第10話 五人とひとりと海辺の事件 4章
俺達が民宿のアルバイトに来て、一週間が経った。
海水浴に来ていたカップルが怪死を遂げた事件から始まった騒ぎは、その間に誰も予測していなかった展開を遂げた。
俺達が仕事を依頼するという形で比企を町へ招き、到着したその日のうちに、早速彼女は連続して起こった怪事件の犯人と思しき巨大な影と遭遇、あまつさえ一戦交えて、体の一部を採取。翌早朝には、それを警察署経由で大学に持ち込み、分析を依頼したのだ。
比企が来た途端に、ずいぶん大きく動いたものだけど、その日の夜に出た分析結果は驚きのものだった。
夕飯の最中、俺達が泊まり込みのバイトで入り、比企と監督官の桜木さんが宿泊する民宿・漁り火に一報が入り、取るものもとりあえず警察署へ駆けつけると、湯田さんが待ち構えていた。
「なんだガキ共、お前らまで来たのか」
デスクトップ端末の画面を睨んでいた白井さんが顔を上げて、夜分遅くに申し訳ありません、と比企と桜木さんに頭を下げる。桜木さんは柔らかく、比企は淡々と、お構いなくと応じた。
「時刻を問わず、とお願いしたのはこちらですから。──それで、」
結果はどう出ましたか、と比企が促す。湯田さんは頭を掻いて、それなんだがよ、とワイシャツの襟を少しくつろげた。
「お嬢ちゃん、あんたどこまで読んでた」
「と仰ると」
「ドンピシャ、とまでは言わねえ、でもどんな結果が出るか、多少予測はしてたんじゃねえのか。でなきゃあんな、変わったペットだのなんだの、なんてまず、思いつきすらしねえだろ」
適当にサボるつもりが、こっちが本筋になっちまった、とぼやくと、湯田さんはデスクの上のキーボードを叩いて、何かの写真とリポートをポップアップで表示した。
「まったく、こんなもんが出てきたもんだから、大学もうちも、蜂の巣突いたみてえな大騒ぎだ。藪つついたら、蛇どころかゴジラが出てきちまった」
見てくださいこれ、と白井さんが、ポップアップを親指人差し指で、ぐいーんと広げてみせる。平均的な高校生の脳味噌しか持ってないので、俺達全員さっぱりなんだけど、比企は画像の意味がわかったみたいだ。
「一種類ですか、二種類ですか」
端的にそう訊ねる。更に訳がわからない俺達、すっかり置き去り。
「あの比企さん、まず初歩の初歩から訊いちゃうけどさ、これは何なの」
源が質問すると、比企はあっさり答えやがった。
「DNA検査で出た遺伝子地図」
「で、一種類とか二種類って」
今度は俺が挙手して質問すると、比企はキョトンとして、そりゃあ八木君、と応じた。
「DNAを合成してるかどうかの確認さ。単純にでかいだけの、既存の生物なら弱点をつけるけど、そうでなかったら物理でいくしかあるまいよ」
その答えを聞いた結城が、うええ、と情けない顔になる。
「俺、もしかしてバイオハザードな物件運んでたの? コンビニ袋で? 」
うん、それは確かに嫌だな。気持ちわかる。あと、お前にばっかり持たせちゃってごめんな。
どうでしたかと湯田さんに訊ねる比企。湯田さんは、どんな頭の構造してんだこの嬢ちゃん、とボソリと漏らして、まだわからんとぶっきらぼうに答えた。
「だが、調べた教授の話じゃ、一種類ってことはねえだろうってよ」
どうだ、と今度は湯田さんが訊いた。
「田舎のオマワリもやるもんだろ」
比企がタークシビー、と言ってうなずいたけど、今の何語っすか。俺達全員の顔を見て、比企も気が付いたのだろう、ちょっとはにかんだような表情で視線を逸らして、悪くない、と言った。
「すまない。いまだに油断すると母語が出るんだ」
ああ、そういやあロシアと、あとどこだったっけか。外国暮らしが長かったって言ってたな。
「ゆうべ、あの標本を取ったときの、向き合った感じだ。どうにもおかしかった。私の知っている、大概の生物とは雰囲気が違っていた。とにかく、動き方から撃たれたときの挙動から、何もかもが違っていた」
「あのう、違う、と仰るのは、どんな風に」
白井さんがおずおずと、デスクからくるりと後ろを向いて質問。そうですね、と比企がちょっと考え整理してから答えた。
「あくまでも私の印象ですが、私が発砲したとき、一発目が
でしょうね。相手が再起不能になるまで。わかる。
とにかく、と比企は続けた。
「まるっきり未知の生物なんて与太は考えにくい。となれば、既存の生物に何がしか手を加えたものでしょう。引き続き詳細を調べていただきたい。正体が割れて、有効な手を打てるようになるまでは、海水浴場と港は立ち入り禁止とする他ありますまい」
こんなものをこっそり飼育しようにも、あまり大きくなられると持て余しもするでしょう。日本の住宅事情や地域コミュニティの性質上、そうそう隠しおおせはしない。いずれ隣近所の噂になっているはずです。比企はそう言って、引き続き調査をお願いいたします、と湯田さんと白井さんに向き直った。
「手が足りなければ、聞き込みでも張り込みでも、私も微力ながらお手伝いします」
「いや、手伝うったってお嬢ちゃん」
「なに、戦友の手前、いい格好をしたいだけだと思ってくだされば結構」
「…マル勅探偵って、もっとふんぞり返ってるもんじゃないんですか」
意外そうな白井さん。いや、その辺は俺らもよく知らないけど、たぶんこいつの場合は自分で動く方が早いとか、そんなもんだと思うよ。
皆さんに助力をお願いしたのに、自分一人が楽なところで安穏とはしていられません、と比企はちょっと笑った。
「あとは検査の結果次第。今はただ、G細胞だのニシワキ・セルだのが出てこないことを祈るばかりです」
では、ちょっと宅配便を頼んできますと比企は、デスクが並ぶ事務スペースから窓口カウンターの外側へ出た。
G細胞って何だよ、と、誰も突っ込まないので俺が突っ込むと、意外そうな顔で比企は言った。
「何だ、東宝の怪獣映画と『パトレイバー』は基礎教養だろう」
「いやそれはない。まじでない」
「ないから」
源と忠広がふるふると首を振って否定。
「何だと。漫画とアニメと特撮映画で日本語を覚えたんだぞ私は! 嘘だろう! 」
比企はがっくりと膝をついて、日本語を覚えるならこれだと師父がおっしゃっていたのだ、とうなだれた。
どんなお師匠さんなんだってばよ。
比企は届いたデータを、自分の端末に吸い出させてもらって、念のためだと桜木さんの端末にも吸い出し、更に全部を紙で出力してもらって、それを待つ間に、ちょっと電話ついでに外で涼んでいますとひと言、正面入り口の軒下で、どこかに電話をかける。はいもしもし、とかそういうお決まりの文句って感じじゃなく、いきなり要件を切り出すような、そんな感じの口調だ。おっそろしく早口の外国語で喋っている。合間にぱんつぁー、とか何とか。パンツ忘れたとか、そんな訳ないだろうけど。最後にだーすびだーにゃ、と言って電話を切った。
やれやれ、と肩を揉んで、これで足りればいいんだけどな、と呟く。ちょっと気になったので、どこに電話したのと訊いてみた。
「私の倉庫。うちの大番頭の倅と、本家のじいやが管理してくれている」
ナチュラルに番頭とかじいやとか出た。実はすげえいいうちの子なんじゃないの。
「とにかく、今頼んだもので足りなかったらもう、メーサー車かスーパーXか、オキシジェンデストロイヤーでも持ってこないと無理だろうな、たぶん」
「何それ」
忠広が訊くと、思い切り顔を顰めて比企はため息をついた。
「諸君はゴジラシリーズを観たことが…ああ、ないんだったな。まったく」
困ったものだと天を仰いで、それから端末でさっき吸い出したデータを読み始める。
何を頼んだんだ、とまさやんが訊ねると、比企はちょっと顔を上げた。
「おもちゃ」
それだけ答えて、うっすらと笑う。いやだからこわいこわいこわい。
比企は端末をいじっている。俺はさっきから奴がタイトルをあげている映画が気になって、ちょっと検索してみた。あ、結構あるんですね怪獣の映画。ハリウッドでも作ってるんだ。で、比企が言ってるのはたぶん、一九八〇年代のシリーズと、それよりもっと昔、カラー撮影の映画が出始めたくらいの頃のものみたい。古っ! たぶん俺のばあちゃんだって知らないだろ、そんなん。今年で九十二になるけど、それでも俺よりしっかりしてて元気なばあちゃんで、正月休みで遊びに行ったときも、ダンスの国際大会に出るから、春にウィーンの何とかって古いホールで踊ってくるんだって言ってたな。って、いや、俺のばあちゃんの話じゃなくて。
とりあえず、動画配信のアーカイブでコンテンツを見つけたのでチェックしておいた。あとで漁り火に戻ったら上映会しよう。少なくとも、多少は比企が何を言いたいのか、意図が読めるようになるはずだ。
データの吸い出しの後も、紙で出力した資料を二部作るよう比企が頼んでいたもんだから、仕分けてまとめる手伝いで居残っていた桜木さんが出てきた。一緒に出てきた湯田さんと白井さんに、ではあとはまた、何かあったらお願いしますと挨拶する。
「はい、できたよ小梅ちゃん。紙出力でなんて、物理的に残るぶん確実ではあるけど、面倒なことをお願いしてるんだから、ちょっとは手伝わなきゃ」
ごもっともです。もっと言ってやって。
さあ帰るよ、と桜木さんは促した。
「ここにいても、今わかることはこれ以上ないからね。僕らにできることは、宿に帰って休むことだよ」
何が来てもいいように備えておこう。桜木さんに言われて、仕方なさそうに比企は湯田さん達に、引き続きお願いします、と挨拶する。
そのまま俺達は、コンビニでジュースとお菓子買って漁り火へ帰った。
帰ってすぐに風呂を済ませて、俺達は桜木さんに持ちかけて、さっきチェックしていた映画のうちの一本の上映会を始めた。去年バイトに入ったときの経験から、端末とテレビを接続するケーブルを持ってきていたので、そいつを使って、大画面で映画を見られるようにした、ところで比企が入ってきた。今日もまた、前髪を縛って椰子の葉っぱみたいにして、着ているシャツには「ニャンピョウ」と書かれていて、一体どこで買ってくるんだ。こういうシャツを。
比企は俺がチェックした映画のリストを見て、俺達の意図を察したのだろう、それならこれを観ればいい、と、リスト中の一本のタイトルを指した。
「個人的には『ガッパ』も名作だとは思うがな。今、我々の間に共通する考え方を構築するのが目的であれば、やはりこちらを観る方が効果的だろう」
と、よくわからんことを言っていたが、とりあえず上映会は始まった。タイトルは「ゴジラ」。すごいなおい、百年以上前の映画だぞ。画面はモノクロだし。
ストーリー自体は、謎の生物が日本にやってきて、有名な生物学者の一番弟子だった男が密かに開発していた、どんな生物も倒せる化学兵器を使って撃退する、というもので、巨大な生物が東京目指して日本中を歩く間、街は破壊され自衛隊が出動し、全国規模で大混乱に陥っていく。父親の一番弟子に、化学兵器の実験の効果を見せられていたヒロインが、良心が咎め兵器のことを隠していられなくなり、彼女が将来を誓い合っていたもう一人の弟子と、良きライバルで友人でもあった一番弟子がそれを使うのだ。
ちなみにその化学兵器の名前が、比企がさっき言ってた、オキシジェンデストロイヤー。なるほどね。俺達人間の文明で、今存在してる武器で倒せるかどうか、ということを言ってたのか。
モノクロの映画だからなのか、それとも、人間には太刀打ちできない怪物として描かれているからなのか、街を薙ぎ倒し歩くゴジラは、ひたすらおどろおどろしかった。最初のうちは、ちょっと冷やかし気味に観ていた俺達だったけど、ゴジラが歩いてるところ、大砲ボッカンボッカン撃たれてるのにケロッとしているのを見て、めちゃくちゃ静かになりました。ええ。やだ、あんなの出てきたらそりゃこわいよ!
一方、小鳥のように震えるキュートな俺達の隣では、比企が映画を観ながらガリガリとメモをとっている。見た目がかわいいだけで、こいつの脳みそはイカれてるぜ! 何を書いてるのか気になって、映画が終わったあとで見せてもらったら、ゆうべのあの影がゴジラと同等の能力だった場合の、海水浴場や港から上陸したらどう応戦するかのシミュレーションだった。それもガチの。
「まさか核やソーラ・レイ・システムというわけにはいかない以上、もっと現実的で効果が見込める威力のあるものを使うしかない、が、いきなり自衛隊が出動できるのは映画の中だからこそ。地域の警察にできることはないに等しいだろう。しかし今ここには、個人で合法的に、多少の条件はあれど重火器の使用すら認められている私がいる──ならば、」
多少なりいい勝負にくらいはできるのじゃないか。比企はそう言って、ペンを置いた。
翌朝、いつも仕事を始める六時よりちょっと早く、五時前に桜木さんが起き出したのに釣られて、俺も何となく目を覚ましてしまった。もうちょい寝られたんだろうけど。やあ起こしちゃったか、ごめん、と桜木さんは端末の画面を見て、キーボードを叩く。
「なんかまたわかったんですか」
おはようの挨拶もそこそこに訊ねたところで、結城も目を覚ました。あほ丸出しの大あくびの後、今何時、とぼやけた声で呟いて、自分の端末の画面を確認。
「わあまだ五時にもなってない」
「おはよう結城君」
「おはようごじゃいます」
「いやあ、なかなかショッキングだね。あの、君が袋持ってきてくれたサンプル」
凄まじい結果が出たよ、と掌で顔を擦り上げて、
「まさか複数の遺伝子情報を合成してるなんてね。コモドドラゴン、ところどころクロガシラウミヘビの遺伝情報と、そこまではわかったけど他にも混ざってるって」
人間のものも混ざってるみたいだよ、と桜木さんは、寝起きだというのに疲れた顔になった。
まじかよ。
「まじかよ」
「うええ」
「それってどういうことですか」
「どんな生き物なんですか」
「いや待てって結城掘り下げるなよ」
「だって知らないよりは知ってる方が心構えが」
ごちゃごちゃ醜い揉め方してますが、気にしないでください。桜木さんはううん、と唸って、分析してくれた大学の先生がメールくれたんだけどさ、と大きく伸びをした。
「それぞれの、一番タチの悪い部分の情報だけを抜き出して合成してるっぽいね。厄介だなあ」
「人間の一番タチ悪い部分ってどこですか」
俺と結城が揉めてる間に起きたと思しき忠広が、半分ぼやけた口調で訊ねる。桜木さんは、心底困った顔で答えた。
「頭脳、かな」
そこでスパン、と襖が開いた。
朝の五時だというのに、比企は鬱陶しいぐらいご機嫌で、さあ戦友諸君起きたまえ、と朗らかだ。やだコワイ!
「桜木警視、青砥教授のメールは読んだか。読んだなら結構、朝稽古だ。我々はいつ召集がかかっても戦えるよう、覚悟と準備は怠らないよう心がけねばな! 」
格好はいつものジャージのズボンに、シャツはさすがにゆうべのものから着替えているが、それでもやっぱり珍Tシャツなのは変わらなくて、不細工だけど愛嬌のある豚のイラストの上にでっかく「今週のビックリドッキリメカ」と書いてある。どこで売ってるんだよ。
比企の声で目を覚ましたまさやんと忠広、源をせき立てるようにして、比企は顔を洗ったら玄関先で待っているぞと、下へ降りていく。まず顔を洗って、俺達もぞろぞろと続いた。
稽古はおじさんが起き出す六時まで、小一時間続いた。
仕事の時間に、既にややげっそりしている俺達と、なんかやたらと元気な比企とを見たおじさんは、よくわからんけど大変そうだな、と言った。
「まあがんばれよ坊主ども。よくわからんけどよ」
比企の朝稽古というのは、かなり独特だった。玄関先の横丁の、路面にチョークで丸く円を描いて、この中でしか動かないから好きに打ってきてくれ、と言う。
「何なら全員で一斉にでも構わないぞ。いや、むしろその方が鍛錬になっていいな」
なんてことを愉快そうに言いながら、比企当人は円の中で、両手をだらんと下げて、ゆるーく立ったままだ。比企に言われて竹刀を持って出ていたまさやんと結城、源だが、段持ちの三人は揃って、どこから打ち込んだものか躊躇っていた。
「ここまでリラックスされると逆にやりにくい…」
「うええ、なあこれどこから行けばいいんだよぉ」
「いやこれコワイって比企さん、好きに打ち込める場所がむしろ見えないから! 」
すごいやりにくそうだ。
「え、まさやん、攻撃し放題じゃないの」
「いやこれ比企さん立ってるだけじゃん」
俺と忠広が言うと、ばっかお前、とまさやんが否定した。
「ここまでリラックスされると、殺気もやる気もない分とっかかりが見えないんだよ」
そんなもんなんですか。
「通用する剣筋が見えないー」
「何をやるとどう反撃されるのかが読めないのコワイ! 」
結城と源が泣き言を吐く。と、桜木さんが猫足立ちで呻いていた。
「…だめだ、僕も全然何にも見えない。有効打がわからない」
え。桜木さん、剣道だけでなく空手もやってる人なのか、という軽い発見はさておいて、全員が揃って同じこと言ってるの、何どういうことなの。どんなホラー。
そこで覚悟を固めた忠広が、じゃあ俺から、と比企に拳を振ってみた。
その瞬間。
忠広は尻餅ついて転がされていた。比企に片腕一本で。
なになになに今の何。
それをきっかけに、今度は結城とまさやん、源、桜木さんが打ちかかる、次の瞬間。
全員が、打ち掛かった順番に尻餅をついていた。ヤケクソで俺も蹴りを放ってみる、と、やっぱり尻餅。
何が起こったのか、自分で体験してもやっぱりわからなかった。
俺たち全員が狐につままれたような顔をしているのを見て、じゃあ今のを全部、ゆっくり再現してみよう、と言って比企は自ら解説してくれた。
まず、忠広がゆっくりと、さっきのパンチをスロー再生。
比企はまず、向かって左から来る忠広の腕を右手で取って、そのまま右斜め下に流していく。くるっとダンスのように一回転して、そのまま忠広は尻餅。面を狙いに行った結城と籠手狙いの源は、体を開いて剣筋を避け、軽く結城の肩を押し足を払い、源も勢い余ってつんのめりかかったところで、やはり足払い。胴を薙ぎに行ったまさやんは、ギリギリで剣先を躱し、まさやんが振り抜いた勢いに乗っけるように腕を取って流し尻餅をつかせた。
桜木さんはさっきと同じ高さと角度で、でもゆっくりと上段の回し蹴り。その足を掌で受けた比企は、そのまま軽く押し戻す。
俺も、できるだけさっきと同じように、見様見真似の中段の蹴りをゆっくりと再現してみた。俺のなんちゃってな蹴りを、比企は軽く躱して足首を摑み、とんと柔らかく押した。なるほど、俺達はこうやって全員仲よく尻餅をつかされたのか。
この間、おそろしいことに比企はほとんど動いていなかった。せいぜい片足を軽く引いたり出したり、そんな程度だ。
「比企さん何かやってた? 」
この振り返り解説の最中、忠広が質問すると、比企はまあ触る程度に、と答えた。
「システマと
「システマって何」
結城が目をくりくりさせて訊いた。
「ロシア軍発祥、とにかくダメージを負わず生き残ることに重点を置いた体術だよ。体に負担をかけずに鍛えることができて、護身術にもなるものだから、子供の頃じいやに仕込まれたんだ」
出たな謎のじいやさん。どうも話を聞いてると、落ち着いた高齢者という感じじゃないな。どんな人なんだか。
うへえ、とちょっとげんなりしている俺をよそに、じいやには感謝しかないな、としみじみ思い出を振り返る比企。
「システマをみっちり、子供のうちに叩き込んでくれたおかげで、師父が外功内功をご教授くださったときも、白兵術や射撃の教練でも、すぐに飲み込んでものにすることができたものな」
あ、あんまり掘り下げたくない方向の話だ。はい触れない触れない。
とりあえず比企の説明によると、人間の自然な動作だけで、自分の身を守ったりトレーニングをしたりする体術なのだそうだ。だから型もないし、自分から攻撃したりもしない。それを聞いた段持ち剣士トリオがうなずいた。
「型がないのか。道理でやりにくいなと思ったよ」
「打ち込んでどう受けるのか、予測できないもんな」
「すっごいこわかった」
「桜木さん、システマって知ってた? 」
俺が訊くと、名前だけはね、とお尻をはたいて桜木さんが立ち上がる。
「でも実際にやってる人に会ったのは初めてだよ。僕も何が来るのかわからないから、次の手を組み立てられなくって、ちょっとこわかったなあ」
タツジン全員が揃ってこわいって、なんかちょっと名人戦じみてるな。将棋のタイトル戦中継観てるような気分になってきた。
ここでおじさんが起き出してタイムアップ。体を動かして、というより、どう動くのかを確認学習する、という、ちょっと頭脳労働系の稽古だったが、意外と面白かったな。
比企は着替えたらすぐに警察署へ行くと言って、部屋に引っ込んだ。玄関に入りしな、そうだ、とまさやんに持ちかける。
「よかったら、じいやが来たときにシステマのレクチャーを受けてみないか。トレーニングに取り入れているアスリートや格闘家もいるそうだし、みんな何か得るところがあると思うんだ」
「いいのか? まあ、じゃあ機会があったら」
わかった、折を見て頼んでみよう、と言って、比企は二階へ上がっていった。
そしてまた俺達は、比企が来る前と同じ、バイト生活に戻った。朝のうちに仕出し弁当の仕込みをして、作って売りに出て、片付けて撤収する。午後は民宿の、建物の修繕や掃除を手伝い、夕飯には晩酌するおじさんの話し相手になり、おばさんの片付けを手伝い、一日の仕事を終えて部屋へ引き揚げる。その間、比企と桜木さんは警察や漁協、猟友会、サンプルの分析を依頼していた大学へ顔を出し、手伝いをしたりしていたみたいだ。警察に弁当を売りに行ったら、若い刑事さんや制服のお巡りさん、それも女の人が大勢集まって、ぞろぞろ奥へ行くところに行き合った。顔見知りの事務のお兄さんが言うには、凶悪犯相手に力負けしがちな女性に武術指導をするのだそうだ。
「何か出るのを待ってる間暇だからって。所長も最初渋ってたんだけど、暇潰しだからノーギャラで構わないって言われた途端にあっさり、お願いします、って現金だよなあ」
何でも、刑事さんの射撃訓練にも立ち会って、色々アドバイスもしているのだそうだ。そのついでに、デモンストレーションがわりに自分の射撃訓練もしてるとかで、やりたい放題じゃん。自由人かよ。
そんな風に、大きく様変わりはしたものの、それでも日常が戻ったかの如き静かな生活は、五日と続かなかった。
町の外れ、山へ入る際の辺りから、思わぬ情報が飛び出したのだ。更に例のサンプルの詳しい解析結果も、なかなかに衝撃的だった。
遺伝子地図を解析した結果、相手のおおよその正体は、人間をベースに複数の生物の遺伝情報を混在させたものだった。コモドドラゴン、クロガシラウミヘビ。そこまではすぐわかったのだけど、残りもう一種類の特定ができたそうで、
「スピノサウルスって何だ」
湯田さんが天井を仰いでため息をついた。
「ジュラ紀の恐竜だそうですよ。海に住んでて、でかくて肉食って話です」
「そういうことを訊いてるんじゃねえ」
夕飯ができたので比企と桜木さんを迎えに行くと、くたびれ果てた湯田さんと白井さんが、デスクで頭を抱えていた。桜木さんも考え込んでいて、だから比企が妙にテカテカしてるのが目立ちまくりだった。
分析してくれた県立大学の先生の話では、攻撃的な性質が強い生き物ばかり集めているそうで、体のサイズも大きいだろうと言っていたみたいだ。
挨拶もそこそこに、桜木さんと一緒に比企を連れて帰る間、奴はずっと上機嫌だった。
翌朝、事態は大きく動き出した。そして、俺達はその様子を、台風みたいに激動するど真ん中、比企と桜木さんのすぐ近くという超アリーナで目撃することになるのだが、そんなことは欠片も想像だにせず、アジの開きと肉じゃがと、えのきと油揚げの味噌汁とで、しこたま夕飯を平らげたのだった。
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