第17話 五人とひとりとスナイパー
その日、いつものように上海亭で小腹を満たしながら、俺達は旅行代理店のパンフと睨めっこしていた。
夏に海で住み込みのアルバイトをしたときに稼ぎ出した資金で、冬休みに旅行しようという計画だ。去年は、寒いのは嫌だという忠広の意見が採用されて石垣島へ行った。終業式の翌日に出発、一泊三千円の民宿だったけど、日帰りで竹富島へ行ったりして、なかなか愉快に過ごして十日、年を跨いで正月五日に帰ってきた。今年も同じような日程で、どこかへ出掛けて、仲間でわいわいやろうという腹づもりだ。
今年はどこへ行こうかと、早速パンフをかき集めて、こうして額を集めて算段しているところである。俺達五人が海だの山だのとやっている間、比企はマイペースで大飯を喰らい、美羽子は胡麻団子などつまみながら、ファッション雑誌を開いて、比企を相手に秋冬の流行メイクの話などしていた。
いつも通りの放課後だ。
あんた達また男五人で旅行なのね、と美羽子が、呆れたと言わんばかりの口調でため息をついた。悪かったな。
「いやあ、笹岡さんも来てくれれば華やかになるけどさ、女の子一人誘ってもなあ。逆に悪いだろ」
源が苦笑いして答える。うーん、と美羽子はしばし考えて、じゃああたしと比企さんも一緒ならどう、と、突拍子もないことを言い出した。
「クリスマスがこいつらと一緒ってのは締まらないけど、面白そうだし、どう? 」
美羽子の誘いに、比企は食後の茉莉花茶を啜りながら、申し訳ないがと困ったように笑った。
「年明けは、ロシアの本家がマースレニッツァだから帰ってこいとうるさいんだ」
「何それ」
「年明けのお祭りだよ。まあ、帰るかどうかはまだ返事をしてないけどね。面倒な親戚が多いから、どうにも億劫でね」
あら。こいつにも苦手な相手とかあったんだ。
「え、じゃあ、友達と旅行しまーす、とか言って断ればいいんじゃん」
ねえ、と俺達に同意を求める美羽子。比企はまあ、と曖昧に笑ってうなずいた。
「断れたら、そのときにはお供するよ」
でしょお、と美羽子は得意げに、絶対あたし達と一緒の方が楽しいんだから、と胸を張る。
「ねえ、比企さん、日本の中でどこに行ってみたい? 」
比企はその質問に、ううん、と考えて、
「京都なら、多少土地勘はあるから、そう困ることはないと思うけど」
「え。行ったことあるの」
「行ったっていうか、半年近く暮らして、日本語の特訓受けてたんだ」
そんな話をしていた、その翌々日。俺達は、三連休の間に泊まりで集まって勉強するという口実で、結城の家に泊まり込んでいた。
口実、ということは、実際の事情は別にある。それも、あんまり家族には言いづらい、でかい声では言えない事情だ。
夏休みのあの騒ぎで、俺達は「怪獣退治に協力したお手柄高校生」として、サラッとではあるものの、ニュースチャンネルで報道されたのだが、そこにチラリと比企も一緒にいる映像が流れたのだ。「マル勅探偵・スネグラチカと愉快な仲間達」が報道の電波に乗って、拡散するうちに、アフリカにまでそれは届いた。そして。
それは、比企に激しい恨みを持つ人間の目に触れてしまった。
そいつは準備万端整えて、日本へ密入国した。それが、この月曜日のこと。報道から、俺達がこのこだま市に住んでいることはすぐわかるから、火曜日以降に市内を歩き回り、俺達の行動範囲を調べることは、そういう仕事をなりわいとしている人間には、そう難しくはあるまい。
昨日の放課後、いつものように上海亭へ行った俺達を待ち構えていたのは、いつになく緊張した面持ちの桜木さんだった。
「まず、今のところ笹岡さんが狙われる可能性は薄い。問題は君達だ」
復讐者の襲来を知らせに来た桜木さんは、そう言っていつものように特盛もやしそばを啜る比企を横目で軽く睨み、あの夏休みの件で、君達は小梅ちゃんの仲間だと認識されてしまっている可能性が高いからね、と言った。
「しばらく、どこかで外へ出ずに隠れる方がいいと思うんだ。うちに呼びたいところだけど、あいにく五人も泊められるほど広くないし、かといってホテルとなると、同じ宿に宿泊されたら接触し放題だ。堂々と中へ入れるからね」
頭が痛いよ、とおしぼりで手を拭きながら、桜木さんはため息をついた。
「あの、夏休み中にニュースで流れてたあれ? あんた達が事件解決手伝ったって、嘘だろと思ってたけど、なるほどねえ、比企さんの手伝いしてたってことだったのね」
美羽子はちょっと目を丸くしながらも、事実を見事に言い当てやがった。はいそうです、俺らただ比企を手伝ってただけでーす!
比企はスープを飲み干すと、丼をおろして口を拭った。それなら、とメニューを見ながら気のない口調で請け合う。
「短期決戦で片付ければよかろう。明日から連休だ。そこでみんながどこか一箇所に集まって、固まって合宿生活をしている間に手を打つ」
どこに籠るかは任せる、場所が決まったら教えてくれ、とだけ言って、比企は高菜炒飯特盛を注文した。
なんか比企の中では対策が決まって、半ば終わったも同然みたいになってるけど、問題はそこじゃない。
こいつの過去だ。今でこそ町中華でバカ喰いしてご満悦ののんきな高校生やってるが、この街へ来る前はどこで何をやっていたのか。
一斉に集まる俺達の視線にたじろいで、ついに比企は重い口を開いた。
それは、俺達が想像していたはるか斜め上をいく、ひたすら重くてつらい話だった。
比企が日本を離れて、お師さんと曽お祖母さんに預けられたのは、小学校に上がる歳だ。二歳半で先祖返りの因子を見せ、曽お祖母さんに後継者として指名された比企は、その異能を更に引き出し伸ばすために、崑崙の仙人に預けられた。一年の半分は修行、あとの半分はロシアの曽お祖母さんのもとで教育を受けたのだという。あの、西中の財前は、その頃お師さんのところで出会ったのだそうだ。
そこで叩き込まれたのは、まず生き残るための技術と知識だった。じいやさんのシステマ。お師さんの、自然環境でのサバイバルや魔物への対処法。
小学校を卒業する歳になると、迎えにきた父親に連れられて、仕事の補佐をするよう命じられ、世界中を駆け回ることになった。
比企の親父さんの仕事は、自衛官だった。それも、
「世界有数のスパイ・マスターなんて言われてたよ」
そして比企は、まだ子供のうちから世界を股にかけ、物騒な方面で国際貢献をする生活を送ることになった。
国連軍の要請で武装勢力の頭目や幹部を捕縛・暗殺したり、インターポールのIRTの応援要請で重犯罪者や犯罪組織の逮捕作戦に参加したり、そんなことばっかりやらされていたのだそうだ。子供にやらせることかよ。
そんなことを七年。何度か死にかけ、その度に精神崩壊しかけては、お師さんやお袋さんに呼び戻されて、どうにかこうにか正気にかえり、回復した頃を見計らったように親父さんが戦場に連れ戻す、そんな暮らしだったそうだ。
うん? 七年?
「そうだよ」
比企はため息混じりに認めた。
「私はこの通りのなりだからな。日本で生活するにあたって、一番違和感がない環境で社会生活に馴染むために、とりあえず高校にでも通っておけというのが師命だった。子供のようななりではあるが、中学では荷が勝ちすぎる。教師が持て余すだろうとな」
私は今、二十一だと比企は言った。つまり。
「俺らより五つ上…」
「嘘だろ」
「まじか」
「どう見ても俺らとタメか歳下」
「何…だと…」
「えっだって比企さんすっごい肌きれいなのにはたち過ぎって」
口々に驚きを発する俺達だが、最後の美羽子のコメントは危機感なさすぎ。
まあ、でも妙に世慣れたところについては、これで納得いった。あとやたらと腕っ節が立つのも、じいやさんとヴラディミルさんの忠誠が強火で過保護なのも、理由はわかった。
そのとき、俺の隣から何それ、という低い声が聞こえた。
「そんなの全然聞いてなかった」
俯いた桜木さんが、ボソボソと呟く。小梅ちゃんは秘密が多すぎるよ。そこまで僕は信用できない人間なのかな。僕は何でも打ち明けてきたのに。
あ、これやばいやつだ。夏休みの、あの海水浴場での、グルグル目で結界から出られないと訴えていた、あの時と同じ雰囲気だった。イロイロ我を忘れてる、やばい感じしかない。俺の背中を冷たい汗が流れ落ちる。
まさに一触即発。些細なきっかけがあれば、暴発しかねない空気だ。
その空気を、いとも平然とぶっ壊す豪傑があらわれた。
「それよりさあ、今はまず俺達が隠れてなくちゃいけないって、それをどうするかだよなあ」
すげえ。さすが結城、天然の馬鹿力。
桜木さんははっと気を取り直して、そうだよね、とうなずいた。ただし、小梅ちゃんあとで話があるからね、と言い置くことは忘れない。
比企はそこで美羽子に、笹岡さんはこの先を聞かない方がいい、と言って帰してしまった。
「プロは尋問の相手が本当に何も知らないのかどうか、そのぐらいすぐに見抜く。知らない方が安全だし、万一悪党に捕まってあれこれ訊かれたら、今聞いたことをそっくり話して、これ以上は知らないと正直に言えばそれで済む」
不満げな美羽子だったが、比企にそう言われては、おとなしく帰るしかない。ことがことだし、何より身を案じて忠告してくれているのがはっきりわかるのだ、文句のつけようがない。
あとにはいつものメンバーと桜木さんが残った。
まず、問題はどこに隠れるか、だ。これは、そんならみんなでうちに来るかあ? という結城のひと言であっさりと片がついた。そうなると、次に気になるのはどんな奴が狙っているのか、だ。
比企はやれやれ、とばかりに肩を揉みながら、比企と喧嘩がしたいがために、俺達五人を狙う可能性が高い人物のことを、気乗りしない様子ではあったが、語り聞かせてくれた。
「奴とは北アフリカで会った。四年前のことだ。国連軍の要請で、軍閥化した地方豪族を捕縛しに行ったときのことだよ」
いきなりきました。お通しの段階で既に立方体ステーキが出たような重たさ。
もうね! クッソ重いからね! 俺が要約します! ね!
ことの起こりは比企が北アフリカの某国某所で、地方豪族の親玉を逮捕しに行ったとき。闇に紛れ、寝込みを襲う作戦だったのだそうだ。そのとき寝室に親玉と一緒にいた少年が、流れ流れて今、比企に喧嘩を売りにやってきたのだというから、気が長いというかねちっこいというか。
そいつは、とにかく腕を磨くためだけに、テロ組織や武装勢力や金持ちの私設軍隊を渡り歩き、その間に犯した暗殺や犯罪行為で経歴はドロドロに。どこへ行っても比企のことを知る者がいないか訊ねて回ったから、嫌でも当の比企の耳にも届いてくるようになった。盗みや殺し、何でも引き受けたそうだが、そうした生活の中で、最も得意とするようになったのが、
「狙撃だそうだ」
まじかよ。
ちなみに初対面で寝室にいたというのは、どういうことなのかというと、
「ざっくりいうとボーイズラブだ」
「え」
「つまり『くそみそテクニック』だ」
「さっぱりわからん」
源とまさやんが首を振るので、せっかく穏当に表現してるのに、と比企はぶつくさ言った。
「要するに、ちょっと見た目がかわいい子供がいると、自分の周りに侍らせて、性的虐待し放題、暇なときには戦闘訓練でもさせて、性欲を満たしながら同時に身を守らせるんだよ。世間を知らないうちに親から引き剥がして、かわいいかわいい、役に立って偉い、と常にやられてみろ、一年も経てば立派なペットの完成だ」
「うへえ…」
俺達ドン引き。薬でも使えばもっと早いぞ、と比企は畳みかけた。
「とにかく、いまだにそういう反吐が出るような行為が当たり前な世界が、地球の反対側や遠い国では当たり前にあるんだ」
ちょっと考えれば、自分が頭目にとってどんな存在なのか、すぐにわかるだろうにな、と比企はため息をついた。
「世界は広いんだ。人を殺したり物を盗んできたり、そんなことしなくたって、認めて受け入れてくれる人は、探せば出逢えるぞ」
アフダルも、もう少し自分で物事考えられれば、もっと違ったところで生きられたんだろうに。そう言って、比企は頭を掻いた。
「アフダル? 」
「奴の名前だよ。どうもヨーロッパの血も入ってるようでね、アラブ系の顔立ちだけど色が白くて目が緑色なんだ。自分の名前も曖昧だったもんだから、頭目が面白がっていい加減につけた名前を、今になっても後生大事に名乗ってるのさ」
つくづく、洗脳された子供ってのは哀れなもんだ、と比企は茉莉花茶を啜った。
「人形は哀れなもんだ。特に、赤い血を流すやつは」
その日は、上海亭で簡単に打ち合わせて解散となった。
月曜に入国して、これまで何ひとつ行動を起こしていないところから見れば、おそらくこの週末にことを起こすつもりなのだろう。気づかれたと悟られないようにとぼけて、翌日の放課後までいつも通り登校し、帰宅後にやっぱりいつも通りに集まって、結城の家に泊まり込む。俺達がいつものように行動する間、比企は結城の家の周辺を歩いて回り、狙撃ポイントを炙り出す。まずその場で端末を開いて、地図アプリで結城の家の周辺図を出した比企は、ふん、とうなずいた。
「では桜木警視、私は狙撃ポイントの確認をしてくる」
「今からかい。もう日が落ちるのに」
「早いに越したことはない。戦友とご家族の命もかかっている」
「うう、まあ確かに、そりゃ早い方がいいだろうけど、下手したらそのスナイパー、もういるのかもしれないんじゃないの」
桜木さんがちょっと険しい顔で嗜めると、まあなくはないだろう、と比企は認めた。
「僕も行くよ」
「それには及ばない。第一、狙撃慣れしてない人間が一緒じゃ、いざ狙われたときに避難がもたつく」
「じゃあ訊くけどさ、君はその、スナイパーにどう対応するつもりなのさ」
うん、それは俺も気になってた。どうすんの比企。
すると、比企は何を当たり前のことを訊くのかと言わんばかりの顔で、あっさりと答えやがった。
「狙撃に対応するには、手段は二つしかない。被狙撃者の隔離。それと、」
カウンタースナイプだ。
桜木さんの顔色が、さっと白くなった。
「それは駄目。絶対に駄目」
「じゃあどうするんだ。一度標的を定めた狙撃手は、いくら金を積もうと御涙頂戴の哀切涙節で訴えようと、死ぬまで引かないぞ。ナポリのカモッラの事例を知らんのか」
「だからってそんな、君が危険じゃないか! 」
「何か忘れていないか桜木警視。一番危険にさらされているのは私ではない、一般市民である彼らだ。ただ些細なきっかけで私と知り合っただけの、普通の高校生である彼らだ」
いきなり緊迫する二人だけど、ねえ待ってその前に、さっぱりわからないことがあるの。
「質問いいっすか」
まさやんがそこで挙手して、言い争い一歩手前の比企と桜木さんの間を割った。
「カウンタースナイプって何ですか」
うん、そうそれ。桜木さんの顔色見て、何となく危ないことなんだろうなって気はするけど。
桜木さんが、それは、と言い淀んだのを、比企が説明した。
「狙撃手を狙撃するんだ」
え。何それできるのそんなこと。
「地形を見て、建築物を見て、どこから狙撃されるのかを予測した上で、狙撃ポイントがどこからなら見えるのかを炙り出す。狙撃手の人となりを知っているなら、それも判断の基準として加味して」
まじか。
だから危険なんじゃないか、と桜木さんが頭を抱えた。
「カウンターしようにも、バレて反撃されたら死ぬんだよ。危険もいいところじゃないか」
「それがどうした。一番危険なのは彼らだ。そして、私がその危険を排除できるならば、やるのが筋というものじゃないのか」
「筋って」
筋というのがよくないなら、と比企は不敵に笑って続けた。
「友情だ」
桜木さんは天井を仰いで、ああもう、とうめいた。
そして今。俺達はのんびりと惰眠を貪った寝ぼけ顔で、顔を洗って結城のおばさんの手料理をいただき、歯を磨いてやっと目が覚めたところで、これまたのんびりと、結城の部屋で額寄せ合って、参考書とノートを広げ…たふりして、チャットルームで比企と桜木さんと情報交換していた。マルチ回線で音声会話しながら、二人が今どう動いているのかを聞かせてもらう。
桜木さんがカウンタースナイプを許した条件はひとつ。自分をスポッターとして帯同させることだった。
裏の社会で仕事をするアウトローならともかく、軍隊や警察のスナイパーは、必ず二人一組で行動するのだそうだ。狙撃手と、そのサポートと着弾の確認をするスポッター。二人一組ということは、スナイパーが逆に殺されるようなことがあれば、やはり一緒になぶり殺されるということだ。まさに一蓮托生。
いやあ、すごいね。ついこの前、散々俺達に指摘されてやっと自分の感情に向き合わざるを得なかった人がですよ。そこまで密着しちゃうんですか。いやー。
俺がそれとなく冷やかすと、桜木さんはあからさまにうろたえた。
「いやそうじゃなくて。そういうことじゃなくて。だってそんな、無法者じゃないんだからさ、一人でなんてねえ。万が一やられちゃったときに誰が助けるのさ」
女の子なんだよ、本当ならこんな危ないことさせるなんて言語道断だけど、何より一人きりで大怪我を負ったり死んだり、なんて、そんなのひどい話じゃないか。桜木さんはそう言って、だから、と続けた。
「一緒にいることで助けられるなら、それが一番いいだろう」
アッハイそうですね。
ううーん説得力ねえー! 何せ口調がなあ。必死かよ。
で、まあ今はね、カウンターによさそうな、っていう表現でいいのかしら。いや、ほら俺ただの高校生だから、そういうのよくわからないんですけどね、まあよさそうな場所を見つけて、陣取ってるそうです。結城の家も見えて、かつ比企が予測した狙撃ポイントも丸見えな、そういう場所。どこなのか訊いたんだけど、詳しくは黙秘だそうで、結局俺達は、どこで何が起こってるのかはよくわからない。とりあえずマルチ接続の会話モードで、いつもと同じようにバカ話に興じているだけだ。比企がいるのは、見晴らしがよくて、結城の家がまるっと見渡せる場所らしい。危険だからどこなのかは内緒、というのは、自分達の身が、というだけでもなく、どこからカウンターしようとしてるのか読まれずに狙撃を阻止しようということらしい。
ことの中心にいながらも、俺達置いてけぼり。まあいいんですけどね。俺達はしょうことなしに、参考書広げて勉強しながら、比企と桜木さんは周囲の様子を窺いながら、マルチモードで駄弁っていた。
ところでさあ、と忠広が、比企の出したヒントで方程式を解けたのをきっかけに切り出した。
「スナイパーってどうやって見つけるんだ」
言われてみれば。
だってさあ、見つからないように隠れたところから狙って撃って、即座に引き揚げて、っていうのがスナイパーなんでしょ。ねえ。どこから狙うのか、そういうお約束というか、なんかそういうのがあるんじゃないのか。あるとしたら、どんなものなんだろう。
比企は、そうだな、と、ふっと息をついてからレクチャーを始めた。
「まず、自分の視界のすべてを観察して、些細な違和感を洗い出す。曜日が違うのに出されている粗大ゴミの箱。映画館の入り口に二宮金次郎の像。そして、」
比企の声はそこで、少しだけ楽しそうな響きを帯びた。
「誰もいない屋上に広げっぱなしのままはためく布の裾」
その瞬間。
回線にざり、と砂を噛むようなノイズが一瞬混じって、聞いたことのない声が割り込んだ。
「ハッタリだけは相変わらずな女だな」
その声は、俺達よりちょっと年上っぽい男で、少し言葉に外国の訛りが混じった、それでも流暢な日本語だった。
こんな状況で、そんなことができて、また実際にやろうと思う人間が誰なのか、なんて、俺達にはもう、いちいち訊かなくてもわかり切っていた。だから比企もうんざりしたように言ったものだ。
「へーい、ということで、今日のゲストは皆様ご存知、世界を股にかけて大活躍なスナイパー、アフダルきゅんだコノヤロー」
俺達は誰も驚かなかった。ただ、ウェーイ、とだるそうに返事をしただけだ。
だって、この展開は、事前に比企から聞かされていたから。
あの、上海亭で比企の過去とスナイパーについて話をした、その後。俺達七人は、密かに予想される展開と、それにあたってどう振る舞うかを打ち合わせ共有していた。だから、モノマネ番組でご本人が登場するようなこの展開も、当然織り込み済みだったのだ。俺達はね。
比企はそのカウンターテナーの外国訛りに、ふん、と鼻で嗤った。
「やっぱりな。聞き耳立ててやがったのはわかってるんだ。狙撃対象の通信を傍聴して動向を押さえるのはお約束だからな」
まあ私もよくやったからな、とサラッと言い放って、比企は続けた。
「標的に近づくには、まず相手になり切ることだ。どこで生まれて、どんな人間に囲まれて育って、何をしてきたのか。何を狙い、何をしたいと思っているのか。それを全部トレースして、理解し、どうすれば出し抜けるのかを見定める」
だから私は、お前が私の情報を買った情報屋から、お前の情報を買った、と比企は笑い混じりに言ったものだ。
「あの当時のお前については、よく知っていたけれどね。あの夜以降にお前がどこで何をしてたのかは、噂で流れてくるお前の戦果でしか知らなかったからな、ちょっと辿らせてもらった。しかしまあ、お前ほんとにどこにでも行ったんだな。さんざっぱら暴れて、やっと腰を据えたアル・シャバーブに居られなくなると、まずヨーロッパに流れてカモッラの兵隊、それから更に流れてUWSAって、どんだけ戦争が好きなんだよ。無節操だな」
なんかよくわからないけど、すげえおっかない組織とかなんですかね。
結城が自分のデスクトップで検索すると、全部なんかやばいところでした。何あれこわい。で、そんなこわいところを渡り歩いてたんでしょ。この声の主は。
何とでも言え、と男──アフダルは静かに怒りをみなぎらせた。
「お前はぼくの全部を、ぼくの目の前でぐちゃぐちゃに壊して奪った。お前はぼくと同じように、目の前で大事なものを全部壊されないといけないんだよ。そうでもなけりゃ、永遠にぼくのあのときの気持ちはわからないだろう」
「そんなにあの
「うるさい。中佐は親に売られたぼくを、息子だって言ってくれた。勉強させてくれた。できることが増えると一緒に喜んで褒めてくれた。愛してくれた」
「愛してると息子を布団に引っ張り込んで抱き潰すのか、お前の親は」
比企が冷たく切り返した。
そして。
どこかで、と言えるほど遠くはないどこかで、何かが弾ける音がした。
それは、比企と夏休みを過ごした俺達にはすぐにわかる。銃声だ。あの海岸でキメラと戦った、あのときにも聞いた音だった。
俺達はまず、部屋の窓から周囲を見回して、それから慌てて階下に降りて、リビングから庭に降りた。キョロキョロと周囲の、背の高い建物を見回して、やっと見つけた。
二〇〇メートルばかり離れた、街道沿いの雑居ビルの屋上と、ビルと結城の家との直線をほぼ垂直に辿った線上にある、線路の向こうの大型スーパーの屋上。スーパーと雑居ビルとの間隔は、直線距離で大体四五〇メートルくらいか。その間を、バリバリと銃弾が飛び交っている、と思われた。それを裏付けるような対話が、マルチ回線で流れてくる。
「ポイントは捉えてる。まだお前は一人も殺してない、引き際は今だぞ。やめると言うなら私は撃たない」
「誰がやめるかよ。というか、やめられると思うのか」
口調も声もなまじ静かなだけに、アフダルの言葉には取り付くしまも、手を差し伸べるすべも見つからなかった。
それでも。それでも、俺達は、彼と話をしなくてはいけない。俺はそう思った。
「…あの、アフダル、さん」
俺はスーパーと雑居ビルの屋上を交互に見やりながら、イヤホンのマイクに語りかけた。
「俺は、八木真といいます。あなたが狙ってる、標的のひとりです」
そのままでいいです、聞くだけ聞いてください。俺は自分に落ち着けと言い聞かせながら、できるだけ穏やかに言葉を紡いだ。
「あなたは、俺達が夏に怪獣騒ぎが起きたとき、退治作戦に協力して表彰された、あの写真を見て、日本に来たんですよね。じゃあ、俺だけでなく、他の四人の顔も名前も、もう知ってますよね。今、ここには俺だけでなく、あの写真の全員が揃ってます」
バクバクと心臓が脈打つ。もう肌寒い季節なのに、どっと汗が吹き出し流れる。深呼吸して、俺はとにかく冷静を保とうと必死に念じた。頭の中で、この前アーカイブで見たエクスペンタブルズが「クール・アズ・キュークだ坊主」と言い聞かせてくる。
あなたの身の上は聞きました、と俺は続けた。
「大変でしたねとか、かわいそうにとか、そんなことは俺には言えません。無責任もいいところだから。他の四人もそうです。でも、あなたがつらかったのだろうことは、ぼんやりとだけど想像はできる。それしかできないけど。思いやることはできる」
そう。思いやることはできるんだ。
「その上で、あなたにお訊きしたいことがあります」
無言。比企はとりあえず俺達を信じて、様子を見てくれているのだろう。桜木さんも。ただアフダルは何を思うのか。
あなたは。
「あなたは、今自分に何ができるのか考えたことはありますか。これからどんな人間になりたいのか、考えたことはありますか」
そう。俺はずっと、比企から彼との経緯を聞かされていて、さっぱりわからなかったのだ。過去のことは饒舌に語られているのに、じゃあなんで彼は、未来についてはまるで念頭にないのか。
なんかすごかったらしい経歴を持つ比企を、討ち取って裏の世界で成り上がってやるぜとか、仇を討って故郷に錦を飾るとか、そういう未来志向の言葉がまったく出てこないのだ。過去に恩人を殺された恨みつらみだけで、本当に人間は何年も生きていけるのか?
あなたに訊いておいて自分のことは棚上げにするのは、なんかずるいですよね、と俺はひとつ息を継いで、それから続けた。回線の向こうは相変わらず無言で、いい加減虚無に話しかけてるような心持ちになりそうだけど、とにかく語る。
「正直に言うと、俺はまだ何になりたいとか、今何かすげえことができるとかはありません。でも、どんな人間になりたいかはわかってます。仲間がいて、比企さんと一緒にワイワイやって、そうするうちに見えてきた」
銃声。
「俺は、」
回線の向こうからはバリバリと、大粒の雹が降るような。
「誰かを裏切ったり、利用したりするような人間にはなりたくない。行き場のない子供を操って、自分が死んでも忠義立てするしか道がないような大人に育てる、そんな奴にはなりたくない。誰かを助けられないまでも、一緒に困って、一緒に歩ける人間になりたい」
一瞬、空白が生まれた。
そして、その空白を縫うような、一発の銃声が続いた。
それが最後の銃声だった。
夏のあの夜に砂浜で、キメラ怪獣と対峙したあのとき、散々聞いた銃声だった。
俺達は誰が言い出すでもなく、表へ飛び出していた。
とりあえず街道に出る路地を走りながら、何となく勘だけでこっちに来ちゃったけどさ、と源が言った。
「スナイパーの人、遠い方にいるんじゃないのか。こっちで合ってると思うか」
「わかんないよ! でもすぐ行けそうなのはまずこっちのビルじゃん! 」
そこに、待って待ってと桜木さんが回線越しに俺達を諫めた。
「君ら即屋上に向かおうとしないでよ。僕が今そっちに行くから。頼むから待ってて」
ってことは、やっぱり近い方にスナイパーがいたのか。
「え、桜木さんこっち来て大丈夫なんすか」
「僕としては小梅ちゃんから目を離したくないけど、頼むから君達についててやってくれって」
その言葉に続いて、車のドアが開いて、キュルキュルとエンジンをかけながらドアを閉じる音がする。あのスーパー、屋上は何もないけど上層の二フロアは駐車場だったっけ。すぐに車は走り出したらしく、街道に入ると制限速度ギリギリくらいで飛ばしている様子。普段安全運転の人なのを思うと、メチャメチャ急いでるのがありありとわかる。俺達がビルの前に着くと、スーパーのある神社駅の方向から、今ではすっかり見慣れたGT-Rが見えてきた。
ビルの前で車を止めて、桜木さんと俺達は黙ってうなずき合っただけで、外付けの非常階段を登っていく。
銃撃で穴だらけになった屋上にいたのは、ウェーブがかかった黒髪の、色白で線の細い青年だった。俺達より二つ三つ年上であろう、華奢で、目鼻立ちが女の子のようにかわいらしい青年。屋上の片隅に座り込み、血で赤く染まった右手を抑えて、痛みで青白くなった頬に冷や汗を流しながらも、それでも俺達をしっかりと見据えていた。その傍らには、銃口が花のように開いて裂けたライフルが転がっていて、え、何これどうするとこんなことになるの。
アフダルは震える左手でどうにか、鞄からスカーフを出して簡単に手首から先を縛って、応急手当てで止血すると、やってくれたな、と自嘲した。
「何がただの高校生だよ。飛んだ隠し球じゃないか。ヤギマコト、お前は見事にぼくの痛いところを突いてくれたな」
「八木君、みんなも近寄っちゃ駄目だ。下がって」
警告する桜木さんの声が硬い。それを見て、おいおい、とアフダルは笑った。愉快そうで、なんだかもう何もかもが吹っ切れたような、いや、もう何に対しても執着がなくなったような、あっけらかんとした響きだった。
「そうピリピリするなよお巡りさん。いいんだ、ぼくの利き手はあんたお抱えの魔女がお釈迦にしてくれたけど、ぼくの気持ちは彼にやられたんだ。大したもんだよな。言葉一つで、相手の戦闘意欲を挫くんだからな」
アフダルは、俺を見ると楽しそうに笑って、額に浮く汗を拭った。
「そうだよ、ヤギマコト、ぼくはお前の言う通り、過去しか見てなかった。今だって未来なんか見てない。だって、そんなもの見たって、自分がなれるものなんてたかが知れてるからな」
そこでアフダルは、お巡りさん、と桜木さんに訊ねる。煙草を吸ってもいいかな。
「狙撃手だから普段は吸わないんだけどね。もうどうせあの女にはここがバレてるんだ。今更狼煙あげたって、どうということもないだろう」
そう断って、左手でまず煙草の箱を出し、膝で底をトントンと叩くと、飛び出た一本を咥えてから、今度は銀色の小さなライターを出して火をつける。吸い付けて、ため息のようにふうっ、と煙を吐き出した。
「お前ら、高校生だったっけな。未来を見るって、どんな感じだ。自分がなりたいものを考えるのってどんな感じだ」
「…そんなこと訊かれても」
「よくわかんないよな」
「別に意識してないし」
口ごもる俺に、結城と忠弘がうなずいて続けた。そうか、とアフダルはにこにこと聞いている。
「さっきの質問に答えようか。訊いたよな、今何ができるのか、どんな人間になりたいと思うのか、考えなかったのかって」
「…はい」
ゆっくりと煙草を深く吸ってから、アフダルは空を見上げた。
「まず、今何ができるのか。ぼくにできるのは、人を殺したりものを盗んだりする、そういうことと、あちこち流れ着いた先でどうにか身についた外国語がいくつか。悪いことにしか使えない知恵しかなかった」
未来については、生まれてこの方、考えたことなんかなかったよ、とまた煙草を咥えて、
「だって考えたところで、五分後に生きてるのかどうかすら怪しいところで暮らしてたんだから。無駄なことは考えないのさ。今現在を積み重ねて、それだけでよかったんだ。過去しか見ないのかって、そう思ってるだろうけど、確かにあったものと、今確かにあるものがあればそれで十分だったんだ。…って、こんなこと言われてもわからないよな」
「つまり、君にとって未来は存在しないんだから見えようがないと」
桜木さんが俺達を庇いながら返すと、頭がいいねお巡りさん、とアフダルはちょっと嬉しそうにうなずいた。
「ないものが見えるわけないものな。だから、お前のあの質問は本当に困ったよ。今をどこまでも引き伸ばすだけの行く末しかないのはわかってるけど、たぶんお前が訊いているのは、そういうことじゃないんだろう」
そこでアフダルは、膝に乗せたままにしていたライターを、ポンと俺に放って寄越した。
「やるよ。ぼくを言い負かした勲章」
そして、煙草をフィルターの近くまで吸い付けてから、屋上のコンクリートにぐいと押し付けて揉み消すと、よいしょと立ち上がり、アフダルはそうか、と呟いた。
「ここでぼくは終わるんだな。あっけないもんだな。でもまあ、人間の終わり方なんてそんなもんかもね」
あの、とそこで忠広が問いかけた。
「なんでその、仇を討とうと思ったんですか。あなたにひどいことしてた人だったんでしょ」
すると、アフダルは腹を抱えてケラケラ笑った。
「いいね、そういう質問できる豪胆さ、いい根性だね。うん、そうだな、ぼくの人生に関わったのは中佐だけだったから。確かにぼくと同じように中佐の取り巻きだった子供は何人かはいたけどね。それでも、中佐が常にそばに置いて離さなかったのも、戦闘に関係ない学問もさせてくれたのも、ぼくだけだった。ぼくを特別にしてくれた人が、ぼくにとっての特別になったっておかしくないだろ。でも」
もうあの人はいないからなあ。
アフダルはそう静かに言って、なんの気負いもなく背中に左腕を回して、スッと銃を抜いた。一瞬、桜木さんが身構える。けれど銃口は、俺達に向けられはしなかった。
「そういうわけだ。回線は切ってないからな、全部聞いてただろ、市ヶ谷の魔女。安心しなよ、お友達もお前の騎士もピンピンしてる。まあ、ぼくはあれだ、お友達に負けたってことで、潔くここで退場してやるよ」
アフダルの拳銃は、自分のこめかみに当てられていた。
「待てって、そんなのダメだろ! 」
「自分で死ぬとかなに考えてるのまじかよ! 」
「周り見てみろって、こんなに世界って広いんだぞ。行ったことのないところに行ってみれば、なんか新しい可能性だってあるかもしれないじゃん」
「死んだら何もないってばーちゃんが言ってたぞ」
「昔がどうだって今生きてるんだからさあ。つらいのを乗り越えたことを思えば、あなたなんでもできるだろ」
とにかく必死で引き留めようとする。俺が呼びかけたのに、即座に忠広が、まさやんが結城が源が、続けて呼びかけた。
それでもにこにこと、どこか幸せそうに、引鉄にかけた指にちからをこめるアフダル。
ああ。終わってしまう。
そのとき。
「させるわけねーだろ」
後ろから比企が拳銃を蹴り飛ばした。
なんなのこのアンチクライマックスは!
てゆうかどこから来たんですか。この屋上に来るには、非常階段を登るしかないので、当然俺達の後ろに来るしかないはずなのに。でも最高のタイミングだったよ比企さん!
比企は背中に、お気に入りのフライターグとドラグノフを背負って、ショート丈のピーコートとハンチングに、ブーツカットのジーンズとアーミーブーツを履いていた。
「自分で自分の幕引きしようったってな、そうはいかんのだ。何でも思い通りになると思ったらでっけえ間違いだ」
まったく、と比企は荒いため息をついた。
「自分を特別にしてくれたから、相手を特別だと思うって何じゃそら。やっすい感情だな。そんなら自分が新たな誰かの特別になろうとか思わないのかねえ。あんな虐待ペド野郎じゃなく、もっとちゃんと対等な付き合い方ができる誰かと、真っ当な関係を作ろうと思えばできるのに」
生きてりゃ何だってできるだろうと、比企はそれでも拳銃に手を伸ばそうとするアフダルを組み敷いて、動きを封じた。
「彼らがいい証拠だろう。命を狙った相手でさえ、背景を知ってそこに至る経緯を思いやって身を案じている。目の前で死んでみせるような、そこで終わりの関係でなく、先に続く交流を持とうとか考えないのか」
「…いいだろう。なあ殺せよ。ぼくは生きていたいとか、もうそういうのはないんだからさ」
「お断りだ。自分で死ぬのも許さん。私はな、殺って殺られて殺り返して、ってのはもう、いい加減胸焼けがしてるんだ。何か違うことして見せろよ。ワンパターンかよ」
押さえ込まれながらも、できるわけないだろ、と切り捨てようとするアフダルだが、比企はやらないだけだろ、と跳ね返した。
「生きてりゃ何だってできるんだ。マンネリのワンパターンからどう抜け出すか、模索することだってできる」
「無理だな。利き腕をやられた。もう引退するしかないのに、他に何もできない人間が、どうやって普通に生きられるんだよ」
「まずはその、いきなり何でもちゃんとできないとダメって思考を捨てろ。話はそれからだ」
おおすげえ、比企さん正論で返しやがった。まあね、確かにそれは大事だけどさ。
「お前は今から、何をするにしたって初めてやることだらけの世界に行くんだからな、できないことしかないのが当たり前なんだ。それを、繰り返して学んで、できることを少しずつ増やしていくんだよ。みんなそうやって生きてるんだ。お前が特別ってわけじゃない。そして、そうやって繰り返すうちに、同じような繰り返しで同じように学んでる対等な仲間を見つけて、支え合って、その中で誰かの特別になっていくんだよ。人間はそうやって生きるものなんだ」
だから生きろと比企は強い口調で言った。
「お前は確かに色々と、悪いこともやってきた。だから今度は、ちゃんとやり直して生きるために、死なずに生きるんだ」
わかったな、と宣言して、比企はそのまままっすぐこちらにやって来た。
「帰ろうか」
え。いいのかあのまんま放っておいて。
屋上には、がっくりと座り込んだアフダルだけが残された。
あとから本人に聞いたら、比企はスーパーの屋上からあそこまで、電柱の先だとか家屋の屋根だとかを飛び移って、直線移動で来たのだとかで、何じゃそらどこのエスパーだ! しかも、桜木さんに俺達と合流するよう先行させてすぐに、撃ち殻薬莢を回収して痕跡を消すのも忘れない周到さ。プロかよ。あ、プロだったか。あのアフダルの銃が壊れてたのは、俺が質問したことで、アフダルが揺さぶられた隙を突いて、銃口に弾丸をヒットさせたのだそうな。もうさあ、そういうの聞かされると、万国びっくりショーとしか言えないよね。
そして翌日。さすがにあんな怪我をして、狙撃も何もないだろうと、俺達はコンビニに買い出しに出ていた。お菓子とジュースと土曜発売のジャンプ買って帰るその途中。
児童公園の、くたびれたカバのロデオに腰掛けたアフダルが、やあ、と手を振っていた。右手を三角巾で吊って、のんびり煙草を吸っていた。
「明日には日本を出るから、挨拶だけしておきたくってね」
そう言って、アフダルは俺達と一緒に歩き出した。
「もう裏の仕事は廃業だよ。利き手をやられちゃ、ねえ」
言葉こそ寂しそうだけど、どこか憑き物が落ちたような、さっぱりした顔と声だった。
「どこに行くんですか」
忠広が訊ねると、そうだなあ、とちょっと考え込んで、アフダルは、とりあえずパリにでも行くかな、と答えた。
「あそこは、よそものがよそものの顔で暮らすにはいい街なんだよ」
しばらくは、何者でもない立場でゆっくり考えて、それから何をするか決めるとするさ。
「それがいいですよ」
「そうっすよ。死んでないってことは何でもできるんだし」
「何か好きになれるものを見つけて、ちゃんと幸せにならないと」
「絶対見つかりますって」
俺達の言葉には、気持ちしかなくて根拠なんかないけど、それでもアフダルは、ありがとう、と穏やかに笑った。
「そうだ、落ち着いたら手紙ください。俺ら待ってるから」
別れ際に俺が言うと、アフダルはきょとんとした。
「きっかけはどうであれ、俺らアフダルさんの友達だから」
俺のその言葉に、アフダルはちょっと驚いて、それからぶっと吹き出しケラケラ笑った。
「君達、ほんとにいい奴らだな。──うん、友達か。悪くない」
そうでしょう。
今回の騒ぎで、比企はスナイパーを殺さずにことを済ませた。それは俺達が関わったから、というのもあるのだろうけど、たぶん、アフダルに言ったあの言葉が、比企の本音なのかもしれない。
──殺って殺られて殺り返して、ってのはもう、いい加減胸焼けがしてるんだ。
だからこそ比企は、アフダルを殺さずに、裏の仕事ができないように引退させて幕引きを図ったのだろう。
そんなに嫌気がさすほど、うんざりするほどに殺したり殺し返したり、というのを見てきたのだろうか。だとしたら、比企の過去だってアフダルとどっこいどっこいの酷さだ。
俺らみたいなお気楽高校生が、比企の友達でいいんだろうか。
俺はちょっとだけ不安になった。まあ、その不安は、休み明けに上海亭でバカ食いする比企を見るとどうでもよくなっちゃったけどね!
まあいいや。少なくとも比企は、高校生としての生活を送るために、この街で暮らしているのだ。ならば俺達は、今まで通りにつるんであほなことをして、楽しく陽気にやるだけだ。
俺は差し当たってまず、冬休みの旅行のプランを固めようと決めた。
日常には、些細でも楽しいことがいっぱいあるんだぜ。
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