第46話 五人とひとりとサマーキャンプ 3章

 薄暗い、流行らない喫茶店の片隅。

 店内にはなぜか昭和ポップスが流れている。都会に出た男が街の暮らしに染まって、田舎で帰りを待っていたガールフレンドが、別れの涙を拭くハンカチを送ってほしいとねだる歌だ。

 奥のボックス席を占領しているのは、店内の古めかしさからそこだけ、他所から切り貼りしたような、夏らしい明るい色彩の服装の少年少女で、一人を除いて皆、コーラやアイスコーヒーで喉を潤している。うちの三人は、細長い何かが入った布袋を傍に置いていて、長さから見ると竹刀が入っているのだろうか。

 たった一人、ポットで紅茶を注文しているのは、苺のような色の髪の少女で、信じられないくらい白い肌と、目を疑うほどの美貌の持ち主。だが、彼女は実に不機嫌に眉根を寄せ、むっつりと黙り茶杯を干す。

 黒髪をサイドポニーにした少女が、テーブルに置かれた携帯端末の画面をじっと見て、隣に座った少年と何事か囁き合っている。あとの少年四人は、各々ソファーにもたれ天井の回転ファンをぼんやり見たり、テーブルに頬杖をついたり、さまざまだ。

 見るからに外国人とわかる赤毛の少女が、すっと手を挙げて、ポットのおかわりを注文した。

 

 俺の名前は八木真。喫茶店のボックス席でクダを巻く、あからさまに怪しい少年少女の一員だが、俺自身は怪しくないよ! 怪しくないよ! ちょっとチャームな高校三年生、好みのタイプはおっぱいのでっかい美女。おっぱいは平和の証、幸せの象徴。

 で、そんな俺と友人達が何をしているのかというと、楽しい楽しい情報共有のお時間なのであった。うわーい、たーのしー!

 いささかヤケクソ気味に叫んでみたが、俺のこの気持ち、わかってほしい。

 ついさっき、比企に届いたメールが、なかなかに衝撃的なものだったのだ。意外な内容という意味じゃない。こちらの予想をガチガチに補強するもので、その予想は、とてもいやな方向の予想だったからだ。

 ──ご依頼の件について所轄署に照会した結果をお伝え致します。

 という文句で始まったメールは、探偵公社の事務担当者からのものだった。内容は、去年の夏に俺達五人と比企、それに比企の監督官である桜木さんが退治した、あの、怪獣と言っても差し支えなさそうなキメラ生物の生体サンプル、比企がナイフで削ぎ落とした怪獣の肉片の一部分が盗まれていたのだという。

 幸い、比企は結構な量、ステーキでいうなら二百グラムくらいをこそげ取っていたので、検査自体に支障はなかったようだが、それでも三十グラムばかりがいつの間にか減っていた。気がついたのは、すべての検査が終わって、あの事件でキメラ生物の遺伝子解析をしてくれた青砥教授が、データを警察へ届けに出かけ、戻ってからだ。何せものが物なだけに、研究室で保管したところでどうなるわけでもない。警察へ返却して、死骸と一緒に処分してもらうことになっていた。それでサンプルを確認したところが、どうにも元の重量と使用した分との計算が合わない。検査の手伝いを頼んだ学生達にも確認したが、誰も心当たりはなく、ただ、さすがにそのまま放置するのも憚られ、盗難届を出したということらしい。警察からの依頼で預かっていた物であるし、何より、遺伝子工学実験の塊であり、おかしなところへ流れて悪用されては、という懸念も微かながらあった。

「嘘だろ」

「ねえ、やめてよ」

「勘弁してくれよー」

「ひどいよ、こんなのってないよ」

「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ」

 一斉に頭を抱える男子五名。美羽子は俺たちの反応の激しさに驚き、比企はああまったく、とゲンナリした顔でティーカップを干した。

 随分とまたご機嫌が悪いな。まだ何かあるのか。

「比企さんまだなんかあるのか。随分機嫌悪そうだけど」

 俺が訊ねると、え、と一瞬虚をつかれたような顔で俺の顔を見返した。それから、かなわんなあ、と苦笑すると、比企はポットから次の一杯を注いで、また紅茶の追加を注文した。

「みんなは、この町の周辺地理については知っているかな」

 仲よく首を振る六名。

 比企はザックリとテキトーに指差して方向を示しながら、

「あっちが神奈川県。向こうは山梨。これは裏から探らせていた筋からのオマケとして受けた報告だが、山一つ越して山梨県へ入った辺りで、この春頃から妙な噂が流れていた」

「…どんな? 」

 ごくりと唾を飲み込み、美羽子が訊ねる。うん、とうなずき比企は指を折りながら挙げていった。

「まず、雪解けの頃から山が妙に静かで、何か大きなものが移動したような、大型の獣を思わせる歩行の跡が見られるようになった。熊よりもう少し大きなサイズで、動物が水場にしているような池の近くでは、ずぶ濡れの大きな動物が歩き回ったような跡もあった」

 それから、

「山菜取りに山へ入った地元の高齢者が、遠目にだが、大きな黒いものが移動するのを目撃した件が数例。それと時を同じくして、腑を食われた猪や鹿の死骸が何度か見つかった」

 そんなことがあったら、さすがにサマーキャンプ自体を中止するか、場所を違うところに変えていただろうけど、

「県境の向こうで山も一つ二つ越している。この町の近辺では、これといって何も起こっていなかったんだろう、これまでは」

 よく似ているだろう、と比企は指を折っていた手を、顔の横でパッと開いた。

 なんだか、どんどん外堀ばかりが埋まっていく。かといって本丸の姿はもやもやと隠れたままで、尻の座りが悪い気味の悪さは、いよいよ濃くなるばかりだ。輪郭はぼんやりと見えている。そうなんだろうなと見当はつく。だけど、全部がはっきりと見えているわけじゃないので、あくまでも「かもしれない」でしかない。この状況がもどかしいやら気持ちが悪いやら。

 それで、と比企は続けた。

「ちょっと気になって、神奈川でも何か起こってはいないか、調査を頼んだのだが」

 ビンゴだった。

「やっぱり同じようなことが起こっていた。県を跨いで山を越して、辺り一帯が何かの狩場になっていたのさ」

 まじか。いや、まじか! 

 きのうと同様、年季の入った看板娘がポットを運んでくる。看板娘は空のポットを下げてカウンターへ戻って、昭和ポップスを聞き流しながら女性週刊誌を読み始めた。それを見遣って、とりあえず、と比企はティーカップに残ったお茶を飲み干し、次の一杯を注いだ。

「今のところは、サンプルの最終的な買い手がどこへ持ち込んだのかを、引き続き探ってもらっているが、さて、一体何が飛び出すか」

 めんどくせえなあ、といささか行儀悪く、比企はぼやきながら大欠伸を一発。

 うん、わかるう。めんどくさいし、何より、ろくなことにならない予感しかしないもんね。

 

 それで、とまさやんがコーラの氷をバリバリ噛み砕きながら、比企に水を向けた。

「さっきこの店に入る前に、遊覧船乗り場にいた警官になんか話しかけてただろ」

 確かに。比企はコンビニの角を曲がったところで、ちょいと道路を横切ってパトカーのそばにいたお巡りさんに何事か話しかけて、二言三言やりとりしてからこっちへ戻ってきたのだった。

 なんかまたあったのか、とまさやんが確認するように訊ねた。

 かなわんなと笑う比企。

「肥後君は捨て目が利くな。…そうだな、この前の釣具屋の少年が言ったことを憶えているかな」

 全員がうなずくのを見て、比企もうなずいた。

「今朝、遊覧船の残骸に混じって、あひるボートの首が見つかったそうだ」

 つまり。

「彼は真実を語っていたのさ」

 なんてことだ。そりゃあ怯えもするだろう。たまたま目撃してしまったとはいえ、子供が見ていいものじゃない。俺は、あの坊主が見たのが湖畔とはいえ山の中からだったことを、不幸中の幸いと思った。すぐ目の前で、ボートに乗った誰かが食われながらあげた悲鳴なんて、とてもじゃないが子供に聞かせたくない。俺だって聞きたくない。

 茶っ腹にならないうちに引き揚げよう、と比企が言ったのを潮に喫茶店を出て、湖畔をそぞろ歩くと、この前の釣具屋の前へ差し掛かった。丁度向こうから、あの悪ガキとおばさんが歩いてきて、坊主が目敏くこの前のお姉さんだっ、とひと声、比企と美羽子に飛びつく。あらこの前の、とおばさんの方も俺達に気がついて、挨拶もそこそこ、息子の頭を拳骨でどついた。

「バカ息子、ご挨拶ぐらいちゃんとしなさい」

「いってえ! 」

「美人相手だと見境ないんだから。変なとこばっかり父ちゃんそっくりになって」

 悪ガキ坊主は、今日はこの前よりパリッとしたハーフパンツにTシャツ、足の甲をマジックテープで留める子供向けのスニーカーという、こぎれいな格好で、おばさんもサマーブラウスにグリーンのカラーパンツという姿だった。どこかへ出かけていたのだろうか。

 この前はどうも、と挨拶するおばさんに、もしかして、と比企が訊ねた。

「警察ですか」

 ちょっと驚いてキョトンとするおばさん。

「遊覧船の残骸にあひるボートの首が紛れて出てきたと聞きました。そうなると、彼の証言は大変貴重なものになる」

 おばさんがあちゃあ、と顔をくしゃくしゃにして笑った。

「小さい町だからね、やっぱり噂になってたかあ。おっしゃる通り、今朝方うちに、あひるボートが見つかったって連絡が入って、あの子が言ってたこともちょっと気になったもんでね。何を見たのか一遍話させれば、まあ納得するかしらと思って、一応連れて行ったんですよ」

「どうでした」

「びっくり」

 お袋さんに手を引かれ、坊主が町の駐在に自分が見たものを話して聞かせると、いつも寝ぼけたように穏やかなお巡りさんの様子が一変したのだそうだ。老眼鏡のずり落ちかけたのを直しながら、坊ちゃん、ああお母さんも、と呼びかけ、

 ──その話を、おじさん以外の大人の人にもお話しできるかな? 市の警察署から刑事さんが来るから、刑事のおじさん達にも、今おじさんにしてくれたお話、聞かせてほしいんだ。いいかな?

 坊主がうなずいた。まだ釈然としないお袋さんに、駐在のお巡りさんが、実は、と耳打ちする。

 ──遊覧船の件の目撃者が、坊ちゃんと同じ証言をしてるんです。捜査にご協力お願い致します。

「そんなことになってるなんて思いもしてなかったから、もうびっくりよ。で、昼過ぎに市の方から刑事さんが来たっていうから、うちのにお昼食べさせてから行ってきたの」

 数人でやってきた刑事のうち、坊主の聴取をしたのは、優しそうなお姉さんだったそうだ。刑事さんにお話するとなると、すっかり尻込みしていたのだが、お姉さん刑事が優しく話を引き出し、紙とペンを出して、どんなものを見たか絵を描かせたそうだ。あひるボートの件については、最初に一度と、別れ際に確認させてね、と一度訊ねたのみで、小一時間話していたほとんどが、普段の遊びや学校の友達、夏休みの宿題などの話で、帰る頃にはすっかりいつもの悪ガキが復活し、優しいお姉さんに懐いてしまったのだそうだ。

 坊主が比企の手をとって引っ張るように後ろに倒れて遊びながら、お姉さんが言ってた通りだった! とでかい声で報告するが、坊主、その振る舞いはお前が子供だから許されているだけだぞ。

「お巡りさんも刑事のお姉さんも、おんなじ話二回聞いてた! 大人は何回もおんなじ話聞くんだねー」

「そう。脳みそが衰えてるから、何回も聞かないと憶えられないんだ。付き合ってやってくれ」

「しょーがないなー! あははー」

 釣具屋の親子と別れて、比企は遊覧船の営業所に戻った。

 営業所の中にある会議室を警察で借りて、捜査本部にしたのだそうだ。入り口で俺達を止めようとする制服のお巡りさんに一言、関係者だとそっけなく言葉を投げる。よくわからないが、促されるまま、奴のあとに続いた。

 二階の大会議室が捜査本部だという。階段を上がって会議室へ向かうと、その前の廊下に、もはやいつ出てきてもおかしくない人物が、海外式壁ドンで立っていた。

「動くなら、ちゃんと僕にも声をかけてくれなくっちゃ」

「あー! 桜木さんだー」

「こんにちわあ」

 のほほんと元気にご挨拶する男子五名、ため息をついて、比企は肩越しに何か放る仕草。

 ジーンズにVネックのシャツとジャケット姿の桜木真之介その人が立っていた。

「来たか相棒」

「君が動くのに、家で待ってるわけがないだろう」

「付き合いがいいにも程があるぞ」

 いつものようにいつものやりとりだけど、比企はそれ以上は言わず、いつ着いた、とだけ訊ねる。

「お昼前かな。それよりも」

 桜木さんがすっと俺達に顔を寄せて声を低めた。

「さっき、山を巡回してた町の猟友会が、新しい鹿の死骸を見つけたそうだよ」

「状態は」

「おそらくは食べかけ。内臓がまだ残ってるって」

 嫌な予感がするな、と比企がボソリと漏らす。

「歯型や、他にも痕跡が残ってないか調べるなんて言ってたけど」

「…場所は」

「遊覧船襲撃の目撃現場から南に五百メートル」

 わかった、とひと言、比企は行ってくると階段を降りる。

「チャット回線は繋ぎっぱなしにしておく。何かあったらそちらで連絡を取り合おう。嫌な予感しかしない」

「えっ。待って比企ちん」

「比企さんほんとに? 山に行くの? 」

「あぶねえって」

 結城、美羽子、源が呼び止めるが、比企はもう引き返さない。

「下手すると死人が出かねない。どこまでやれるかはわからないが、脱出の手助けくらいはできるだろう。シン、」

 情報収集を頼む、という言葉だけ残して、比企はさっさと出ていった。

 

 全員がチャットルームに繋いで、片耳にマイク付きイヤホンを装着、これで全員が比企と自在に連絡が取れる。美羽子は会議室へ入る前に、源がチャットルームへ招待して接続させた。仲間全員がこうして団結したのを見て、桜木さんがこだま西イレギュラーズか、と呟く。

「私はホームズほど嫌な奴ではないと思うがな」

 比企が聞いていたらしく、回線越しに文句を言ってきた。

「何それ」

 結城がのほほんと質問。それに対する比企の説明によると、シャーロック・ホームズが捜査の際に情報や手助けを得るために、浮浪児や花売りのネエちゃん、新聞売りといった、日がな街を歩き回る職業の人間のコネクションに協力を頼むことがしばしばだったそうだ。

「白ばと団とか薔薇十字探偵団とか、もう少し気の利いた呼び方はないのか」

 なんじゃそら。

 桜木さんが会議室に入ると、市の中心部にある警察署から来た刑事さんが、長机に調査結果をまとめた資料や、比企に見せられた写真や、色々並べて広げ、数人でワイワイと意見交換していた。どうも、と声をかけると、ああキャリアのあんちゃんか、という肚を目の色に残しながら、これはこれは、お戻りですか警視、と愛想よく迎える。後ろに並んだ俺達を見て、こちらは、と訊ねる刑事さんに、桜木さんはひと言、以前あった類似事件の重要な関係者です、と答えた。嘘は言ってない。

「参考までに、経験者の意見を聞きたくて」

 はあ、と鼻白んで曖昧にうなずくおっさん連中。

 その間にも、比企からは遊覧船の件の目撃現場に到着した、と報告が入った。

「南に五百メートルだったな。これから移動する」

「え、比企さん方角わかるの」

「そんなもの、太陽の位置でわかるさ」

 あ、さいですか。そういえばこいつは、自衛官の親父さんと李先生とじいやさんに、戦闘だとかサバイバルだとか、極限状況でのあらゆる生存術を叩き込まれてたんだった。方位磁石なんかなくても平気なんだろう。

「山の中大丈夫か? 帰り道とか、ちゃんと覚えててくれよ」

 心配する忠広に、比企はあっさり答えた。

「ミーチャ・ロマノヴィチは元山岳兵、師父は仙人。山の男二人に持てる技を叩き込まれたんだ、山の歩き方は体に染み付いてるよ。だが、ありがとう」

 刑事のおっさんが桜木さんに、時系列で事と次第を説明していく。あひるボートの遭難。翌日の遊覧船沈没。登山客が遊覧船の沈没の瞬間を目撃し、同じ光景を同時に写真や動画に収め、その足で町の交番へ駆け込んできたこと。翌日になって、あひるボートの残骸が発見され、ボートを貸し出していた釣具屋の子供が、母親に付き添われ、先ほどまで山で遊んでいたときに目撃した、あひるボートが沈むそのときの光景を証言し、絵に描いて見せたこと。

 こちらです、と見せられたあのちびっ子が描いた絵は、スケッチブックにサインペンで、湖の風景と、そこにひょっこり顔を出した異形の姿。ぬうっと長い首が伸びて、これまた長い嘴のような、ワニのような、大口がばっくり開いてあひるボートを咥えている。

 去年の夏に見た、あいつによく似ていた。さっき喫茶店で比企に見せられた写真の、黒い影にも。

 そこで不意に、回線の向こうから比企の鋭い声が響いた。

「だめだ、よせ! そいつに触るな! 動かすなんて以ての外だ! 」

 説明していた所轄刑事のおっさん以外の、俺達全員がイヤホンに手を当てた。

「どうした小梅ちゃん」

 即座に緊急事態だと把握して、桜木さんが訊ねる。ああ、シンか、と答えが返った。

「例の、鹿の死骸を調べてる連中が、詳しく調べる、持ち帰ると言ってきかない。野生動物、それも攻撃性が高いであろうことが容易に察せられる個体の食い差しを奪うってのがどういう意味を持つのか、まるでわかっていない」

「どうなるの? 」

 美羽子が訊ねると、ああ、その声は笹岡さんか、と確認して、大変なことになるよと答えた。

「自分の獲物を奪われるんだ、そりゃあ怒り心頭、ただでさえ高い攻撃性に火がついて、ストーブみたいに真っ赤っかだ。下手したら、連中全員食い散らかされてもおかしくない」

「そんなにかよー? 」

 結城がビビり散らす。その間に桜木さんが所轄のおっさんに、簡単に状況を説明。鹿の死骸は触らず置いて帰るよう指示を出してくれと要請する。が、おっさんは半信半疑で、まあ部長に報告します、とホワイトボードの前にいるベテランっぽいおっさんのところへ行った。それと同時進行で、比企が鑑識の責任者だかを説得しようとしている様子が、回線越しに聞こえてくる。

「あなた方は野生動物、それも大型の肉食獣の習性や性格をご存知か。連中は食い差しの遺骸を、こうして放置しているように見えるだろうが、ちゃんとこの近くで様子を窺っている。食い差しは自分のもの、それを奪いにくるものは、どんなものであれ敵と判断し襲い掛かる」

 しかし、と反論しかける誰かの声に、ええい、と比企がイライラを募らせる。

「あんた方は『ゴールデンカムイ』を読んだことはないのか! 餌を横取りされればヒグマだって怒り狂うぞ! 」

 その直後。

 回線の向こうから、間の抜けた悲鳴のような声が遠く聞こえてきた。

畜生チョールト! 始まった! 」

 わあわあという混沌とした悲鳴、金切り声。

「全員撤収だ! 早く! 時間は私が稼ぐ、急げ! 」

 ヒイヒイ泣き声が聞こえ、早く立て向こうへ向かえ、真っ直ぐでなくジグザグに走れ、と比企が叱咤する。

状況緑コンディグリーン! デフコン・ファイブ! すまない、できるだけ奴を引き付ける。鑑識班のピックアップを頼む! 」

 桜木さんの顔色が変わった。ホワイトボード前に真っ直ぐ向かい、迷わず警察IDと探偵公社IDを出す。

「非常事態です。例の未詳生物が出現しました。現在、勅命探偵・スネグラチカが、山中で発見された鹿の鑑識に向かっていた鑑識班員を逃すために、おとりを買って出ています。大至急、彼女らの救出を頼みます」

 色めきたつえらいおっさん達。そこに、部屋の隅で電話番をしていたお巡りさんが血相変えて報告に来た。

「鑑識班長です! 」

 電話の置かれたデスクにすっ飛んでくる全員。スピーカー機能を立ち上げて、部長だとかいうおっさんが呼びかけた。

「どうした! 」

「かかかかか」

「しっかりしろ! 」

「ばば化け物…。あ、赤毛の、女の子が、逃げろと、時間を稼ぐと」

「赤毛の女の子? 」

「助けてください! 我々もですがあの子も殺される、早く、」

 桜木さんはもう聞いていなかった。部屋を飛び出し、真っ直ぐに、目の前の小山の登山道を目指す。あの親子の釣具屋のもう少し向こうに、広い駐車場と自販機が立っている脇の、登山道入口と立て札がある、緑道のような明るい木陰の道に入っていった。全速力で。しかも途中、駐車場の隅に転がっていた鉄パイプを拾うのも忘れない周到さ。俺達も体育の授業でさえやらない全速力ダッシュであとに続く。うげ。美羽子までついてきやがった。

「ちょ、美羽子、おま留守番してろ! 」

「お断り! 」

「美羽ちゃん危ないから」

「むしろ大牙君と離れる方が危険! 」

 仕方ない。

「源、ずらかるときは血路開いてくれ、頼んだ! 」

 源が即座に俺の意を汲んで、任せろ! と答える。

 山道は足場がよく、散歩に毛が生えたような初心者のハイキングでも、楽々と歩けるくらいだった。走っても誰一人転ぶことがなかったのがその証拠だろう。十分ちょっとで、ぽかっとひらけた場所に出た。木陰にはベンチ、向こうには湖。ここが、あの遊覧船が襲われた写真が撮られた場所か。

 足が早くてスタミナもあるまさやん、コンパスの差で結城、それからやや遅れて忠広、俺、最後に美羽子と源が手を繋いで到着。当然、一番手は桜木さんで、俺達がぜいぜい言ってるのに、軽く息を弾ませてる程度だ。どんな鍛え方してるの?

 不意にベンチの後ろ、森の中から、つなぎ姿のおじさんが転がり出てきた。大汗で顔はドロドロ、息も絶え絶えで、俺達を見て、逃げるんだ、とどうにか訴える。

「ばけも、の、」

 森の奥を指差した。

 そこへもう一人、ほうほうの体で転がり出て、どうにかベンチにへたり込む。

 桜木さんが森に分け入った。

「源君と笹岡さんは、他にもここにたどり着く人がいるだろうから、その人達を頼む。僕らと彼らと警察とのリンケージをお願いしたいんだ」

「わかりました」

 うなずいて、二人はその場に残る。

 もうさすがに俺達の性格を飲み込んでいるからか、桜木さんは、あとの四人に帰れとは言わなかった。いざとなれば結城とまさやんは、俺と忠広の首根っこ摑んでずらかるだろうし、桜木さんは意地と根性と愛情で比企を見つけて、連れて帰るだろう。

 森の中は薄暗かったが、こちらへ近づく人影が点々と見えて、明らかに戦闘状態と思われるバキバキどかどかという荒っぽい音が近くなっていた。

 そこだけポッカリと、空から見えない大きな指が森に穴を開けたような、草っ原が出てきた。

 そのど真ん中で、比企は信じたくないものと睨み合っていた。

 

 去年の夏に俺達が戦った、あのキメラ生物とよく似た形の、よく似たサイズの生き物が、シュウシュウと息を吐き、涎を垂らし、むっくりと立っていた。

 たぶん、話だけではあの会議室にいるおっさん達は信じまい。

 俺は、睨み合う一人と一匹を数枚、端末のカメラで撮影した。できるだけ鮮明に。できるだけ細かく。

 

 比企が背に庇っていた鑑識のあんちゃんが、そっと這うようにこちらへやってくる。

 デカブツがそちらへ首を動かす。

「おい、」

 比企がそれは愉しそうに声をかけた。

「貴様の相手は私だろう。雑魚に食いついてどうする」

 が、無視してあんちゃんを追いかけようと、そろりと動き出して──比企が懐に潜り込んだ。強かに下から顎を打つ。揃えた両掌で胸を打つ。頭を薙ぐ爪を、円を描くような体捌きでかわし、しゃくり上げる鼻面を掌底で受けるが、跳ね飛ばされてしまう。が、予測していたのだろう、姿勢は崩れずトントンと後退のステップで着地する。半身に構える比企。

 その間に、どうにかこちらへ這うように逃げてきたあんちゃんが、俺達を見て、草っ原の方を指差し、はくはくと口を動かすが、言葉にならない。大丈夫だからと宥めて、忠広が肩を貸してベンチの広場へ向かった。

 桜木さんがそっと、奴に聞こえないように俺とまさやん、結城に耳打ちした。

「君達は動かないで。どうにか倒せないか行ってみるよ。鑑識班の救援に誰かが来るだろうから、その人達と一緒に引き揚げるんだ」

「桜木さんは、」

「小梅ちゃんには援護が必要だ」

「でも去年のあいつだって、みんなでやっとどうにかしたのに、二人じゃ無理だよ」

「もっと大勢、助けが来るまで待った方が」

 三人で引き留めたが、桜木さんはいいね、とひと言残して草っ原へ駆け降りた。

 そんな、いくら剣の達人でも、鉄パイプ一本で何ができるのさ!

 しゅううううううう、とデカブツが息を吐いて、半身に構える比企に向き直る、そのとき。最高のタイミングで、桜木さんはその横っ面を、思い切り鉄パイプで殴りつけた。

 ばちーん! というすごい音が、森の中に響く。重たいものを全力のフルスイングでぶん殴った、文字通りそんな音だ。いや、すごいよね。俺だったら尻尾とか狙っちゃうけど、顔面を全殴りだもの。

 比企と桜木さんは、声すら掛け合わなかった。比企はそのままデカブツが一瞬怯んだ隙に乗じて、掌底を入れ拳を叩き込み、目まぐるしく回転する。桜木さんは爪をパイプで払い突きを入れ胴を薙ぎ、ビシビシとしなる尻尾を、殴るように振りかぶる鼻面を打ちのめした。

 大丈夫かあ、と森の中から声がする。制服のお巡りさん達と、ホワイトボードの前にいたおっさんがこちらへ駆けてきた。

 鞭のように襲い掛かる尻尾をガッと摑み取り、比企がTシャツの背中に手を突っ込んだ。やっぱり持っていたのか。アーミーナイフを引き抜いて、摑んだ尻尾を三十センチ近くのところでブツリと切り落とす。ビチビチと跳ねる尻尾を、赤毛の探偵は俺達の足元に放って寄越した。

「こいつで正体を解析できる! 保存頼んだ! 」

 偉いおっさんがやってきた。比企と桜木さんがバチバチ殴っているデカブツを見て、目をひん剥きあうあうとうめきながら指を差すが、うん、あんなもん初めて見たら大概、そのくらいしか反応できないよね。でもあそこでイキイキギラギラ戦ってる女は、初手からこうだったからね。

 俺は親指人差し指で、足元でまだビチビチ跳ねてる尻尾をつまみ上げ、おっさんの目の前にぶら下げて見せた。

「あのでっかいのの尻尾の肉です。調べたら何かわかると思いますよ」

 まだアワアワ言ってるおっさんを見て、結城が大丈夫っすかー、と肩を摑み軽くガクガク揺さぶった。おっさんがハッと我に返り、俺がつまみ上げてる尻尾を見て、君、それは、と訊ねる。俺は同じ説明をもう一度して聞かせた。あとからついてきたお巡りさんに、未詳生物の生体標本だ、大至急科研へ調査を依頼しろ、と持たせて下山させる。

 比企が体当たりで木の幹に挟まれかかる。受け止めた両腕をクッションのようにして衝撃を弱める、その一瞬の間に、桜木さんがデカブツの前腕の付け根に鉄パイプを叩き込んだ。桜木さんもくたびれてきているが、比企はもうボロボロだ。見るからにやばい。

 桜木さんが持ってる鉄パイプが、一撃入れるたびに凹んで、小さい子供が噛んで遊んだストローみたいになってきているのだが、鉄パイプですらそんなことになっちゃう相手に、素手で挑んでいるのだ。倒れた拍子についた草の汁や土で服はドロドロ、腕や頬は擦り傷だらけ、さっきの体当たりでだろうか、額が割れているみたいで出血している。

「比企ちん、お巡りさん大勢来てるよ」

 結城が状況報告。

「警官隊は何か装備は持っているのか」

 まさやんがおっさんに、お巡りさん達は何か道具とか持ってきてますか、と訊ねた。

「ど道具、」

「でかい動物を捕獲したり駆除したりするとき使うようなものです」

 そこにもう一人おっさんが追いついた。

「一応、熊や猪の捕獲用のネットを持たせてるが。バズーカタイプで射出して、上から被せるタイプだ」

「比企さん聞こえたか」

 俺が確認すると、ああ、と答えが返った。

「こちらでどうにか、一瞬だけでも動きを止めてみる。その隙にありったけ被せてくれ」

「わかった。でも無理すんな比企さん」

 俺は二人に増えたおっさん達に、比企の言葉をより具体的に伝えた。

「バズーカネットを持ってるお巡りさん達を、この草っ原を囲むように配置してください。あの二人が怪獣の動きを止めてみると言ってます。合図があったらネットを放出してください」

 おっさん二人が、え、え、と顔を見合わせきょときょとする。

「お願いします」

 思わず圧をかけるように念を押すと、やっとああ、とコクコクうなずいて、おっさん達はお巡りさん達へ無線で指示を出した。

 森を吹き抜ける風は爽やかで、日はだいぶ傾いてきた。夕方四時五十分、一年で一番夕方が長い季節の、一番空が美しい時間。それなのに、この草っ原とその周囲の森の中は、息をするのもしんどいほどの緊張に支配されている。

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