第26話 五人とひとりと古都の雅 5章

 一夜明けて大晦日。いよいよ作戦決行の日だ。

 ゆうべは桜木さんが、おいしいものを食べて体力つけよう、と言って、寺町通りの高級お肉屋さんですき焼き用の肉をしこたま買ってくれた。ありがとうございます、大人の財力! 肉うまかったです! 

 割下作りの段階から、美羽子はあれこれ質問しながらメモを取り、比企はその間ずっと京都市内の地図を睨み、赤鉛筆でルートを描き込むと、寝転がって文庫本を読んでいた。

 憮然としていた比企だけど、さすがに飯どきには多少ご機嫌を直し、一緒に鍋を囲む俺達がたっぷり食っているか気を配りながらもしっかり食い、これまた桜木さんが買ってきた食後のお菓子とお茶を堪能していた。村上開新堂のロシアケーキ。クッキーに硬めのジャムが乗ってるんだけど、比企はどうやらロシアケーキが好きらしく、ご機嫌はだいぶ麗しくなったようだ。桜木さんはしっかり紅茶も持ってきており、おかげで赤毛の姫はニコニコと実に穏やかな表情だ。

 すき焼きで腹を膨らし、食後のお茶とデザートで憩いのひととき、と言いたいところだが、話題はどうしたって明日の大作戦になるのは、人情として仕方ないよね。

 比企はあのお化けを、後ろ戸の神と呼んだ。

「隠れるように信仰し、大きな声では語れない。どんな神なのかすら、家人にもはっきりとは明かさず、自分独りが静かに祀っている。後ろ戸の、奥の間に隠すように祀る、そんな神だったんだ」

 あなたは偉大な神様です、素晴らしい神様です。他の神にもひけは取らない、私が信じるのはあなただけです──。

 そんな、ひたむきな、真っ直ぐな信頼と尊崇を、たった独り、誰も知らぬ小さな、神とは名ばかりの何かに捧げ続け、やがてそれは、寄せられた祈りと信仰の中に自分の姿を見出し、己は神なのだと自覚が生まれたその瞬間、いきなり日々の感謝と祈りは途絶え、与えられた名前と姿は奪われ…そして。

 あとには、芽生えた自我と、神として得たちからの名残りばかりが残された。

 これがあなたのお名前です。これがあなたのお姿です。そう呼びかけられて、名を得て姿を得て、それがある日突然失われる。自分は確かにここにいるのだという、確かな感覚だけを残して。

 それは、俺はそんな体験をしたことはないし、どんな状況に置かれたらそうなるのかはよくわからないけれど。わからないなりに、それでもやっぱり、二度と自分の名を呼んでもらえない、自分の姿を誰にも見てはもらえない、それはおそろしい以上に、悲しくてつらいものだと思うのだ。

 あなたは確かにここにいます。あなたの言葉を聞いています。人間には、いや、およそ心のあるものであれば、そういう誰かからの承認は、何にも増して必要なものだろう。誰だってきっと、独りでは生きていけないのだ。

 だからこそ、夏に出会ったあの哀しき怪物、ヒトに生み出された怪獣を見たとき、俺はあんなにおそろしくて、それと同じくらい悲しかったんだ。

 そして、きっと独りでは生きられないのは、この神になり損ねた、名も姿も奪われた後ろ戸の神もまた、同じなのだろう。

 ロシアケーキをつまみながら、そんな話をぽつぽつとする俺に、みんなはしんみりと聞いていた。

「名前がないというのは、つらいものだよ」

 比企は紅茶を啜り呟いた。

「名前がなければ自分の形を定められない。そうなれば簡単に忘れられ、怪物に成り下がってしまう。元は人に愛され敬われていたのにな」

 一同は黙ってうなずいた。

 そう、俺達は明日の今頃、まさにそんな相手を落ち着くところへ置いてやらなくてはならないのだ。

 しかし、しこたま怒らせて誘き出すなんて言っていたが、具体的にどうするんだ? 立ち合いと手伝いで居残る俺としては、非常に気になるところだ。訊ねると、比企はなんてことないという顔であっさり説明。

「先日の怪異は見ただろう。まあ、あんなのが延々続いてくる。それを全部適当にあしらって、流して無視してしまえばいいだけの話だよ」

 え。この前のアレを。鎧武者はともかく、虫の大群なんかまたやられたら、俺もさすがに嫌だよ。

「詳しくは『稲生物怪録』を見るといいだろう。まあ、おおむねああいうことを、ひと晩だけだがやるのさ」

 桜木さんはその隣で、胃に穴でも開きそうな顔でため息をついている。八木君、と呼びかけて、無理しなくていいんだからね、とため息をもう一つついた。

「何もすすんで怖い思いをしなくたっていいんだよ。君だって、普通の暮らしをしてる普通の男の子なんだから。小梅ちゃんの付き添いは僕独りでもどうにかなるからね」

「うーん、でもほら、比企さんを普通のところに引き戻すなら、引っ張る手は多い方がいいでしょ」

 俺がなんとなく答えると、桜木さんは一瞬キョトンとして、それから何を言われたのか理解した。ありがとう、とふにゃりと笑う。 

 大晦日だとあって、昼間は何かと忙しかった。千翠の大掃除や正月の買い物の残りを、手伝えそうなところだけだけど手伝って、正月の支度もちょっとだけどやらせてもらった。一夜飾りはよくないから、と門松やしめ飾りはもうついていたので、おせちの仕込みだ。美羽子はやっぱり色々教わってはメモを取り、俺達男子はきんとんの裏漉しとか、力の要りそうな手順で、女将さんや芸妓のお姉さん達の指導通りに手を動かす。その間、比企は市役所や警察、消防署などへ行って、必要な根回しに飛び回っていた。

 夕方、ふらりと水月さんがやってきた。ちょうど役所回りを終えて戻った比企と桜木さんも一緒に、早めの夕飯にしようと、置き屋のみんなと年越し蕎麦を食べていたところだ。

 舞妓芸妓のお姉さん達はみんな知ってるようで、いややーだんはん、どないしはったのー、と水月さんを取り囲む。やあ梅ちゃん、と声をかけるもんだから、桜木さんが一切表情を変えないまま、僅かにピクリと身じろぎした。

「ああ水月さん、今夜はよろしくお願いします」

「わあ水臭いなあ。昔はにいちゃん頼むぞ、だったのに」

 桜木さん、にこやかな表情を一切変えずに比企の後ろにスッと立ち、お知り合いかな、と声だけは柔らかく訊ねる。必死か!

「水月さんだ。親父の仕事を手伝わされていた頃、京都で仕事をするときにはお世話になった方だ」

「どうも、水月です。梅ちゃんとは昔から色々ありまして、そうだな、従妹とか、歳の近い姪っ子みたいな感じですね。あなたは? 

 」

「こちらは私の監督官で、」

「桜木真之介です。小梅ちゃんの監督官をしています。それじゃあ、水月さんは小梅ちゃんの、京都でのお兄さんみたいな方なんですね。よろしくどうぞ」

 握手なんか求めて、こえーよ! 応じた水月さんが一瞬驚いてるの、あれ、すげえ力で握ってるからじゃないの。表情がにこやかなだけにこえーよ!

 その場ではあっはっは、これはこれは、で終わったけど、トイレに立った俺の後から来た水月さん、どうも、と挨拶もそこそこに、面白い人だったね、なんて言ってる。

「すごい握手ががっちりしてたなあ」

「ああ、はあ…。ここだけの話ですけどね、桜木さん、」

 俺がこの前の、深夜の駅での一件を、できるだけみんながいる座敷に聞こえないように小声で囁くと、え、と驚く水月さん。

「だから、比企さんもああだから、まともに返事なんかしてなくて、それで桜木さん、比企さんに近づく男性にピリついてるんですよ。たぶん」

 そこで水月さんは、顔を真っ赤にして笑い出した。慌てて声を殺して、座敷に聞こえていないか様子を窺うと、ないない、と手を振った。

「ないって。僕、第一結婚してるし。あ、奥さんの写真見る? すっごいかわいいから。ほら。抱っこしてるのは娘。美人でしょー。ね。僕はこの通り、家庭があって素敵な奥さんがいるからね。それに、そもそも梅ちゃんはそういう対象として見るの、難しいでしょ」

 携帯端末を出して、壁紙にしてる家族写真とか見せられた。確かに奥さんきれいだし、幼稚園児くらいの娘さんもおしゃまな子だったし、水月さん自身が幸せそのものな表情で一緒に写っている。うん、おっしゃる通り、比企を恋愛対象として見るのは、まず無理ですね。

 それでも水月さんは、そうか、としみじみうなずいた。

「梅ちゃんを女の子として見てくれる男が、やっと出てきたのか。あの子は苦労ばっかりだったからね、昔から見てきた僕としては、幸せになってほしいな」

 彼にはがんばってほしいところだね、と水月さんは座敷の方を見た。

「とにかく梅ちゃんの手を離しちゃダメだ。一度離したら、あの子はもう自分を見限って、昔みたいな人狩りの戦闘マシンに戻ろうとしかねないから」

 そんな物騒なやつだったのかよ。俺が眉根を寄せると、水月さんはちょっと笑った。

「久しぶりに会ったけど、今の梅ちゃんはすごくいい顔してるよ。あんな穏やかな顔初めて見た。君達みたいないい友達ができたし、何より、」

 どこで斃れても構わない、なんて言わなくなったからね、と水月さんは言った。

「でも、結構俺達かばって捨て身の攻撃とか、そんなんばっかですよ」

「ああ、それは単に、友達の前で見栄張ってるだけだね。困ったもんだ」

 そこで座敷の障子から源がひょこっと顔だけ出して、何してんのと声をかけた。 

 

 水月さんが来たのは、広隆寺でスタンバイする組の引率保護と、祭事の準備の手伝いを比企が頼んだからだった。一応、先方の貫主さんを通して宗派の責任者の方にも連絡はしてるのだそうだけど、それじゃあお願いします、と話をいきなり持っていって、よくまあ通るもんだ。あまりスムーズに行くもんだから、まさやんがそう言うと、水月さんはおかしそうに笑った。

「梅ちゃん、京都中のお寺さんや神社の責任者クラスに孫みたいにかわいがられてるからね」

 この子はこれで、祖父さんっ子祖母さんっ子だから、と吹き出しそうになるのを堪えて言う。

「高齢者とか年長者にはやたらとウケがいいんだよね」

 そういえば、これまでやたらと年長者にウケがよかったような。昔からだったのか。

 ちょっとピリついていた桜木さんだったが、それでは私の戦友達をお願いいたします、という比企の言葉にちょっと安心したようで、晴れやかな表情で蕎麦を啜っている。わあ海老ぷりぷりだね、なんてご機嫌で、やがて窓の外は日が落ちて、夕焼けが薄れてゆく。

 いよいよ決戦のときだ。

 広隆寺で待機する美羽子やまさやん、結城達は、俺達居残り組とサムズアップで互いに励まし合い、水月さんに引率されて出発。比企はのん気に折り紙なんかして、いやあの、何してんすか。と思ったら、牛を作っていた。もしかして、

「これをでっかくして儀式に使うの」

「ああ。そのあとは、見てのお楽しみだ」

 桜木さんは比企にお札を渡され、戸惑いながらもジーンズのポケットにしまい込んだ。俺も新しいお札を渡され、パーカーのポケットにしまう。

 いつもなら入念に武器をチェックする比企は、今回は銃を出さず、たっぷりと書き上げたお札の束を確認すると、お茶でも淹れるかの如き気負いのなさで立ち上がった。

「それでは行こうか。きっと年越し番組より刺激的で楽しいぞ」

 不敵に笑って、二階への階段を先頭きって昇り始める。

 

 数日ぶりに上がった二階の座敷は、どっぷりと暗闇が満ちていた。

 闇のどこかから、八木君、と比企が俺に呼びかける。

「あのアフダルのライター、確か貴君はいつも持っていただろう」

 そうだった。俺はジーンズのポケットからあのライターを出し、火をつける。このライターは松明がわりに使うこともできて、非常用の灯りになる。ありがとう、と比企はコートのポケットから小さなランタンを出し、ライターの火で点灯。桜木さんに手渡した。

「二人とも、自分の持っている灯りは死守してくれたまえ」

「君は? 」

 桜木さんが訊ねると、心配ないと比企は答えた。

「私は夜目が効く。何せ半分はあちら側だからな」

「あちら側? 」

 俺が首を傾げると、ああ、とうなずく。

「私は半分がた化け物なのさ。そう造られてるんだ」

 では始めようか、と比企は不敵に笑った。

 そして俺達は待つことから始める。

 三人で灯りを囲み、しばらくは無言で座っている。闇の中でただ座るのがしんどくなりかけた、そのときだった。

 賑やかな音楽。ラッパともちょっと違う、哀愁漂うメロディは、なんて言ったっけ、ああ、そうだジンタだ。子供の頃、遊びに行った田舎にサーカスが来て、じーさんがこのメロディを聞いてそう言っていた。俺の膝くらいの背丈の、ピエロのような格好の楽隊は、太鼓を打ち鳴らしラッパによく似た楽器をぷうぷうと吹き、ギターをかき鳴らし、楽しげに練り歩いてくる。楽隊の後に続くのは、太鼓腹の親爺を先頭にしたサーカス団。猛獣使いを背に乗せたライオン、自転車に曲乗りする男女、ピエロはコロコロと逆立ちしたまま玉に乗り、マジシャンはシルクハットから鳩を出し、さも愉快そうに音楽に乗って得意げに歩く。行列は俺達をぐるりと取り巻くと、一斉に声を揃えて高らかにのたまった。

「さあ、愉快なサーカスの始まりだよ! まずはライオンの火の輪くぐり、とくとご覧くださいませ! 」

 桜木さんのすぐ脇で、ピシリと親爺がライオンに鞭をくれると、ごう、とひと吠え、ライオンが走り出し、おかしな縮尺で体がぐにゃりと伸び、頭から胴の半ばまでが大きくなった。そのまま口を大きく開いて、ああ、桜木さんが呑まれる!  

 比企は無言でお札を抜いた。

 鼻面にお札を突きつけられたライオンは、飛び退ってぴいぴいと情けない声をあげた。

 がっかりしたように、腹立たしげに太鼓腹が吐き捨てる。ああなんと情けない。しかしまだ演目はありますぞ。たっぷりとお楽しみいただかなくては。

 サーカスの全員が、ニコニコと俺達に向き直った。一瞬で全員の体は骨だけに変わり、ガシャガシャと骸骨が跳ね回る。ひょうきんに歌い踊り、いつの間にやら髑髏達は、何かを迎えるように二列に向かい合って並んでいた。

「さあおいでませ! 」

 ひた、ひた、と裸足で畳をゆっくりと踏む音がする。

 しゅる、と布が畳を擦る音。

 同時に甘い香りが漂ってきた。ねっとりと蜜のように甘くて、その底に微かに、仄かにわだかまる、何かが饐えたような忌まわしい、…これはなんの匂いだろう。香水ではない。もっと自然で、人工的なものじゃない。正体を知りたくて鼻をひくつかせる俺に、八木君、と比企が鋭く低い声で呼びかける。

「あまり嗅ぐな。惑わされるぞ」

 慌ててパーカーの袖を伸ばして鼻と口を覆う俺の手を、後ろから白い手がすっと取った。

「坊は妾の香がお気に召したか」

 きれいな白い手は、氷みたいに冷たくて、俺を芯から身震いさせた。あげかけた悲鳴を、どうにかパーカーの袖口で抑え込む。後ろから抱きつかれて、いっそう匂いが濃くなってわかった。これは、微かに混ざる不快なこの匂いは、何かが静かに腐る臭いだ。

 比企がポケットから、何かの小箱を出した。箱から出したものを咥えて火をつけて、たっぷり吸い付け、ふうっ、と俺の顔に吹きつけた。

 煙草? おいおい高校生が煙草、いや、比企はもう二十歳すぎてたんだっけ、と一瞬考えを巡らせたが、すぐに煙草とは匂いがまるで違うことに気づく。もっと、ハーブみたいないい匂いだ。ミントとかラベンダーとか、あとはこれなんだ、ああ、桃だ。さっぱりとしたこの甘さは桃の香りだ。清々しい香りのおかげで、俺は気分が持ち直す。

 比企の煙に巻かれたそいつは、雷に打たれたように飛び退って離れた。

「おのれ小娘、邪魔をするか」

 はっと振り返った俺の目に映ったのは。

 濡れ濡れと長い黒髪を体に這わせ、薄い布地の着物を頭から被り、はんなりと笑う裸の女。おぞましいほど美しいが、それでもその肌はまだらに青を帯びた白。

 裸の女体なんて初めて見たぜ! ヒュー! なんて喜ぶ気は鼻毛の先ほども湧かなかった。確かに俺はおっぱい大好きです。この女の体は見事なボンキュッボンで峰不二子みたいで、俺の好みのどストライクではありますが、でも、体のあちこちからどす黒い血を滴らせてニマニマ笑う女は、そういう長所なんか全部帳消しなんだよ無理なんだよ!

 比企は黙ってお札を出し、女に向かってピッと飛ばした。

チッ! 」

 お札はあやまたず女の額に貼り付き、のたうち回ってもがき苦しむ。すぐにぼう、と派手に炎をあげ、一瞬で女は燃え尽きた。

 驚くやらおそろしいやら、肩で息をしてへたり込む俺だが、お化けだか元神様だかは待ってくれない。息つく暇なく次がやってくる。

 部屋の隅っこの暗闇から、生臭くて冷たくて、嫌な風がひたひたと吹き寄せてきた。足元を這い回る冷気。うぞうぞと闇がうごめく。気のせいだ目の錯覚だ。明るいところで闇との境目を気にしているから、動いて見えるだけなんだ。自分に必死に言い聞かせる俺だが、闇はしゅるしゅると糸のような触手のような、細い細い影を伸ばして、俺達を絡め取ろうとする。比企はすっとコートの内懐から、鎖のついた忍者の武器みたいな、えーと分銅っていうんだっけ?重りが先についてるやつ。あれに似たものを出した。重りの部分をぱかっと開いて、さっきのいい香りの、煙草みたいなお香を、今吸い付けたのと一緒に放り込んで、ぶんぶんと頭の上で振り回した。さっぱりとした桃とハーブの香りが、俺達を包み込む。影はビクビクと怯んで、様子を窺うようにジリジリと後ずさる。そうこうするうち、闇の中にボトボトと、何かが落ちる音がし始めた。隣の座敷やこの部屋の隅から聞こえたそれは、すぐに音が近くなっていく。ぼと。ぼとぼと。軽いもの、ちょっと持ち重りのしそうなもの、さまざまだ。

 いきなり俺達のど真ん中に、ぼと、と何か落ちてきた。ランタンとイムコライターの近くに落ちたのは、それは立派な蠍。日本にこんなもん、自然にいてたまるかよ!

 比企はひょいと拾い上げ、ぶちんと尻尾をちぎって、面倒そうに後ろの闇に放り投げた。実につまらなさそうな顔だった。

 闇の奥から大きな蛇が、小さな蛇が、蠍がムカデが、うねうねうじゃうじゃと俺達を取り囲み、じっとこちらを見ている。桜木さんがそっと銃を抜きかけるのを、比企が無駄だととめた。

「そいつが効くならいうことはないが、あいにくあれには通用しない」

 ニヤリ笑って、比企はパチンと指を鳴らす。俺達三人を中心に、ブワッ、と光が広がった。

 蓮の花だ。俺達はいつの間にか、蓮の花の上に座っている。比企は再びお札を出すと、それは蓮の周りをぐるりと囲んで、燦々と光を放った。蛇や毒虫達が逃げ惑う。闇の中にざわざわと逃げ込み溶けるように消えた。でもさ、なんで蓮の花?

「なんで蓮の花なのさ」

 俺の質問に比企は、何を言ってるんだと言わんばかりの顔で答える。

「そりゃあ、だって私は道士だから」

「待った小梅ちゃん、様子がおかしい」

 桜木さんが指摘するまでもない。毒虫達が逃げ込んだ闇は、ぎゅいぎゅいと密度を濃くして…不意にざばっ! と俺達のいる蓮の花に覆い被さった!

 花を守るように、お札がドーム状に蓋をする。ギシギシと軋む嫌な音。俺の気のせいだろうか、なんだか、

「二階がすごい広くなったような気がしない? 」

「確かに、これは町屋の広さじゃないよ! 」

 桜木さんもうなずく。

「これが神域、要は結界だな。要するに私達は、奴の土俵に引き摺り込まれているんだ」

 比企がしれっと答えた。やばいじゃん! やばいじゃんそれ! だけど比企は平然としている。

「そんな、もうちょっと焦ろうよ小梅ちゃん! 出られなかったらどうするのさ」

 桜木さんが詰め寄ると、心配ないと請け合うけど、いやいやいや心配しかないよ! 半泣きの俺に、比企は案ずるな八木君、と笑った。

「二人とも周りを見てみろ。さすがにかつては神と祀られていたものなだけに、おのれの結界はかろうじて持っていたのだろうが、どうだ。暗闇しかない、ただの伽藍堂だ。闇しかないから広くも感じられるのだろうけど、それだけのこけ脅しだよ。一見、どこまでも広がっているように見えるが、ちゃんと限界はある」

「でもさ出られなかったら」

「だから出られるって。簡単に。名のある神であればそうはいかないが、所詮は神のなり損ないの成れの果て、私程度が相手で十分だよ」

 そしてチラリと腕時計を見て、頃合いかなとうなずいた。桜木警視、と呼びかけて、

「預かっていてくれ」

 腕時計を外してポイと渡す。咄嗟に受け取った桜木さんが、あ、と目線を上げると、

「それでは始めるか」

 比企は盛大に手首をナイフで切り裂いた。

 ぶしゅう!

 盛大に、華々しくド派手に夥しく、俺の視界は真っ赤に染まる。泡くって止血しようとする桜木さんを、比企は無事な右手で制した。

「魔力を解放してるだけだ。これで結界から出られるし、私はこんな程度では死にたくとも死ねない、安心してくれ」

 それとも、と続けて、

「私はそんなに信用がないのかな」

 困ったような笑みで小首を傾げる。え。やだ何そのかわいい顔は。うぐ、と桜木さんは真っ赤になり、心臓の辺りをグッと摑んで呻いた。その間にも血はバシャバシャと噴水のように跳ね飛び、蓮の上から滝のように流れ落ちる。水音はピチャピチャ、からザバザバ、に変わっていた。すぐにそれすらなくなり、蓮は文字通りの血の海にぷかぷか浮かんでいる。

 比企のいう通り、この空間は無限じゃなかったのだ。

 限りがある空間だから、こうして比企の血は一定の範囲で溜まり、水位が上がり、蓮は船のように浮かんでいて、比企は不敵に笑っているのだ。

「反撃できるものならしてみろ化け物。ここから先は私のターンだ。私の流儀でいかせてもらうぞ」

 比企はすう、と右手を伸ばし、バッと腕を振り抜いた。

「全軍戦闘配置。──我が麾下に集いしコザックよ、今こそ貴様達の武威を示せ」

 さざ波ひとつなかった血の水面が、比企のひと言でザバザバと荒立った。

 ダパンダパンと波は激しくなり、水面はうねり、立ち上がり、そして。馬に乗った甲冑の騎兵が。徒歩で幅の広い剣を、でかい槌を、戦斧を、ガッチリと握り構える兵士が。向こうにはライフルを手に装甲車から降りてくる兵が、キャタピラを鳴らし走る戦車が。轟々と走ってくる、移動砲塔を連ねた装甲列車が。

 どれほどの人数がいるのか。千や二千じゃきかないぞ。下手をすれば、一万とか二万とか、そのくらいの人数になっているかもしれない。時代も装備もバラバラな、それでも確かに、見るからに百戦錬磨の古兵であり、その全員が比企を将と仰ぎ、その号令ひとつで一糸乱れぬ行動をとることはわかる、そんな軍勢だった。

 神域とやらの闇が、ドロドロと兵士達に覆い被さる。兵士は誰も恐れるどころか、むしろ嬉々として闇を切り裂き組み伏せ、押しひしぎ割り破り…変化はすぐに起こった。

 たまごの殻を割るような、乾いた音がした。それはすぐにパリパリカサカサと大きく、複雑になり、やがて、クシャッという、何かが潰れたような音に変わる。

 闇に慣れた目に、周囲が座敷に戻ったことがわかる。畳の上に黒々と横たわる、グネグネと長い影。ひくりひくりと痙攣し、荒い息をついているが、それでも俺達をじっと窺っているのがありありとわかる。それも、決して好意的とは言えない様相で。

 あんなにあった血だまりは、比企の腕の傷口からシュルシュルと戻ってゆく。魔力だと言っていたのだから、普通の血とは訳が違うのだろう。ただ、さすがに傷口はそのままで、桜木さんが大判のハンカチでしっかり押さえて縛った。ブランドものだけどいいのか。

 痙攣する影の声がした。割れ鐘みたいな、押し潰された喉から出るような、金属を軋らせたような、人間が聞くと不快と思うような音ばかりをより合わせた声だった。

 おのれ痴れ者、神に弓を引くか。

「何が神だ。お前を神と崇めていた者は、己が尊崇までは後に伝えることはしなかった。いい加減に認めろ、貴様は所詮その程度の神だ」

 黙れ!

「雑魚が吠えるか。その台詞バットで打ち返すぞ。貴様が自分で思うそのまま、実際にも大した神だというのなら、なぜたった一人が崇めただけで終わったんだ。なぜその崇敬が途切れた程度で、お前は自分の輪郭すら危うくなっている」

 神というのはもっと強固なものなんだと比企は言い放った。

「悔しかったらあんな貧弱な結界でなく、もっと神らしいところを見せてくれや。なあ? 真の神なのか、あるいはただ後ろ戸に隠されているだけの紛い物なのか、貴様の真実はどっちだ」

 ぎいぎいと軋みをあげる影。曲がりなりにも神を相手に、比企は言いたい放題だ。

 影はぶるぶると震え出した。輪郭が震えて、元からぼんやりしていた形が一層わかりにくくなる。グッと縮こまり、いきなり俺と桜木さんの間を縫うように跳ね飛んだ。

 シュルシュルシュル! 畳を何か柔らかいものが這う音がして、てんてんと鞠が跳ねるような音が遠くなる。比企が立ち上がり、俺達も追った。

 ジャケットとコートを引っ摑み靴をはくその間に、比企は細い絹のようなロープを出すと、玄関の隙間からどうにか表へ出ようとする影に投げつけ、疾、と掛け声をひとつ、ロープは影にしっかり絡み付いた。その端は比企がしっかり握っている。影はロープごと外へ滑り出た。

 小路から大晦日の喧騒で賑わう花見小路へ。雑踏に呑まれそうになり、気圧された影が手近な町屋の屋根へ飛び移ろうとする。比企はぐいとロープを引いて、石畳に叩きつけた。

「小梅ちゃん、そんな手荒にして大丈夫なの」

 さすがに気になったのか、桜木さんが尋ねると、構わんと即答。

「所詮、神にならなければちからを得られなかった程度のもの。仙人はわざわざ神になどならなくとも不老長生の奇蹟を成している。どちらが上かなんて、訊かずともわかるだろう」

 わかったようなわからないような理屈だな!

 比企は巧みにロープを引いて、四条通りを西へ西へ。影の這う速度に合わせてマラソン程度の速さで走りながら、俺は気になったことを比企に訊ねた。

「そのロープ、もしかして前に俺のこと縛ったやつ? 」

「ああ、あの魚の怪のときのあれだ。たかが神如き、掌教しょうきょう五千年の精髄たる宝貝パオペイを振り解けるわけがあるまい」

 お懐かしや、仙人の秘密兵器。あれから約半年、俺はすっかりマジカルバトルオンステージにも慣れました。人間って日々成長してるのねダーリン。いやダーリンって誰だよ。

 

 四条通りをひたすら西へ。西院の駅前で西大路を北上する。御池通へ抜けたら、そこからはまた道なりに西へ。体育のマラソンでさえこんなに走らないぞ。だけどとにかく行くしかない。幸い、影が疲れたのか歩みはゆっくりで、そろそろ八時を回ろうかという今、俺達は嵐電・蚕ノ社駅に差し掛かっているが、影の進む速さは散歩くらいのそれになっていた。側から見れば、タワシかナマコでも散歩させているように見えるだろうけど、どうもすれ違う人の様子から、元神様の影は見えていないようで、俺達はロシア人の美少女を案内する歳の離れた兄弟のように映っているのだろうか。実際には化け物になりかかった神を鎮めるために、儀式に急いでいるトリオなのだが。主導権を一番握っているのは、むしろ比企なのだが。

 まあ、事情を知らない人から見れば、そんなものなのだろう。

 俺達三人は、とても曖昧な神を引きずるように連れて、夜目にもどっしりと聳える広隆寺へと急いだ。

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