第32話 五人とひとりと甘い告白 4章

 真冬の深夜、街を自転車で走り抜ける。

 空には細い細い三日月と、街灯に邪魔されながら、それでもここに確かにあるのだときらめく天の川。

 もうすぐ日付が替わろうとしている。比企は目に見えて焦れており、美羽子を後ろに乗せているので、どうしても最後尾になりながら、それでも日頃鍛えているおかげで振り落とされずについてくる源を振り返り振り返り、全員が揃っているか、気にかけながら、ジョギングのような動きで、でも自転車の全速力に劣らぬ速さで走っている。

 俺、八木真は、今まじで必死にチャリを漕いでいて、ごめんなさい、いつもみたいな愉快で軽快なトークはちょっと、その、しんどいの。正直、いくら小柄だとはいえ美羽子を後ろに乗せて遅れずについてくる源、すげえと思います。

 中央駅前ダイナーから稲荷神社、そこから今度は、こだま市の北端にある城址公園へ。公園駅前と同様、中央駅からも公園へのバスが出ており、俺達は脇道へ入るよりわかりやすく、道を間違ったり迷ったりするリスクのない、路線バスと同じ街道のサイクリングレーンを爆走していた。

 先輩の家は城址公園に近く、土地勘があるせいか、街道沿いを行く比企の判断にはやや不満げだったが、場合によっては人手が必要になる可能性を考え、落伍者が出ないよう、直線が多く、先行者がどこで角を曲ったかわかりやすく追いかけやすいルートを選ぶと言われ、渋々意見を引っ込めた。

「日付変更まであと七分か。ああいうものを喚ぶには、間の時間が望ましい。夜明けの、日が昇る直前。彼誰刻の、日没から空が暗くなるまでのわずかな間。そして、日付が変わる真夜中」

 比企が冷静に状況を分析する。日没どころか、夜明けまでだってまだ遠い。勝負はこの七分に、俺達が間に合うかどうかだ。走る先には城址公園の、夜目にもこんもりと黒い森と天守閣。比企は先頭を行く一ノ瀬先輩に、急ぎましょうと声をかけた。

 どうにか二分で全員が、公園の正門前に到着した。夜中のこととて、当然だけど公園の門は閉まっている。が、比企は俺達が自転車を門の脇に停めてロックをかけるわずかな間に、涼しい顔で柵状の門を引き開けた。結構重いであろう門を、片手であっさりと。こいつの体はつくづくどうなっているのか。

 さすがに一ノ瀬先輩はギョッとしたが、急ぎましょうと促され、金子雪路の保護を思い出し、ああ、と曖昧にうなずいて後に続く。

 防犯のためだろう、公園内は要所要所で灯りをつけていた。最初の街灯の明かりが届く辺りで、比企は立ち止まって、煉瓦畳みにぴたりと頬をつけて何かをじっと観察する。すぐに立ち上がって、こっちだ、と天守閣の方へ歩き出した。

「比企さん今の何すか」

 結城が訊ねると、え、と比企がちょっと目を丸くする。

「いや、足跡を見てどっちに行ったのかを確認したんだが」

 わかるんかい。

「そんなもんわかるかーい! 」

 思わず突っ込むと、わかるだろ、とあっさり答える比企。

「ここへ来る前には、舗装されていない緑道を歩いていたんだ、土の跡が靴底の形に残ってるのを探せばすぐに追いかけられるさ」

 比企はまた、次の街灯で足跡を見て、あっちだ、と方向を示した。

「もしかしたら、天守閣の前にいるのかもしれないな。天守閣の前には、広場のようなエリアがあるのではないか」

 比企がボソリと呟く。

「あるよ。天守閣は最上階まで登れるように復元されてるんだ。中に入るのに、お堀を橋で渡るんだ。その前はポカッと広くなってる」

 まさやんが答えた。そういえば公園の中には、博物館や美術館だけでなく、剣道場と弓道場もあって、近隣の地区の大会なんかもやってたっけ。

 全員がはやる気持ちを堪えながら、天守閣に向かって駆けていく。

 天守閣前の、ポッカリと広い橋のたもとの広場の、その片隅。

 散々捜し回り街じゅうを駆けた、その少女が、こちらに背を向けて立っていた。

 

 ゆきじ、と一ノ瀬先輩が呼びかける。自転車を全速力で飛ばし、公園の中を駆け、息が上がっている。先輩は肩で息をしながら、それでもできるだけ優しく呼びかけた。壊れかけたガラス細工を扱うような、砂糖菓子をそっと手に取るような。

 金子雪路は振り向かない。小さな声で、何かを一心に唱えている。

「雪路。雪路。寒いだろう、さあ、ぼくと帰ろう」

 応えない。何か唱えるのは止まらずに続く。

 腕時計を睨み、比企の表情が鋭くなっていく。

「あと二十二秒──くそっ《チョールト》」

「比企さん、何が起こるの」

 美羽子の声には不安が滲む。

「あんまりよくないことだよ。…源君、君には言うまでもないが笹岡さんを頼む。戦友諸君、二人のフォローをよろしく。先輩はまず間違いなく失敗する。そうなったら私の出番だ」

「待って、危ないことなら桜木さんに、」

 言いかけた美羽子を比企が制した。

「今回はあれの専門外だ、呼んだところで何もできまい。そして、」

 これは私の得意分野だ。比企は不敵に笑うと、コートの内ポケットからお札の束を出した。お正月の京都で見た、あのお札だ。

 雪路、ゆきじ、と縋るように呼びかける一ノ瀬先輩を見て、それから腕時計を見ると、比企は立ち上がった。

「それでは戦友諸君、後詰めは頼んだ。時間切れだ、気は進まないがどうにかせねば」

 白いコートのか細い背中が駆け出した。

 

 街灯が淡く照らす広場の片隅。確かに、灯りの真下ほど煌々と明るくはないが、それでも、何があるのかは鮮明に見ることができる。

 金子雪路のピーコートの肩は折れそうに細くて、おさげ髪がかすかな夜風に揺れていて、その、小さな肩の向こうに、つむじ風が枯れ葉を吹き寄せて、柱のように細くより合わさって、そして──。

 より合わさった枯れ葉の中心を、何かがこじ開けた。

 こじ開けた、としか表現できない。とにかく、枯れ葉でできた一本の線を、こじ開けるように裂いて、何かが出てきたのだ。

 扉を押し開けるように。カーテンを引き開けるように、……境界を引き裂くように。

 そいつは動物のように見えた。がちっと大きな体。足は四本。尻尾をピシピシと振り、まるで牛のような。

 牛だと思った。顔をまじまじと見るまでは。

 そこにくっついていたのは、のんびりとした牛ではなかった。

 人間の顔。年齢はわからないが、男の顔だということはわかる。そいつは、うっそりと前足を一歩踏み出してから、小首を傾げて、目の前の少女を見た。煉瓦畳みの上に描かれた円の中に立つ金子雪路は、その前に自ら描いた三角形の上にふわふわと浮かぶ牛を見ていた。

 牛にくっついた男の顔の、口元がモゴモゴと動く。ずっと黙っていた者が、重い口を開くときのように。

「我が名は」

 人間と言われればそれなりに、牛だと言われてしまえばそのようにも聞こえる、低い声だ。

「モラクス」

 比企は悪魔ではないと言っていたが、この姿はどうしたって誤解されやすいと思うよ! どう薄目に見ても化け物怪物モンスターと思われるよ!

 驚きの声をあげかけた美羽子が、どうにか自制して口を掌で蓋して源の肩に捕まる。ということは、俺達だけでなく、こいつにもあの牛男は見えてるんだな。

「召喚者よ」

 モラクスと名乗った牛は、感情の抜けた声で呼びかけた。

「我に何を望むか」

 その瞬間。

 横合いから、すごい衝撃波がモラクスを襲った。

「八木君、先輩を回収してくれ! 」

 チャット通話の回線越しに比企が呼びかける。俺は大急ぎで、牛が出て来た辺りからへたり込んでいる先輩の腕をとり、引きずるように隔離した。

「っらあ! 」

 比企の声と同時に、もう一発衝撃波が。それでも牛はケロリとしている。なるほどな、と比企は何事か得心がいったようだ。

「契約が万全でないうちは、半分はあちら側ということか。それでは物理では押せないな。それなら」

 白いコートが夜空に翻った。

「こいつでどうだ! チッ! 」

 宙を舞う比企の手から、お札が一直線にモラクスに走る!

 ずどん、と重い音と土煙が上がった。

「岡田君、金子嬢を! 」

 急展開を口開けて見ていた忠広が、呼ばれてハッと気づいて、金子雪路を確保に走る。やせっぽちのおさげ髪が跳ねて、手を引いて脇に避けさせようとする忠広に抵抗するが、元々そう力は強くないのだろう、上背もあって、少なくとも筋力の面でも勝っている忠広にあっさり抑え込まれて、小脇に抱えて引きずるように引き離された。

「いいから。お前がここで踏ん張ってると比企さんが戦えねえ」

 小脇に抱えられたまま、なおも足をバタつかせ抵抗するが、結局そのまま俺達が固まって立っているところに連れてこられてしまった。

「離して。どうして邪魔するの」

 いやあ、どうしてと言われましても。

 えー、と困ったなあと言いたげな苦笑いで、結城が頭を掻いた。

「自分が住んでる町がわくわく怪物ランドになるのもちょっと困るし」

 物も言わずにまさやんが頭をどつく。でも確かにそれもある。でも、一番こいつの暴走をどうにかしたかったのは、

「ゆきじ」

 一ノ瀬先輩は、結城とまさやんを押しのけて、ゆきじ、と呼びかけた。どう言葉を続けていいものか、ためらうように。

 その先輩の顔を、金子雪路は何だか場違いなものを見るような目で見ている。

「どうしてケイちゃんがこんなところにいるの」

 本当にわからないようだ。先輩はその表情の意味に気がついたのだろうか。一瞬言葉に詰まったが、呼吸を整え、気を取り直し、胸の内にしまっていた言葉を発した。

「迎えにきたんだ。一緒に帰ろう雪路」

「どうして? 」

「みんな心配してる」

「してないよ」

 あっけらかんと言う、その声と顔の朗らかさ。その明るさこそが、取り返しようもなく傷つき続け、もう誰かに顧みられることを諦めきっている証拠だ。たぶん手を差し伸べたところで、金子雪路は届いた手を振り払ってしまうことだろう。助けてほしいとすら、もう思わないのだ。

「端末だって電源落としてないのに。誰も電話一つもしないんだから。ケイちゃんは気にかけすぎだよ。ただ親戚だっていうだけで」

「いとこなんだ、気にかけるに決まってるだろ」

「そういうのは、先生の前でだけすればいいのに。学校の外でまで内申気にしなくても、私、先生に何か聞かれれば、ちゃんとそのくらいは話合わせられるよ」

 ケイちゃんと違って頭は悪いけど、そのくらいはできるよ。おさげ髪の眼鏡っ娘は、ニコニコと穏やかな笑顔で言った。

 だめだ。この、一ノ瀬先輩の言葉のことごとくが通じないこの感じ。先輩が金子にかける言葉は、全部彼女の表面でつるりと上滑りし、傷ひとつつけることもできない。

 通じない言葉を投げ続ける、その向こうでは、比企が大暴れしている。牛の体のモラクス相手に、お札をミサイルのように飛ばしては攻撃しているが、決定打には至っていない。人の顔の口でときにお札を咥えては噛み破り、蹄で踏み躙り、人とも牛ともつかない声をあげる。

「戦友諸君、私はできる限り奴を引きつける、時間は気にせず、彼女を思いとどまらせてくれ! 妖物と契約なんてしてみろ、二度と当たり前の人生は歩めない! 死んだ後まで契約で縛られ、あの世には行けず、この世では身の置き所もない、そんな末路はあんまりだ! 」

「わかった、何とかがんばる! でもさ比企さん、正月のあのロープはどうしちゃったのさ! 」

縛竜索ばくりょうさくなら師父にお返しした! こんなことならもう少しお借りしたままにしておくべきだったよ! 」

「返すの早過ぎだろ! 比企さんも無理すんなよ! 」

 結城と俺が答えると、わかった、と比企は応じて、コートの裾を翻し舞う。両袖と裾から、ザバザバとお札が流れ出始めた。お札の大波がモラクスに押し寄せる。

 ばちん、という音がした。

「いい加減にしてください先輩! 」

 見ると、美羽子が真っ赤になって怒っている。頬を押さえてへたりこんでいる一ノ瀬先輩。え、何が起こったの。

 美羽子は相当腹に据えかねたのだろう、先輩をびしりと指差し厳しい口調で叱り飛ばした。

「先輩の気持ちがよくわかったから、共感できたから、私達ここまでついてきて、一緒に金子さんを捜しました。今だって比企さんは、あんなおっかないお化け相手に、時間を稼いでくれてます。それは、先輩がちゃんと金子さんに自分の気持ちを伝えて、彼女を救い出すための時間です。それなのに、」

 なんで通りいっぺんの、当たり障りのない言葉で片付けようとするんですかっ! 美羽子はひと息にそこまで言うと、もう一度先輩の頬を張り飛ばした。

「しっかりしてください。今、あなたの大事な女の子を救えるのは、生徒会長や学校の先輩の言葉じゃありません、あなた自身の言葉です! 好きな女の子に見栄張ってどうするんですか! 」 

 はひ、と情けない返事をかろうじて返す先輩。もう、そこそこだけどイケメンの生徒会長のオーラは、鼻毛の先ほども残っていない。

「私、源君とお付き合いしています。最初のうちは明らかに比企さんの方が美人だし、口実にしか思われてないのかしら、なんて考えもしました。でもそうじゃなかった。それは、源君がつまんない見栄なんか捨てて、ちゃんと私に自分の気持ちを伝えてくれるからわかったんです。本当に思ってることを、全部一生懸命に伝えてくれるから、だから私は彼のことを信じてます。でも、先輩はそれ、してませんよね。今言ったことって、全部いとこのお兄さんで生徒会長で学校の先輩がいいそうなことを、きれいに並べてるだけですよね。何で源君ができることを、あなたみたいに頭のいい人ができないんですか」

 おおすげえ、正論だ。美羽子が正論で一ノ瀬先輩を詰めている。

 情けない、と美羽子は吐き捨てた。

「好きなんだったらカッコつけるな! 堂々と当たってみろ! 甘いセリフの一つも吐いてみろ! 」

 それから今度は金子雪路に向き直ると、あなたもいつまで拗ねてるの、とお説教タイム。わが幼なじみながら、こえーよ。

「確かに、あなたのこれまでの暮らしや、親御さんの冷淡さは、同情されて然るべきだと思う。でも、一ノ瀬先輩はあなたのことを思い遣ってくれてたんでしょ。あなたは、先輩がどうして気遣ってくれるのか、考えたことが一度くらいはあるんじゃないの。それなら先輩の気持ち、わかったんじゃないの? 」

「…わ、私みたいな馬鹿、ケイちゃんだって連れて歩いたりなんてしたくないですよ。恥ずかしいもの。そこまで自惚れたりしません」

「ほんとのバカはそんなこと考えないわよ」

 即座に切り返す美羽子。馬鹿っていうのはこういうのをいうの、と俺と忠広を指差しやがった。コノヤロー! 

「馬鹿はあなたみたいに色々なことを必死に考えたりなんてしないの。毎日おいしいもの食べて遊んで寝るだけで満足なの。あなたは馬鹿じゃないし、一緒に歩いたって恥ずかしくない」

 ですよね先輩、と、そこで美羽子は、たぎる怒りを満面の笑顔に変えて一ノ瀬先輩に向き直った。

「あとはお二人の問題です。一番言わなくちゃいけない言葉は、先輩自身がちゃんと自分でおっしゃってください。私はそこまでお世話する気はありませんので。──ということで、比企さーん、こっちは片付いたから、やっちゃえー! 」

 美羽子は言いたいだけ言ってスッキリしたらしく、比企にぶんぶん手を振って応援を始めた。

 

 比企は困っているようだった。

 相手はどうやら、半分は異界に、残り半分がここにいるらしく、悪さはできない代わりに、追い返すことも難しい。決定打に欠けるのだ。金子雪路から注意を逸らし自分に引きつけるために、比企はお札の法力で拘束し、どうにか応戦してはいたが、いつものようにぶっ飛ばしてはいおしまい、とはいかないようで、状況は完全に千日手だった。

 やっちゃえー、なんて美羽子はのん気に考えてるが、これは俺たちもどう助太刀すればいいの。

「そっちはどうにかなったようだな。笹岡さんのおかげだな」

「いやー、なんかごめんねー? 」

 忠広がヘケッと笑って謝ると、いや、と比企は笑った。

「私も同じことを言っただろうな。笹岡さんは頬を張っただけで済ませたが、私なら精神注入で歯の一本二本も折っていただろう」

 女ってこえーな。

「それにしても、金子嬢はこんなものを喚び出して、どうするつもりだったのかな」

 言われてみれば。俺は泣き出しそうな顔で呆然と立っている金子雪路に、あのさ、と声をかけた。

「君はあれを喚び出して、何をしてもらおうとしたの」

「…え、」

「誰も叶えてくれないだろうなってことを、君は叶えてほしくて、あんなものに頼ったんでしょ」

 ピーコートの細い肩が震えた。

「何をしてもらおうと思ったのかな」

 金子雪路はうつむいた。自分の肩をきつく抱いて、震えながら、やっとのことで言葉を絞り出した。

「殺してもらおうと、思った」

「…誰を? 」

 気持ちに答えてくれなかった比企を、ということか? それとも、自分に冷淡だった親を? 

 彼女が口にした言葉は、俺を驚愕させるには十分だった。

「私を」

 …はあ?

「普通にやったら、失敗することも多いから。薬をいっぱい飲んでも、首を吊っても、線路に飛び込んでも、誰かに止められたりして失敗なんてしたら、何を言われるかなんて目に見えてるもの」

 目の前で震える、手足も顔も全部が小作りな眼鏡っ娘の目は、何も映していなかった。ただひたすら、自分の絶望と失望しか見ていなかった。

「あいつは人様に同情して欲しくて、気を引きたくてこんなみっともない真似をした。恥ずかしくて外を歩けやしない。いい迷惑だ」

 わかりますかと金子雪路は、感情が抜けた声で俺に問うた。

「私は最後だけは失敗できないんです。最後だけはちゃんとできないとだめなんです。でも誰もちゃんとなんて、手伝ってはくれないから、ちゃんと成功させてくれるものに頼もうと思ったんです。私、何かおかしなこと言ってますか」

 おかしいと言ったら全部がおかしい。だけど、俺は何も言えなかった。そこそこ愉快にそして陽気に毎日過ごしている俺が、この子に何を言ったところで、決してそれは、慰めにもしるべにもならないきれいごとだ。俺の言葉は軽すぎて、絶対にこの子を助けられない。

「比企先輩は優しいから、私みたいなつまらない後輩のことも助けようとしてくださるけど、でも、あれは私が喚んだんです。願いを叶えてほしいから、自分で決めて自分で喚んだんです」

 うう、済まねえ比企さん、今回ばかりは俺達、完全に役立たずかもしれない。

 仲間たちの顔を見遣れば、驚愕と戸惑いが貼りついている。一ノ瀬先輩は悲しそうに目を見開き、美羽子はどうしたらいいのかと源と顔を見合わせ、まさやんも結城も忠広も、金子雪路にかける言葉を探しあぐねている。

「比企さん、」

 とにかく、魔神召喚なんてことをやらかしたに至る理由だけでも耳に入れなくては、と呼びかけると、ああ、と比企はため息をついた。

「ありがとう八木君、貴君と金子嬢のやりとりは聞こえたよ」

 まったく、とぼやいてから、かといって彼女の望みを叶えてやるわけにもいくまいよ、とつぶやいた。

 しかしまあ、死にたいから絶対確実に死なせてくれる奴に頼みましたって、ちょっと待てちょっと待てちょっと待てぇ! 斜め上に振り切りすぎだろ! こんなんどうやってお引き取り願えばいいんだよ!

 考えろ考えろ考えろ俺!

 必死でない知恵を絞る俺は、頭脳労働に夢中で見逃していた。

 金子雪路から、目を離してはいけなかったのだ。

 

 金子雪路は、戸惑いと驚きに包まれた俺達にはお構いなしで、ふらふらと歩き出す。自分が喚び出した魔神の方へ。

 比企と魔神と、ちょうど正三角形が描けるくらいの位置にまでくると、ぴたりと立ち停まった。

 深く息を吸って、吐いて、もう一度吸って。

「私が召喚者。私の願いを叶えてください」

 大きな声で呼びかけた。

 比企が目を剥く。牛の体についた男の顔が、グルンと声の方へ向く。

「承った」

 牛のような人間のような、どちらともつかない嫌な声だ。うなずいた魔神は、いきなり存在感が増した。

 なんて言えばいいんだろう。はっきりと見えてはいたのだけど、どこか現実感が薄くて、…そう、気配が薄かったのだ。それが、いきなり濃くなった。

「望みを申されよ」

 圧倒的なまでに存在感を増した魔神が訊ねる。声はまるでゴロゴロと鳴り響く雷のように、俺の鼓膜をビリビリと殴りつける。

 金子雪路が、すう、と深呼吸する。

「だめだ、言うな! 」

 俺が、結城が源が、まさやんが忠広が美羽子が、一斉に制止の声を上げたが、

「私を殺してください」

 それを押し退けて、やせっぽちの眼鏡っ娘は、声を限りに言い切った。

「私を即死させてください。誰にも何にも邪魔できないくらい素早く、完全に」

 牛の前足がひくりと動いた、そのタイミングだった。

 ざばっ! 

 針のように鋭く細い衝撃波が、胴を貫いた。

 比企だ。右手には愛用のアーミーナイフが握られている。

「させるか」

 同じように鋭い一閃がもう一度。と思うと、比企はもう、牛の喉笛を狙って首の下に潜り込んでいた。そのまま刈り取ろうとして、魔神は比企のコートの襟首を噛み、思い切り首をしゃくってぶん投げる。

「邪魔をするか」

「ああ、するね。どこまでだってしてやる」

 頭をぶつけたのか、夏休みの海での、あのときと同じように、頭から血を滴らせて起き上がった比企は、不敵な笑みで愉しそうに答えた。

「愚かな。術者のようだが、我に正面から戦いを挑んで勝てると思うてか」

 魔神が前足をカッと煉瓦畳に打ちつけた。

「マラクス。ソロモン王と契約した七十二の魔神のひと柱、伯爵にして総裁。三十六の軍団を率いるといい、召喚者に使い魔を与え、薬草や宝石、天文学の知識を与える。──金子さん、」

 比企は、金子雪路に呼びかけた。

「君が喚んだものは、そういうものだ。暴力ではなく知識を統べる魔神だ。シェムハムフォラエによれば君の守護天使はネルカエル。同じ第二十一位相に据えられたマラクスならば、相応する対の存在として召喚しやすかろうと思ったんだろうが、君の望む圧倒的な暴力とは無縁の存在だった」

「…知識を、与える」

「そうだよ。こいつもさぞがっかりしただろうね。呼ばれて出て、あれこれ教えてすごいすごいと感嘆されるのかと思ったら、およそ見当違いの暴力仕事を頼まれたんだからね」

 なあマラクス、正直にお門違いだと言ってやれって、と比企は魔神をけしかけた。

 魔神がぴたりと動かなくなった。

 その顔は、何か考えを巡らしているようで、やがて、ふん、とうなずくと、つまり、と口を開いた。

「我は小娘如きに軽んじられたということだな」

 ならば、

「その侮辱は贖ってもらわねば。何、そこな小娘にしてみれば、そもそもの願いが叶うのだ、本望だろうて」

 男の顔がねっとりとした嫌な笑いに崩れた。

 牛の足元が陽炎のようにゆらめいて歪み始める。

 比企が、呆然としている金子雪路を風の速さでひっさらって、俺達の立っているところへ戻ってきた。

「先輩、今度こそしっかり捕まえていてください」

 金子を一ノ瀬先輩に押し付けて、全員動かないでくれたまえよ、とひと言、俺達が中心になるように五芒星を描いた。

「即席でもないよりはましというもの。万一、私がしくじったら、東に向かって師父を呼ぶんだ。すぐに来て下さる」 

「サラッと縁起でもないこと言うなよ! 」

 忠広の言葉に、まあやるだけやるさと比企は答えた。

 

 牛の足元からは、ざわざわざわざわと、何かよくないものが湧き出してきている。比企はそれを見て、おいおい、とため息をついた。

「自分の配下の軍団を呼んでいるな。異界と現世のバランスを壊す気か」

「あの娘の望みを叶えてやることの何がおかしい」

「それならあんただけで事足りるだろう。配下全員かき集めてすり潰させて、そんなことになれば、あの世とこの世の理が狂う。そのとき、真っ先に槍玉に上がるのはあんただぞ」

「口の回る娘よ。いつまでその減らず口が続くか」

 そうかい、と比企はうんざりしたように答えた。

「警告はした。あんたがやる気なら、仕方ない、私もそれなりの手段を取らせてもらうさ。魔法には魔法、軍団には軍団を」

 比企はあんまりやりたくないんだけどな、と、心底嫌そうにつぶやいて、足元に落ちていた煉瓦のかけらを拾うと、街灯に投げつけて割った。いっぺんに真っ暗になる。

「総員、第一種戦闘配備」

 素っ気ないくらいの口調だけど、決然とした響きだった。比企の声は、まるで、そう、まるで、大軍を率いる将軍のような、そういう人間なら、こんな調子で軍を動かすのだろうというような、そんな感じだった。

 初陣に臨む若者ではない。比企は若い、というより、人によっては幼いと言うかもしれないが、それでも、その落ち着き払った声は、歴戦の名将のそれだった。

「あっ! 」

 美羽子が驚きの声をあげる。

 ふっと目をあげると、そこはもう、さっきまでの城址公園ではなかった。どこだよここは! 足元はどこまでも続く草原、遠くにはしなやかなシルエットの木が群生している。幹が白っぽいので、もしかしたら白樺の林なのかもしれない。草原の土はふかふかと柔らかく、周囲を見渡すと、なんと俺達の後ろには、どこまでも続く大軍団の列が広がっていた。あっちの集団は斧や剣を持った中世の戦士達。そうかと思うと、向こうには戦車や装甲車を何台も連ねた近代的な軍団。歩兵も騎兵も銃兵も、工兵もいれば狙撃兵も、およそ思いつく限りの兵士達がいた。

 その軍団の先頭、俺達の前に立っているのは。

 白いコートの裾をはためかせ、馬鹿でかい軍旗を片手で掲げ、苺色の髪をなびかせた比企だった。

 旗には、大きな黒い鳥が描かれた金色の盾を、緑色のドラゴンが抱えている紋章が描かれていた。その絵にどんな意味があるのかはわからない。でも、なんだか途方もないものを見ていることはよくわかった。

 目の前の魔神が、あんぐりと口を開け目を丸くしている。

「お前は、」

 かろうじて言葉を搾り出している、といった風だ。

「お前は、何者だ」

「大公家の次期当主、と言えばわかるか」

「まさか」

 牛男がうろたえている。

「まさかも何も、この旗印、納骨堂の爺様に押し付けられたんだ。しかもこの軍団が大公家の者にしか従わないのは、あんた方異界のものの方が詳しいはず」

 マラクスは黙り込んだ。

「あんたがあの子をすり潰すのに配下を総動員するのなら、そちらとこちらのバランスを保つためにも、私はあんたをすり潰さなくてはならん。お互いのためにはならないし、ただただ面倒なばかりだ。…どうだ、」

 これで手打ちにしないか、と比企は牛男に持ちかけた。

「あんたは己の凄さを人間に示した。私はバランスを維持するために対応した。今ならそれで終わらせられる」

 うん、その方がいいと思うよ。打とうよ、手。俺達、一ノ瀬先輩を除いた男子五人は、一斉にうんうんと赤べこよろしくうなずいているが、それでも魔神は不服そうだ。

 あまりに渋るマラクスに、比企がニタニタ笑った。

「私は子供の頃から、なぜだか年寄りにかわいがられていたんだが、長老の一人がこんなことを言っていた。──なあ、」

 そこで比企の放った言葉に、魔神は突然震え上がった。

「魔神の血ってのは、なかなかうまいって話だが、本当なのかな」

 俺は見た。愉しそうな比企の横顔が、舌なめずりをしているのを。

 たったひと言、それだけで魔神の意地とプライドはあっさりと引っ込んだ。

 魔神の血って、悪食はやめとけよ比企さん!

 

「確かにその娘の望みは、我の職能とは反するものだ」

 それでも体面を保たんと魔神は精一杯胸を張って顔を上げて言ったものだ。

「我は持てる力の片鱗を人の子らに示した。子らは我の偉大さに感じ入り、畏敬の念でもって我を讃えた。大公家の姫はその場に立ち合い、人の世と我らの世界の境を守った。これでよかろう」

 決してお前に血を吸われるのが恐ろしいからなどでは断じてない、と、張れるだけの見栄を張ってマラクスは、配下を呼び寄せるのをやめた。

「そこのところははき違えるなよ、極北の姫よ」

 わかった、と比企が軍旗を下ろすと、草原とあの大軍団はすぐに消えて、元の城址公園に風景が戻った。

「ではさらばだ、人の子よ、オドエフスキーの姫」

 魔神の存在感がどんどん薄くなっていく。

「我らと関わろうとすればどうなるか、骨身に染みたであろう。生半な覚悟で喚び出せば、それなりの代償をもらってゆくぞ。そのこと、忘れるなよ」

 最後には、言葉だけが残って、それもすぐに夜風に消えた。

 

「…今見たのは、一体何だったんだ」

 ほぼ初対面でいきなり比企のマジカルバトルオンステージを体験した一ノ瀬先輩が、呆然としている。無理もない。でもね、これ割り切って慣れていかないと大変だよ。経験者なので言いますが。

 そのとき、夜を切り裂く腹の音。

「は…腹が減った…」

 がくりと膝を折り、比企が情けなくうずくまった。さっきまでのあの、太々しいほどの余裕はどこへ行ったのか。

「どしたん比企ちん、さっきまで余裕だったのに」

 結城がのほほんと突っ込んだ。

「余裕ぅー? そんなもん実家に帰ったに決まってるだろうが! 」

 私は腹が減ったんだ、と喚きながら転げ回る比企。みっともないからおよしなさいよ。

 コートのポケットを探って、あ、と四葉のクローバーでも見つけたみたいなほっこり顔になると、カレーパンあった、と幸せそうに言って比企は食い始めた。

「さて、それじゃあ帰ろうか」

 カレーパンを三口で食って、比企は俺達を促す。えー。あっさりしてるなおい!

「え、でもいいのあの二人」

 あんまりドライに切り替えるもんだから、美羽子がおずおずと訊ねると、あとは二人が解決することだからね、と片付けた。

「まあ、二人というよりは一ノ瀬先輩が、だね。あの人ががんばれば解決する話だよ」

 それは確かに。

「でもあの煉瓦が割れてるのはどうするんだよ」

 まさやんが指摘すると、それがあったか、と奴は頭を掻いた。またポケットを探って、くっしゃくしゃになったお札を一枚、煉瓦がめちゃくちゃに割れている中心に貼り付けると、ふっと息を吹きかけ、急急如律令、と唱えておしまい。煉瓦はあっという間に元のきれいな姿に戻った。そこでまた、盛大に鳴り響く腹の音。

「それでは先輩、我々はこれで失礼します。金子嬢は先輩がついていてくだされば大丈夫ですね。なんかクッッソ甘い胸焼けしそうな言葉でもかけてあげるのがよろしいでしょう。ではおやすみなさい」

 比企は捨て台詞のように言い残して、さあいくぞ戦友諸君、確か街道沿いに二十四時間営業のダイナーがあったはずだ、と歩き出した。

 

 この騒動のおかげで、俺達は思わぬ形で比企の正体を知ってしまったが、それでも困ったことに、こいつはちっとも怖くないどころか、そっかーだから不思議なことをイロイロできちゃうんだねー。程度にしか思えなくて、根本的な友情の根っこは、揺さぶり以前にびくともしないのが、我ながら驚きだった。

 でも、それって俺だけなのかしら。ダイナーに向かう途中、気になってその辺のことを美羽子に訊ねた俺の心配は無用のものだったらしい。何言ってんのと思い切り白っぽい目でねめつけられたのだった。

「比企さんは比企さんでしょうよ。大体、いっつもお腹空かせてるのに、あたし達血ぃ吸われるどころか、毎日一緒にご飯食べてるじゃない。マコって馬鹿ね。知ってたけど改めて馬鹿ね、お馬鹿さん」

 悪かったなドチクショウ!

 でもね、俺もまったく同じようにしか感じられないの。ましてやこのあと、街道沿いのダイナーに寄って、大盛りパスタとミートパイとドーナツ食って、飯に気を取られてる隙にまさやんと忠広が連絡入れてたのに気づかなくて、迎えに来た桜木さんにこってりお説教されてるところを見ちゃうに至っては、もう警戒とか不安とか、そんなのは吹っ飛んでしまいましたわ。桜木さんのお叱りを、仏頂面でパスタ食いながら聞き流してる比企の横で、俺達野郎五人は、コーヒー啜りながら、まったくなあ、とため息をついていたものだ。

「結局、比企さんは比企さんなんだよなあ」

「正体云々以前に、こういう人なんだよ」

「大丈夫なのかこの人」

「心配しかない、食い気が過ぎて、食ったもので窒息しかねない」

「乳児より目が離せないよな」

 俺達はお互いの感想に、深々とうなずき合ったのだった。

 少なくとも真夜中の公園で、腹の音を鳴り響かせる女子に、恐怖もときめきも感じられないよな。

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