第16話 五人とひとりとフードファイト
秋のよく晴れた日曜日。昼前に起き出して、半分頭が寝ている俺をよそに、お袋は元気だった。
いきなりチラシを出して、あんた知ってた、と唐突に話を始める。なんでおばちゃんって、主語も述語も前置きもなく話に入るんすかねえ。
「あんたの学校の近くでしょ」
「何が」
「このお店」
興味半分、見ないとうるさいのでお付き合いで半分。押し付けるように出されたチラシには、本格的なイタリアンをリーズナブルに、とかなんとか書いてあった。大写しの料理と、裏にはメニュー表や店の周辺地図。なるほど、確かに俺達の通う高校から近い。上海亭からもそんなに離れてないな。
オープン記念と称して、コースメニューの割引と、メガ盛りチャレンジと書いてある。店名を見ると、フランチャイズのチェーン店だった。数年前から関東圏内で展開していて、なかなかうまいと評判の会社だ。ただ、味はいいけれど、肝心の店舗進出のやり方が強引で、そちらでも何かと噂になりやすく、評価が分かれがちなチェーン店でもあった。
案の定、学校の近くにできる新店とやらも、しばらく前まではやらない和食レストランがあったのだが、いきなり潰れたと思ったら、内装工事の業者が出入りするようになったのだった。その辺のからくりは推して知るべし、ということだろう。
しかし、こんな破格の値段設定、さほど離れていない上海亭は大丈夫か。下手すりゃ学校帰りにちょっと歩けば行ける距離だもんな。客が吸われちまうんじゃないか。
翌日の放課後、俺の心配は的中した。
いつものように店に入ると、今日はやけに静かで、いつもだったら俺達の他にもふた組ぐらいは客がいるというのに、テーブルを囲んでいるのは、毎度お馴染みの俺達ご一行だけだった。
相も変わらず夕飯前にしこたま食っている比企に救われちゃいるが、親爺はちょっと元気がないし、おばちゃんも心なしか萎れた感じだ。締めのデザートが出てきたところで、比企が親爺をそれとなく気にしながら、おじさんはどうしたんだ、と俺達に訊ねた。
「まるで元気がないぞ」
うん、もしかしなくてもアレですね。
「昨日、バス通りにイタリアンのチェーン店がオープンしたんだよ」
俺が小声で教えると、みんなうなずいて、
「市内の家には、多少離れててもチラシ入れてたみたいだな。うちにもきたぜ」
「うちも。母ちゃんが今度行こうかしらなんて言ってる」
「うちは祖父ちゃん祖母ちゃん、どっちも和食派だからなあ。チラシは入ってたけど、祖母ちゃんが折り紙にしてゴミ箱折ってたな」
「うちは妹が、親父とお袋相手に騒いでたな」
昨日のチラシか、と比企は亀ゼリーアイスをひと口。
「市内とはいえ、だいぶ離れた地域の八木君や岡田君の家にまで入っていたということは、うちにもきているな。帰ってから確認してみよう」
まあ、これだけ派手にチラシを配っているなら、あのお高いマンションに恐れをなして素通り、とは考えにくい。
それで、と比企は静か過ぎる店の中を見回した。
「チェーン店だと八木君は言ったが、どこの会社が出てきたんだ」
「えーとね、」
結城が屋号を言うと、いきなり比企が顔を顰めた。
「どうしたん比企さん」
「アイス? 頭キーンってなった? 」
忠広と結城に、いや、と比企が答える。
「先日、そこの社主がうちの番頭のところに来て、自分の会社の株を買ってくれとしつこく勧められたと言っていてな」
「番頭? って夏休みに会った、ドミトリーさん? 」
「あれは曽お祖母さまのボディガードで執事だ」
「じゃあヴラディミルさん? 」
「あれは別系統で私の補佐をしている。番頭はあれの父親で、うちが持っている製薬会社を任せているんだ」
比企の話では、ヴラディミルさんのお父さんのところに来た社長は、今買っていただければ来年には十倍の価値にするからとか、俺達みたいな世間を知らない高校生が聞いても詐欺としか思えないようなことを並べ立てたのだそうだ。あまりにしつこいので、どうあしらったものかと、ヴラディミルさんを通じて報告してきたのが水曜日のこと。
どう、ってのは、つまり、
「押し売りお断りと明言するだけでよいか、それともちょっと痛くして、二度とふざけた真似をしようと思わないよう躾けるか」
あー。そういえばヴラディミルさんもイケメンだけど、握手した手がいかにも武闘派な感じだったな。あと比企への忠誠が強火。
比企は捨ておけとだけ答えたそうだ。
「曽お祖母さまにも困ったものだ。日本に行くなら、トリスメギストスの支社はウメチカにあげるから好きに使いなさい、だなんて」
ぼやき節の内容が多方面にひどいけど、トリスメギストスって、あの、それもしかして。俺が質問すると、比企はしわい顔で認めた。
トリスメギストス・ファーマってのは、ロシアに本社があって、主にヨーロッパで展開してる製薬会社で、要はえげつないお金持ちなんだけど、その会社の持ち主が曽お祖母さんなんだって。セレブじゃん。で、どうもロシアの方の家は、昔は貴族だったっていうから、ガチでどう抗ってもセレブでしょ。なんでこんな町中華でラーメン啜って喜んでるんだ。
で、比企はマル勅探偵の仕事で、そもそもそんな経営とかするどころではないので、番頭に好きにやれと任せきりにしてる、はずが、番頭さんも息子同様の忠義者だとかで、何か微妙な案件があると姫様と本家の大奥様、つまり比企と曽お祖母さんの御裁可を仰ぐのだそうな。
ほええん。
それはともかく、今はイタリアンレストランだ。茉莉花茶のポットを運んできたおばちゃんに、比企がそっと訊ねた。
「おばさん、やっぱり例のレストランのせいですか」
静かな店内に目線を走らせる比企に、おばちゃんもため息をついて、みんな目新しいものに弱いからねえ、とうなずいた。
「大概、近場に同業の店を出すとなると、先にある店に挨拶に回るもんだけどねえ、あそこは知らんぷりで、その程度の仁義も弁えないのか、ってお父さんがすっかり怒っててね」
その言葉に、比企はふんと鼻を鳴らした。
その夜、チャットルームに比企からの書き込みが入った。
うちにも例のチラシが入っていた、という書き込みのあとに、考えていることがあるので、よかったら協力してはもらえまいか、とある。
なんだなんだ。
とりあえず話だけは聞くぞと返信したが、やっぱりみんな同じような答えだな。
まあね、聞くだけ聞いちゃったら、たぶん協力することになっちゃうんだろうけど。いいの。わかってる。わかってるから。
思った通り、翌日の放課後、上海亭で待ち構えていた比企は、それは楽しそうで物騒な笑みで俺たちを出迎えた。
「いいことを考えたぞ諸君」
例のチラシをテーブルに出して、比企は満面の笑みだ。俺達が塩焼きそばと汁なし坦々麺と焼豚炒飯を注文したところで、奴はチラシの裏側を指さした。
「面白そうなことをしているじゃないか」
そこにあったのは、オープン記念のメガ盛りチャレンジ企画の文字。
「単品完食で無料、サラダにデザートのセットを完食で賞金十万円、だそうだ。太っ腹だな」
食べて金をもらえるなんて、こんなうまい話が世の中にあるとは、なんて愉快そうに言っているが、え、ねえもしかしてこの流れって。
おじさんおばさんには、参考のために飲食店経営者としてのご意見を聞いて、大まかに説明しておいた、と比企は声高らかに曰うと、
「明日から、この企画が終わる週末まで、諸君にもお付き合い願えまいか」
きっと楽しいものが見られるぞ、と笑った。
その翌日、水曜日。比企は珍しく、昇降口で集合しようと言ってきた。放課後に昇降口へ出ると、先に来ていた比企がちょっと困ったような顔をしていた。
「あんた達、何企んでるのよ」
「美羽子」
「まじか」
普段泰然としている比企が、今日に限ってそそくさと帰宅しようとしているので、様子がおかしいと捕まえて、あれこれ聞き出したのだそうだ。すげえな。まあ比企も、女の子が相手だとそう無下にあしらえないのだろう。あたしも行くわよと得意げに言って、美羽子は俺達を率いるように歩き出した。
バス通りの交差点で、比企がちょっと待ってくれと立ち止まる。角の公園で、協力者と待ち合わせをしているのだそうだ。誰だろうと思う間もなく、向こうからスポーツサイクルでやってきたのは、
「先輩方お久しぶりっす! あと、そこのきれいなお姉さん初めましてっす! 」
初夏の事件で出会った、財前琥珀だった。
学校帰りにまっすぐきたようで、中学の制服姿のままだ。見てくれだけは黒目がちのくりっくりの目で、源同様、かわいい系の顔立ちなので、たぶんこいつは結構モテているだろう。あほだとバレていなければ、だけど。現に今だって、ツカミの挨拶できれいなお姉さんと言われた美羽子は、満更でもない顔だ。
比企は弟弟子にひと言、言った通りにしてきただろうな、と確認した。
「大丈夫、姉ちゃんの言うように、めちゃくちゃ腹減らしてきた」
それを聞いて比企が、ならば結構、とうなずく。
「では行こうか諸君。いつもなら上海亭で間食を取っている頃だ、腹が減っているだろう」
比企はニヤリと悪い笑みを浮かべた。
「しこたま食わせてくれる上に、金は取らないとか、逆に金をくれるとか言う太っ腹な店があるなんて、世の中は捨てたもんじゃないなあ」
猛烈に嫌な予感!
俺達五人と財前は、瞬時に比企が何を考えているのかを悟った。一人だけ状況を理解できない美羽子だが、それがどんなに幸せなことなのか、きっとこいつはそれもわかっていないことだろう。
俺達は、いかにもオープンしたてといった風の、外壁の白も眩しいイタリアンレストランへ足を踏み入れた。
店内には俺達の高校の生徒や、近隣のおばさん達やご老人が数組入っていた。結構席は埋まってるな。いかにもバイトといった感じのニイちゃんが席まで案内して、俺達が腰を落ち着けたところでオーダーを取る。
当たり障りなくパスタやピザ、美羽子はデザートメニューを頼む中、財前があっけらかんと言い放った。
「俺、このチャレンジメニューのミートボールパスタ単品! 」
隣に座っていた美羽子が目を剥いた。
「え、待って財前君、お夕飯前でしょ。それに、すっごい量のが出てきたら、」
「大丈夫、俺、極限まで腹減ってるから! それに今日は姉ちゃんいるし! 」
一瞬たじろいだニイちゃんだが、仕事と割り切ってメニューに加えていく。そこへ真打がきなすった。
「チャレンジメニューのセット。ボロネーゼで」
美羽子、驚愕。
「待って待って待って比企さん、そんな、セットってあなた絶対無理でしょ! 」
「落ち着け美羽子」
「大丈夫だからどうにかなるから」
「マコもヒロも何言ってるのよ、あんた達いよいよ脳みその髄まであほになっちゃったの」
「大丈夫だよ笹岡さん、いざとなったら俺らもいるし」
源が取りなすと、まあ、そこまで言うなら、と引っ込んだ。お、なんだなんだ。文化祭の騒ぎで、ちょっと源が気になるお年頃か?
すっげえ腹減ってるので超早でお願いします、と財前がでかい声で付け加えて、注文終了。美羽子はずっと、比企に大丈夫なのかと念を押していた。
「ずっと外国のご親戚のところで療養してたって言うから、あんまり日本のことにはまだ馴染みがないんだろうけど、ここのメガ盛りってすっごいことになってるのよ。こいつらが、…まあ、源君はああ言ってくれてるけど、ヒロとマコなんて特に、どこまであてになるかわかったもんじゃないんだから」
うんうん、と比企はニコニコ耳をそよがせているが、これは野郎だったらぶん殴られてるか罵倒されてるかだな。同級生で女子だし、完全に善意と心配で助言してくれてるから穏やかにしてるだけで。
俺達の注文した料理が出揃ってから、まず財前のメガ盛り単品が運ばれてきた。
多人数でシェアするときの大皿に、山と盛られたミートボール入りトマトソースパスタ。財前は待ってました、とばかりにフォークを両手に取った。
「二口で食うのが、ミートボールパスタの作法なんすよ」
何それ。二口で、とはいかないまでも、すごい勢いで食い始めた。だが比企と同様、不思議と汚らしくはない。実にうまそうに、それでもすごい勢いで猛然と食っていく。
最後に、比企が頼んだメニューがやってきた。財前と同じく大皿のパスタに、これまた多人数盛りのボウルにいっぱいのサラダ、デザートにはチョコレートケーキが三ピース。
比企は皿の上を一瞥すると、コム・シ、コム・サとボソリと言って、フォークを取った。
「では始めよう。いただくとするか──戦友諸君、タイムの確認を頼む」
そして始まるフィーバータイム。
比企はまず、サラダから取り掛かった。
「まあこんなものか。飛び抜けて美味というほどではないが、口が曲がるほどまずいというわけでもない」
万人受けしやすいところで収めている、とあっさり評価を下して、さっぱりとしたドレッシングのサラダを優雅に駆逐していく。
続いてパスタにかかる。
フォークで絡めたボロネーゼパスタをひと口、ふん、と鼻でうなずいた、姫の皮をかぶった豪傑は、どうにか及第点だな、と言って、宮中晩餐会でも通用しそうなフォーク捌きで、それでもすごいスピードで食べ進めた。
「及第点って」
忠広がおいおい、と呆れるが、イタリア人のパスタとピッツァを食べ慣れてしまったらもうおしまいなんだよ、と比企はしれっと答えた。
いつどこで食べ慣れたんだよ。つくづく謎の多い女だ。もはや俺達は、ひたすら食べ進める比企と財前の様子を、ボケーっと見守るぐらいしかできないでいた。いやほら、自分らの飯食っちゃったら暇だし。美羽子は美羽子で、メニュー表を広げてデザートの追加を頼み出した。ほんと、女子のこれは俺、わかりません。腹一杯とか言いながらプリンとか頼むってどういうことなの。入るじゃん。まだ。あとねえ、こいつ、最初にティラミスしか食ってないからね。甘物に甘物重ねてくるって、女子のこれもよくわからんの。甘物で腹が膨れるのかよ。
続いて注文した、チョコトリフアイスクリームのパフェをつつきながらぼんやり観戦している美羽子。そう、これはもはや、ちょっとしたスポーツでも観ているような感覚だった。テニスのラリーを見るような、あんな感覚です。おわかりいただけるだろうか。
「そりゃあね、文化祭のときにお家に泊めてくれたあのときも、すっごい食べるんだなとは思ってたけど。でもほら、桜木さんのご飯っておいしいから、それで入るだけだろうと思ってたのよ。それがまさか、こんなことになってるなんて」
パフェの下の方の紅茶ゼリーを掬い出してもぐもぐやりながら、知ってる、と美羽子は源に問いかける。
「比企さんって、見た目がこうだし、転入してくる前はご親戚のところで療養してたっていうし、病弱なんだろうって噂で、儚げな美少女だって、陰で結構人気あるのよ。滅多にいないレベルのきれいな子だから、うちのクラスでもあんまり話しかける人いないし」
実際私も、文化祭のアレがなかったらまだ声もかけられてなかったかも、と、美羽子はアイスクリームと生クリームを器用に半々で掬ってぱくついた。
「実際、なんで比企さんがあんた達と仲がいいのか信じられなかったのよねえ」
モブ枠のあほの子で悪かったな。でも、とそこで美羽子はチラリと比企を見やって、
「いまだに嘘だろうとも思うけど、この様子見ちゃったら信じるしかないわ。あんた達とそりゃあ仲よくやれるわけだわ」
十五分後。比企はパスタとサラダ、チョコレートケーキ各三人前を、優雅に、かつ完膚なきまでに駆逐した。財前も、食った量は違えど同様に完食。
そしてトドメを指すように、目を剥き口をあんぐりと開けた美羽子の前で、震えながら賞金の熨斗袋を持ってきた店長に涼しい顔で言った。。
「どうにも食い足りない。追加でピッツァ・マルゲリータとラザニア、それと紅茶をポットで」
ずっと比企の胃袋あたりと顔を交互に見ているが、美羽子よ、これがこいつの通常運転だ。わかったか。
「財前君が食べてるのを見てる分には、いっぱい食べる男の子ってかわいいし微笑ましかったんだけど、」
比企さんはどこにあの量が入っていくの、と愕然としているその気持ち、俺達にもそんな頃がありました。
「え、お姉さん的にはいっぱい食う男子ってあり? 」
食いつく財前。おい、と俺はそっと、反対側に座った美羽子に聞こえないように囁いた。
「美羽子はたぶん源に惚れてるぞ」
すると、まあ今はね、とクソ生意気なお返事。
「三回も会えば、お姉さんはたぶん俺の魅力に気がついちゃうぜ」
んまーマセガキ! 最近の中学生はどうなってるの。爛れてる!
「俺にはわかる。お姉さんみたいなタイプは、デートのお弁当におにぎりと、卵焼きとウインナーと唐揚げを作ってくれるんだ」
あ、なんだ、そういう感じか。ちょっとほっとしました。でも、あれだけ食ったあとで弁当の話とかできるって、まだ余裕があるな。
一方で、美羽子は財前と反対側の隣、俗に女王席と言われるポジションの女王様に、矢継ぎ早に質問していた。
ねえ比企さん体重何キロ。あ、ごめん答えなくっていい、うん、ごめん。でもすっごい細いのに、どこに入っていくの。もしかして今日はこの一食だけで食事おしまいとか、そんな感じ? って、あ、この前お家に泊めてくれたときにも結構食べてたか。でもあれは仕方ないわよねえ。桜木さんすっごいお料理上手だし。あんなおいしいものが毎食出たら、食べちゃうわよねえ。そうそう、あのときはお世話になった上に料理まで教えてもらって、ありがとうございますって伝えておいてくれるかしら。
比企はさしてうるさがるでもなく、心持ち青ざめた店員さんが持ってきたピッツァとラザニアを、さっきのメガ盛りと同じスピードで駆逐しながら、うんうんと相槌を打っている。
「それにしてもほんと痩せてるわよね比企さん。ダイエットとかしてる? 何かコツってある? 」
そこで、比企はちょっと困ったように笑った。
「してないよ。食べると違うところで消費してるんだ」
「え、何か運動してるとか? 」
うーん、と珍しく言葉を濁す直言明言娘。紅茶を飲み干すと、細い手首に不釣り合いなごつい腕時計を見て、もうこんな時間か、と鞄を取った。
「すまない、今日の夕飯はビーフ・ストロガノフとジュリエンにしたから早く帰るようにと、保護者がしつこくてな。今日はこれで失礼するよ」
俺達もその言葉を潮に、今日は撤収することにした。
レジの店員さんは比企を見て震えていたが、でもね、こいつあれだけ食って、まだ夕飯も食うんですよ。怖いでしょ。
翌日。やはり放課後に比企は俺達へ招集をかけた。
俺達を同行させる意図だが、比企によると、店側が難癖をつけたりゴネ出したりしたときのための、冷静なツッコミを入れるための配役なのだそうな。案の定、今日も美羽子がしっかりくっついてきた。
店内に入ると、店員さんが軽くざわついている。ショートヘアのお姉さんに奥の席へ案内されて、俺達はてんでに注文を決めた。パスタだのドリアだの、各々のメニューが出揃ったところで、比企はサラッと爆弾投下。
「チャレンジメニューのセット。ナスのミートソースパスタで」
「え」
「え」
瞬時に固まる店員さんと美羽子。
「チャレンジメニューのセット。ナスのミートソースパスタで」
同じオーダーを繰り返す比企。そこではっと気を取り直して、はいぃ、と注文を通す店員さん。なんかすんません。
そして再び開幕、比企の暴食劇場。
昨日とさして変わらぬ十五分前後で食べ終えると、これまた物足りぬと言ってブルスケッタとチーズリゾット、パンナコッタを追加注文して、食べながらカフェでケーキでも食べているかのように駄弁る。
「最近、保護者がいきなりロシア料理を作るようになってな。どうにも様子がおかしい。八木君や結城君は何か聞いていないか」
「何かって」
「いきなり曽お祖母様や師公に私の好物のレシピを聞いたりして、とにかく怪しいんだ」
俺は笑みを顔に貼り付けながらも内心ドン引き。
桜木さん、胃袋から摑みにかかってないか。いや、別にいいんだけどさ。
「何を企んでるんだろうな。もうすぐ監督官の任期が明けるから、最後くらいいい思い出作ってやろうとか、そういうことなんだろうが」
いや、それはないからね。あの人なら意地でもやめないからね。現に桜木さんは、夏休みの怪獣との激闘の最中、俺達五人に絶対やめないと宣言してるし。
ということは、これもう、比企の胃袋を摑んで、やめるわけがないという空気を作ってしまおうという布石じゃないのか。意中の相手の胃袋から攻めるって、女子か! いやでも、あの人がやるとなんかかわいげを感じてしまうのはなんなんだろう。
ねえ、と美羽子が俺と忠広をつついて耳打ちした。
「桜木さんって比企さんのこと好きでしょ」
え。ひと晩泊めてもらっただけの美羽子がそこまで見抜くか。俺と忠広は、そうだけど黙ってろと口止めしておいた。何せ片方は最近やっと自分の気持ちを自覚して、もう一方はまるで色恋に興味がないのだ。そっとしといてやれって。
案の定、あんなの見ればすぐわかるわよ、と美羽子は断言した。
「だって、すっごい世話焼きなんだもん桜木さん。しかも世話焼いてるときの顔がちょっとやばかったし」
まじか…。イケメンの無駄遣いだよ。台無しだよ桜木さん…。
昨日と同じく、熨斗袋を手に出てきた店長は、比企の顔を見ると昨日以上にプルプル震え出した。おめおめおめおめでとうございます、とガクブルしながら賞金を手渡す。
なんか、ほんとすんません。
この奇妙な会食は、日曜日まで続いた。
そして。
オープン早々、最初の数日で毎日十万円の赤字をコンスタントに出し続けたのが祟ったのだろうか。件のイタリアンレストランは、一ヶ月を待たずに俺達の街から撤退してしまった。
あとにはテナント募集の空き店舗だけが残った。
上海亭には再び客足が戻り、親爺は元気を取り戻し、おばちゃんもやっと一安心。比企は親爺の料理に活気が戻ったとご満悦だ。
そして。
この一件以来、なぜか美羽子までが俺達の憩いのひとときに加わって、ともにテーブルを囲むようになった。
しかし、そうか、桜木さんの任期がもうすぐ明けるのか。
どうなるんですかね、この二人。
比企は桜木さんが辞めたがってるとてんから疑ってないし、桜木さんは石にかじりついてでも辞めないだろうし、もめなけりゃいいんだけどね。
今のうちに胃薬でも買っておこう。俺は重くて深いため息をついた。
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