第36話 五人とひとりとリゾートバカンス 3章
ボックスカーに乗り込むと、朝も会った黒スーツのお姉さんが、一人多いですねと言った。
「どなたでしょうか」
警戒するお姉さんに、そっけなく比企が答える。
「監督官だ。今回は支社を経由した正式な依頼として事前に通告されているからな。可能な限り監督官の立ち会いが必要とされているのは、物騒なことには慣れてるお前達には、常識以前の話だろう」
お姉さんはちょっと面食らったようだが、気を取り直して、桜木さんの顔を軽く覗き込む。
「ああ、あなたが。探偵〈スネグラチカ〉の監督官。自身も探偵の資格を持つ〈芝の麒麟児〉の噂は耳にしていましたけど、こんなイケメンだったとはね」
確かあなた、〈スネグラチカ〉の監督官に就任したことが評価されて、マル勅になってましたよね、とお姉さんはからかい半分、確認半分で訊ねた。
え。嘘。まじか。比企以外の全員が桜木さんを凝視。いや運転手のおじさん前向いてお願い。
「そんなこともあったかなあ」
桜木さんがのほほんと返した。
「死ぬほどどうでもいい話だな」
バッサリ袈裟斬り。なんかもう、朝の段階から既にこいつのペースで物事が運んでいるが、いいのかこれで。比企は端末を出して電話をかけると、これから取り掛かる、と端的にひと言、
「わかっているな、こんなにわか仕込みは二度は許さんぞ。金光坊には、もっとあの爺さんに強く出られる監督官なり医師なりを貼り付かせろ。非常時に動けずに何がマル勅だ」
それだけ言って切ってしまった。
おいおい、お姉さんが目ぇ丸くして見てるぞ。だけど比企は一切お構いなしに、怒濤のマイペースでことを運んでいく。桜木さんに掌を差し出した。それだけで嬉々として、ずっと手に下げて歩いてたショッパーを渡す桜木さん。だから、顔がやばいから。何か頼まれたのが嬉しいのはわかったから。もっと引き締めましょう。
比企がショッパーから出したのは、まずは釣り道具屋のレジ袋で、中から釣り糸を一巻き。封を切ってから、今度は手芸屋の小袋から縫い針を出して、釣り糸を穴に通し、糸の端は糸こぶにして抜けないようにする。それから最後に、肘から指先をちょっと出るくらい、四〇センチくらいの長さの、何これ。
「銘こそないが国広の作の小脇差だ。一応真物だよ」
源とまさやん、結城の剣士トリオの目の色が変わった。すげえすげえとエキサイトしている。トリオ・ロス・剣士の解説によると、鞘は黒漆に、先端の部分の金具、こじりは燻銀で、握りの部分に巻いてる紐と、中の革、えーと、めぬき、っていうの? そこも黒でまとめていて、めぬきの真ん中辺りには、小さく龍をかたどった銀細工。鞘についたちっちゃい投げナイフみたいな、こうがい、だっけ。それも黒地に燻銀、鍔は丸くて、黒地に銀で月と白梅の枝という意匠。どれも「めちゃめちゃ丁寧に作って」あって「同じものを作ろうと思ったらすげえお金かかる」のだそうだ。まさやんは端的に「匠の狂気」と表現していた。シンプルにしている分、かかっている手間暇が恐ろしいほどなので、たぶん同じものは作れないだろう、と源がちょっと震えていた。
比企はちょっとだけ抜いて刀身を確認すると、うなずいて鞘を閉じる。
「鯉口切っただけでこのオーラ」
「チラ見だけで明らかに真物ってわかるのすげえ」
「やばいまじやばい何がやばいかって言うとまじやばい」
それだけで三人揃って大興奮。うん、俺も全然知識ないけど、すごいものなんだなってのは、比企がちょっとだけ抜いたのを見た瞬間に感じた。忠広曰く「ド派手な色にしない辺りがいかにも比企さん」で、確かにその通り。それにしても、どこでこんなものを手に入れたのか。
「どこでこんなもん手に入れたのさ」
俺が訊ねると、国籍不明の比企はあっさりと答えた。
「師父が下さった。守刀だそうだ」
あー、李先生かあ。なるほどなあ。美羽子は鍔の細工を見て、あらステキ、なんてのんきなことを言っている。
「ほら、梅の花でしょ。李先生、ちゃんと比企さんの名前に合わせたものにしてつけてくれてるのね」
ワイワイガヤガヤ、好き勝手にしゃべりジュース飲んで、完全リラックスモードの俺達。
「君達、随分寛いでるけど、状況わかってる? お友達はこれから、」
「あ、お姉さん、俺ら比企さんとつるんでると、こういう怪奇現象とかときどきあるんで、大丈夫でーす」
「二月にもあったもんね」
「あったあった」
「でもさ今回はいいよな」
「なんで」
「カックイイお姉さんが俺達を心配してくれてる」
「それな」
「ほんとそれ」
あの、お姉さん、うるさくてまじすいません。でも高校生男子なんてこんなもんです。美女に心配してもらえるのはいいもんだよなあ、と彼女持ちの源以外の四名で深くうなずき、その脇でカップルが、大丈夫だよ、美羽ちゃんは俺が安全なところまで連れて行くから、などとのんきなことを言っている。お姉さん、気が抜けた顔してます。ほんとごめんね、危機感なくって! でもまじで、比企とつるんでると、こういうの慣れちゃうの!
程なく、ボックスカーは昼間に一度訪れたあの洒落たお宅の玄関前に、昼間と同じように乗り付けた。
玄関には、昼間に俺達を出迎えた奥さん一人が立っていた。黙って比企に頭を下げる。
「夜分遅くに押しかけましたが、今晩でどうにか片付けてしまうつもりです」
比企は淡々と挨拶して、お願いしたものはご用意いただけましたか、と訊ねた。
「…リビングに置いていたものを、おっしゃった通りに、ドアの前に」
わかりましたとうなずいて、それでは始めよう、とひと言、さっさと奥に入っていく。
慌てて後を追いかけ、例の子供部屋の扉を開けようとする奥さんを、比企は昼間と同じように制して、同じように何か口の中で呟いてから開けた。
扉の奥は、どっぷりと重たい闇一色。
奥さんが驚いて声をあげかけた。
だって、俺達が外を歩いてきたときは、満月が明るくて、街灯もいらないのじゃないかなんて思うくらいだったのに。窓が大きな、昼間にあれだけ日差しがたっぷり入っていた部屋が、こんなに真っ暗闇なはずがないのだ。それなのに、扉一枚開けた向こうは、どこにベッドがあってどこに窓があるのか、天井の高さ、空間の広さすらわからないくらい、闇の密度が濃かった。
笹岡さん、と比企が静かに呼びかけた。
「奥さんとリビングへ行って、ついていてあげてくれないかな。何かあったときのために、源君と、そうだな、結城君もついていてもらえまいか。万一のときに二人の護衛を頼む」
「わかった」
「比企ちんも手が欲しくなったら呼んでくれよー」
「うん。──行きましょう、比企さんがああ言うってことは、離れてる方がいいんです」
美羽子と源が奥さんをリビングへ連れて移動、結城が殿を引き受けて行った。
比企はその様子を見届けてから、俺と忠広、まさやん、それから桜木さんの顔を見て、コートのポケットから取り出したのは、なぜか夜店でよく見るどんぐり飴の袋。一人に一個ずつ、有無を言わさず口の中にねじ込んだ。
「んわっんん」
「ふぁん」
「むふぁん」
俺のはこの匂いから察するにメロン味。でかいって。だから。しばらくは大人しく、口の中でモゴモゴやるしかないので、どうしたって黙るしかない。声を上げるなと言いたいのだろうが、強引だろ。しかもこの飴、どんぐり飴の中でも特にでかいタイプだ。十分ぐらいは口の中がいっぱいなままだろう。
比企は迷わず、どっぷりと濃い闇に踏み込んだ。ロープを出して、俺達の腰を順々にくくる。最後尾は桜木さんだ。これではぐれることはないのだろうけど、そんなに広い場所じゃなかったはずだぞ。
ところが、俺のそんな先入観はとても甘いものだと、比企に続いて闇の中に足を踏み入れた瞬間、思い知らされた。
靴下越しに、足の裏が岩を踏んでいるのが感じられた。フローリングの子供部屋は、いつの間にか岩肌剥き出しのどこかにすり替わっていた。空気が湿っていて、しっとりとした微かな風が、俺の頬をひやりと柔らかく撫でていく。土の匂いと、同じくらい強く水っぽい匂い。
首筋に冷たいものが落ちてきた。
危なく声を上げるところだったが、飴ちゃんをしゃぶらされていたおかげか、一瞬ん、と小さく唸っただけで済んだ。手をやって確かめると、水だったみたいだ。俺は悟った。もうここは子供部屋じゃない。どこか知らない、洞窟みたいなところだ。
そのとき、囁くような微かな声が上がった。
「どういうことよこれ」
え、誰だ。
いきなり洞穴にワープさせられて驚いていた俺のシャツの裾を、あの黒スーツのお姉さんが摑んでいたのだ。驚きすぎて気付いてなかった。ロープを引いて比企に合図すると、すぐに振り向いてくれたが、なぜついてきた、と小声で叱り飛ばすだけ。
「社長に報告義務があるくらいわかるでしょ。お嬢さんの方は心配ないわよ、金城も付けたし、あなたのお友達も一緒だし」
あのイカついおじさん、金城さんというのか。
なんとなく闇に慣れたのか、俺の目はかろうじてものの輪郭程度なら捉えられるようになってきた。この広い空間は、イメージするなら、どうもでっかいビニールハウスというか、半分に切ったドラム缶を寝かせたものというか、そんな感じで、天井はよくあるコンビニくらいの高さ、ただし奥行きは五十メートルくらいだろうか。それでもすぐに、だいぶ奥まで行き着いて、比企はそっと岩肌に寄って、物陰に隠れるようにと囁いた。
あと十メートルもないだろう。洞穴のどんつきで、何かが動く気配があった。なんだろう。何かと何かがもみ合うような、一方がもう一方にのしかかるような、なんだこれ、何してるんだ。
微かに声が漏れてきた。うめくような声だ。押さえつけられて苦しんで……いや、違う。そうじゃない。もしかしてこれ。
比企が闇の中から何かを拾い上げて、ゴソゴソと何かした。もっとはっきり伝えようにも、何せ真っ暗闇で、輪郭が動いてるのを見るだけで手一杯、このぐらいしか判別つけられないの。しかも聞こえてくる声が、どんどん、その、なんていうか、悩ましい感じになってきて、俺大変に気まずい思いをしております。
幸い、比企はすぐにUターンした。
「さあ引き揚げよう。あとはしばらく待つだけだ」
その言葉、待ってました。俺もくるりと振り向き、忠広とまさやんに小さく声をかけ、お姉さんも俺のシャツを握ったまま、揃って入口へ戻った。
いやあ、とんでもないもの見せられちゃったなあ。
お姉さんは大混乱、桜木さんは乙女のように両頬を手で覆って、まさやんと忠広はなんとなーく、視線を斜め下に落としている。きっと俺も大差ないだろう。ケロリとしているのは比企だけで、さっきの釣り糸を出して手に持っている。
あまりに気恥ずかしいやら気まずいやらで、あの、と俺は比企に訊ねた。
「さっきのあれって、えーと、なんていうか、俺ら見ちゃって大丈夫だったの」
「八木君、夜目がきくのか? それだって普通の人間には、真っ暗闇で何か動いてる、程度にしか見えないのじゃないのか」
どちらかといえば、聞いてよかったのか、ではないのかな、と意地悪くニヤニヤする。まあそうですけど!
なに安心したまえ、と比企は言った。
「映画でいうなら007シリーズ程度のソフトエロス、全年齢対象だ。現段階では相手の正体以外は問題なかろうよ」
まあそうですけど! 言い方!
「ちょっと待ってよ、ちゃんと説明を」
黒スーツのお姉さんが、やっと混乱から気を取り直して比企に食ってかかったが、かざした掌一つで口をつぐまされた。
「まだ相手の正体が確認できてない。説明はその後だ」
私は依頼人にいい加減な説明をするのは好まない、と言って、比企は俺達の腰の縄をほどいた。
幸い、足の裏はさほど濡れていなくて、脱いだ靴下を玄関先で軽くはたいただけできれいになった。結城がどうだった、と興味津々で、源と美羽子も気づいてこちらへくる。どうって、と思わず口ごもる俺達。え、あんなのちょっとうまくお伝えできませんよ俺は。忠広もまさやんも、やっぱり斜め下に視線を落として、ちょっと恥じらっちゃって、源と美羽子は何か察したようで、気まずそうにああ、うん、とだけうなずいて曖昧な笑顔になったが、結城は何しろ空気を一切読まない男なので、なんだよー、と食い下がる。お前は。ちょっとは。考えろ。
ちょっと来い、と結城の腕を引っ張ってまさやんが引っ込んでいった。さすが幼なじみ、なぜなに期が始まったら、ありのままを教えないと収まらないと心得ているのだ。ソファーでうなだれている奥さんをはばかって、廊下の奥でまさやんが耳打ちすると、え、と危うく大声でリアクションしかけた結城だけど、美羽子がすっ飛んで行って小声で叱った。
「ちょっともう、結城君! おばか! 静かにして! 」
同時にまさやんにも口を塞がれ、くぐもったごめんなさいが聞こえる。
しかし、比企はなにを待っているのだろう。
しばらく経って、比企があの糸玉をポケットから出した。
「動いたぞ」
確かに。釣り糸の糸巻きは、どうやら夕飯のときにパクって来たらしい割り箸を支柱に、グルングルン回って糸を吐き出している。一斉に廊下の奥に集まる俺達。お姉さんが外へ出ようとするのを、比企はまだだと腕を摑んで押し留めた。
「こいつが止まってからだ。どこへ行ったかはちゃんとわかるし、あの子は部屋にいるよ」
「…純様に何かあったら、社長が止めても私あんたを殺すわよ」
お姉さん、随分あの子供に肩入れしてるな。
「お姉さん、あの子のこと大事なんですね」
忠広の言葉に、お姉さんはまあね、とうなずいた。
「お嬢さん夫婦は仕事柄、長く留守にされることも多いから。中学に上がられるまでは、送り迎えやお世話を任されてたのよ。お嬢さんが海外に行かれるときには、社長のお宅で純様を預かって、私がお世話をするの。さすがに中学生になれば、ひとりで留守番できるからって、お世話係はお役御免になっちゃったけどね」
「そうか、あの子にとってはほんとにお姉さんなんだ」
人とは違う体に生まれついた純にとっては、このお姉さんは文字通り、無償の愛を注いでくれる人なのだろう。
あんな特異体質に生まれて、自分の体のことを悩みもしただろう。今だって悩んでるかもしれない。それでもこうして必死に、何かあれば守ろうと身を挺して、おそろしい場所にも分け入って安否を確かめずにいられない、そこまで愛を向けてくれる大人がいる。純はきっと大丈夫だ。
俺がそう言うと、お姉さんがちょっと目を瞠った。知ってたの、と小さく呟く。
「純様の、体のこと」
「ごめん、俺ら全員たまたまだけど、見ちゃって。でも、そういうの黙ってないとダメだってことは、あいつらも俺もわかってるから、そこは心配しないで」
「…そうか、〈スネグラチカ〉が君達を信じるわけだわ。あのカップルの子達もだけど、君もいい子ね」
お姉さんがちょっと安心したようにため息をついた。その向かいで、比企は割り箸に通した糸巻きをじっと見ている。相変わらず糸はクルクルと繰り出されていて、それを厳しい眼差しで見ている。
なにがあったのかはわからないけど、がんばれよ純。悪いものに取り憑かれても、今お前を案じている人間が、ここには何人もいるんだ。お前を愛している人だっている。負けるな。
そうね、とお姉さんはため息をもう一つ。
「純様がああいう体に生まれついてしまって、お嬢さんは、自分の子ではあったけど、どう向き合ったらいいのか困っていらしたみたい。かわいいのは確かだけど、どう愛情を向けていいのかわからなくなっちゃったのね。だから、どうしても純様のお世話は、私が引き受けることが多くなっていった。人前で着替えることになるような、体育の授業だとか泊まりがけの校外学習とか、そういうのは全部病弱だってことにして免除してもらったり、そんな交渉ごとなんかも、私が代わってすることもあったわ」
お姉さんにとっては、歳の離れたきょうだいか、早くに授かった自分の子供みたいな、そんな感じなのだろう。
向き合わせればよかったのじゃないか、と比企が言った。
「特異体質だろうが何だろうが、自分が産んで、少しは憎からず思っていた子なんだろう。あの奥さんが尻込みしても、産みの母と同じくらいあの子を思っているお前が、親子で過ごす時間を取りもってもよかったのじゃないのか」
「…それは、」
「なに、これからだって遅くはない」
「そりゃ、うまく運べばその方がいいに決まってるけど」
うまく行くさと比企は断言した。
「断言しますね比企さん」
「するさ」
「根拠は」
偉そうに、と不服そうなお姉さんに代わって発した俺の問いに、奴はあっさりと答えた。
「私も同じだったからさ」
なにが、と言いかけて、思い出した。そうだ、こいつは半分がた人間ではなかったのだ。ただ、心はどうしようもなく人間に寄り添い、人間の中で暮らそうと固く堅く律しているだけで。春先にやって来た、自称・比企の色違い、クリスが聞かせてくれたではないか。親父さんが子供の頃から戦場を連れ回し自分の仕事の手伝いをさせ、いっぱしの工作員に仕立ててしまったのも、おそらく先祖である吸血鬼一族の血が濃くて、身体能力が常人離れしているところに目をつけたのだろう。しかも自分の娘だから、子供をスパイに育て上げても文句はどこからも出ない。
ただ、比企のお袋さんはどうだったんだろう。
「こんななりでマル勅なんかやってるんだ、真っ当に生まれついたわけじゃないことくらいはわかるだろう。子供の頃は母上も、私とどう付き合っていけばいいのか、途方に暮れておられたようだ。それもあっての戦場暮らしだ」
それでも、
「アフリカで私が九割がた死にかけて、親父殿もさすがに罪の意識に耐えられなくなったのだろう、医療コンテナで搬送されて戻ると、母上に泣いてすがられて、今まで親父殿に任せきりにして済まなかったと詫びられた。まあ、私の場合はともかく、きっかけさえあれば、わずかでも我が子をかわいいと思っているのなら、時間がかかってもちゃんと向き合えるんだ」
あとはお前の働き次第だ、と比企は言った。
ちょっと驚いた。比企が、自分の家族の話をしたからだ。俺達が聞かされているのは、親父さんが、いうたらなんでもありな人で、自分の娘の素質を見て工作員のエリート教育をしてしまったというムチャクチャな過去だったが、そういえばお袋さんのことは聞いたことがなかった。なるほど、そんな過去があったのか。たぶん、比企は純が今苦しんでいるであろう問題を、自分のそれと同じだと感じて親身に考えている。
それにしても、やれ因業爺だのくたばり損ないだの、親父さんのことはことあるごとにボロクソに言っているのに「母上」ってのは、どんだけ母ちゃんっ子なんだよ。とはいえ、比企との向き合い方に戸惑いはしたけど、それでも愛は確かに持っていて、それを伝えようとはしていたお袋さんなんだろう。俺ももし将来結婚して子供ができて、その子供が、普通とはちょっと違う子供だったとしたら。うまく付き合っていく方法が見つけられるのか、運でしかないかもしれないけど、諦めたくはないな、と思った。少なくともお姉さんは、自分の子じゃないけど、しっかり向き合ってその方法を見つけて、純に溢れんばかりの愛を注いで育てていた。比企のお袋さんも、親父さんに任せきりでとんでもないことになったのを後悔して詫びた。比企の口ぶりから見たって、親父さんよりもお袋さんの方を慕って大事に思ってるのがよくわかる。
世の中には黙っていなけりゃいけないことはいっぱいあるけど、同じくらい、はっきり口に出して伝えようとしなくちゃいけないことだってあるのだ。
比企さんのお母さんってどんな人なの、と美羽子が訊ねると、そうだな、と比企はちょっと考え込んでから、
「優しい人だよ」
柔らかい表情で答えた。
「家事が得意で、花が好きで、いつも何かしら手仕事をしている。くるくる動いて、いつも家族のことを考えてる人だよ」
「なんか母ちゃんみたいだな」
「いや母ちゃんだろ、比企さんの」
結城がのほほんと漏らして、まさやんが幼なじみのフェアリー発言に突っ込んだ。
「そういえば母ちゃんって園芸好きだよな。うちの母ちゃんもベランダと玄関先お花畑にしちゃってるし」
「あと台所で、根っこついたかいわれ大根とか、根付いてるスポンジとパック、容器ごと取っといて育ててないか」
「うちは大根とにんじんの葉っぱついてると、ギリッギリその部分取っといて、食品トレーとかに並べて水やって葉っぱも育ててる」
あるある、とうなずく高校生男子五人。俺らあほなので、シリアスな話の流れで母ちゃんあるあるとかできるんです。あほってすごいでしょ。
何せあほなので、和気藹々と状況を一切無視して盛り上がっていると、不意に比企が立ち上がった。
糸巻きの動きが止まったのだ。
さっと一瞬で緊張する、俺含むあほの子五名と桜木さん。お姉さんと美羽子も、それと察して立ち上がった。
比企は玄関から自分のブーツを持ってくると、諸君は玄関から回るといい、とひと言、さっさと子供部屋の扉を開けた。今度は、何か唱えはせずにそのまま。
扉の向こうは昼間見た子供部屋で、月の光が差し込んでいる。ドアの前の衝立を脇に避けて、そのまま奥の庭に面した窓を開け、そこからポイと外へ出た。庭から窓を閉めると、美羽子が施錠する。
桜木さんはリビングにいる奥さんに、一度外へ出て調査するので先に休んでいてください、とひと声かけ、俺達と一緒にぐるりと回って庭へ抜けた。比企もブーツをはき終えて、あの糸巻きを手に、満面のニヤニヤ笑いで仁王立ちしていた。あ、嫌な予感。
「伝統の手段がここまで効果を発揮したということは、これはきっと、私の読みがあたったということだな! いやあ、実にいい! 二月は散々だったが、殴れば効く相手というのは、わかりやすくて実にいいな! 」
いやあああああああ! ご機嫌だああああああああ! 怖いよう!
それでは行くぞ諸君、と比企は、庭からそのまま塀もなしに続く森の中へ分け入ってゆく。
勿怪顔で続くお姉さんに、お前は沖縄の出か、と訊ねた。
「なによ急に。──石垣よ」
「そうか、なら話は早い。今回の相手、この手が通じたところから見て、私は蛇と踏んでいる」
虚をつかれたのか、瞬間ポカンとしたお姉さんは、すぐにハッと何かに気づいて顔色が変わった。
「まさか、」
「夜な夜な訪れる正体のわからない相手との逢瀬。どこの誰かを探るには、訪う客の衣服に糸を縫い付け、その跡を辿って突き止める」
「待ってよ、でも純様は」
「嫁御と思えばそのように、婿と思えばまたそのように、奴らはヒトを作り替えてしまえる。年経ればそういうちからを得るものもいるだろう」
「それじゃあ本当に」
お姉さんがすっごい青ざめてるのが、森の木の下闇でもわかる。比企はそこで振り返って、諸君は修学旅行の事前学習で、沖縄の民話を聞いただろう、と、釣り糸を手繰りながらレクチャーを始めた。
「二つ三つ聞いた中に、こんなものがあっただろう」
そういえば、なんだっけ、あったような気もするが。なにしろ、クラスのほぼ全員がリゾート気分で盛り上がっちゃって、上の空で聞き流してしまっていたのだ。
いけないなと比企はたしなめた。
「なじみのない土地に行くときには、事前にどんな場所かを調べておかなくては。地理に気候風土やテロ・犯罪の発生率だけじゃない。お国柄、交通事故の発生率、医療インフラ。更に地域に残る伝承や民話の類も抑えておけば、トラブルに巻き込まれるのを未然に防ぐことだってできる」
いや、国内ですよ?
「八木君、沖縄は確かに日本の領土の一部ではあるが、歴史を辿れば、始まりは琉球、ヤマトとは違う、独自の文化を持った歴とした独立国家だった。時代や周囲の国家に翻弄された末、日本の一部となりはしたが、敬意を持って接するべき伝統を持っている。楽しいリゾートとはいえ、地元の方に失礼があっては、せっかくの旅も台無しだろう」
なんかすんません。青い海と白い砂浜、あとは飯がうまいぐらいしかイメージありませんでした。
話を戻すぞ、と比企は慎重に、ゆっくりと糸を手繰り巻き取りながら軌道修正した。
「昔、機織り上手で知られたきれいな娘のところに、夜な夜な通う男があらわれた。どこの誰かはわからないが、紅鉢巻をキリッと締めた、立派な身なりで色の白い優男だったそうだ。村一番の小町娘の恋だ、あっという間に騒ぎになるさ。ところが相手の正体が摑めない。心配した隣家の婆さんが、娘を気遣って助言した」
糸は森の奥へと続いている。切れないように、見失わないように、比企は慎重に糸を手繰る。俺達もその後ろを、ゆっくりと足音を立てないように歩いていく。
「あんた、お相手がどんな人かはわかってるのかい。なにも知らないのに所帯を持とうなんて考えちゃいないだろうね、いけないよ。
お姉さんが頬を強ばらせた。
「そして婆さんは、男が来たら鉢巻の端に糸を針で留めておくようにと言ってきかせた」
──糸と針。まさか。
「翌朝、婆さんが糸を手繰って行った先は蛇の穴だった。中から話し声がして、よくよく聞けば、村一番の小町娘と恋仲になり、自分の子がもうすぐ生まれると自慢している男の声がする。すると今度は別の蛇が、人間はあれで頭が回る、そううまく運ぶかと疑うので、優男の蛇は心配ないと答えた。万一正体が知れて娘と別れても子は残る」
──三月三日の日に浜へ降りれば子は流れてしまうけれど、人間が蛇の理を知っているわけがなかろうよ。
「婆さんはそこまで聞けば用はない、とって返して、娘に一部始終を語って聞かせ、幸い春先のことだったので、数日後の三月三日に浜を歩かせた。蛇の子は全部流れ、男は娘のもとを二度と訪れなかった」
思わぬ恐怖展開! 蛇とのハーフなんて、どんなことになるんだ。俺は親戚のおっさんが恐怖映画のアーカイブをコレクションしていたのを思い出した。なんでも昔、自ら実験台になった電送実験の最中にハエが飛び込んで、ハエと融合してしまった科学者の物語があったそうだけど、蛇だって結構怖いぞ。
お姉さんは森の暗がりでもはっきりわかるくらい顔面蒼白で、どうして、とうめいた。
「なんで純様なのよ…。小さな頃から苦しい思いばかりだったのに、そんな子を弄んで、…この手で殺してやる」
アカマター、と血を吐くような声で、お姉さんは呟いた。
「マジムンだろうと神だろうと知ったことか、純様の心を弄ぶものは、なんであろうとこの手で殺す。自分がどれほど残酷なことをしたのか、苦痛でもってその身に叩き込んでやる」
お姉さんはハードボイルドに物騒な台詞を吐いた。
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