第43話 五人とひとりの番外 比企小梅の休日

「それじゃあ行ってくるけど」

 同居人はいささか不安そうに私の顔を覗き込んで、何かあったらすぐに電話してねと念を押した。

「夕方には帰るからね」

 わかったと答える。早くしないと電車に乗り遅れるだろうに、何がそんなに気掛かりなのか。まったく世話の焼ける。

 とっとと行ってこいと背中を蹴り出して、やれやれ、とため息をひとつ。これでやっと静かになった。

 私の名前は比企小梅。生まれたときにはもう、何者になるのかを仕組まれていて、物心ついてから成人までの間を、大人たちのお人形として生かされていたけれど、ある日突然、自由に生きろと放り出された。普通も自由もしあわせも知らない今の私は、なんの因果か高校生なんて身分に置かれている。

 ただし、何かしら仕事をして、金を稼がなくては生活が成り立たない。生まれ持った異能ゆえに生家へ帰ることは憚られ、思案の結果、その能力を利用して、探偵などという賎業を活計の道とした。

 そして、異能と経歴のおかげで監視のためにつけられた上司は、何を思ったか私を自身の家に住まわせて、冒頭のあのやりとりへつながるわけだ。

 頭が痛い。

 

 ことの起こりは、昨夜の夕飯の最中だった。

「小梅ちゃん、」

 この上司、桜木真之介警視は、私を名前で呼ぶ。探偵公社の登録コード〈スネグラチカ〉でも、前職での比企三佐という呼び方でもない。飛び級で大学を卒業し警察キャリアになったそうだが、よくわからない奴だ。私の監督官に就いた時点で仕事は私に張り付く形になったから、在宅勤務もわからなくはないのだが、それは楽しそうに掃除洗濯をし、嬉々として料理を作る。

 このときはブルスケッタから始まって鯛のマリネサラダ、トマトとツナの冷製パスタ、ラザニアが出て、締めのトリフアイスクリームとアールグレイが出たところだった。

「前に話したから覚えてると思うけど、明日は僕、朝から法事で出かけるけど」

「十一時に日暮里だったな。十時前には出ないと間に合わないだろう」

 うん、と答える。ついこの前の事件で、この男は自分を、上司ではなく私の相棒だと断言した。以来、私が官名で呼ぶと機嫌を損ね、実に面倒になるので呼び方を変えざるを得なかった。

「それで、小梅ちゃんは明日はどう過ごす予定なのかな」

 考えていなかった。たぶん、

「寝るか、読書でもして過ごすかだな」

「え、出かけないの。明日も天気だって予報だよ。もったいないなあ」

 いつもの休日は、学友達からの誘いがなければ寝て過ごすのが常だが、この相棒はその度に、いい天気なんだから、涼しくて歩きやすいんだから、など、季節ごとに頭は変われど、散歩でもしておいでよ、という同じ枕詞を持ってくるのだった。

 案の定、せっかくのお休みだよ、と不満そうに口を尖らせていた相棒は、そこで何か思い付いたのだろう、そうだ、と手を打った。

「じゃあ、僕が留守にしてる間、小梅ちゃんもどこかに出かけて、行った先の様子を端末のカメラで撮ってさ、チャットででも送ってよ」

「…はあ? 」

 今度はなんの影響だ。面倒なことを言い出したぞ。

 いいから、と相棒は私の反論の気配を感じて先手を打つ。

「どこかお店に入ったり、何か見つけたり、散歩の途中で見たものを写真に撮って、すぐ送ること」

「なんでそんなことしなくちゃいかんのだ」

 異論を唱えかけた私に、だって、とテーブルを挟んで向かい合う優男は、有無を言わせぬ笑顔で答える。

「こうでもしないと君はまた、寝てるだけで終わっちゃうでしょう」

 たまには女の子らしく、ショッピングでも楽しんでおいで、と言って、相棒はアイスクリームをもう一つ出してきた。

「あと一個あるけど、食べる? 」

 …食べる。

 

 そして一夜明けての、この出際のやりとりだ。

 時刻は九時五十分。保護者は朝食前に掃除洗濯をし、朝食の後の食器まで洗って出かけたので、私のやることはない。この一年ちょっと見ていてわかったのは、私の相棒はどうも家事が好きなようだ。

「…参ったな」

 ボリボリ腹をかいた。これをやると、やれ腹が見えるの、もっと警戒しろのと実にうるさいのだが、今日の外出についても、相棒はあれこれとやかましくルールを定めていた。

 曰く、自分を送り出したらすぐ支度をして外へ出ること。いつものジャージやTシャツではなく、もっと洒落た外出着を着て出かけること。ちょっとお昼を外で済ませただけでなく、午後も足を伸ばしてみること。古本屋や図書館で時間を潰さないこと。

 めんっどくさ。

 だが、何故だかまるっきり逆らおうという気にもなれず、どこかで所与のものとして受け止めているのが自分でも不思議だ。

 仕方ない。文句を言おうにも、肝心の相手はとっくに出かけてしまっている。私は諦めて、まず笹岡さんお気に入りのファッションサイトを軽く検索した。

 こんなときには頭を切り替えて、高校生に変装するのだと思ってやるのが一番楽だ。気分として。

 動きやすさを考慮して、ジーンズとざっくりしたサマーニット、キャンバス地の大きいバッグに、先日の事件で意外と動きやすかったジミー・チューのサンダルにした。荷物は財布と端末、携帯用のバッテリーと、ハンカチちり紙はまあ最低限。あとは、こればかりは持っていないと落ち着かないので、タンクトップの上にホルスターをつけて、スチェッキンをいつものように両脇の下に、背中にアーミーナイフを収める。上からニットを着てしまえばわからない。私は昔から、暗器術は得意だったのだ。腰の後ろにはマガジンを二本。世の中、いつ何が起こるかわからない。備えておいて、やりすぎということはない。最後にちょっとだけ考えて、バッグに読み差しの「百年の孤独」を放り込んだ。

 さすがに外を出歩くので、髪にブラシを入れてから、麻のハンチングをかぶって出発。

 初めて自分で買って以来使い続けている、ごついフライトウォッチで時刻を確認すると、十時二十分を回ったところだった。

 

 いきなり困った。

 世間一般の女子高生は、休日にどこへ行くのだろう。

 今日は日曜日。きのうは仲間で勉強会をして、今日は各々自由に過ごしているのだろう。笹岡さんは源君とデエトだと言っていたので、つまらない質問で二人の時間を邪魔しては申し訳ない。かといって、他の戦友達に訊ねても困らせるばかりだろう。

 初夏の日差しで炙られながら、私は駅へ歩いた。そうだ。駅に着いて、先に来た電車がどちらの方面なのか、それで行き先を占おう。いや、それよりも、路線バスと電車、どちらか先に出くわした方に乗って出かけてみる方が、もっとギャンブル性が増す。まずは駅前を目指そう。ロータリーのバス停にバスがいればそれに乗る。なければ先に来た電車に乗る。これでいこう。

 師父の接骨院の前を通りかかったら、ちょうど玄関先を掃除している師父に行き合った。

「おはようございます」

 私の服装を見て、師父がよしよし、とうなずかれる。

「やっと年頃の娘らしい格好をするようになってくれたか」

 何か勘違いされているようなので、事情を話すと、がっかりしたようなお顔をされた。

「はあ、なるほどなあ。なあ梅児よ、普段からそのくらい身なりに気を遣ったって、バチは当たらんのじゃあないか? 娘盛りのかわいい弟子が、浮いた噂一つないってのは、安心はするが寂しいもんだぞ」

「どちらですか師父」

 私の質問に、師父はああ、いいんだいいんだと笑って、

「それで、お前はこれからどこに行くんだ」

「どこへ行ったものか、正直困っております」

「しかしまた、お前も素直にあの若いののいうことを聞いたもんだな」

「…断るとメソメソ鬱陶しくてうるさいだけなので、仕方なくです」

「まあ、理由はなんでもいいやな、楽しんでおいで」

 師父に見送られて、駅前のロータリーへ向かった。ついでに生垣の梔子を写真に収める。

 駅前に出ると、ちょうど路線バスが着いて、乗客がゾロゾロと降りてくるところだった。ここが終点と始点になっているのだ。全員が降りたところで、運転手が車内を点検して、すぐにエンジンをかける。

 乗ってからフロントガラス上の液晶画面を見ると、稲荷神社を経由して城址公園へ抜けてから駅前に戻る循環ルートだった。さて、どこで降りたものかと考えていると、あとから乗り込んできたおばさん二人連れが、かしましくおしゃべりを始めた。聞く気はないが聞こえてくる会話から、どうも稲荷神社の紫陽花園を見物に行くようだ。

 紫陽花園か。悪くない。

 ただ、おばさん達が終始こちらを見ては、どこの国の子だろうかと囁き合うのは閉口した。

 三十分ばかり本を読みながらバスに揺られて、稲荷神社前で降車する。後ろからおばさん二人も降りてきて、私は目の前の大鳥居を見上げた。鳥居をくぐると、石畳に沿って屋台が並んでいる。今日は縁日なのだろうか。それとも八坂さんの境内みたいに、いつでも屋台を出しているのだろうか。その様子を写真に収めて、チャットで送っておいた。

 屋台の列の端に、境内の案内冊子が置かれていて、とりあえず一部抜き取ってもらった。こうして改めて見ると、これまで思っていたよりも広い。本殿があって末社があって、宝物殿があり、紫陽花園と牡丹園があった。宝物殿には、その昔奉納された来と粟田口の刀を収蔵していると冊子にあった。

 境内の案内図を確認し、まずは正面奥の拝殿で参拝して、拝殿から見て左の宝物殿を見学、それから大鳥居の側にある紫陽花園を見て引き揚げることにした。

 手水舎で両手と口を濯ぐ。俗世間の穢れを神域に持ち込まないためだというが、今ではここまで簡略化されてしまっているのも、人間のズボラさがあらわれているのか、合理化精神の賜物なのか。こんな話をすると、気のいい学友達は理屈っぽいと笑い、腹が減っているのだろうと更に笑う。そんなことをぼんやり思いながら、財布を開けると五円玉が一枚入っていた。

 ここは稲荷社なので二礼二拍手一礼。出雲では二礼四拍手一礼で、柏手の数がなんで違うのかなんてどうでもいいが、様式プロトコルはおとなしく受け入れておけば面倒が少ない。大人ばかりに囲まれて、育つというより過ごしてきたおかげで、処世術ばかりが身についてしまった。

 賽銭箱に五円玉を投げ入れて鈴を鳴らし、柏手を打って──さて、何を願えばいいんだ? 

 そもそもが、二年前に死んでいるはずだった私が、なんで今生きているのかすら、飲み込みきれていないのに。

 ──梅児、そんなときには、土地の神様にご挨拶をするのだと考えなさい。

 ふと思い出した。そういえばいつだったか、師公はそんなことをおっしゃっていた。

 何を願ったものか思いつかないなら、そのくらいのつもりで丁度いいのかもしれない。

 宝物殿に向かった。毎週日曜日と祝祭日には公開しているというが、人の姿はまばらだ。刀装具が好きなのだろうご老人が一人二人、単眼鏡でじっと刃紋や地の目を鑑賞している。蔵の中は年季の入った狐の人形や御神輿の飾り、それに混じって、どんつきの刀装具を並べた一角に、短刀と太刀が一振りずつ、目立つように置かれていた。脇に由来を書いた札が置かれていて、これが奉納された粟田口と来なのだそうだ。確かに、どちらも刀派の特徴がよくあらわれていた。同じ人物によって室町末期に奉納されたという。

 他にも数口、無銘ながらよい刀や薙刀、槍も陳列され、私は存分に目の保養をして宝物殿をあとにした。静かに鑑賞できたのはよかったけれど、これだけの名刀がありながら。こんなに閑散としているのは寂しい。もう少し評価されてもいいのじゃないか。

 宝物殿と違って、紫陽花園は入園者が多かった。小さな子供を連れた夫婦、おばさん数人のグループ、デート中のカップル。

 入口の木戸をくぐったところで、あれ、と後ろから声が聞こえた。

「比企さんどうしたん」

「お散歩? 」

 振り返ると、源君と笹岡さんが立っていた。

「やだ比企さんその服すごいかわいいー! いつもそういう風にすればいいのに! 」

 笹岡さんの言葉に源君もそうだよねえ、と同意して、他の客の視線がこちらに集まり始める。同居人の困った提案について話して聞かせると、二人は仲よくケラケラ笑った。

「桜木さんも心配なのよ」

「だったらめっちゃ楽しいアピールしておかないと」

「あ、ねえ三人で、この中で写真撮って送ってあげればいいんじゃない? 」

 笹岡さんがはたと手を打った。それいい! と源君も大きくうなずいて、早速園の中の、満開になったところで摘んだ花を飾った稲荷狐の前で、なぜか三人で端末を出して撮影。私の端末だけでなく、笹岡さんも自分の端末を出し、通りかかった人にシャッターを頼んだ。二人で写るものは私がシャッターを押して、しばし三人で紫陽花園を散策。

 紫陽花と一口で言っても、品種は何十とあるようで、園内に植えられた株の数も六百を超えるそうだ。元々が近隣でも有名な、規模の大きな神社だが、先先代の宮司の頃に牡丹園と紫陽花園を始めたとかで、ここもかなり知られているそうだ。なるほど、皆こちらに目を奪われているから、宝物殿はあの通りの静けさだったのか。そう言うと、この時季に紫陽花園より先に宝物殿に行きたがるのは比企さんくらいだ、と二人は愉快そうに笑った。

 紫陽花園を出たところで、笹岡さんと源君とは別れた。愛し合う二人の邪魔をしてはいけない。

 

 稲荷神社を出たのは、午後一時半を回った頃だった。

 朝食べたきりで、いい加減小腹が減ってきている。さて、何を食べたものか。

 なんとなく参道を歩いていた私の目に、定食の看板が飛び込んできた。

 煤けたアクリル看板、くたびれた店構え、日に灼けた定食のメニューの貼り紙。

 これだ。

 迷わず入った。

 とりあえず一品頼んで、あまりピンと来なかったら、次は違う店へ入るようにすればよい。

「生姜焼き定食、目玉焼きと納豆付きで大盛り」

 カウンターに座ってから店内を軽く見回すと、他の客は遅めの昼食をとりにきたサラリーマンと、プロレスラーみたいな体格のあんちゃん二人連れ。それと、カウンターの向こうの厨房に頑固そうな親爺。あいよ、と注文を受けて親爺がフライパンに油をひき始めた。

 おしぼりで手を拭き、まずは水分補給。お冷やを半分飲んで落ち着いた。休日には愛すべき同級の戦友達とファストフード店に入ることもあるが、やはりこちらの方がずっとしっくりくる。壁一面に手書きのお品書きの札がびっしり貼られて、カウンターも椅子もテーブルも年季が入っている。おまちどう、とすぐに生姜焼き定食が出てきた。生姜焼きにはキャベツの千切りと、追加で頼んだ目玉焼きが添えられ、えのきとわかめと油揚げの味噌汁にお新香、納豆にはネギと辛子がついている。実にいい。

 保護者が昼と夜の献立がかぶらないよう確認させろと言うので、と適当な言い訳で写真を撮り送る。そこで親爺がお客さん、と呼びかけた。

「うちの大盛りはこいつだが、食い切れるかい」

 丼を手に、確認するように訊ねたので、構いませんと答えた。

「腹が減っているので」

 親爺はそれ以上は訊かず、丼飯を出してくれた。受け取って、手を合わせて食べ始める。

 生姜焼きは程よく生姜が効いてパンチのある味で、まず肉を食っている間に納豆を混ぜる。いい具合に混ぜて飯にかけ、納豆で飯を三分の一ほど食って、お新香をはさみ、肉汁を吸ってしんなりしたキャベツと一緒に生姜焼きをつまみ、飯を口へ放り込み、味噌汁を飲む。出汁が効いて味噌との相乗効果が出ている。うまい。生姜焼きのこのタレは、きっと生姜と醤油に、ごくわずか、醤油だけでは味が尖るので酒と味醂を足しているのだろう。甘味はさほど感じられないが、味は柔らかい。ただただしょっぱいだけでない、奥行きがある。お新香はきゅうりの糠漬けで、浅く漬けているのがさっぱりとしたうまさになっている。目玉焼きも黄身は程よく半熟で、火を通しすぎてバサバサになるなんてことはなく、実に絶妙な加減だった。

 危うく本気で食ってしまいそうになったが、出先で動けないほど食ってしまうのも考えものだ。おかわりも考えたがやめておいた。

 食い終わると、サラリーマンのおっさんとレスラーのにいちゃん達が目を丸くしてこちらを見ていた。なんだなんだと思ったら、親爺まで驚いたような顔で見ていた。

「お嬢さん、そんなに腹が減ってたのかい」

 親爺がため息のように漏らす。そんなに驚かれるほどの食いっぷりだっただろうか。

 うまかったのでと答えると、ありがとうございます、としみじみと頭を下げられた。

 勘定を払って店を出た。満足度に対して、本当にいいのかと確認したくなるほど安かった。

 さて、このあとどうしたものか。

 腹ごなしに、あてもなくぶらぶらと歩く。

 足の向くまま歩いてみる。

 妙に懐っこい野良猫になつかれ、参道の終わり近くの手作りの飴屋で買い物。どうも出来合いのメーカー品より、こういう手作りの店の飴が好きで、京都にいた頃は松原通まで散歩がてら、みなとやで飴を買って帰ったものだった。今日は鼈甲飴と、きれいなアクアブルーが涼しそうだったのでサイダー飴を買ってみた。帳場に立っていたお爺さんが、冷蔵庫で保管すれば、くっつかずに長保ちすると教えてくれた。

 ふと気がつくと、神社駅の前まで歩いてきていた。そして、駅の前には昔ながらの銭湯。稲荷神社があるおかげだろうか、市内でもこの辺りは、古い店構えが多く残っていて、歩いているだけでもなかなか面白かった。この銭湯も例外ではなく、昔ながらの瓦屋根と漆喰の白壁という構えだ。

 ここで汗を流して帰るのも悪くない。時計は午後三時をさしていて、どうやら銭湯も店を開けたばかりのようだった。タオルと手拭いを借りられるこのシステム、すごく便利だが誰が思い付いたのだろう。幸い脱衣所には誰もおらず、ホルスターとマガジンを見て大騒ぎされる、なんてことにはならなかった。

 窓からの日差しが明るい風呂場で、他に客がいない大きな風呂に、のんびりと首まで浸かった。時間帯のせいか、あとから入ってきたお客の数はまばらで、常連と思しきおばあさんが二人ばかりいる程度だ。

 昔、銭湯の壁にはいっぱいに富士山を描くのが通例だったそうだが、ここの壁面には、富士山を中央に大きく描いたその裾野に、日本各地の名所をデフォルメした動物達が回る様子を、カラフルに散りばめている。なんとも賑やかだ。浴槽の一つには、おもちゃのアヒルやきれいな色のスーパーボールがたくさん浮かせてあるので、子供連れのお客が多いのだろうか。

 風呂の湯に浸かって、ぼんやりと明かりとりの天窓を見遣る。まだこんなに明るいのに、もう風呂に入って緩んでいる。ちょっとした非日常な感じ。私の知らない非日常だ。私が知っている非日常は、もっと銃声だの爆音だのでうるさくて、そこらじゅうから煙たい匂いがして、誰のものかわからない手足がその辺に転がっていたのだが。

 こんなきれいな水を沸かして、それに首までどっぷり浸かって、体も頭も洗えて、あまつさえバーニャに水風呂まであって、風呂から出ればマッサージチェアがあり、自販機にはフルーツ牛乳がぎっしり冷えている。…こっちの方が非日常の度合いは強いんじゃないのか? 私も世界の半分くらいは行ったことがあるが、水や食べ物を巡って殺し合うような場所ばかりだったぞ。おまけに、手に入った水が泥水なのはまだいい方で、下手をすれば化学薬品や核で汚染されていることだってある。そうなれば、今度は水を浄化するための設備や技術をめぐってまた殺し合いが始まるのだ。

 脱衣所を出て、番台前のスペースで、ココアとバニラのミックスソフトクリームを買って食べていると、ここの看板犬だというシベリアンハスキーがやってきて、おっとりと私の隣に座った。ちょっと手を伸ばしてみると、撫でる前に自分から顎を乗せ頬を擦り付けてくる。随分と人に慣れているものだ。薄桃色のバンダナを巻いていて、端にショコラと名が書いてある。女の子のようだ。

 番台にいたおばさんに許可をもらい、犬の写真を撮ろうとしたら、肝心のモデルが一向に私の脇から離れない。しまいにはカメラを持つ腕の中に鼻面を突っ込み頬を舐め始め、仕方なくインカメラでそのまま犬を撮影した。しばらく撫でてやると、すぐに腹を出してもっと撫でろと催促してくる。

 おばさんは恐縮していたが、犬は最後まで愛想よく、鼻面を擦り付けお見送りまでしてくれた。銭湯の子らしく身ぎれいにしているのもあるが、かわいらしい顔つきで、毛並みもよく、ホスト役としては申し分ない看板犬ぶりだった。動物は大概かわいいが、犬は特にかわいいものだ。今何を思っているのか、目の前の相手が好きか嫌いか、全部に嘘がない。

 外へ出ると、日が傾いて西の空が水紅色に変わり始めていた。

 ちょうどいい頃合いだ。そろそろ帰るとしよう。

 

 同居人は既に帰っていた。

「おかえり! 」

 機嫌よくいそいそと出迎えると、写真見たよ! とキッチンに戻って包丁を使いながら、

「お花と動物の写真が多かったけど、好きなのかな? 今度何か鉢植えでも見に行こうか? 」

「…そんなに多かったか? 」

 単に見栄えがするだろうと思って撮っただけなのだが。

「あと、源君と笹岡さんにも会ったんだね。相変わらずかわいらしいカップルだよね」

 今度は小さな手鍋でささみを茹で始めた。

「それにしても、稲荷神社の駅前に銭湯なんかあったんだね、見逃してたよ。看板犬のあの子もかわいいし、今度行ってみようか」

 そこでシンが、どうだった、と訊ねる。

「今日一日、こうして歩いてみて。楽しかった? 」

 ふむ。私はちょっと振り返って、

「意外と色々あるんだな。普段通りにしていると、なかなか目には留まらないが」

 発見はあったよと答えた。

 相棒は、そうか、とうなずいて、それじゃあもっといろんな発見をしないとね、と笑った。

「僕はね、普通に過ごす毎日の暮らしが楽しいものだって、小梅ちゃんに感じてもらいたいんだ。だから、」

 まだまだ世界には楽しいものもいっぱいあるって、見て触れていかないとね、と言って、冷蔵庫から麦茶を出してグラスに注いだ。

 つくづく、おせっかいな奴だな。まったく。しかし、そのお節介を、こんなに跳ね除けることができないのはどういうことなのか。人に訊けば、あっさりと単語一つで済ませるのだろうけど、私は違うだろうと思っている。

 そういうのは真っ当な人間のものだ。私みたいに、人を殺すときに新聞紙を使うやり方を八通りも知っていて実行できてしまうような、そんな人でなしには関係のないものだ。

 私は生憎、そこまで上等にできてない。

 さて、明日は月曜日。またいつものように、どこにでもいる高校生のお面をしっかりと貼り付けて、学生に徹しなくては。納得いくか否かは別として、私の戦争は終わってしまったのだ、たぶん。いずれ呼び戻されるだろうと思いはすれど、今は平和の中に身を置かなくてはいけない。

 夕飯だよ、の呼びかけに答えて、私は部屋を出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る