第44話 五人とひとりとサマーキャンプ 1章

 窓の外にはもりもり輝く緑、燦々と降り注ぐ陽光を跳ね返す湖。室内はクーラーで快適な温度に整えられ、部屋中に居並んだ少年少女は黙々と、講師がホワイトボードに書き込む年号や解説、口頭でなされる補足説明をノートに書き込んでゆく。

 俺の名前は八木真、今は仲間達と一緒に、大手予備校が主催する、学力向上サマーキャンプに参加している。

 サマーキャンプは十日間、東京と山梨の県境の、小さな湖がある山間の小さな町の外れ、山の中の保養所を借り切って行われている。その間、朝九時から午後三時まで、昼食を挟み、一時間毎に小休止を挟みながら、受験に向けた講習を受け、文字通り学力の向上を目指すわけだ。

 今回、俺と一緒に講習に参加しているのは、幼なじみの忠広と美羽子、美羽子の彼氏の源、その幼なじみのまさやんと結城。全員同じクラスで、ずっと遊びも勉強もつるんでやっている。更にもう一人、いくら彼氏が一緒だとはいえ、自分以外は野郎ばかりで話し相手がいないのを嫌がり、美羽子が声をかけた仲間がいた。

 比企小梅。かれこれ一年ちょっとの付き合いになるが、こいつとつるむようになってからこっち、俺達六人は退屈とは無縁の生活になった。容姿も中身も規格外、破格のスケールの女なのだ。

 見た目は可憐なフランス人形。一皮剥けばボスゴリラ。そういえばゴリラの学名はゴリラ・ゴリラ・ゴリラだそうで、どこまで行ってもゴリラでしかないって、悲しい運命だよな。いやそれは今はいいのか。

 元自衛隊の工作員で、ロシアの貴族だか金持ちだかの曾孫で、頭はいいけど野武士みたいな奴だ。ただ、気のいいところもあるし、困ったときには必ず助けてくれるし、弱いものには手を差し伸べる。

 高校三年の夏休み、かくしていつもの俺達七人は、夏休み前半を受験対策に費やすことになった。

 

 散々迷った末に俺が定めた進路は「大河内学園大学部で地政学を学ぶ」というものだった。

 地理の知識と国際情勢やその歴史、両方をきちんと学ばないと大変な学問だけど、その分やりがいはありそうだし、何より就職先には困らなさそうだ。あと、たぶん冗談半分でだったのだろうけど、比企の兄や・ヴォロージャさんに言われた「大学を卒業されたらぜひ御嬢様バンノチカのブレーンに」というお誘いが、ちょっと魅力的でもあった。その話が現実になったとして、そのときすぐに使える知識は、あるに越したことはないだろう。まあ、あくまでお話で終わったとしても、就職に困るようなものじゃなく、実践的な学問だから、どうにか食っていけるはずだ。というわけで、俺は現在、文系・理系の授業を共に真面目に受けて、しっかり身につけておかなくてはならないのだった。

 ちなみに忠広は「エンジニアになりたい」とかで、完全に理系に絞った勉強に振り切っていたところ、比企から思わぬ指摘があった。

「岡田君、国語も多少はやっておかなくては、数学や化学の試験問題の意図を読み違えてしまいかねない。その学習法は危険だよ」

 ということで、忠広もまた俺とご同様、必死に全教科の予習復習に取り組んでいた。そして、比企による俺と忠広への学習アドバイスを目の前で聞いていた美羽子と源、まさやん、結城もやはり、うっすらと危機感に包まれたのか、気がつけば俺達七人は、いつもと変わらずつるんで勉強していた。大体が、この手の講習会自体、ほとんどの生徒は同じ学校や近所の仲間と数人単位で参加していて、たまたま気が合ったとかならともかく、このキャンプで友達を作ろうなんて前のめりな奴はまずいない。一人で参加している生徒もいるにはいたが、そんな奴は見るからに競争意識が鼻について、付き合いにくそうな奴だった。だから飯の時間にも、誰にも一緒に食べようなど声をかけられもせず、また当人もそれをよしとしているのか、飯を食いながら堂々と参考書や教科書、ノートを広げているのだった。

「彼女は苦行でもしているのか」

 比企は相変わらずバクバクとてんこ盛りの丼飯を掻き込みながら、初日だったきのうの夕飯の席で言ったものだ。

「せっかく学べる場所に来ているのにな。もったいない」

「何が? さては飯をおいしく楽しんで食えないから、とかじゃないよな」

 俺が突っ込むと、それもあるがと比企は豚カツを摘んだ。

「だって、新しい知識を得たり、今まで学んだことを再確認して補強できる場所にいるのに、全然楽しそうじゃないだろう。学ぶことは苦行ではないぞ」

「え、もしかして比企さん、それが理由でこのキャンプ参加したの」

 美羽子がちょっと目を丸くした。

「ダメもとで誘ってみたらあっさりOKしてくれたから、何でだろうと思ってたら」

 子供兵のマインドセットにはよくある手段だよ、とあっさり言って、比企は味噌汁を啜る。

「私も似たようなものだったからね。元々読書や学問は嫌いじゃなかったから、私に限っていえば合っていたんだろう。戦場で蓄積する虚無感を、新しい知識の学習で埋めていくんだ」

 …ああ、うん、返答しにくいお話をありがとう。

 しかし、と比企は、食堂の隅で一人黙々と授業の復習ついでに飯を詰め込む、ぎっちりと髪を三つ編みにした女子を見て、だがあれはそうじゃないだろう、と柴漬けでもりもりと飯を食った。

「虚無を知識で埋める子供兵は、もっと知識欲や向学心でテカテカしてるもんだ。彼女はそうじゃないだろう。どっちかっていうと、強迫観念と義務感でやってる感じだ」

 講習よりもメンタルケアを受ける方が適切じゃないか、とお茶を啜って飯を流し込んだ。

 普段は全然すごくない、ただの大飯食らいとしか思えない比企だが、こういうところはすげえなと思う。学びを楽しみ、本当にやばいところまで追い詰められている誰かを案じる。そう、こいつは、本当に困っていて、助けが必要な人間が目の前にあらわれたら、コンビニで焼きそばパン買うみたいな当たり前のノリでしれっと助けるのだ。

 そしてひと晩明けた今、席順は特に決まっておらず、好きな場所で構わないのに、例のおさげの女子は教壇の真ん前ど真ん中に陣取って、必死にノートを取り教科書や参考書に付箋を貼りカラーペンでアンダーラインを引いていた。朝から昼飯を挟み、午後最後の講義を受けている今に至るまで、ずっとその調子だった。

 

 朝はまず六時半から七時半に起床。顔を洗い飯を食い、服装は自由なので、各々私服に着替えて、講義が始まる五分前には教室に入る。起床や朝食の時間は割とゆったり取ってあり、行動はそれぞれ自由だ。早く起きて朝食前に自習室を利用する者、食事を済ませてから自習する者、サマーキャンプの宿舎兼講堂の周りの緑道を散歩する者、さまざまだ。まさやん・源・結城の剣道バカ三人はしっかり竹刀を持ち込んでおり、早々と起きて朝稽古に余念がない。比企もまた、同じように早く起きて、詠春拳と八卦掌の形をさらっていた。やや遅れて美羽子が出てきて、一通りのおさらいを終えると、座学で凝り固まった肩や腰をほぐすストレッチを教えて、二人で並んで始める。俺と忠広も好奇心で参加した。確かにスッキリはするのだが、両足を開きぐっと踏ん張って、という中国拳法によくあるあのポーズが実に厳しかった。

「足腰は大事だぞ。腰馬合一というくらいだ」

 そのI字バランスはやめろ。あと頭に載せた水いっぱいに入れた茶碗もどけろって。

 他校からの参加者が目を丸くして見ている。そのうちの数人が、何をしているのかと声をかけてきた。比企は背筋や肩のストレッチをいくつか教えて、自分も一緒にやってみせる。切りのいいところで食堂へ移動した。

 おととい、日曜日の午後に宿舎に着いて、きのうから大体こんな感じで朝を迎えているのだが、剣道トリオや比企のストレッチアドバイスのおかげか、他校のグループとも仲よく交流できている。中には美羽子と比企を見て、紹介してくれという男子もいたが、両方とも彼氏持ちだと言っておいた。美羽子と源は事あるごとにイチャイチャしているし、比企はまあ、ほら、ねえ。桜木さんは仕事だけでなくプライベートでもパートナーになりたいという姿勢がゴリゴリにあらわれている。俺、あの人を敵に回したくないよ。なんか怖いもん。普段がすごいにこやかで人当たりがいいだけに、ガチで怒らせたらやばい予感しかない。

 話がそれた。

 朝は大体そんな感じで、日中は昼飯を挟んで、五十分講義、十分休憩のサイクルで六時間、みっちり学習。それ以降は、午後三時から数時間、休憩が入る。夕食も朝と同じように、夕方六時から七時半までの幅をとり、全員が一斉に入って混雑しないようにしてある。入浴については、二人から三人で使用する宿舎の部屋に浴室がついていた。一斉に集合させて、強引に全員を詰め込めば入らなくはないのだろうけど、受験生が相手の講習会とあって、講義以外のストレス要因はできるだけ排除しているのだろう。祖父ちゃん祖母ちゃんが子供の頃は、朝から寝る間際までぎっちりと学習スケジュールを組んだ講習キャンプなんてものがあったそうだけど、それは逆にストレスにしかならず学習効率が悪いとわかり、今では学校にいるときと変わらない時間配分で集中して学習し、それが済んだらリラックスして、翌朝までにまた学習に適した心身の状態に整える、というのが主流だ。

 きのう、俺達は午後の講義が終わると、今この教室の窓から見えている湖の辺りまで、散歩に出てみた。

 美羽子の歩調に合わせて、片道三十分ちょっと。もりもりと遠目にはブロッコリーみたいな森が広がって隠れているが、湖の岸辺には小さな町があって、サマーキャンプへは、この町の小さな鉄道駅で集合して、マイクロバス二台に分乗してやってきたのだった。普段は静かな町なのだろうが、来週の水曜日、祝日の夜に開催される湖上花火大会を控えて活気付いている。

 レジの脇にばあちゃんが作った漬物やおはぎを置いてる、町で唯一のコンビニでアイスを買って、ゾロゾロと湖に向かってそぞろ歩く。比企はアイスと一緒におはぎも買って、先におはぎを三口で歩き食いしてからアイスに取り掛かった。湖畔に沿って走る道路をのんびりと、水面を吹いてくる涼しい風に吹かれながら、いつも通りのたわいもない話をする。

 民家の中にポツポツと混ざる、農協と個人経営の喫茶店、呉服屋の看板をかけた洋品店、乾物屋に小さな食品スーパー、釣具屋は店の脇から桟橋を伸ばして、湖畔で貸しボートもやっているようだ。ここで釣り道具を揃え、ボートを借りて釣りができるという寸法か。商売うまいな。

 その店先を通りかかったところで、中から子供の声が聞こえた。

「だからほんとなんだってばあ」

 それに答えるのは、いかにも肝っ玉の強そうな母ちゃん声で、バカも休み休み言いな、うちの仕事を手伝わないなら、せめて夏休みの宿題くらいきちんとしたらどうなのさ、と叱りつける言葉。おお、たくましい。

「だっておれ見たのー! うちのボートがさあ、」

「今度は何の漫画を読んだんだい」

「漫画じゃなくってさあ! 」

 いいよもう、という捨てゼリフと同時に、店の中から子供が飛び出してきた。まさやんにぶつかりかけて、どうにかまさやんが避けてやる。が、すぐ脇にいた忠広に衝突して尻餅をついた。

「ああ、すいませんねえ、勢いばっかりでそそっかしい子で」

 中から、これぞ肝っ玉母ちゃんという感じの、スリムながら気の強そうなおばさんが出てきた。尻餅をついて座り込んでいる男の子の襟首を摑んで立たせ、拳骨で頭を思い切りゴチーンとぶん殴る。

「何やってんのまったく、ぶつかったならきちんと謝んなさいって、母ちゃんいつも言ってるでしょうが」

「いやあの大丈夫ですから」

 忠広がとりなすが、ああいいんですよ、すいません、うちのが前も見ないですっ飛んでったんですから、とおばさんは、こちらに笑顔を向けたまま、更に息子の頭を小突いた。ごめんなさい、とぶうたれながら謝る男の子は、見ればいかにも悪ガキといった感じの子供だった。小学校三年か四年だろうか、モスグリーンのハーフパンツにスポーツサンダルとランニング一枚。外遊びが好きなのだろう、よく日に焼けていて、髪は短く切って、あちこち擦りむいて、大判の絆創膏を貼っている。テストの点は今ひとつだけど、カブトムシがどこにいて、クワガタがどこにいるのかをよく知っていそうだ。

 おばさんは息子を襟首摑んだまま、店に引きずって戻った。

「まったく、遊びに出るくらいならうちのことも手伝いな。ほら、あひるボートのお客さん、時間過ぎたのにまだ戻ってこないんだ、あんた行って声かけてきな」

「だからうちのボートが、」

「手伝いが面倒だからって、いい加減なデタラメ並べるんじゃないよ」

「ほんとだもん! おれほんとに見たんだもん! 」

「いいから行っといで。ああ、延長するなら、戻ってから延滞料金お願いしますって伝えるんだよ」

「もうさあ、ちょっとは息子の言うことを信じろっての」

 うーん、そこまで家業の手伝いを嫌がるってのも、何があったんだか。必死だな。

「必死だな坊主ジェーチ

 すっ、と苺色のショートボブが前に出た。

「どうした。おれは見たおれは見たって、一体何を見た」

 淡々と問いかける、ややハスキーがかったアルト。

 いや待て待て待て、俺達はさすがに慣れたが、そのおフェイスで知らない人にいきなり話しかけたら驚かれるからね。実際に、悪ガキは目を白黒させているし、お袋さんの方もぶったまげている。

 だが、そこは鄙びた町とはいえ客商売、おばさんがハッと気を取り直して、あらまあ、いやねえ、と息子の襟首から手を離し、

「もう勉強もしないで、遊んでばかりで。取り柄といえば丈夫なくらいですよ。これでもう少し頭の出来もよければねえ」

「元気なのが一番ですよ。ところで、さっきから彼は、何か見たと必死に訴えているようですが」

 おばさんがあら随分日本語がお上手で、と感心するが、こいつは何でもありのデタラメな女なので気にしないでください。

 いえね、とおばさんはケラケラ笑いながら、いつものことなんですよ、とあっさり片付ける。

「昼過ぎにうちで貸し出したボートが、湖のど真ん中から出てきたでっかい影に食われたー、なんてねえ。いい加減な嘘ついて、手伝いをサボろうって腹なんですよ」

 まったく余計な知恵ばっかりついて、困ったもんです、と苦笑した。比企もそうですか、子供の頃は私もよくやりました、なんて相槌を打つ。それから悪ガキにちょっとかがみ込んで目線を合わせ、それで、と声をかけた。

「どんなものを見たのかな。ちょっと聞かせてくれないか」

 お、今度は耳まで赤くなったな。面白いぞこの坊主。お袋さんのエプロンの裾を摑んで、結構かわいいところがあるじゃないか。

「ほら、さっきの勢いはどうしたんだい。お姉さんが訊いてるんだから、ちゃんと答えな。威勢のいいのは母ちゃんにだけかい」

 モジモジしていた悪ガキは、お袋さんに尻を軽くぶたれ、おずおずと口を開いた。

「…信じてくれる」

 そこで比企は、そうだな、とうなずいて坊主の頭を撫でた。

「いいかな少年シャオニェン、どんなに馬鹿馬鹿しいヨタであっても、本当であればそれはいずれ、ちゃんと誰かの手で証明されるのさ。だから、何かを見たなら堂々と話すといい。──意外と、」

 それを証明するのは私かもしれないぞ。

 比企はうなずいた。悪ガキが母ちゃんのエプロンを離す。

「…おれ、さっきカブトムシ探しに行って、あっちの山に入ってて、そしたらそこで見たんだ」

 こーんな、と両腕をいっぱいに広げて、

「でっかい影が、湖の真ん中から、ザバーって出て、」

 丁度そこに、自分の家で貸し出している、あひるの足漕ぎボートがいて、

「バクってでっかい口が開いて、」

 一瞬で、 

「あひるが消えちゃったんだ」

 まじか。いや、なんか嘘とかフカシで片付けるには、妙な生々しさがあるのだが。何よりこの子は強がって見せちゃいるが、少し震えていてガチにビビり倒している。

 そうか、と比企はうなずいた。

「そのでかい口、というのは、どんな感じだった。カバみたいとか、サメみたいとか」

「こーんな、ちょっと細長くて、うーん、ワニみたいだった」

 比企はちょっとそこで考える様子を見せたが、すぐに悪ガキに向き直る。

「ありがとう。そいつは大事件だね。もしも何日か経って、同じことを他の大人に訊かれたら、そのままそっくりを話せるかな」

「…うん」

「そのときにはよろしく頼むよ。君の証言はとても大事なものだ。ああ、大人はしつこく同じことを訊くだろうが、君と違ってちょっと脳味噌の老化が進んでるからな、何度も聞いて忘れないようにしてるんだ。面倒だろうが付き合ってやってくれ」

 そこで比企が冗談っぽく言うと、坊主はケラケラ笑って、わかった、と答えた。

 子供が奥へ引っ込むと、比企はおばさんにそっと耳打ちした。

「あの怯えぶり、何があったにせよ、さぞ怖い思いをしたのでしょう。通りすがりの私が口を出すことではありませんが、しばらく気をつけてあげてください」

 はあ、とおばさんは曖昧にうなずいた。

 それにしても、と俺はふと思った。

「あの子、あひるボートを見ただけですぐに自分ちのだって、よく気がついたな」

「それなら、貸しボートはこの湖の周りで、うちを入れて三軒あるんですけどね、あれを置いてるのはうちだけなんですよ。遊覧船もあるからね、なかなか厳しいですけど、うちは釣り道具売って、レンタルして、それでどうにかやってますよ」

 どんな仕事も大変だ。大人になるって、それを覚悟の上でやっていくことなのだろうか。

 丁度アイスを食い終わってしまったところだ、帰りの水分補給を考えて、俺達は釣具屋の店先に出ていたスポドリやお茶を買って引き揚げた。

 そこから先の道中、比企はずっと何か考えている風だった。

 

 夕飯を食っている間も、比企は何か考えているようだった。それも、いつものような馬鹿馬鹿しいヨタ話のネタでなく、めちゃくちゃシビアで救いのないことであろう、そういう険しい顔をしていた。

「どうした比企さん、飯足りなかったか」

「俺お菓子持ってるよ」

「ごはん残ってたらおむぎりにしてもらおうか」

 すげえな、即座に腹具合の心配しか出てこない。いや、そうでなく、と比企はさすがに俺達にいらぬ気を遣わせていると思ったのか、目頭を揉んで、ちょっと表情を和らげた。

「さっきの釣具屋の子の話だ」

「ああ、あひるボートが食われたって言ってたアレかあ」

 忠広がたくあんをボリボリ食いながら答えた。

「去年の夏休みを思い出すなー」

 結城がのほほんと味噌汁を啜った。一瞬だけ、比企が片眉を上げるが、丼飯を掻きこむ手は止まらない。

 去年のってもしかして、と美羽子がハンバーグを箸で割りながら声を上げた。

「あの、あんた達が比企さんの手伝いした、怪獣退治? 」

「そうそれ」

 そういえば去年の事件も、予兆は些細なものだった。あまりに些細で、まるっきりの部外者である俺達が調べて集めてまとめなければ、予兆とすら認識されなかったくらいだ。あのときの怪獣は、そういえばワニみたいな顔をしていた。

「いかにも怪獣な感じだったよな」

「十メートルはあったよな」

 まさやんと源がうなずき合う。

「こう、口が長くて」

「尻尾がすごかったよな、あれで殴られたら死ぬだろ」

「あと爪もさあ、ちょっと引っ掻かれれば即死できる」

 俺と忠広、結城が一緒にうなずいた。

「あんたらよく生き残れたわね」

「その中にはお前の彼氏も含まれるのだが」

「何言ってんの。大牙君とあんたらじゃ人間のレベルが違うわよ」

 これだから女子は。

 しかしもう一方の、野武士のような女の方は、ああいう生き物はしぶとくてな、と横に置いたお櫃から飯をよそった。

「さっきの子供の話を聞いていたら、妙に思い出してしまってね。ワニみたいな口だった、なんて、いかにもそう思えてくるじゃないか」

「うへえー…」

 去年の夏のあいつを思い出して、俺は幾分げっそりした。あの、知性はあるのに絶対にわかり合えないことを悟らせる目つき。俺のことなんておやつぐらいにしか思ってない、あの目。ばっくり口を開けたときの、滴るヨダレ。あんなのはあいつ一匹で十分だ。

 比企は、まあ似てると言うだけで、つまらない印象だよとひと言、ハンバーグの残りで丼飯を半分ぺろりと食った。

 

 翌朝、サマーキャンプ三日目。

 きのうやおとといと同じように七時過ぎに目を覚まし、着替えて簡単にベッドを直す。宿舎の裏の広場へ出ると、トリオ・ロス・剣道と比企が、いつぞやのように朝稽古をしていた。美羽子がタオルと麦茶持ってそれを見ている。俺のあとから忠広も出てきた。

 爽やかな夏の朝。梢を吹く風は涼しく、森は実に静かで、清々しい心もちになる。

 おや、と比企が汗を拭いながら顔を上げて、森の奥を見遣った。

「この森、何かおかしいな」

「え、どこが」

「森の奥から巨大タコでも出てくるとか? 」

「なんでやねん」

 比企は自分の言葉で始まる俺達の漫才を無視して考える。ひどい! 渾身のボケだったのに! 美羽子も一緒になって森の奥を窺って、あ、と声を上げた。

「ねえ、蝉の声が聞こえないのよ。この森、なんだか静かすぎない? 」

「そう、森だけじゃない。山全体が妙に静かなんだ。夏の森ってのは、もっと小鳥がいたり虫の鳴き声があったり、忙しないものだよ」

 言われてみれば、小鳥どころか雀の声さえ聞こえてこない。どこにでも無遠慮にやってくるカラスさえ、この三日ほどは見ていなかった。

 こんな鄙びた山の中で、一体何が起こっているんだ?

 飯を食い、今日の講義が始まって、俺はノートを埋めて教科書に付箋を貼りながら、時折チラリと窓の外のぎっちり密集したブロッコリーと、キラキラと夏の日差しをはね返す湖をぼんやりと見ていた。湖面をでっかい遊覧船が優雅に浮かんでいる。

 比企とつるんでいると、退屈とは無縁だが、同時に事件には事欠かないのだ。事件はいらないんだけどなあ。

 午後の講義が終わって、俺達はまたきのうと同じように散歩に出た。きのうと同じように湖畔に出て、今日は逆方向に湖畔を歩いてみた。こちら側には小さいながら砂浜があって、湖畔へ降りて遊べるようになっているみたいだ。浜へ降りる道端には、簡単な案内や自然観察ガイドなんて書いてあった。

「湖畔の林にはヤマガラ、キビタキ、オオルリ、アカゲラ、ヒガラ。湖にはアオサギ、シラサギ、コサギ、カワセミ、バン、カイツブリ、オオヨシキリがいます」

 結城が読み上げる傍では、源と美羽子がカワセミってきれいだよね、なんてキャッキャしている。だが。

「いないじゃん」

 まさやんが今通ってきた林を振り返り、忠広は目の前の湖を見てうなずいた。

 気味が悪いくらい静かだ。確かに、うちを出る頃にはやかましかった蝉の声が、うちの周辺よりはるかに緑が多いこの小さな町へ来てからというもの、さっぱり聞こえてこなかった。

 宿舎の裏山だけじゃない。この町、いや、少なくとも湖に面したこの周囲の山に、何かがある。

 背中を嫌な冷たさの汗が流れ落ちた。

 よくあるベタなホラー物の映画やドラマの世界にそのまま入り込んだら、こんな感じだろうか。何より嫌なのは、何せ俺自身がその世界の住人になってしまっているので、どこへ逃げたって、この状況がついてくる。ちょっとだけ規模が変わったり、顔つきが変わるだけで、それでも恐怖を煽り、ときに命を奪われる危険な状況であることには変わらなくて、ただちょっとだけ運がよくて、生き延びてやるという執着が強くて、危機を切り抜ける知恵とひらめきを得られるかどうか、髪の毛一筋の差で生死が左右されてしまうのだ。

 俺やだよ? 主人公とかメインキャラって柄じゃないもの。自分の生活にスリルもサスペンスも求めてねえって。だけどこの状況は、なんだか、すごく、その、去年の夏をいやでも思い出さずにいられなかった。あの事件の、そもそもの最初から立ち会っていたとしたら、それはこんな風だったのではないか。

 何がどう、と具体的に言えないのがもどかしいが、俺のこの嫌な予感は、ちょっとだけ密度を濃くした。 

 ほんとにもう、何が起こっているのか。正体がわからないっていうのは、本当に恐怖を増幅させるな。

 森はサワサワと湖面から吹く風に枝を揺らし、それ以外の物音を立てることはなかった。

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