第31話 五人とひとりと甘い告白 3章

 深夜十一時過ぎのダイナーは、ひっそりと静かに、店の隅へ薄闇がうずくまっていた。駅前を見渡せるこの店の、窓際のテーブル席が待ち合わせ場所だ。俺と忠広、美羽子が店内へ入ると、源と比企の向かいに座った一ノ瀬先輩は、テーブルに突っ伏して頭を抱えていた。

 パーカーに登山用のショートジャケット姿の源と、こちらはいつも通り、黒いタートルネックセーターにジーンズ、白い軍用コートとハンチング姿の比企の前には、ホットの紅茶のカップ。一方の先輩の前にはお冷やのグラスがあるだけで、飲み物すら喉を通らないと言った有様だ。俺と忠広が先輩の隣、美羽子が源の隣に座ると、比企は携帯端末から顔を上げた。

「念のために、市警察の少年課長に事情を説明して、もし金子嬢を保護したら大ごとにせず、私に連絡をくれと頼んでおいた。書類にはせず、こちらに引き渡してくれるよう手を回した」

 すげえなコネのちから。

「それとは別に、市内の防犯カメラとNシステムが彼女の姿を捉えたら、すぐに位置情報が来るように手配した。まあ、これは金子嬢が既に市外へ出てしまっていたら意味はないが。あくまで保険程度ではあるがやらせているよ」

「それは、ちなみにどなたに? 」

 俺がわかっちゃいるけどとぼけて訊ねると、比企は情報屋に、とだけ答えた。

 まずは結城とまさやんが来るまでに、どこを捜すかの目安になりそうな、金子雪路の行きつけの店やお気に入りの場所がないか、先輩から訊き出すことにした。

「先輩、金子さんが行きそうな場所、心当たりはありませんか」

「…ないよ、」

 テーブルに突っ伏し頭を抱えたまま、うめくように小声で答えた。

「あったら君達にまで頼ってないよ」

 それもそうか。ふむ。

 比企がカップを取ってお茶を飲み、あるでしょうにと切り返した。

「子供の頃に行った図書館。妖精や天使が描かれた絵本が好きだった。そんな些細なことまで憶えているんだ。他にもまだあるのではありませんか。子供の頃に、何度か一緒に行った場所が」

 先輩はそう言われてやっと、ちょっとだけ顔を上げた。比企が端末の画面に出したこだま市の地図をじっと見て、それからゆっくりと指をさす。

「城址公園には、お花見に行った。毎年」

「それから」

「理科で星の運動を教わったときには、河原のグラウンドで天体観測したなあ。星座早見盤持って、毛布持って。父さんが車を出してくれたっけ」

「図書館は中央駅南口の本館ですか」

「いや、西駅の方の分館だよ。あとは、どこだったろう。ああ、いつだったか、初詣で稲荷神社にも連れて行ってやったっけ」

 比企は画面の地図にポンポンと印をつけていくと、次の質問。

「金子さんの部屋から、なくなったものはありますか。例えば旅行鞄や服がなくなったとか、お気に入りのものが消えたとか」

 その質問に、先輩は曖昧に首を振った。

「わからない。…叔母さんも叔父さんも、何があったのかさっぱりわからないって。いつ家を出たのかもわからないし、部屋から何か持ち出していたのか、それも全然」

 そして、また頭を抱えてうずくまると、ぼくらは誰も、雪路のことを何にも見てやしなかったんだな、とため息をついた。

「呆れるほど、誰も雪路のことを知らない。ぼくらは薄情だ…なんて奴だ…」

 何が従兄だ、とうめいて、先輩はさらに縮こまった。

 

 十分ほどでまさやんと結城が、チャリを飛ばしたのがありありとわかる、火照った顔でダイナーへ入ってきた。俺達のテーブルへ歩み寄りがてらコーラを注文。六人で座ったらいっぱいになってしまうテーブル席に、総勢八人がぎゅうぎゅうに収まると、比企は市内を東西南北で大まかに分けて分担を決めた。

 中央駅を中心に、市内を東西に走る線路と南北のラインで区分けして、東北は源と美羽子。南東は俺と忠広、南西は先輩と比企が、西北はまさやんと結城が受け持つ。相互の連絡は、先輩以外の全員がチャットルームに繋ぎっぱなしで通話し、非常事態と判断された場合は、すぐに他の全員が向かって駆けつける。よほど喉が渇いていたのか、比企が分担の説明をしている間、まさやんも結城もコーラをあっという間に飲み干して、氷をガリガリ噛んで食ってしまった。

 初夏からこっち、もうすっかりトラブルに放り込まれて対処することに慣れてしまった俺達は、ほんじゃ行くか、程度のゆるいノリで立ち上がり、各々が会計を済ませて自転車にまたがるのを、一ノ瀬先輩は唖然として見ていた。

「そういえば比企さん、桜木さんは? 」

 出際に訊ねると、ああ、と比企は革のグローブをはめながら、

「今回は市警察との連絡を頼んでいる。家で待機だな」

 なるほど。

 先輩はまだぽかんとしていて、比企に促され立ち上がると、君達は一体何なんだ、とつぶやいた。うん、確かに何も知らない人から見れば、謎の集団だよね。

「特攻野郎Aチームだと思ってください」

 比企は訳のわからない説明で片付けた。

 何だよそのチーム。

 案の定、先輩はキョトンとしてるが、比企は取り合わずさっさと外へ。店の前で俺達は、互いに片手をあげて四方へと散っていった。

 

 さっきの話だと、どうも図書館や本屋にでも行ったら見つかりそうな気がするけど、生憎この時間では、図書館も本屋もとうに閉まっている。忠広と俺は、どこへ行って捜したものか思案しながら、それでもとりあえず自転車を走らせた。さっき一ノ瀬先輩の口から出た場所は、他のエリアに点在し、俺達が受け持った南東エリアには何もない。そんなことをぼやいていると、それなら、と比企の声が聞こえた。そういえばチャット回線で全員繋がってたんだっけ。

「東駅のロータリーにシャンソン喫茶があったろう。あそこはどうだ」

「シャンソン? 」

「中学校の案件のときに入った喫茶店だ。あの店の閉店時間がまだであれば、可能性はある」

 あの店か。夏の初めに行ったとき、比企は流れていた曲に合わせて鼻歌なんて歌っていたが。

 忠広と一緒にチャリを走らせ、大急ぎで着いたシャンソン喫茶は、丁度店じまいだったらしく、以前来たときカウンターにいたお爺さんが、表に出ていたドアマットを軽く叩いて取り込んでいるところだった。真冬の深夜に大汗かいて、体温で頭から湯気を立ち上らせた高校生が二人、自転車で駆け込んできたのだ、さぞや驚いたことだろう。事情を話し、こんな女の子が来てはいなかったかと訊ねたが、来てはいないよとお爺さんは答えた。

「本当にこの辺りに来てたのかい。女の子じゃあ心配だね」

「わからないんですよ。手当たり次第に捜すしか」

 ジャンパーの襟をばたつかせてあおぎながら、忠広が答える。そのとき、比企のいささか緊迫した声がイヤホンから流れた。

「まずい展開になった」

 何ですって。

「別件で巡回警邏中だった巡査が、河川敷の緑道を歩いていた未成年女子を発見。少年課に繋ごうと無線連絡中に逃げられた。身長や体型、顔つきの特徴は完全に金子嬢と一致、おそらく彼女だろう」

「何ですって」

 思わずお嬢様口調で反応してしまった。

「うっそお」

「まじかー」

「逃げられたって」

 町じゅうに散った仲間達が、口々に驚きと落胆を発するのが聞こえる。逃げられたって。

 忠広は即座にペダルに足をかけ、お邪魔しましたとお爺さんに挨拶、すぐに走り出した。

「比企さん場所わかるか」

 すぐに忠広と並走し、俺が訊ねると、ちょっと待ってくれとすぐに返事が来た。

「城址公園駅と東駅の間、やや公園駅に近いくらいの場所だそうだ。時間は、」

 夜十時前、丁度、金子雪路の不在に家族が気づいた頃だそうだ。比企によると、その時間に金子の父親から先輩に、雪路がそっちへ行ってないかと電話が来たのだそうだ。来ていませんよと答えると、そこで初めて金子雪路の父は驚き、彼女が家から消えたと言った。父親が警察に通報する間、先輩はふと比企の一件を思い出し、ツテを頼って、緊急連絡網でクラス委員の美羽子に、比企が何か知らないものかとすがった。俺達がドタバタやっているその間に、一度は見つかり、そして彼女は再び姿を消した。

「今から緑道へ行ったところで、もう金子嬢は寄り付きもすまいよ。仕方ない」

 比企は淡々とそう言って、奥の手を使うと続けた。

「今、先輩に頼んで、金子嬢の愛用の品を取りに行ってもらっている。それを使わせてもらう。──そうだな、」

 稲荷神社の大鳥居前で待つ、悪いがみんな集まってくれないか。比企はそう言って、今夜は長くなりそうだなとため息をついた。

 愛用の品ですか。それで何をするんすか。まあまた不思議なジツでもって何かするんだろうけどさあ! でも具体的にどう使用するのかは見当つきません。

 今の俺達にできることは、大鳥居に向かって爆走するのみだ。

 

 大鳥居に着いたのは、俺と忠広が最後だった。

 不安と猜疑心が半々といった感じの一ノ瀬先輩が、ボソボソと何か耳打ちしているのを、美羽子は源の袖を引き、大丈夫なんだよね、と確かめるように問うている。結城とまさやんは三人を横に、コーヒーのペットボトルで暖をとっていた。

 俺と忠広の顔を見ると、源が困ったもんだと言いたげに苦笑いした。

「先輩、ついに比企さんの頭がイカれたと思ってるみたいでさ」

 気持ちはわからなくもない。たぶん、比企の不可思議な術に慣れている俺達の方が、世間的にはおかしいのだ。でもねえ、あれすげえ効くの。効果がすげえの。

 大丈夫だと美羽子の背中を軽く叩いて、俺は鳥居の柱に軽く背を預けて立っている比企の方に行った。

 俺に気づいて顔を上げると、比企はコートのポケットから何か小さなビニール袋を出した。

「先輩に金子嬢の手回り品を頼む間、彼女を見かけた巡査から、場所を聞き出して回収してきた」

 例の緑道に落ちていた、と言われて見れば、小袋の中には例のお高いお守りストラップ。

「虫か何か、小さなものを踏むような身ごなしだったというので、何を踏んでいたのかと思ったらこれだ」

 思い込みが激しい分、寄せた願いが大きい分、大金を叩いて買ったお守りが効かなかったとなると、落胆もひとしお、怒りが湧いてもおかしくはないだろう。

 比企は集まった皆を促して、手水場へ向かった。

 さあそんじゃやるかね、と腕を回し肩をほぐしながら、実に締まらない口調で、では先輩、お願いしたものを、と手を差し出す。何となく手水場の水盤をぐるりと囲むように立っていた俺達は、一斉に先輩を見た。

「これでいいか」

 手のひらにすっぽり収まるサイズの、制服のポケットに入れても邪魔にならないくらいの丸い鏡だ。受け取って、水に鏡か、こいつは重畳、と比企はうなずいた。

「何を始めるのか知らないが、いい加減真面目に雪路を」

 ついに我慢できなくなった先輩が抗議しかけたが、比企はかざした掌一つで黙らせた。

 さっきまでの、やる気のない、眠たげな顔とはもう違う。俺達が巻き込まれた騒動の、一番危なくて一番日常から離れたひとときに見せる、不敵な表情だった。

「さあそれでは始めよう、崑崙仕込みの外道祭文、とくとその目に焼き付けられい」

 左手の革グローブを脱ぎ、右手には愛用のアーミーナイフ。そいつで自分の左掌をすぱあ、と切って、比企は滴る血を手水場の水盤に落とした。ぼたぼたぼた。

 声をあげかけた美羽子を源が、一ノ瀬先輩を結城がおさえる。

 比企は、今度は手鏡を水盤に沈め、あのストラップのチャームを、まだ血が滴り続ける左手で水面にかざした。

「水は鏡、鏡には影」

 風は吹いていないのに、今まで静かだった水盤の面が、比企の言葉に反応したように、突然激しく波立った。ザバザバと激しくのたうつ水は、やがてぐるぐると渦を巻き始める。その間にも、水盤には竜の彫刻の口からチョロチョロと水が流れ注ぎ込まれていた。

大洋オケアンに浮かぶブヤーンの島の深き森に隠れる泉は清らなる泉。水澄み渡りその面には万象を映すなり。水鏡よ、我が友がらの面影映し消息を知らしめよ」

 比企が唱えるうちに、渦は緩やかになり、ぴたりとおさまった。比企はその水面に、ナイフの切先で五芒星を描いていく。

「水行を以て魔鏡となす。映し出せ──チッ! 」

 水にちらちらと反射していた光が、影が、くるくると混ぜ合わさっていく。それはすぐに、つい昨日見たばかりの、やせっぽちの小柄な女の子の姿になった。

 ゆきじ、と微かに声をあげかけて、一ノ瀬先輩は慌てて掌で口を覆った。

 水盤が映した金子雪路は、どこか広くて暗い場所で、小さな懐中電灯の灯を頼りに、地面の上にうずくまり、熱心に何かを書いているような仕草だ。時折手元に広げた本を見ては確かめている。

 本のページには、円の中にごちゃごちゃした図形が描かれたものが何種類か出ていた。それから、ちょっと離れたところには小さな鳥籠。中にはどこで捕まえたのか、土鳩が一羽入っている。

 なにしろ暗い場所な上に、肝心の金子がずっとうずくまっているので、顔はよく見えない。見えないなりに、凄まじく作業に集中していて、ちょっと怖いぐらいだった。

 ふっと水面に映った金子雪路が立ち上がる。地面を照らし、自分の作業の確認か、足元を丸く懐中電灯の灯りが切り取る。煉瓦敷きの広い空間のようだ。どこかで見たような見なかったような。すごく馴染みはあるのに、さあここはどこですか、と急に訊かれると、どこかで記憶が引っかかって出てこない。

 比企がナイフの先で水盤の真ん中をつついた。すぐに水鏡はただの水に戻り、滴り落ちて水に溶けたはずの血が、チャプチャプと珠になって傷口へ戻ってゆく。京都で、神だったものの神域を封じたときと同じだ。ただ、今日の傷は浅いものだったみたいで、比企はそのまま上からまたグローブをはめた。

「今の煉瓦畳はどこだ」

 小さく呟き端末を開いて、どこかに電話をかけると、比企は何語かわからない言葉でやりとりし始めた。その短い通話の間、美羽子は水盤と比企を交互に見て目を丸くし、先輩はどうなってるんだ、と頭を抱えていた。

「比企さんが不思議な魔法使うって、源君からは聞いてたけど」

「今のあれは何なんだ。なんで雪路の姿があんなところに。トリックでも使ったのか」

 すぐに通話を終えて、俺達に向き直った比企は、先輩の様子をチラリと見遣ると、あなたはもう帰った方がいいでしょうね、と淡々と言った。

「たぶん、ここから先の展開は、あなたにはいささか厳しいであろうし、何より理解不能でもあるでしょうから」

 あとのことは引き受けます、先輩は彼女が戻ったときに出迎えてあげられるよう、待機していてください、と残し、大鳥居の外へ向かう。待ってくれと一ノ瀬先輩は追い縋った。

「理解不能だというなら、もうすでに理解不能だよ。さっきのあれは何なんだ。あの目眩しは置いておくとしても、ぼくは雪路を連れ戻すために迎えに来たんだ。誰が何と言おうとぼくは君らについて行くぞ」

「見たくもないものを見せつけられてもですか」

「大袈裟な」

「人には、見たくないもの、見なくてもよいもの、見てはいけないものがある。おそらく、私についてくれば、あなたはその全部を目にするかもしれない」

「くどいな。そんなに追い払うと逆に怪しまれるよ」

 俺は何となく、これまでの付き合いから、ここまで釘を刺すのはこいつなりの優しさなのだとわかった。

「先輩、」

 俺が声をかけようとした、そこで比企はわかりました、と大鳥居をくぐった。

「もう止めません。あなたはどうやら、見て後悔する人なようだ」

 

 こだま市内には、煉瓦畳みの広場がいくつかある。

 まず、中央駅入口前の広場。城址公園駅の南口側にある、公民館の入り口前。それから、城址公園の博物館・美術館が並んだロータリー。この公園は、歩道も煉瓦畳みになっていて、幅も広い。狭いところでも正月に行った京都の、四条通の歩道ぐらいはあった。

 市内では、咄嗟に思いつくのはこの三箇所だ。えーと待って、他にあったっけ。あ、そういえば城址公園は北口側も、駅前商店街の前辺りまでは煉瓦敷きじゃなかったっけ。

 ひと気のない真冬の深夜、時折車が気まぐれに走るだけの街道を、サイクリングレーンいっぱいに並んだ俺達が走る。その脇の歩道を、ジョギングにもならんわいという涼しい顔で、比企が同じ速度で並んでいる。美羽子は源君が言った通りだった、と感心し、一ノ瀬先輩はギョッとしたようだけど、すぐに金子雪路のことを思い出し、それどころではないとペダルをぐいぐい踏んで進む。

 しかし、恋は盲目とはよく言ったものだ。やせっぽちの地味な女の子に、そこそこイケメンで結構頭もいいと評判の生徒会長が、ここまで執着を見せるなんて。この姿を、生徒会の役員や教師陣が見ればどう思うのか。

 人を好きになるって、こんな風になってしまうのだろうか。俺もなるんだろうか。いつか本当に好きな女の子があらわれて、その子が人知れず悩んで苦しんでいたら。俺はこんなに必死に、その女の子だけのために、かけずり回って必死に何かしてやろうとするのだろうか。できるのだろうか。

 今、俺の前で必死にペダルを漕いでいる一ノ瀬先輩は、正直にいうとすごくかっこ悪い。生徒会の仕事で校内を歩いてるときには、すかした感じがちょっと鼻にはつくけど、こんなにかっこ悪くはない。でも、今のこの姿は、必死なぶん正直で、俺はそこになぜか好感を持った。

 大鳥居を出て走り出したところで、すぐに比企の端末に着信があった。着信音はなぜか「シェリーに首ったけ」だ。キラキラしたフレンチポップスは場違いすぎるよ比企さん! だが奴は仏頂面もそのまま、電話に出ると、さっきと同じ何語かわからない言葉でやりとりして、すぐに切った。

「場所がわかった。城址公園の防犯カメラが、金子嬢を捉えたそうだ。時刻は十一時過ぎ、丁度我々がダイナーに集合した頃だ。早くしないと非常にまずいことになる」

 チャットのマルチ回線で聞こえてきた比企の声は、珍しくちょっと焦っている。どうした。

 そこで比企は、この回線は一ノ瀬先輩にはオープンにしているのか、と声を低めて訊ねた。全員がしてない、と答えると、ややホッとした様子でそうか、と応じる。

 一応諸君には先に伝えておく、と比企が、改まった口調で言った。こうやって仕切り直すときは、大概やばい話だったりするんだ。死神が「詳細は省くが」と前置きして死の宣告するようなもんだ。

「諸君はゴエティアを知っているか」

 知らなかった。

「知らない」

「知らね」

「ゴエ浅越なら知ってる」

「それ昔の芸人じゃん」

「違ったか」

「結城空気嫁」

「空気嫁」

 結城のボケに全員が突っ込み、ゴエ浅越なら私も知っているぞと比企がしれっと答える。

「ゴエ浅越ならよかったんだけどな。ゴエティアというのは、要するに」

 魔神を喚び出す魔法陣のようなものだ、と言って、比企はふん、と鼻から息を噴いた。

「魔神? 」

「呼ばれて飛び出て? 」

 忠広と結城が言うと、

「それは大魔王だ。そうでなくて、そうだな、ソロモン王は知っているか」

「会ったことないけど名前だけは」

「会ったことがあってたまるか」

「結城、回収しづらいボケまじでやめーや」

「うえー」

 俺とまさやんに突っ込まれて、結城が気の抜けた間投詞を発する。

「あいにく私も会ったことはないが、ソロモン王は七十二の魔神と契約をしていた。それを喚び出すための目印、のようなものだ」

「比企さん、結城のボケに乗ってくれてありがとう」

「これでさっきのボケが活きたな」

「天丼で来たもんな」

「結城よかったな」

 全員がよかったよかったと、のほほんと締めるが、これ、先輩聞いてなくてよかったな。聞いてたらブチギレるだろ、たぶん。だけど俺ら、もうこういうトラブルにはもう慣れてきちゃってて、全然変な緊張感とかないの。麻痺しちゃったのかしら。嫌だわ困ったわ。

「ところでさあ、すげえ初歩の初歩かもしんないけどさ」

 まさやんが仕切り直して比企に質問した。

「魔神と悪魔って違うのか」

 比企はあっさり違うよと答えた。

「詳しく説明したいところだが、とりあえず今は緊急時だ。ザックリでいいから、違うものだと認識してくれればそれでいいよ」

「わーった」

 言われてみれば確かに。何がどう違うのか、ちょっと気にはなるよね。でも俺も、たぶん忠広も源も結城もまさやんも、全員違いがわからない男なので、その辺がとても曖昧です。魔王と魔神と悪魔は何がどう違うのか。そういえば昔「デビルマン」ってあったらしいよね。

 一人は必死に、一人は真面目に心配して、あとの六人は冗談を飛ばしながら、揃って一路目指すは市の北端、城址公園。

 時刻はもうすぐ深夜零時、日付が変わるまで、あと十分もない。

 俺は、ふと気になったことを比企に訊ねてみた。

「比企さんさ、対局点に行かなければいいけどって言ってただろ」

 比企が一瞬の間を置いて、ああ、と答える。

「あれってさ、」

 どういう意味なの。いやな空気を振り払いたくて、俺は何でもないことのように、さっき食った夕飯の話でもするように、訊ねた。

 それは。

 比企がそれは、と答える。今俺達が切り裂くように自転車を走らせる、冬の深夜の夜気のように、冴え冴えと俺達を照らす月の光のように、しんと静かな声だ。

「みんなは、神様を信じられなくなったらどうする」

 ややためらってから、信じるのをやめるかな、と源が答えた。

「俺ならそうする」

 俺も、とまさやんが、忠広が続く。俺と結城もうなずいた。美羽子も、源の端末のイヤホンを片方借りて聞いており、うんうんとうなずいていた。

 まあ大概はそうするだろう、と比企は糸のように細い三日月と星がきらめく夜空を見上げた。

「ところが、ごくたまにいるんだ。神はもう信じられない、ならば違うものを信じよう、と思う人間が」

 何かを信じずにはいられない。でも神は信仰に応えてはくれなかった。そのときに、人は何にかつて神へ捧げていた座を明け渡すのか。

 ある人は違う神に。ある人は化学に。そして、

「神に失望した人間は、ときに悪魔に望みをつなぐことがある」

「…え、」

 大声で驚きそうになって、俺は慌てて喉の奥に押し込めた。

 今に始まったことじゃないし、そういうケースが特別と言うわけでもないぞ、と比企は言った。

「昔のスリラー映画なんかに、たまにあるだろう。ドライブで立ち寄った村や、転居した先の町が悪魔信仰者のコミュニティだったというのが」

 微妙な女優が追い詰められて絶叫芝居したり、風呂場で泣き叫びながら解体されたりするゴアなやつとか、あるだろう、とD級スプラッタ映画を淡々と評価する比企。言わんとすることはわかるしイメージしやすいけど、何の話をしているのか。

「今回、金子嬢はお守りまで買った天使に失望し、天使が願いを聞き届けてくれないのならばと、今度はソロモン王の魔神に縋ることにしたんだ。ただ、」

 問題は彼女が、魔神というものをどんな存在だと思っているのかにかかってくる。比企の言葉に、まさやんが問い返した。

「それが、さっき言ってた魔神と悪魔の違いってことなのか、比企さん」

「ああ。彼女があれを何者と思って喚び出そうとしているのか」

 比企はそこで一ノ瀬先輩を見遣って、あの懸命さが空回りしないことを祈るばかりだ、とため息をついた。 

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