをして、俺達にうなずきかけた。

「比企さん、こっちは配置完了。いつでも行けるぜ」

 まさやんがチャット回線で知らせる。

「わかった。それではこちらも仕掛けよう。捕獲ネットはいつでも行けるように準備を。──始めるぞ」

 デカブツの正面に並んでいた桜木さんと比企が左右に別れる。

 円状に移動しながら比企が殴りつけた。

「乾! 」

 今まで以上の重たい音だ。

「坤! 」

 たぶんダメージもきついのだろう、怪物がしゃああ、と息を吐く。

「艮! 」

 比企が一撃入れるたびに、桜木さんが反対側から鉄パイプで牽制を入れる。

「巽! 」

 おっさん二人が驚愕した。あんな、ガラス細工みたいな細い比企のどこにこんなパワーがあるのか。

「坎! 」

 それにしても、これは今何をしてるのか。

「震! 」

 まあ、比企がやることだ、効果はあるのだろうとは思うが。

「離! 」

 まさやんと結城が、急所ばっかりいってるな、えげつない、と呆れている。

「兌! 」

 これでちょうど、ぐるりと一周。瞬間、左側から比企が、右側から桜木さんが、バッと地を蹴って、同時に両側から頭へ一撃!

テーン! 」

 人間で言うならこめかみの辺りを、膝と鉄パイプが強かに撃ちつけた。

 一瞬ぐらりと怪物が揺らぐ。

「撃て! 」

 二人が同時に叫んだ。

 瞬時にぱしゅんぱしゅん、と響くバズーカネットの発砲音。パシパシパシパシ! デカブツの真上で網が次々開いて、バサバサバサバサ被さっていく。二枚三枚なんてもんじゃない。バズーカが何本あって、弾がどれだけあるのか知らないけど、七、八枚は被せていただろう。それでもなおもがくデカブツ。

 比企がぎゅるんと回転しながら懐へ飛び込んだ。回転の勢いで跳ね上がって、両手で顎の付け根を思い切り手刀で挟み込む! 

 そのままの勢いで、腕をガッと伸ばし、手刀で抑え込んだ首を押し出した。たたらを踏む怪物。

「やった! 」

「おお! 」

 おっさん二人が声を上げた。だが。

 その場にいた全員が、そのとき、思わぬ光景を見た。

 もがきながら被せられたネットを引きちぎり、剥がしていく怪物。天に向かってしゃああああ! と息を吐き、ぶるんと首を振り、そして。

 森の奥へと駆け去った。

「しくじった」

 一言漏らして、比企が仰向けにぶっ倒れる。桜木さんが駆け寄って抱き起こした。バズーカを手に、草っ原へ降りていくお巡りさん達。

 日はすっかり傾いて蜜色の夕陽が射し、空は茜色に変わっている。

 

 幸い、比企が駆けつけたのが早かったおかげか、鑑識班にも後から合流した警官隊にも、犠牲者は出なかった。せいぜい転んで擦りむいたり、足を挫いたり、その程度だ。ベンチの広場で源と美羽子が逃げてきた人たちを休ませ、あとから来た救護班に回線越しでわかる俺達の様子を伝達してくれて、救出はスムーズに進んだ。

 桜木さんも軽い打ち身や擦り傷くらいだったが、比企は何せ素手であんなバケモンと渡り合っていたので、ダメージは結構デカそうだった。頭はいいのに、なんでこいつはこうも喧嘩っ早いのか。

 山の中を桜木さんが背負って運び、ベンチの広場に入ったところで目を覚ました。同時に盛大な腹の音。しかも目が覚めた瞬間にブタっ鼻鳴らすのはやめろって。

「あ、起きたね」

 声はかけたが、下ろす気配はさっぱりな桜木さん。比企もさすがに消耗したのか、降ろせとは言わなかった。代わりに、腹が減ったなとぼやく。

「元神の運気を使うとこれだから…。今何時だ」

「五時半になるところ」

 桜木さんが答えて、比企はそうかとうなずいた。

「宿舎に戻らないとな。時間に遅れると面倒だ」

 すげえな、この、非日常からサクッと日常に戻れちゃう感じ。毎度のことながら感心しちゃうな。

 山から降りて、コンビニでおにぎりをいくつか買って比企に食わせた。宿舎に戻れば夕飯を食えるが、この様子だとそこまで保つまい。夜食がわりにスナック菓子やパンをしこたま買って引き揚げた。

 遊覧船の営業所前まで戻ったところで、

「来週には確か、町主催の花火大会がありましたね。それに、今この町には、予備校のサマーキャンプで高校生が大勢来ている。どのように対策をとられますか」

 いい加減おろせと桜木さんを小突いてから、比企は警察の偉いおっさん二人に訊ねた。

「町役場と、まずは相談します。あんなものがいたら、危険で観光誘致どころではありません。サマーキャンプの学生さんについても、予備校に至急事態を知らせます」

「お願いします」

 では、と歩き出す比企の足取りは、だいぶふらついてはいるが、さっきまでのボロボロぶりを思えば、徐々に回復しているのがわかる。さすがにおっさん達が心配して、パトカーで送らせようかと申し出たが、まだ何も知らせがないところでパトカーなど出てきたら、却って騒ぎが大きくなる。お構いなくと比企は辞退した。

 歩きかけて、あ、いけね、とUターン。失礼、と遊覧船乗り場の脇の水道を借りて手拭いを濡らし、すっかり乾いた額の傷の血を拭う。ついでに顔の土と、腕の擦り傷も拭いた。

「これで多少は誤魔化しが効くだろう」

 うん、確かに流血したままで帰ったら、何事かと思われるよね。

「落ち着き次第、詳細を報告する。帳場が立ったら情報を共有してくれ」

 帰り際に桜木さんを呼び止め、比企が耳打ちする。頼んだぞ、と肩を叩いて、美羽子と源が両側から肩を貸しながら、俺達はサマーキャンプの宿舎に引き揚げた。

 

 比企はいつも以上に夕飯をバクバク食い、寝室フロアのロビーに集まると、ソファーにどっかり腰を据え、さっき買い込んだ菓子パンを食いスナック菓子の袋を開けて食いながら、端末の画面を睨んでいた。

 美羽子はピーチティーのペットボトル片手にその隣へ座っていて、そこへ源、まさやんが来る。俺と忠広と結城が合流すると、今日は参ったな、とため息をついて、比企は水筒からコップに紅茶を注いだ。どうも寝室備え付けの電気ケトルでお湯を沸かし、持参した茶葉で淹れたようだ。

「さて、夕方のあの騒動の間に、頼んでいた調査結果が出てきた。例の、大学から盗まれたサンプルの行き先だ」

「え」

「よくわかったな」

 一斉に比企に注目。どうやってそんなこと調べられるのか。

「まず、誰がいつどこから買ったのかについては、資産データの増減のタイミングで測れる。最終的な買い手の動きは、Nシステムや街頭の監視カメラ映像を確認し、どこへ向かったのかを調べてもらった」

「まじか」

「そんなのできるのハッカーくらいじゃないの」

 結城がのほほんと感心する。まあハッカーだからなと比企はうなずいた。

「言霊使い級の」

 よくわからんが、なんかすごいのかもしれない。

「最後の買い手は中央アフリカの武装組織…とは名ばかりの地方豪族なんだが、我こそは正当な政府だと自称する勢力ばかりで、ってそんな話はどうでもいいな。連中はそれなりに有力な派閥に属しているようで、日本にも自治政府を自称して、入国管理の事務所を構えている」

「入国管理? そんなとこに行く人いるのかよ」

 忠広がなんじゃそら、と眉を寄せるが、いるよとあっさり答える比企。

「難民支援のボランティアだとか、コーヒーやら綿花やら、細々と生産してるものを買い付けに行く商社マンとか、あとはジャーナリストか。いるんだよ、意外と」

 で、その事務所がどうしたのかというと、

「事務所の所長が夕方に都内の事務所から、山梨県内、上野原近郊の山中にある、生化学企業の保養所を訪れた。そこは保養所とは名ばかりで、実際には、あまり大っぴらにはできない研究をする施設で、業界内じゃあ公然の秘密になっている」

「…どんな研究する場所なの」

 やめなさい美羽子訊くんじゃない。

 とにかくひどいことだよと比企はお茶を濁した。

「それが去年の暮れの話だ。そして、春先から続く、県境を跨いだ山中での異変。どうだ、どんどん状況が一点を指し示していくだろう」

 状況証拠だけで言うなら、

「…アフリカのテロリストだか軍隊だかが、日本の会社に頼んで、」

「去年の夏のあいつをもういっぺん造って、」

「どっかで戦争するときに持っていって暴れさせようとしてる、ってこと? 」

 まさやん、源、忠広が順々に推論を述べる。まじか。いや、これが本当だったら、大変なことになるぞ。歴史の授業で教わった。その昔、核兵器はとんでもない破壊力ゆえに、大国はこぞって持ちたがり、かといって実際に使ってしまえば、破壊力もさることながら放射能汚染によって、爆心地周辺は死の土地に変わってしまうので、みんな「使わずに持ってちらつかせる」ことが、やりたくないときに戦争を回避する手段になっていたのだそうだ。だから、アメリカが広島と長崎に落とした二発の原爆だけが、人類の歴史で実際に使われたものとして、名前を残している。その余りの威力と被害の規模、何年も残る放射能の毒性がもたらす恐怖は、国家元首や軍人にとって、ただ見せるだけのために持っている分には、魅力的に思えたのだろうか。

 だけど、みんなが持ってるという状態になったとき、恐怖の対象はとんでもない数になっていた。しかも、何十年も保管していれば、いずれ兵器だって寿命を迎える。でも、あんまりにも危険すぎて分解もできず、かといって普通の爆弾のように破裂させて処分するわけにもいかず、持て余して──持っていること自体が危険な兵器は嫌われた。そして、みんな大体同じような結論に至るのだ。

 持っていることがリスクなら、こっそりバレないように消費してしまえばいい。

「核なき大戦」というのは、戦争が終わったあと、戦争に巻き込まれた当時の若者達が皮肉をこめて呼んだ名前だ。

 当時の大人達は使っていたのだ。それは盛大に。

 大気圏外で破裂させたときに出る放射性物質のチリが、地表近くに落ちる頃には無害化はするが、電波通信を遮断する、その性質を戦闘のときに悪用したのだ。だから、戦場はどこも混沌を極め、泥沼化し、戦争が終わった頃には核爆弾は無くなったけど、どの国も戦死者や、障碍を負って帰ってきた元兵士が大勢出た。結果、なくした体の一部を補うためのサイボーグ義肢テクノロジーや、義肢・義体制御のための電脳化技術、部分クローンみたいな生化学が発達したのだけど、それはまた別の話だ。

 今はそれよりも、あのデカブツだ。

 まあ、こういう歴史をたどった現在、環境を汚さずに制圧できる兵器や武器こそが理想的とされ、去年の冬に巻き込まれた銀行強盗から始まった事件の渦中で見た、機動ユニットのようなものが開発され使用される世界になってしまったわけだが、それにしたって。

「あんなもん、どうコントロールするんだよ」

 俺は呆れて思わずため息をついた。

 そりゃあ、敵の陣地にでも放り込めば、さんざっぱら暴れて総崩れにもできるだろうけど、そもそも躾とか無理じゃん。生き物だから有毒物質なんて出さないし、環境は汚れないけど、意思の疎通が成り立たないだろ。どうするつもりなんだ。

 比企が険しい顔で端末の画面を睨む。

「とりあえず回せる手は回して、あれの分析を科研に頼むようにしたが、どんな結果が出て来るのか、今から頭が痛いよ」

 科研なら盗難の危険はないが、結果次第ではえらいことになるぞ、と比企は肩を揉んだ。

 その日はそのまま、講義の内容がどうこうとか、どこの出版社の参考書がわかりやすいとか、ここ最近よく話題にするようなことをダラダラとだべりながら、自販機でジュース買って飲んで、就寝時間を潮に、部屋へ引き揚げた。そして翌朝、土曜日。

 教室へ入ってきた講師は、パッと見たところはいつも通りに見えた。が、昼休みが始まるところでミールキットを運んできた事務員さんが、講師に何か耳打ちする。何かやりとりがあってから、講師がホワイトボードの前へ戻った。かなり緊張した面持ちだ。

 昼飯前で、今日のミールキットはどんなメニューだと浮き立っていた受講者は、ただならぬ様子に静まり返る。さっきまで吾妻鏡のレクチャーをしていたおばさん講師が、何をどう話したものかという表情で、ためらいながら口を開いた。

「…今入った知らせですが、この付近の山林で、熊が目撃されました」

 一瞬ざわっと部屋中の高校生がざわつき、すぐに静かになった。

「熊は大変大きな個体で、ハイキングコースで目撃されたそうです。現在、一帯の山は立ち入り禁止となっています。皆さんにも安全のため、警察や猟友会を通して帰宅の要請が出ました」

 講師はそれから、予備校の事務担当から保護者に、送迎や残りの日程の代替について連絡していること、どうしても保護者が迎えに来られない場合は、予備校でマイクロバスを用意し送り届けることなど、今わかっていること、できることについて一通り説明した。

「以上、今わかっている範囲でお話ししましたが、まずは皆さん、昼食をとって落ち着きましょう。外へ出るのが不安な方もいるでしょう。万一のことがないよう、できるだけ室内で過ごしてください」

 講師が出ていくと、教室内は大騒ぎとなった。大半は昼飯どころでなく、俺達はその間にミールキットをひっ摑んで、ひと気のないロビーへ行く。

 とりあえず、本来のスケジュールでは午後は自由時間だったが、急遽二コマの講義を設けて、その間に事務サイドが保護者へ連絡をとり、早ければ終わる頃には迎えがポツポツ来始める。希望者はそこで帰宅し、予定していたキャンプの残り日程は、各々の自宅近くの教室で代替し講義を受けるか、あるいは参加費用を日割で返金するか選択可能としたそうだ。

「大型の熊、ねえ」

 俺はぼんやりと漏らした。

「ものはいいようだよな」

 忠広がうなずく。

「確かに」

「怪獣よりゃ熊の方がなあ」

 まさやんと結城が続いて、

「生々しく危険だと思えるもんなあ」

 源がはあ、とため息をついた。

 美羽子はまだピンと来ていない様子だったが、俺がきのうの夕方、あの草っ原で撮った写真を見せてやると、画像を切り貼りした痕跡を必死に探し、どうやら真物だと認めるしかないとわかると、真っ青になって黙りこくってしまった。

「こんなのが、この辺りの山の中にいるの? 」

 パニックにならずに落ち着いているのは、ずっと源が手を握ってそばについていてくれているからだ。普段はチワワみたいにキャンキャンうるさいぐらいだが、事態が大変な局面になるとしおらしくなるところが、一応こいつも女子だったんだなと思うのだが。

 もう一人の女子は、中身は純度の高い戦争狂ウォーモンガーなので、かわいげなんて毛は一本たりとも生えてはいまい。こいつに生えてるのは苺色の髪と、たぶん心臓に金ダワシみたいな剛毛だ。

 比企は桜木さんにメールを送って、予備校から知らせが来たら適当に口裏を合わせておくよう頼んだ。

「また去年みたいに、あいつ退治するの」

 結城が訊ねるが、比企はどうかな、と煮え切らない。

「あのときは諸君の依頼があったから動けたし、それを根拠に警察にも介入できたが、今回はなあ。昨日の一件だって、たまたま行き合わせて、助けなければ人道上問題があるから手助けしたが、ここの所轄がどう判断するか」

「…比企さんは出番が来ると思ってる? 」

 俺が訊ねると、さあねとすげない答えが返った。

「ジェットジャガーを担ぎ出してもダメだったら、たぶん出番が来るだろうがね」

 何っじゃそら。

 だが、しゃべってるだけでは昼休みが終わってしまう。ひとまず俺はミールキットの封を切って、食うことに集中した。比企が俺のトレイを覗いて、今日はビーフシチューか、とミールキットを開ける。

 

 午後の講義が終わると、お袋から電話が何度か入っていたようだった。着信履歴を見て折り返し電話をかけると、あからさまにホッとした調子で、まったくもう電話くらい出なさいよ、と叱言が始まる。

「午後に急遽二コマ授業が入ったんだよ。親に連絡着くまでの繋ぎで」

 あらそうだったの、とお袋はひと言で片付けて、それでとすぐに話を変える。おばさんってすげえな。この、即座に自分が話したい話題に流れをぶっ千切って切り替えるの、これ全部自然体でやってるんだぜ。

「あんた、帰りはどうするの」

「え、いやまだ考えてないけど。親父は? 車出せないの」

「お父さんは佑連れてお祖父ちゃんちに行ってるでしょ」

 そういえば。俺がいない間、弟は長野の父方の祖父さんの家へ遊びに行く予定だったっけ。そうか、親父の仕事が休みだから、土曜に連れて行くって言ってたな。

 とりあえず予備校のマイクロバスに乗るなり、誰か仲間の迎えに便乗するなり、どちらでもいいから決まったら連絡だけはするようにと言って、お袋は電話を切った。

 結局、帰りの足はというと。まさやんと結城、源と美羽子は、結城の姉さんの旦那さんが車で迎えに、俺と忠広は桜木さんが比企と一緒に車に乗せてくれることになった。結城の姉さん夫婦の車は大型のワンボックスで、趣味のサイクリングに出かけるために、自転車を二台乗せられるサイズのものを選んだというから、高校生四人くらいは余裕だろう。源のこともよく知っている義兄さんだから、美羽子のことも、それなら彼女も一緒に乗ってお行きよ、とあっさり快諾してくれた。

 俺と忠広はマイクロバスで帰るか、と言っていたら、比企から声をかけてきた。

「二人なら十分、後部座席に乗れる。よかったら家まで送るとシンが言ってきた」

 まじか。俺も忠広も、ありがたくその提案に乗せてもらうことにした。お袋に電話すると、桜木さんの名前が出た途端に、あらまああのイケメンの、と即座に出てくるのは、わが母親ながらどうなのか。

 五時前に桜木さんが、いつもの愛車で乗り付けて迎えに来た。サマーキャンプ会場である保養所の駐車場や玄関ロビーは、生徒を迎えに来た保護者や、帰りのマイクロバスを待つ間に親しくなった他校の生徒とチャットルームの招待をし合ったり、連絡先を交換する参加者でごった返していた。

 先に結城の義兄さんがやってきて、義弟や友達を連れて引き揚げて行く。如才なく挨拶する比企のルックスにちょっと驚いたようだけど、それでも義弟から友達の話はよく聞いているのだろう、誉をよろしく、とにこやかに去って行った。

 待つというほど待たずに、桜木さんが入ってくる。その場にいた女性のほぼ全員が一斉に注目するの、面白いな。すぐに俺達を見つけて、お待たせ、と声をかけた。

「さあ、それじゃあ行こうか」

 全員がシートに尻を落ち着けたところで、助手席のシートベルトを締めながら比企がそれでは始めようか、と切り出した。端末を出して、ダッシュボードの上のホルダーに固定し、マイク機能を使って、チャットルームに接続。すでにまさやんや美羽子達はアクセスしていて、結城の義兄さんには話の内容がわからないよう、四人はイヤホンと文字入力で会話に参加するスタイルだ。GT–Rのエンジンが轟音を上げ、スムーズに走り出す。

 まず全員で情報を整理し共有しておこう、と比企が切り出した。何が起こって今に至るのか、時系列で整理し並べて行く。

 ・去年の夏、海で遭遇したキメラ生物の生体サンプル盗難事件が発生。

 ・盗み出した大学生が闇ルートで転売。数度の転売を経て、冬にアフリカの武装勢力が購入。

 ・武装勢力が山梨県内にある生化学企業の研究所へ秘密裏に持ち込む。

 ・春先から研究所の近郊の山中と、県境を跨いで神奈川県の山中で、鹿や猪などの大型獣の死骸が時折発見され、小鳥や小動物の姿が消える。

 ・火曜日に釣具屋の貸し出したボートが行方不明になる。釣具屋の子供が山遊びの最中、大きな生物らしき影がボートを襲う様子を目撃。

 ・木曜日、大型の生物らしき影が二つ、湖上の遊覧船を襲い生存者はゼロ。

 ・金曜日、遊覧船の残骸から火曜日に消えたあひるボートの残骸が発見される。

 ・金曜日午後、山中で影の正体が食べ残したと思われる鹿の死骸が発見された。詳細に調べようと持ち帰ろうとしたところ、大型の爬虫類と思しき生物により鑑識班が襲われる。

「結局、このときは仕留めきれず逃げられてしまった。それでこの帰宅勧告騒ぎにつながるわけだが」

 問題はそのあとだ。

 ──花火大会はどうなったんですか。

 ──確か来週の水曜日でしたよね。

 まさやんと源の書き込み。そうだ、警察の偉いおじさんが市に確認すると言っていたはず。

「部長は市の担当部署に話を持って行ったそうだけど、まだ回答待ちの状態みたいでね」

「嫌な予感しませんか」

 思わず漏らした俺の言葉に、美羽子や結城も同意する。

 ──大丈夫なんですか、それ。

 ──なんかすげえイヤンなんすけど!

 ──「だが断る」とか言われたらそれまでじゃねえっすか。

 ──いやフツーにやばいからね? あれ、まじでやばいからね? 美羽ちゃん以外は全員見てるわけだけどさ!

「まさやんの言う通りだ。危険だって呼びかけたところで、あんなもん実在するなんて、自分で見なけりゃまず誰も信じないだろうし、そうなればハイハイ返事だけしておしまい、もあり得るだろ」

 忠広もうなずいた。

「イベントの担当者が正常性バイアスにとらわれていたら厄介だな」

 比企が呟く。

「何それ」

「大事件が起こったときに、自分には関係ない、自分の生活は安泰だと思って、完全に他人事として片付けようとする心理だよ」

 俺の質問に、桜木さんが答えた。

「いつ巻き込まれてもおかしくない、たとえば伝染病だとかがそうだな。いつ自分が感染してもおかしくないのに、自分の周囲には感染した人間がいない、自分はまだかかってない、だからそんなものは気のせいで、騒がれているのはタチの悪いデマゴギーだと決めてかかる」

 比企がうなずく。

 ──もしかしたら、そんな生き物は見たことがないからいるわけがない、って言われちゃうかもしれない、ってこと?

 美羽子の書き込み。そうか、その可能性があるのか。

「…証言があって、写真があっても、」

「合成だとか気のせいだとかで片付けられる可能性も」

 俺と忠広はため息をついた。

「人間は得てして、信じたくないものからは目を背けて、ないものとして振る舞うことができるからな。役人は特にその傾向が強い」

 比企は言いながら、部屋に買い溜めたのを持ち帰っていた菓子パンの袋を開けて、四口で食ってしまった。

 いやしかし、ほんとにどうなるんだ? 俺もかすかに「やってるらしいよ」と聞いたことがあった程度だが、西多摩界隈では、この数年で盛り上がり始めた花火大会だとかで、年々集客数も増えているらしい。そこに水を差すようなこの怪獣騒ぎだ。予備校では、無用の混乱を避けるために熊と説明していたが、それでも万一のためにと、サマーキャンプの参加者を全員帰してしまった。が、市が主催の観光誘致イベントとなると、どうなることか。これがまだ、熊や猪といった、馴染みがあって、手負いだったり飢えていたりすれば凶暴になると言う認識があって、イメージしやすい生物ならともかく。

 謎の生物だの怪獣だの言おうもんなら、こっちの正気を疑われるよなあ。

 理想的な対策は、花火大会は中止し、県を跨いで山狩りをしてから駆除、なのだろうけど。だが、比企は最悪の状況を考えなくてはいけない、と言う。

「それでも現実は、こちらの予想の斜め上をいく酷い展開をするんだ。想定できる限り最悪の最悪を覚悟していれば、何が来ようと心構えだけはできる」

 これだから戦闘に特化されてる奴は。

 桜木さんが、望み薄だと思うよとひと言、圏央道から街道へハンドルを切る。

「どうも帳場も立たなさそうでね、きのうの件も、感謝はされたけどその先は遠慮して欲しそうだったから」

「だろうな。しかも我々には依頼人がいるでもなし、ただ行き合ったところで死にかけている人間を助けたのみだ。関わろうにも理由がない」

 ──だよな。去年はヤギが比企さん呼ぼうって思いついて声かけたからああなったわけだし。

 ──下手したら誰も何もしないうちに、またあいつが出てくるかも。

 結城と源が書き込んだ。そう、それが一番恐ろしい、大変な事態なんだけど、でも比企は探偵。しゃしゃり出て警察や役所を動かすほどの権限は持ってない。依頼があって、それを根拠に協力を要請することはできても、それ以上でも以下でもない。

 あとはあの、比企が切り落とした尻尾の分析がどうなるか。

 外はいつの間にかすっかり陽が落ちて、車は俺の家の前に乗り付けた。玄関へ入るとお袋と、誰もいないからと呼んだらしく、忠広のお袋さんが出てきて、俺と一緒に入ってきた桜木さんと比企を見てまずはぶったまげる。それからまあまあいつもうちの息子がお世話になって、と、おばさん特有のいつもより高い声で挨拶が始まった。比企を見て、あらまあ美羽ちゃんの言ってた通りだわあすごい美人さんじゃないの、とさんざん盛り上がり、桜木さんを見る目が揃って女子になっている。我が親ながら恥ずかしい。忠広も居た堪れねえ、という顔で頭を抱えていた。

 それでも如才なくにこやかに挨拶して、桜木さんと比企が引き揚げる。忠広とおばさんも帰ると、お袋は比企が見るからに外人顔なので、桜木さんとは本当に従兄妹なのかと言い出したが、面倒なので比企の親が国際結婚だと適当に誤魔化しておいた。どうせおばさんは、興味のあることしか憶えてないし、それだって瞬間風速だ。

 家に着いて自分の部屋のベッドに寝転んで、それでも俺は、なんだか妙にそわそわしていた。家に帰ってきた。でも。俺は完全に、日常へ戻れたわけじゃない。あれだけの騒動に立ち会いながら、何一つ解決していないまま去ったのだ。

 どうにも尻の座りが悪い。落ち着かないまま、俺はお袋の作るいつもの飯を食い、風呂に入り、いつものように自分のベッドで眠った。

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