第45話 五人とひとりとサマーキャンプ 2章
それはあとから聞いた話で、だから俺が直に目撃し体験したわけではない。
ともかく。
それは俺達が知らないところで起こり、静かな湖畔の小さな町を、恐怖の底に叩き込んだ。
木曜日のことだった。
朝から見事に晴れた空の下、ハイキングに興じる若者達がいた。
蛍光色のジャケットに登山用のリュック、チロリアンハットや登山用の帽子、トレッキングシューズやマウンテンブーツで装備を固め、リュックのサイドポケットには折り畳み式の携帯用登山杖。キーホルダーがわりに熊よけの鈴をつけ、朗らかに歌いながら山道を歩いていた。グループは四人。男女二名ずつ、登山やハイキングが好きなカップルふた組のダブルデートで、夕方には湖畔の町へ降りて、民宿で一泊して帰る予定だった。仕事は日曜日まで早めの夏休みをもらい、土曜日には自宅近くの花火大会へ行く予定で、女性二人は、新調した浴衣の柄のことなど話しながら、景色を楽しんでいた。
小高い山で、頂上に近くなった頃、木々の間から湖が見えてくる。ちょっと突き出た低い崖の上の、山道に沿ってベンチが置かれた木陰で、四人はちょっと休憩することにした。
頂上で昼食をとり、景色を写真に収めて下山するつもりなので、ここでは水分を取るくらいだ。山へ入る前に自販機でペットボトルのお茶や水を買い、喉を潤し、ほっと息をつく。
蛍光ブルーのジャケットを着たボブヘアの方の女性が、そうだ、と自分の携帯端末を出し、崖の上から湖が一望できる様子を、カメラ機能で撮影し始めた。もう一方、蛍光ピンクのジャケットにポニーテールの女性も同じように端末を出し、風景を写真に収める。各々恋人と二人で、それから女性二人で、全員で記念写真を撮影する。
湖に白い遊覧船があらわれた。うん、これは絵になるな、と男性二人も撮影を始める、そのときだった。
「何だあれ」
不意に、蛍光グリーンのジャケットを着て、ここに来るまで先頭を歩いていた男性が、え、と声を漏らした。
「え。あ、え、…おい」
慌てて端末の画面を操作し、カメラを目一杯ズームさせる。あれ見ろ、と仲間達に注意を促したその声は、自分が何を見ているのか信じられない、と言いたそうな、奇妙な緊迫感に包まれていた。何かを感じて、仲間達が寄ってくる。
連れの蛍光オレンジのジャケット姿の男性が、大慌てで一度しまった端末をポケットから出し、湖面をムービー撮影で記録し始めた。
「何だあれ」
女性二人が小さく悲鳴をあげ、各々パートナーにしがみつく。
その光景は、映画でも見ているような感じだった。遠すぎて音が届かない分、現実感がごっそり抜け落ちていたのだ。
湖の真ん中辺り、水深が一番深いところで、遊覧船が沈みかけていた。
船体の真ん中がへし折れているのを見ると、エンジンや船体のトラブルは考えにくい。それが証拠に、湖面から巨大な影がぬうっと伸び上がり、船に食らいついていた。
細長い口の形。ガバッと大きく開いたその様は、どこか爬虫類を思わせた。へし折れた船から、黒い豆のような何かがこぼれているが、その正体についてはできるだけ考えないようにして、とにかく撮影を続けた。
そこに、右手からもう一つ影がやってくる。湖面を割って波を立て、沈みゆく船のもう半分に近づいて、同じように長い口をバカっと開いてかじりつく。ザバザバと波を立てながら折れた船体を振り回し、すぐに放り出して、湖面に落ちたものを口の中へ掬い取っていく。が、すぐに影同士は互いの存在に気が付き、荒波を立てて争い始めた。
音がないゆえに、妙に間伸びしたカタストロフ。影の争いは、決着がつく前に湖に飲み込まれ、あとに残ったのは、遊覧船の残骸と水面へまばらに浮かぶ黒い豆のような何か。
四人は慌ててリュックを背負い、警察に知らせるために元来た道を引き返した。
同時刻、今日の昼飯のメニューを気にしながらノートを取る、俺の名前は八木真。
そんな大事件がすぐそばで起きているなんて夢にも思っていない、ちょっとキュートな高校三年生男子、受験生真っ盛り。
受験対策で、大手予備校がやってる学力向上サマーキャンプに友人達と参加するために、県境にある湖畔の町へやってきた俺は、早速何かが起こりそうな、うっすらと真綿で首を絞めるような恐怖を感じていた。
午後の散歩で出会った子供が見たと訴えていた、湖の怪現象。生物を思わせるそれはどこか、去年の夏、まさやんの親戚の民宿を手伝いに行った海で遭遇した、あのキメラ生物を思い出させた。
サマーキャンプは現在四日目。十日間の講習に集合日と帰宅日があって、全日程は十二日。その間に、せめて学力向上に集中させてほしいのだが、どうなることやら。
今日の講義が全コマ終わって午後三時。今日はまだ気温が高くて、散歩はもう少し日が落ちて、気温が下がってからにしようと思い、俺とまさやん、源、美羽子は宿舎に残り、結城と忠広、比企の三人が買い出し部隊として、コンビニへ歩いて、お菓子や飲み物を買い溜めに向かっていた。講義が終わるとすぐに出発して、すでに四十分近く経過。あの三人なら、美羽子がいない分もっと早く往復できるだろう。なんてのん気に構えて、俺は自習室でノートをまとめていた。
誰の端末が鳴っているんだろう、とぼんやりしていたが、部屋中の生徒達の視線が突き刺さる。あ、俺のか。すんまっせん。
チャットのマルチ回線で通話が入っていた。ノートをまとめるのはほぼ終わっていたので、筆記具や教科書をまとめて自習室を出る。
「もしもし」
「ベンチで囁くお二人さん」
「いや比企さん、そのボケはいいから」
俺のツッコミに、忠広がヤギ今外に出られるか、と何事もなかったかのように訊いてきた。
「できれば全員。まさやんと源は戦力として、あと本当はあんまり関わらせたくないけど、ハブられたとか言って騒ぎそうだからな、美羽子も連れてきちまえ」
「いいけど、何があったん」
「それは、電話じゃちょっと。できるだけ急いでくれ。コンビニで待ってる」
「…やばい感じのやつか」
俺の質問に、やばいなとひと言、いつもよりシリアスな結城の声が入ってきた。
「今、比企さんが色々訊いて回ってるよ。近寄れないほどじゃないけど、ちょっとピリついてる」
「わかった。結城、すぐそっち向かうから、比企さんに伝えてくれ。忠広はコンビニで待ち合わせって言ってたけど、それでいいか」
「ああいいよ。俺も待ってる」
早くきてくれよー、という結城の言葉で通話は切れた。
急いで源とまさやんを呼び、源に頼んで美羽子に電話で出てくるように知らせる。通用門の前で集合して、大急ぎで町まで降りた。歩くと結構距離がある。忠広と結城の様子からかなり緊急っぽかったが、何が起きたんだ? 道中、俺は電話で二人から聞いたことを伝えた。
「とりあえず結城の竹刀も持ってきてやって正解だったな」
まさやんと源は、買い出し組から非常起こしと聞いて、自分達のと結城のと、竹刀を持って出てきている。
「美羽子、お前彼氏が一緒だからってムチャクチャするなよ」
俺に釘を刺されて、しないわよ、とむっと膨れて答えるが、すぐにねえもしかして、とハンカチで汗を拭きながら、誰にともなく訊ねた。
「この前の、あの男の子が言ってた影でも出たのかしら」
「あの釣具屋のか? 」
まさやんが、ないだろ、と切り返してから続けた。
「と言いたいところだけど、なあ、俺らこの一年ちょっと、比企さんとつるんでて、まずあるわけがねえって出来事に遭遇しまくってるだろ」
「してるな」
「確かに」
うなずく俺と源。
「ってことは、今回もそのパターンなんじゃねえの」
「ありうる」
「同じく」
「というわけで、源」
俺とまさやんは、後ろを歩く彼氏彼女に向かって、肩越しにサムズアップした。
「ガチでやばい展開になったら、お前は先に笹岡連れてずらかれ」
「頼むぞ源、もうこいつは俺達人類の手には負えない、お前だけが頼みだ」
「…ああもう、わかったよ。でも、」
そこで源は、ギリッギリのキワッキワまでは全員一緒だからな、そしたら俺は美羽ちゃんを安全圏まで送り届ける、と答えた。
え、やだまじで。送り届ける、ってことは、届けたら戻るっていうことじゃん。やだカックイイ! 抱かれたい男今期ナンバーワン!
だからこいつは、男女問わず人気があるんだよなあ。底なしにいい奴なのだ。
美羽子もできる限り急ぎ足で俺達のあとにくっついて、どうにか二十分。合流地点のコンビニでは、軒先の日陰で忠広と結城がチューペットを分け合いながら、俺達の到着を待っていた。二人の足元には、大判のコンビニ袋にスナック菓子とジュース、紙コップ、菓子パンや惣菜パンがいっぱいに入っている。就寝や起床、食事の時間さえきちんと守っていれば、散歩や買い食いについてはあまりうるさくは言われない。せいぜいが、飲食してもゴミは片付けて散らかさないように、と注意される程度なので、サマーキャンプ参加者の大半が、こうして散歩ついでに買い出しに出てくるのだ。店の中には他にも何組か、講義や食堂で見かけた顔があった。
何があったんだと俺が訊ねると、忠広が首にかけたスポーツタオルで顔を拭ってから、ちょっと待て、と焦らしプレイ。
「もうすぐ比企さんが戻るから」
「その比企さんはどこ行っちまったんだ」
「遊覧船の営業所。そこの、三階建てのビル。遊覧船乗り場が脇っちょにあるだろ」
見れば小さな湖畔のビルの前には、白と黒の車が赤いランプぴこぴこで三台ばかり停まっている。
何あれ。何が起こってるのまじで。
不意に正面扉が開いてひょっこり出てきたのは、見慣れた苺色の赤毛に真っ白い肌、珍妙なTシャツとブーツカットジーンズという出立ちで、眉間に不機嫌な皺を寄せた比企だった。見送りに出てきた偉そうなおっさん達が、コメツキバッタみたいに頭を下げている。
コンビニの前へやって来て、俺達が合流したのを認めると、呼びつけてしまってすまない、とひと言、
「もう少し涼しいところへ行こう」
歩き出す比企に、どこ行くの? と美羽子が訊ねると、うん、と答えて、ついて来たまえと俺達を促した。
「立ち話で済ませるには、ちょっと面倒なことになってきた。茶でも飲みながら、全員で情報を共有しておこう」
そして五分後。
営業してるのかしてないのか、外から見ると薄暗くて判然としなかった小さな喫茶店の奥の席で、俺は比企からハイキング客がとんでもないものを目撃した、その一部始終を聞かされたのだった。
「というわけで、」
比企は空になったポットから次の一杯を注いで、これが今日の午前、気のいいハイキング客が見たものだ、と言って、尻ポケットから数枚の写真を出した。
「ハイキングに訪れたはずが、とんだものを見てしまった行楽客は、写真と映像で目撃したものを記録して、そのまま大慌てで山を降り、正直に警察へ駆け込み通報した。この写真は、彼らが撮影して提出した画像データをプリントしたものだ。丁度その頃、遊覧船の営業所から、定期航行している遊覧船が、定刻を過ぎても戻らない、通信も繋がらないと通報が入っていた」
そこに写っていたのは、限界までズームにしたのであろう、やや荒い画素で輪郭はぼやけ気味だが、黒っぽい塊が遊覧船をへし折る様子だった。次の写真では、真ん中あたりで折れた船体の片割れに噛みつき振り回して、こぼれ落ちた何かを、細長い口の中に流し込んでいる。その口の形は、あまり積極的に思い出したくない、あの形によく似ていた。
そして最後の写真を見た、そこで比企がスッと写真の右隅を指差したのだが。
最後の写真は、なかなかショッキングなものだった。
まず、黒い塊りが二つになっている。更にそのどちらもが、船の残骸を長い口で咥え、黒い豆粒みたいな何かを口の中に放り込んでいる。その豆粒が何かは、全力で知りたくなかった。
「問題はこの、最後の写真だ。右隅を見たまえ。ここに、山から何か大きな物が滑り降りたような跡が残っているだろう」
確かに、不自然に狭い範囲で、地滑りのような地面が露出している部分があった。ということは、つまり…。
「このどちらかが、山にいたのだろう」
ということは、
「妙にこの辺りの山の中が静かだったのは、こいつのせいだろう。生物は脅威になるものに対して敏感だ」
「山の中がおかしいってのは、みんな気づいてたのかな」
源がアイスコーヒーで喉を湿らせながら首を捻った。そういえば、と結城が答える。
「コンビニでレジ待ってたら、前で会計してた爺ちゃんが、今年は蝉が静かだな、なんて言ってたよ」
そうだな、と比企もうなずいた。
どうやら買い出しに来たところで、コンビニの前から遊覧船の営業所前にパトカーが停まっているのを見かけ、何があったのか確認に行ったらこの騒ぎだった、というのが実際のところだったそうで、営業所でもこの写真を見て、そういえばここのところ、鳥を見ないなと話題になったのだという。それにしても、そんなトラブルでゴチャゴチャしてる最中のところに入って、よくまあこんなものまで借りてこられたもんだ。
比企はしれっと言いやがった。
「ID見せたら色々見せてくれたから」
そういえばこういう奴だったよな! うん知ってた!
「これが一番面倒がなかったから」
そりゃそうだろうよ。
で、まあそうやって超法規的に比企が入手した情報によりますとね。この写真の、地滑り部分ですね。これに気がついた人がいたようで、この痕跡を追いかけるために、お巡りさんが山に入ったそうでね。さっき、俺達が合流するちょっと前に青い顔で戻ってきたそうで。
あかんダメだと繰り返すばかりだったお巡りさんを、一発どついて正気に返らせ証言を引き出したところが、山の中、ハイキングコースからは大きく外れた森の中に、めちゃくちゃに食い散らかされた猪の死骸があったらしい。腹の中が空っぽで、内臓だけを食われていた。頭には執拗に噛み付いた痕跡があり、そこから脳を食うつもりだったのだろうか。
似ていないかと比企はため息をついた。
「陸上でも水中でも生存できて、肉食の大食らい。獲物のどの部位が栄養価が高いのかを知り尽くし、人間の生活圏に堂々と入ってゆく大胆さと知能の高さも持ち合わせる。情報が出てくるほどに、私は去年の夏休みが思い出されて、実に嫌な気持ちになってしまったよ」
さて、と比企はパンと手を打った。
「以上が私の得た情報と、当座の感想だが、」
戦友諸君の印象はどうかな、と俺達の顔を順々に見回した。
そう、今わかっていることは、全部同じ方向へ矢印が伸びてはいるのだ。でもその矢印が何を指しているのか、肝心のそこが見えないだけなのだ。なんとなーく、シルエットや匂いでおぼろげに察するぐらいが精一杯で、だけど、いくらなんでもそれはあり得ない話だろう。話が御都合主義過ぎるよ。
だから今、俺達がここで語り合えるのは、あくまでも印象であり感想でしかないのだ。こんなもの、推理でもなければ推論でもない。もっと筋が通らないムチャクチャなものだ。
似てるなんてもんじゃねえよな、とまさやんが頭を掻いた。
「あのときはマグロとか、でかい魚で始まったけどよ、今のこれ、猪か。猪だって山の中じゃあ、結構でかい獣だろ。しかも、栄養価の高い部分だけ食って放置だ」
山狩りでもすれば、まだ出てくるんじゃないのか、とまさやんはアイスコーヒーをガブガブ飲んで氷をバリバリ噛んだ。
「気味が悪いくらいそっくりだよな。頭のよさとか、気性が残忍なところとか」
「あの遊覧船を襲って乗客を食うところとか、更にその上前を跳ねようとするとか、同じ何かを感じないか」
結城と忠広が続けた。
「比企さん、あの俺達で退治したあとの死骸って、最後はどうなったの」
源の質問に、処分されたと聞いたよと比企が答える。
「あの大きさだからね、一度には捌き切れず、解体して、何回かに分けて焼却処分されたそうだよ。所詮は遺伝子工学が産んだ徒花、存在自体がイレギュラー過ぎて、標本を取ったところで何になるでもない」
後にも先にも続かないものだったんだ、研究のしようがないから引き取り先もなかったのさ、と比企は紅茶を飲み干して、次を注ごうとした。が、ポットは空だったようで、手を挙げて追加を頼む。
俺は我ながら嫌になるほど弱々しい笑いで、震えそうになる声をどうにか誤魔化した。
「…でもさ、まさかあれじゃあないよな? だって去年の夏に、みんなあれがきっちりカッチリ死んだところ、見たもんな? 比企さんだって完膚なきまでにやっつけただろ」
あんなもんが二匹も三匹もいてたまるか。
だけど比企は、どこか遠くをぼんやり見ながら、ああ、とだけ答える。
「あのときのあいつは、確かにきっちり殺したよ。だけど、だからといってもう何も起きません、とは言い切れない。去年の事件のどこかで、誰も気がつかない漏れがあったとしたら。表に出ないだけで、隠れたところで何かが起こっていたとしたら」
ああまったく、とため息をひとつ、
「嫌な予感ってのは、どこまでもつきまとうストーカーみたいなもんだな。どんなに気にかけまいとしても自己主張が激しくて、いやでも目に飛び込んでくる」
お待たせしました、と年季の入った看板娘がティーポットを持ってきたところで、仕方ない、と比企は端末を出した。
「表と裏と、回せる手を回して探ってみるさ」
情報を得るのに公社のIDを出したからな、今頃シンにも報告が行ってる頃だろう、最低限、嘴突っ込んだなりに動かないとな、と言って、比企はすごい速度でメールを打ち始めた。
その翌早朝、湖畔に流れ着いた遊覧船の残骸の中に、へし折れたあひるの首が混じっていたことで、騒動は更に大きくなった。
あの悪ガキが言っていたのは、全部本当のことだったのだ。
だが、それを俺達が知るのは、その日の午後のことだ。
朝と昼の食事、それに講義の合間の休憩時間ともなると、さすがにきのうの町の様子が噂になっており、コンビニで結城と居合わせた数人が、何か知ってるかとやってきて、自分達が聞き齧った町の噂を持ち寄り、みんな事態を把握しようと必死だった。
幸い、噂といってもせいぜいが「遊覧船の会社の前にパトカーが来てた」という程度で、船が沈められたの、山にもやばいものがいそうだのといった情報は、まだ漏れてはいないようだった。
俺達はできるだけ、自分からは話を切り出さず、当たり障りなく乗って相槌を打つだけにとどめていた。以前「中途半端に知る者ほど語りたがる」なんてことを比企が言っていたが、なるほど、こういうことか。
昼飯は、パンやクラッカーと主菜副菜、デザートやパウチのお茶がついてくるミールキットを配られて、各自好きな場所で食べてから、講義を受ける教室前のゴミ箱で空容器を回収するシステムになっている。意外とうまいミールキットを食いながら、俺達は宿舎棟と教室棟の間の中庭でだべっていた。話はどうしたって、きのうの遊覧船の一件になってしまう。それとなく周囲を窺いながら、ついつい、少し声を低めてしまう。
「ね、比企さん、あれから何かわかった? 」
美羽子がきのう発信したメールの返事について訊ねた。表と裏から手を回す、なんて言っていたが、何をどこへ問い合わせたのやら。
比企はミールキットの封を開けて、ミートボール入りトマトシチューにクラッカーを半分、バキバキ握り潰して混ぜ込み、残り半分の五枚で、ツナポテトを乗せて齧り、シチューのミートボールを割って乗せては齧り、あっという間に食ってしまった。デザートのゼリーをつるりと食ってから、物足りなさそうな顔で、筆記具や手荷物を放り込んだ手提げからオレンジを出して、カランビットナイフで切り分けて食い始めた。俺達にも切り分けてくれて、次のひと玉を鞄から出してまた切る。
さてねえ、と比企はいささかくたびれた調子で答えた。
「まず、表からは現在回答待ち。早くても答えが来るのは今夜だそうだ。で、裏の方だが」
悪いニュースと悪いニュースのどっちを先に聞きたい、と続けやがった。
「それ、いいニュースと悪いニュースじゃないのかよ」
「両方悪くてどうすんだよー」
源と結城が突っ込むが、実際そうだから、としれっと答えて、
「両方悪いんだから仕方なかろう」
「わーった、それじゃあわかりやすい順番で頼む」
まさやんが片付けた。
比企がきのう打っていたメールの一通は、馴染みの情報屋への依頼だった。去年の夏に遭遇したキメラ生物と推測されるもの──遺伝子地図や生体サンプル、及びそれに準ずる、要はあれをもう一度作ろうと思ったらできてしまう情報や材料が、アングラサイトで売買された形跡がないか。あるいはどこかの諜報員がそうしたものを手に入れてはいないか。
「諜報員? 」
スパイが? あんなもん手に入れてどうするんだ。訝しげな顔の俺達に、どうとでもなるんだよ、とため息をついた。
「何せ〈核なき大戦〉からこっち、どんな国でも欲しいのは、汚染されてない領土と資源だ。威力の高い兵器は、どうしたって環境を汚す。だからこそ、蹂躙はすれど汚染はしない兵器か、それに成り代わるものがほしいのさ」
それを思えば実にうってつけだろう、と比企はオレンジの皮をまとめてコンビニ袋に放り込んだ。口を縛りながら、あの画像がよく似ていたから気になって、頼んでみたのだと言った。
「…で、どうだったんだ」
お茶のパウチを搾り切って最後の一口を啜り、忠広が訊ねると、ああ、と比企はまずいものでも食ったようなしかめ面でひと言、当たりだったよと答えた。
嘘だろ。え。嘘だろ。
「アングラサイトの中でも筋金入り、ネットワークの海の最深度にある、
やれやれと立ち上がって、頭が痛いよと比企は大欠伸。
「買ったのは中央アフリカの武装組織。売ったのはまるで無関係のバイヤーだが、間に二人、バイヤーだのブローカーだのを挟んで、去年の事件の関係者にぶち当たった」
ここからがもう一つの悪いニュースだ、と比企は頭を掻きむしった。
「最初の売り手は、私が採取した肉片のサンプルがあったろう。あれの解析を頼みに持ち込んだ海洋学教室の、学生の一人だった」
「…は? 」
「げ」
「うえー? 」
あんなもん、買う奴なんているのかよ、と思ってたらいたわけだが、そもそも売る奴が存在すること自体が驚きだ!
売り手がいるからこそ値がついて商品になるし、買う者がいるからこそ売ろうと思う人間があらわれるんだ、とミールキットのゴミをまとめて、比企は首を回してほぐした。
「よくある話だよ。大学に入ったはいいが、仕送りでは生活と学費をギリギリ賄えるかどうか。友人との付き合いや雑費などに割ける金に困って、利のいいアルバイトを探すうちに、とても危ない仕事に関わってしまう。逆に借金を背負わされ、死ぬまで縁を切れないなんてことになる」
まったく、金が仇の世の中だ、とため息をついた。
「で、裏から覗き見した限りでは限りなく状況は黒。あとは正面玄関から礼儀正しくお伺いして、応接間で何が見られるか」
「いやな予感しかしねえな」
まさやんが鼻の下を擦った。
正面からって、そっちはどこに何を頼んだんだろう。俺が訊ねると、ああ、とうなずいた比企は、
「公社経由であの事件を捜査した県警に問い合わせて、サンプルの盗難届が出ていないか調べてもらっているんだが」
「黒にポテチ一袋」
忠広が言った。
「黒に麦チョコ」
「黒にコーラ一・五リットルペット」
「黒にねるねるねるね一パケ」
源、まさやん、結城が続く。
「黒にすいかバー」
俺も乗った。美羽子が不謹慎でしょ、と源以外の野郎四人の額をぴしゃぴしゃ叩いていく。彼氏をえこ贔屓しすぎだろ。
比企はブホッと吹き出しヒイヒイ笑った。
「それじゃあ賭けにならないぞ」
「比企さんなら何を賭けるの」
美羽子が訊ねると、そうだな、とちょっと考えてから、比企は答えた。
「『虚無への供物』初版本」
「なんだよそれ」
俺達は一斉に突っ込んだ。
そして午後の講義二コマの間の休憩時間。端末の画面を見て、比企は実に不機嫌な、これ以上ない凶相になった。が、鬼の形相は一瞬で掻き消え、すぐにいつもの平静なものに変わる。
何があったのかは、あんまり知りたくないなあ。
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