第38話 五人とひとりとご両親

 どうも、ヤギです。人間だけどヤギです。皆様お元気ですか。俺は修学旅行でもやっぱりいつも通りに大冒険してましたけど元気です。

 そろそろえー加減に進路を決めてないとやばいかもしれないですが、みんなどうするんだろう。俺はまだちょっとシンキングタイム。お袋には早く決めろとせっつかれ、親父は何も言わないし、弟は他人事だし、チクショウ!

 いつもの仲間のうち、進路希望が既に決まってるのは以下の通り。

 結城とまさやんは、こだま市内から電車通学ができて剣道を本格的にできるというので、近郊のでっかい学園都市・大河内学園大学の体育学部。源と美羽子は、同じ大河内学園で日本文学をやりたいそうだ。源は親父さんが海外の大学で日本文学教えてるし、美羽子もまあ、女子にはよくある無難な進学だから、おじさんおばさんも賛成だそうな。源ももう挨拶は済ませていて、源道場の孫で師範代、と聞いた途端にあっさり交際を認めたらしい。お祖父さんが元警察署長とあっては、そりゃあ信用するだろう。

 すでに日差しが暑さを含んでいる昼休み、屋上でパン食いながらぼんやりと空を見上げる。俺どうしよう。

 忠広もどうやらご同様と見えて、コーヒー牛乳のストロー咥えてボケーっとしている。

 どうするよ、と俺が言うと、ああ、と忠広がため息のように答えた。

「…みんな大河内受験するんだよな」

「国公立と大して学費変わらないし、面白い学校だっていうしな」

「地方の学校も捨てがたいけど、引っ越しが面倒だし」

「うちから通えるのも楽だよな」

「あと、正直この五人でつるんでるの楽しいし」

 それな、とうなずきあってから、でもなあ、とまた空を見上げる俺。

「唯一のネックが学力だよなあ」

「俺ら全員ギリッギリだもんな」

「かろうじて美羽子が合格圏内か」

 階段室の扉が開いて、内ばきサンダルの足音が近づいた。

「おやおや、八木君も岡田君も、実に景気の悪い顔をしているな」

 どうした、と明らかに面白がりながら、俺達いつものメンバーの輪に加わったのは、

「いやまったく、細川先生には参ったな。せっかくの学力がもったいない、進学する気はないのか、ときた」

 重箱弁当にでかい水筒をぶら下げた比企だった。

 俺達の三年一組で進路が決まっていないのは、俺と忠広、それに比企だが、実は比企は、卒業後に探偵の仕事一本で食っていくつもりでいるらしい。

 クヤシイっ! その脳みそをアタシに寄越しなさいよっ!

 なんてオネエになってる場合じゃない。まじでどうしよう。

 

「いいじゃないか。八木君だって岡田君だって、いや、私の戦友諸君は皆、馬鹿ではないぞ。大河内を受けるなら十分合格圏内だ。受けたまえよ」

 放課後の上海亭で、青椒肉絲定食特盛をモリモリ食いながら、比企は完全に他人事な評価を下したものだ。

「どこが? 」

「俺、進路相談で筆記試験はがんばらないと厳しいぞって言われたぞ」

「俺もー」

「俺も美羽ちゃんと大学行きたいならもうちょっとがんばれってさ」

 でも諸君は勉強するし模試だって定期的に受けているじゃないか、とあっさり片づけなすった。これだから頭のいい奴は!

 そこへ、遅くなっちゃた、ごめーん、と美羽子が財前と一緒に入ってきた。あ、財前よお前も日直だったのか。

 ふむ、とそこで比企はちょっと考えて、ならば夏休みにでも全員で勉強会をしよう、と提案した。

「私は暇だからな、いくらでも諸君にお付き合いできるし、どうやら皆、大学でもバラバラにならず付き合っていきたいようだ。それならいくらでもちからを貸そうじゃないか」

 まじか。それならどうにかなるような気がする。

 まあ、そんな感じで、いつも通りに放課後も、上海亭で飯食ってだべっていたのだが。

 平和な時間はそこで表のサッシが開くまでだった。

 あらまあこの子は、と声がした。

 振り向くと店の入り口に、おばさんが立っていた。

 小柄で、俺のお袋よりちょっとだけ上だろうか。品がよくて若く見える。美人だけど、どこかで見たような見なかったような。でもこんなおばさん、俺会ったことないぞ。

 おばさんは迷わずこっちへやってきた。え。え、誰。まさかこの中の、誰かの隠し母ちゃんとか? え、誰の。俺ちょっとパニック。

「小梅」

 青椒肉絲を丼飯にかけて掻っ込んでいた比企が、盛大にむせた。

「ほらほら、もーあんたは。ゆっくり食べなさいっていつも言ってるでしょう、もー」

 ノースリーブのブラウスに麻のショールをかけ、ゆったりしたパンツとサンダルというおしゃれなおばさんなのに、しゃべると完全に母ちゃんだった。

 美羽子が背中を摩り、まさやんがお茶を飲ませてどうにか落ち着いてから、比企はおもむろにどうしてここに、と狼狽える。なんだこの変な時差。さっき桜木君に聞いたのー、とおばさんは楽しそうに言った。

「母上」

 ああ、うん母上ね。

 一瞬聞き流してから、驚愕が時差でやってきた。

「えー! 」

 だから、なんで変な時差ができるんだってばよ。


 おばさんはまさやんの隣に場所を開けたところに座ると、桜木君から聞いてたけど、すごいお店ねえ、と言って茉莉花茶を飲んだ。

「あらお茶おいしい」

 比企が眉間に皺を寄せて、なぜこんなところまで、とため息をついた。

「ご用であれば、連絡をくださればこちらから参ります。わざわざ母上が出向いて来られずとも」

「相変わらず硬いんだから。いつになったらママって呼んでくれるのかしらねえ、この子は」

「呼びませんよ。母上は母上です」

「あとその敬語はやめなさいっていつも言ってるでしょ」

 おばさんはそこで俺達に向かって、こういう子なのよねえ、とため息をついた。

「あなた達のことも桜木君から聞いてるわ。いつも小梅と仲よくしてくれてるって。ありがとうね」

 それから、小梅の母です、娘がお世話になっております、とひと言、俺達に頭を下げた。

 まじか。

 おばさんはメニューを開いて、あらまあ充実してる、と感嘆し、胡麻団子を注文した。親爺も唐突な比企の母の登場に仰天しながら、とりあえず胡麻団子を揚げにコンロの前に戻る。

 おばちゃんも目を丸くする。親爺がこらぁたまげた、美人親子だなどと軽口を叩いているのを聞き流し、比企がげっそりした顔で訊ねる。

「それで、今日はどのようなご用向きですか母上」

 お袋さんが何言ってるのと笑い飛ばした。

「用がなければ娘の顔を見にきちゃいけないの」

「不肖の娘です。姉上や嫡男のような、自慢になる点なんか一つもない。会ったところで、母上に得られるものなどありませんよ」

「何言ってるの、娘が元気にやってるのか、顔を見たいだけなのに」

 ほんともう、とおばさんがちょっとむくれた。そこに胡麻団子が出てきて、あらいい香り、と鼻をひくつかせる。

 そうか、この人が、比企のお袋さんか。俺は叉焼麺をずるずるやりながら、ぼんやり二人を見比べていた。

 顔はあんまり似てない。何せ比企はどう見てもスラヴ系のロシア人顔だし、お袋さんはといえば、目鼻立ちははっきりしているが、日本人の平均を大きく外れているわけでもない。でも、なで肩なのと、あとよく見ると鼻の形はちょっと似ていた。

 比企はややうんざりしたような、だが相当に我慢している調子で、それだけではありませんよね、と言った。

「わかりますよ。大方、あの男がまた何か困ったことを始めたんだか巻き込まれたんだかしているんでしょう」

 ああいいんです、母上は悪くない、と比企は掌で制して、

「非は完全に、あの因業爺にありますから。今度は何ですか。どこか紛争地帯や旅行先で地元マフィアを敵に回したとか、そんなところでしょう」

「父親相手に馬鹿なこと言わないの。この子は。そうじゃないわよ」

「違うんですか」

 というか、親父さんという人は一体どんな人物なんだ。色々な面で総合的にひどい言われようだけど。

 違うわよとお袋さんが言った。

「あんた、毎年母の日に色々送ってくれるけど、ちっとも帰ってこないじゃないの」

「それは、えー、」

「毎年ケーキだとか花だとか、送ってくれてもねえ。肝心のあんたが一緒にいないんじゃ意味がないでしょうに」

「…何かお気に召さないものがありましたか」

 おお、すげえ。相手の顔色を窺う比企なんて初めて見たぜ。

 そうじゃなくてとお袋さんは答えた。

「いくらいいものをもらっても、あんたが帰ってこないんじゃ寂しいのよ。こんな近くに住んでるのに」

 美羽子が今年は何を送ったの、と訊ねる。お袋さんが、今年はあたしが生まれた年のヴィンテージワインくれたのよ、と答えた。

「わあステキ! 」

「でしょー。なのにちーっとも帰ってこないのよ。夕飯のときにでも、一緒に開けようと思って待ってるのに」

「私がいてはあの男が嫌がりますよ」

 比企があっさり断言した。

「そんなわけないでしょ。自分の娘なんだから。もし嫌な顔したらママに言いなさい。パパに注意しとくから」

「母上。あの男は、自分が戦闘用の人形に仕立てた子供なんか見たくもないんですよ。私は母上がお気を遣われて板挟みのようになる様を見たくありません。帰らないことが孝行なのだと、どうかご理解ください」

「絶対嫌。今度の父の日には、パパと三人であのワイン開けるって、もうパパとも約束しちゃったもの。パパも待ってるのよ」

「母上、ですからそれは、あの男は母上には弱いから、母上の歓心を買いたくてそういう約束をしただけであって」

 すげえな、比企は本当にお母さん大好きなんだな。他の人間だったら、ここまで食い下がってきたら殴られてるか冷たく罵倒されてるぞ。にも関わらず、比企はめちゃくちゃ低姿勢。指摘というより懇願という感じだぞ。

 ちーがーうーのー、とお袋さんがぶんぶん首を振った。

「そうじゃなくって! 父の日にあんたとワイン開けたいって、パパが言い出したの! だからあたしが来たの! パパが会いに来たら、あんた達すーぐ喧嘩になるんだから」

 そこでまた、表のサッシが開いた。

 ひょっこり入ってきたのは、激渋い長身のおっさんだった。

 あら、とお袋さんが顔を向け、と同時に比企が険しい表情に一変した。

 

「ママ、どうだい」

 おっさんがニコニコと声をかける。お袋さんがため息をついて、ああもうパパ、と額に手を当てた。

「外で待っててって言ったのに」

 だって、とおっさんがしょげて、ママが遅いから、と口を尖らせる。

 麻のスーツにニットタイ、長身のイケオジは、ちょっとバタ臭い顔つきだった。このおっさんの方が比企によく似ている。目鼻立ちはもちろん、何より雰囲気がそっくりだった。

 おっさんは俺達に気がつくと、ああ君達が、とうなずいて、にこやかに名乗った。

「比企小梅の父です。娘がお世話になっております」

 比企がこれ以上はないというほどの不機嫌を丸出しに、茉莉花茶の碗をがん、とテーブルに叩きつけた。

「雲呑麺特盛を大至急お願いします」

 地の底から響くような声で注文。驚きながらも、あいよ、と親爺が麺を茹で始める。

 またも座る位置をずらして、今度はお袋さんとまさやんの間に親父さんの席を作る。雲呑麺が出てくると、比企は無言で啜り始めた。殺し屋みたいな目つきになっていた。

 あまりに空気がピリついていて、結城ですら口をつぐんでいる。その中で、比企が押し黙ったまま麺を啜る音だけが店の中に響く。

 親父さんが、天気の話でもするみたいな、のんびりした調子で切り出した。

「ママから聞いただろう」

 ずるずるずるずる。

「今日明日とかじゃあ、お前にも予定があるだろうし」

 ゴッゴッゴッゴッゴ。

「来月、父の日にでも、一度うちに帰ってきて、どうだ、一緒に夕飯でも食べようじゃないか」

 ずるずるずるずるずる。

「小梅はママのロールキャベツが大好きだったろう」

 ゴッゴッゴッゴッゴッゴッゴッゴ。

「なあ」

 どん!

 麺を食い尽くしスープを飲み干し、丼を置く。

「大佐、使い物にならなくなった戦闘用の木偶如きに、今日はどのような御用向きで」

 今にも銃を抜きそうな殺意満点の笑顔で、実に愛想よく比企が訊ねた。ラーメン臭い息で。

 おっさんが悲しそうに、まだ怒ってるのか、と呟いた。

「怒っている? なぜそう思われるんです」

「だってお前、まだ怒ってるんだろう」

「おやおや。おかしなことをおっしゃる。小官が何に怒っていると、大佐はお考えなのでしょう」

 ヒィイ! コワイ! 帰りたい! にこやかな比企がこんなにもおそろしいものだとは思わなかった。

 それは、と親父さんが口籠る。

「…パパが、お前を工作員なんかにしたから、」

「そんなことだとお思いなんですか」

「お前をブートキャンプに入れるとき、これからは他人だ、親は死んだと思えって言ったから、」

「本当にそんなことだとお思いなんですか」

 満面の愛想笑いで父親を追い詰める比企。おとなげねえ! でも、おじさん、それは恨まれても無理はないよ!

「いい加減にしなさい! 」

 比企の頭にお袋さんの拳骨が落ちた。

「パパを追い詰めてどうするの」

「ですが母上、この男は何もわかっちゃいません。こんな鈍感な人間は、思い知らせなくてはまた同じような間違いを犯します」

「だからって父親を追い込んでどうするの」

「自分から捨てたものを、我が子だとは思っちゃいませんよ」

 何言ってるのとお袋さんがまた頭を拳骨で叩いた。

「娘と思ってなかったら、なんであんたが死にかけるたびに救助に行ったの」

「日本国籍の人間の死体が出たら厄介なケースだったからですよ」

「この子はもう、ほんとに…。パパ、何をどうすればこんな子に育っちゃうの」

「その点については、誠に申し訳なく」

 比企は親父さんを一切無視して、すいませんお愛想、とひと言、さっさとお袋さんと自分の支払いを済ませると、悪いが今日はこれで失礼するよと立ち上がった。

「ああ、勉強会はいつものように桜木警視の家でいいかな。いつにするか決まったら連絡をくれたまえ」

 それでは、と出て行こうとする比企を、親父さんが立ち上がって追いかけた。どうにかサッシを潜りかけたところで捕まえる。

「話がまだ終わってないだろう。座りなさい」

「それは上官命令ですか。父親として言っているんですか」

「どっちでもいいだろう」

「よくはないですよ。上官としてであれば、私はもう除隊している。あなたに拘束権限はない。父親として言っているなら、一度捨てた子を相手に、どの口が抜かすのか」

「根に持つな。もう何年経ってると思ってるんだ」

「時間の経過は関係ありませんよ。さっき何を怒っているのかとお訊ねでしたね。答えてもいいが、自分で考えもせずに簡単に答えを得たところで、骨身には沁みますまい。仏を拝みたければ、まずは山門を潜られてはいかがです」

 うっわあ、性格悪い! こいつ、俺達に限らず、大概の相手にはまあ、穏やかに礼儀正しく接しているのに、親父さんに対してはひたすら慇懃無礼で根性がドス黒い。色々あったらしいことは聞いていたけど、ここまでするか?

 親父さんはため息をついて、わかった、と低く漏らした。

「どうやら一番わかりやすい方法で聞き出すしかないようだな」

「前線を離れて半隠居のロートルが、できるとお思いか」

「やってみなけりゃわかるまい。それに、いつかは訊かなくちゃいけないことだったんだ」

 比企が黙って鞄を椅子に戻した。親父さんと二人して、店の向かいの駐車場に入っていく。

「銃もナイフもなし、お互い素手で、関節もなしだ。入院レベルの怪我になればママが悲しむからな」

「いいでしょう。私も母上の悲しいお顔は見たくない」

 え。何だこのやりとり。親子の会話じゃねえよ!

 親子喧嘩というにはあまりに物騒な、喧嘩というよりいっそ決闘とでも言った方が早そうな喧嘩が、いきなり始まった。

  

 比企は両手をぶらんと下げて、肩の力も抜き切って、棒立ちで突っ立っている。夏休みに朝稽古で見た、システマのスタイルだ。何にも用意しない。何にも構えない。その一方で、スッと腕を構え、体を斜に向けて立つ親父さんはやりづらそうだ。まさやんと結城と源が言っていたではないか。構えないから、打ち込んだ自分の剣がどう受けられて何が来るのかわからない、と。ジリジリと様子を窺う親父さんに、比企が片手をスッと上げて手招きした。

「来」

 お前はどこのカンフーマスターだ。

 親父さんがひと息に距離を詰めた。ボクシングスタイルで軽くワンツー、は全部、ダッキングどころか、首を軽く左右に傾けるだけで避けられる。避けながらひょいと足を上げて、比企は親父さんの足をかけて転がそうとする。済んでのところでバックステップ。今度は比企が半歩前へ出た。

「崩拳じゃねえか。ここまで型が決まってるの初めて見たぞ」

 格闘技も大好きなまさやんが驚く。が、これは掌で受けて、親父さんはどうにか凌いだ。

 親父さんが立ち方を変えた。ボクシングスタイルでは埒が開かないと踏んだのだろう。ぐっと腰を落とし、両足を開いて踏ん張る。

崩撼突撃ほうかんとつげき一打不打二いちげきひっとう──お得意の八極拳か」

 比企は低く言って、肩幅に足を開いて立った。

短橋狭馬たんきょうきょうま、いつの間に詠春拳なんぞ身につけた。お前の十八番おはこは八卦掌だろう」

 親父さんが訊ねると、あんたは人間だからな、と比企は答えた。

「あれは仕事用だ。うっかりいつもの癖で元神がんしんの運気なんか込めたら、粉々にしてしまうだろう」

「そうかい。我が娘ながら、おそろしいねえ」

 そして始まる、唐突なカンフー合戦。

 明らかに親父さんの一撃は重い。素人の俺でも見ていてわかるぐらいだ。が、比企はものともせず、軽々とよけ、あるいは受け流し、しっかりと反撃していた。

 正中線をガードするように手をかざす比企、低く踏ん張って構える親父さんが鋭く切るように突進する。軽く足を上げたまま比企が一回転。親父さんの蹴りを牽制した。比企がクルクルと回すように打ち付ける腕を、ときに腕で、あるいは体を捌いて避けながら反撃する親父さん。その動きは何だか、

「踊ってるみたい」

 美羽子がぽつんと漏らした。

 源がうなずいた。

「祖父ちゃんの友達に柔道の師範の人がいて、その人が言ってたよ。達人同士が戦うと踊ってるように見えるって。そうして本当の達人は、動けばそれが技になるんだ」

 あんな風に。

 源が目で指し示す。確かにその言葉通り、親子の動きは、何気ないものの一つ一つ、すべてが技となって攻撃につながっていた。

 いつまでやってるんだこれ、というくらい、変な話だけど、息がぴったり合っているように見えてくる。たぶん、二人が疲れるか飽きるかするまでは続くのだろう。

 二人が離れた。

 ふっと息をついて、比企がボソリと呟く。

功夫クンフーの四大禁忌に曰く、坊主と道士、女と子供に注意せよ、だそうだが、私は道士で女で子供。さあどう出られる」

「生憎俺は坊主ではないからなあ。正攻法で行かせてもらうさ」

「いい加減、母上が待ちくたびれて退屈にされているだろう。次で決めるとしようか」

「そうだな、まだやれるが、ママが待ってるからな」

「年寄りには堪えたのではないか」

「吐かせ」

 すう、と二人の構えが変わる。親父さんはぐい、と深く、鋭く、両掌を天に向け腕を広げる。比企が目を閉じて、構えはそのままに肩のちからを抜く。

 距離がひと息で詰まった。

 比企が目を閉じたまま親父さんの回し蹴りを体捌きで避け、ぴたりと背中合わせのように立つ。くるりと向き直り、肘で拳を払う。

聴橋ちょうきょうか。そこまでものにしているとは…。つくづく、お前が息子だったらと思うね。さもなければ、耕助にお前ほどの技量があれば」

「冗談でもやめてくれ。嫡男にこんな道を歩かせてたまるか。血に塗れるのは私独りで十分だ」

 半歩の間隔で向き合って激しく打ち合う。足は互いに甲を踏もうと、タップダンスのように足踏みをする。

 まったくもう、と俺の後ろでため息混じりの声がした。

「今日は外で会うからどうかと思ったら。やっぱりダメだった」

 比企のお袋さんは呆れたと言わんばかりで、

「パパったら、今日は大丈夫だちゃんと話をするよ、だなんて。ちっとも話なんかできてないじゃない」

「いや、あれは肉体言語で会話してるんだと思いますよ」

「結城黙っとれ」

「今そういうのいいから」

「うえー」

 そんなあほなやりとりをしている間に、血の気の多い親子は冷静なままヒートアップしていく。そして。

 親父さんの肘が。

 比企の拳が。

 同時に互いの頬にめり込んだ。

 お袋さんが見計らったように二人の後ろに立って、二人にぽこんと拳骨をお見舞いし、父と娘は同時に崩れた。


「戦友諸君、これでよくわかっただろう」

 比企が腫れた頬をおしぼりで冷やしながら言った。

「比企家で最も強いのは母上なんだ」

「そう、ママが一番強い」

 親父さんもおしぼりで顔を冷やしながらうなずいた。

 お袋さんは、テーブルに出ていたお冷やをピッチャーごとぶっかけて二人の目を覚まさせると、スッキリした? とひと言、夫と娘を引っ立てて上海亭へ戻ってきたのだ。

 なるほど、確かに腕っ節は普通のおばさんでしかないのだろうが、比企も親父さんもお袋さんには逆らえない。比企はお袋さん贔屓だし、親父さんはどうもお袋さんにベタ惚れのようだ。

「そしてこれが噂の、市ヶ谷が誇る世界有数のスパイマスターだ」

「おいおい、ちゃんとパパだと紹介しなさい」

「何がパパだ、心底腐った響きだな」

 親父さんと、獰猛な目つきになる比企にお袋さんがいい加減にしなさい、と再び拳骨。

「ねえ、それにしても小梅、」

 あんた何をそんなに、パパに対して怒ってるの、とお袋さんが訊ねた。

「帰ってきてもう二年になるのに、ずーっと怒ってる理由を教えてくれないでしょ。いい加減、はっきり言ってごらんなさいって。パパの何が気に入らないの、あんたは」

「…どうしても言わなければなりませんか」

「だって、あんたパパには絶対訊かれても答えないでしょう。あたしだって気になってるのよ」

 ねえどうなの、とお袋さんが更に食い下がった。

 仕方ない、とため息をついて、比企はうんざりしたように天井を仰いだ。

「おい因業爺、貴様、母上に謝ったのか」

「…え、」

「私が連れ戻されたあの医療コンテナで、母上はずっと泣いておられた。母上が私を手放すと決めたのは、貴様が責任を負うと約束したからだ。悲しい思いをさせてすまなかったと、ひと言でも母上に詫びたのか」

「小梅、それはもういいでしょ、パパだってわかってるわよ」

 取り成そうとするお袋さんに、母上どうぞお構いなく、と遮ると、

「どうなんだ。母上のことについてだけは、お茶を濁すような真似は許さん。何もなかったように終わらせるつもりでいたのなら、今ここで、私が見ている前できちんとしておけ」

 母上にあんな悲しい思いをさせて、そのままで済まそうと思っているとしたら大きな間違いだ、と比企は断固とした口調で言った。

「詫びているならそれでよし、そうでないならきちんとしろ。どうしても父親でありたいのなら、最低限それが条件だ」

「…比企さん、なんでそんなにお母さんを大事にするの」

 俺が訊ねると、当たり前だろう八木君、と比企はあっさりと答えた。

「母上が産んでくださらなかったら、私はこの世に存在しないんだ。生まれることを許してくださった方を大事に思うのは当然のことじゃないか」 

 俺、ちょっと驚いた。

 うちはたまたま、そこまで深刻な喧嘩をしたことはないけど、たまに聞くでしょ。親を何だと思ってる、って叱られて、売り言葉に買い言葉で言っちゃうひと言。

 ──産んでくれと頼んだおぼえなんかない。

 この言葉は、比企にとっては文字通りどの口が吐かす、になってしまうんだろう。お袋さんに対しては。

 まあ、こいつの場合は、ややこしい一族でめんどくさい異能を抱えて生まれてきて、そういうのがあるからこそなんだろうけど。

 親父さんは額に手を当てて、お前のツボはそこだったか、と漏らすと、そうだな、とお袋さんに向き直った。

「…ママ、」

 お袋さんの両肩に手を置いて、

「小梅のこと、仕事にかまけて全然ちゃんとしてやれなかった。ごめん」

「もう済んだことでしょ。これからちゃんとしてくれればいいじゃない」

 ねえ、とお袋さんは困ったもんだと笑った。

「さあ、小梅。これで気は済んだでしょ。あんたも気にしすぎ。しかも自分のことならともかく」

 はあ、と比企はうなずくが、まったく納得してないのがバレバレだぜ!

 母上がこれでよろしいなら構いませんが、と、あからさまに不承不承と言わんばかりのしわい顔で答えた。

「これでパパと仲よくやっていけるわね」

「…善処します」

「パパも、あんまり小梅に構いすぎないようにね。鬱陶しがられるとすーぐ機嫌悪くなるんだから。構い過ぎれば嫌がられるって、いい加減弁えなさい」

「…はい」

 さすがだ。武闘派親子が最強だと認めるだけのことはあるな、このお袋さん。

 

 陽が傾いた頃、比企の両親は帰っていった。

 帰り道のついでで駅まで送り、別れ際、娘をどうぞよろしく、と二人はお辞儀を一つ、引き揚げていく。

「それじゃあ小梅、来月はちゃんと帰ってらっしゃい。パパだってちゃんとしてくれたんだから、今度はあんたの番。もうパパに対して怒ってたのは、あれでおしまいにしたんだし」

「…仕事が入らなければ一度顔を出します」

「よかったら桜木君も連れてらっしゃいよ。ママ、彼ともゆっくりお話ししたいから」

 あ、お袋さんも何やらお察しの様子。親父さんが慌てて、いやいや何も呼ばなくたって、と必死の笑顔で引き留めてる。こっちも案の定、何かを察しているぞ!

「何だかよくわかりませんが、母上が御所望なら、まあ監督官にも都合が合うか訊いてみます」

 あ、ダメだこりゃ。言われたことそのまんま、額面通りに受け取ってる。

「ここここここ小梅そういうのパパはまだ早いと思うなもうちょっとパパの娘でいてくれても構わないんだよ聴いてる?」

 ワンブレスで狼狽えないでくださいよ。イケオジが台無しです。

 パパ、とお袋さんに笑顔で圧をかけられ、ハイ、と小さくなる親父さんは、それにしてもお前、と娘を見遣ってため息をついた。

「詠春拳をあそこまでものにしてる人間もそうはいないぞ。葉問イップマンじゃあるまいし、そんなに気に入ったか」

「型は小捻頭しょうねんとう標指ひょうし沈橋しんきょうの三つのみ、勝負は縦か横かだけで考えればいい。これほどシンプルで合理的な流派もそうないだろう」

「いよいよ末恐ろしいな。だが、」

 縦か横かってのは実にいい、と親父さんは愉快そうに笑った。

 なんだかんだで結局この親子、実はそう仲が悪くはないんじゃないのか?

 

 駅に入っていくご両親を見送りながら、結城がさっきのあれって、と比企に訊ねた。

「縦か横かって何」

 ああ、と比企はうなずいて、結城君はわかるのじゃないか、と答える。

「要するに、勝負がついたときに勝者は立っているが、負ければ地に転がっているというだけだよ」

 なるほどね! と返すには、うーん物騒!

 二年越しでやっとどうにかまとまったんだろうけど、この親子、これが和解っていってもいいのか? まあ、よくわからないなりに丸くおさまってはいるんだろうけど。

 夕方の空を見上げて、俺は背筋を反らしてみた。スッキリしたような気はしたが、背骨がバキバキとすごい音を立てた。

 ダメじゃん。

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