第11話 五人とひとりと海辺の事件 5章

 これはあとから聞いた話で、だから俺も、俺の愛すべき友人達も、まったく関わりを持たない。俺達がまさやんの親戚の民宿の仕事を手伝い、仕出し弁当を売って、夕方には桜木さんと比企を迎えに警察署へ通っていた間の出来事だ。

 なので、ちょっとここまでの語り口とは雰囲気が変わるかと思うけれど、その辺はご勘弁願いたい。

 ということで、湯田さんの証言を元にはじめまっす。

 

 妙な小娘だと思っていた。

 太々しいほど落ち着いているくせに、刑事に対しては謙虚で、餓鬼にしか見えないのに変に世慣れていて礼儀を弁えている。

 マル勅探偵がああなのか、それともあの娘個人の性質なのか、些か気にはなるが、まずは目の前の事件であり、やるべきは地道な捜査だ。

 ──この町に、変わったペットを好む人間はいないか。

 変わったペットと言うからには、犬猫、金魚はもちろん、ショップへ行けば手に入る程度の爬虫類やハムスターのような、パッと「ペット」と聞いたとき思い浮かぶようなものは除外するほうがいいだろう。ここで気にするべきは、いわゆる専門店、特定の生物ばかりを手がける専門店でも店頭にはおいそれと並ばない、客から依頼されて取り寄せるような、希少性の高いものだ。湯田はまず、近隣の地域にそうした専門店が何軒あるか、またどんなものを扱っているのかをリストアップした。

 それと同時に、爬虫類や大型魚類など、あまり一般的とは言えない動物の飼育の、各種届出や申請があったか否かを当たってみる。こんな田舎町にも、いや、だからこそなのか、湯田が思っていたよりも届出の件数は多かった。市役所の窓口で記録を当たってくれた職員によると、都心やベッドタウンのような、人口密度が高くて住宅事情もよろしくない土地では、環境を整えて飼育する必要がある動物を飼うのは難しいというので、好事家はむしろ、この町のような田舎で、広い家を建て土地を確保し、理想的な環境を作るのだそうだ。

 そうやって揃えた資料を元に、一軒ごと丹念に足で回るのだ。

 こんな鄙びた町のこととはいえ、意外なことにペット専門店は数軒あった。うちの半分強は血統書付きの犬や猫、小鳥を扱う店舗で、あとの半分は金魚に小型熱帯魚、爬虫類がほぼ三等分といったところか。湯田と白井は、リストを一つずつ塗りつぶすように、一軒ずつ虱潰しに聞き込みに回った。

 店を訪れる。身分と目的を話し、過去一年の顧客及び販売記録の提出を依頼する。横の繋がりで、この地域の住人に珍しい生体を販売した商売仲間の噂など聞いていないか、入手や飼育が難しい生物を売ってくれと頼んできた客はいないか。何か聞いたら報せをくれるよう頼み、店を出る。その繰り返し。合間には、大枚を叩いて生物を買い求め、飼育の届出をした客を訪問し、好事家仲間の間で何か、今回の事件に繋がりそうな噂が流れていないか訊ね、やはり何か聞いたら一報をと頼んで引き揚げる。これを順不同で繰り返す。

 ほとんどがハズレだった。

 大概の専門店では、まず違法な入荷も販売もなく、というか、趣味性の高い爬虫類や大型魚類など、変わったものを扱う性質上、違法なことなどしようものなら、行政に目をつけられやすい。自然、商いを続けようと思ったら、クリーンな仕事になっていく。ほぼ全ての店が、五年間の入荷・販売記録と顧客データを保管し、数ヶ月毎に生体を持て余してはいないか、アフターケアとして客へ連絡し飼育の相談や、必要な用具の販売、生活の変化で飼育が困難になった顧客からはペットを引き取るなどもしていた。

 その客の話を聞いたのは、開けた隣駅前の、大型魚専門のショップだった。

「一昨年の暮れに、おかしな客が来てさ」

 店長とかオーナーとかよりも、マダムとでも呼びたくなる、妙な風格のある女だった。北欧風のこざっぱりとした、昼下がりの明るい日差しが窓から差し込むペットショップよりも、薄暗いバーか場末のスナックにでもいそうな、そんな女だ。

 クロガシラウミヘビがほしいって来たんだけどさ、と気怠そうに言って、店長は麦茶のグラスを傾けた。何だかバーボンみたいに見えた。

「まあうちも商売だしさ、別に売っちゃいけない生体でもないから、探すじゃない。で、売ってさ、アフターケアもあるから、まず翌月にはいっぺん連絡してみるわけよ。趣味性高いものだからさ、買ったはいいけど世話が大変とか、あるじゃない。ましてや一見さんじゃあねえ」

 はあ、と店長の風格に呑まれ気味の白井が曖昧に相槌を打つ。湯田はそれで、と水を向けた。

「どうなりました」

 それがさあ、と店長はため息をついた。

「暮れに仕入れて売って、年が明けてさ、松が取れた頃に、ヘビちゃんお元気ですか、お困りのことないですかって、うちの若い子が連絡したらさ、いきなり引き取り依頼よ」

「それはまた」

 些か気になりますねとうなずく湯田に、店長は、でしょ、と身を乗り出した。

「引き取ってくれさえすれば、代金は全額返さなくても構わない、明日にでも来てくれ、ってこうよ。しょうがない、留守番は古株のバイトの子に任せて、引き取りに行ったわよ」

 まったくねえ、飼うならもっと計画しっかり立てて、責任持って死ぬまで愛せってのよ。気怠そうな調子は変わらないが、それでも憤然として言うと、茶請けの梨をかじった。

 その客はどこに住んでいましたか。店長が梨に楊枝を刺してすすめるのを受け取って訊ねる湯田に、店長はあっさりと答えた。

「うしお海水浴場の近くよ。あのすぐそばの山の麓辺り。猟友会の事務所からちょっと行った先の、角入ったところ」

「随分はっきりと憶えておいでだ」

「そりゃあね、結構変わったお客だったから」

 聞きたい? と笑って、店長は湯田と白井に、もう一切れ梨をすすめた。勤務中なので、と断ろうとする白井に、いただいておけ、と湯田が促す。この手のタイプは、厚意を素直に受ければ自発的に情報を吐き出してくれる。梨一切れ、茶の一杯に付き合って情報が得られるなら、断る道理はないだろう。

 いよいよスナックのママじみてきたが、彼女が聞かせてくれた話は、実に興味深いものだった。

 

 夕刻、湯田と白井は勝手知ったるうしお海水浴場を臨む港町へととって返し、裏山へ続く細い道の手前、山裾に数軒、広い住宅がまばらに建つ一画に来ていた。

 表札には「田部」とだけある。品のいい老婦人が庭の花に水をやっているのを見かけ、湯田が愛想よく挨拶する。

「やあ、見事なもんですねえ。こんなにきれいに咲かせるのは大変でしょう」

「ええまあ、でも慣れてしまうと、世話も楽しいものですよ」

「うちのも嫌いじゃないんだが、どうにも根がズボラなもんで、鉢植えにすると半分がた枯らしちまいましてね。それでも次のを買ってきちゃあ、倅にからかわれてますよ」

 汗を拭いながら警察IDを示すと、老婦人はうろたえて、あの、と訊ねた。

「警察の方が、うちに何か」

「それは、」

 紋切り型で話を始めようとする白井を制して、いやいや、と湯田はいなした。

「ここしばらく、海岸で騒ぎが起きてるのはご存知ですか。捜査の結果、どうも大型の動物が逃げたんだろうと判りましてね。近隣の地域で、そうしたペットを買った方からお話を伺っているんです。あくまでも形式だけのものなので、心配なさらなくて大丈夫ですよ。二、三お話を伺えればすぐ失礼します」

 ウロウロと視線がさまよう老婦人に、湯田は物腰穏やかに、ズバッと切り込んだ。

「お嬢さんはご在宅ですか」

 それは、あの、とようよう絞り出して、老婦人はその場で泣き崩れた。家の中から夫と思しき老紳士が、異変を察して庭へ出てくる。いきなりの展開に驚きながら、白井が訪問の目的を告げると、老紳士はしばしの瞑目のあと、何やら覚悟を決めたように毅然として、私からお話ししましょう、と言った。

「たぶん、お捜しの動物を飼っていたのは娘です」

 庭に面したリビングに通されると、老紳士はそう切り出した。

 県立の文化資料館に勤めていたという田部氏は、ぼんやりと庭を見やりながら、厳しくしすぎたのですかなあ、と漏らした。

 女の子はいずれ嫁ぐのだから、と行儀作法をうるさく教え、身持ちを堅くさせようと、悪い遊びはさせず、

「それが鬱陶しかったのでしょう、中学へ上がる頃にはもう、親の言葉には逆らうようになっていました。兄さんは好きなことばかりしているのに、何で叱られないんだ、とこうです」

 大人になってどこへ行っても恥ずかしい思いをしないように、と案じる親の心ではあったが、やり過ぎれば反発もされよう。もともと頭のいい子供だったからか、手のつけられない不良になるということはなかったが、親の期待というただその一点を、見事に裏切るような子供に育った。

「虫だとか爬虫類だとか、およそ女の子があまり好みそうにない動物ばかり好んで、粘菌ですか、そういうものにも興味を持っていたようです。あの子の部屋は、いつもそういう生き物が入ったケースがいくつもありました」

 なまじ勉強はできるだけに、叱るに叱れず、家から通える女子短大に通わせるつもりでいたはずが、もっとレベルは高いが下宿が必要な県立大学や、東京の大学を担任教師に勧められ、また当人の成績も合格圏内に達していたため、一度だけという条件で受験させたのだそうだ。結果、県立大学にストレートで合格。念願だった爬虫類の研究にいそしんで、卒業と同時にジーンバンク関連の研究所に就職したのだが。

「思うような職掌にはつけなかったのでしょう。これではただの技術屋だ、とたまにこぼすようになりました」

 心配ではあったが、どう言葉をかけたものか逡巡しているうち、やがて彼女はさっぱりとした表情に戻り平静を取り戻した。諦めたのか、うまく折り合いをつけたのか。そう思っていたのも束の間、実際のところは違っていたのだ。

 年末にボーナスが出たと喜んで買ったペットを、年が明けるとさっさと手放し、かと思うと何日も仕事と称して家に帰らず、一体何をしているのか、職場へ電話したものかと心配していたところが、奇妙な生き物を連れてひょっこり帰ってきた。

 有給消化だと言って家におり、日に一度買い物に出て、生の肉を大量に買ってくる。食事の献立にするわけでなく、どうやら連れ帰った生き物に与えているようだが、一体あれは何なのか。不安が募った矢先、その生活は不意に終わった。

「知り合いが欲しがっているから、と言って、それを連れてきたときに入れていた衣装ケースを、そのまま持って出かけまして」

 手ぶらで戻った夕方、娘は肩の荷が降りたとも、悟りを開いたとも取れる、妙にさばさばした様子だったという。

 その翌日。それはいきなり起きた。

 気分がいいと言って、珍しく朝のうちに起き出してきた娘は、父親が朝の散歩に出ているうちに書斎へ入り、裏山の猪や猿への対策で置いていた空気銃を金庫から持ち出して、

「台所にいた家内のところに来ると、失敗した、とだけ言ったそうです」

 状況から見て、おそらく自殺しようとして失敗したのだろう、至近距離から発射した空気銃は、彼女の前頭葉を撃ち抜いていた。

 以来、娘はメンタルクリニックに入院しており、会話は成立はするが情緒の面でコミュニケーションが非常に困難になってしまった。

 そこまでを語ると、あの、と田部氏は静かに訊ねる。

「娘はどんな罪に問われるでしょうか」

 白井が一瞬言葉に詰まる。湯田は冷静に、捜査が終了しておりませんので、と前置きしてから、今の段階ではまだ何とも、とぼかした。

「ただ、お嬢さんは意図して何かを積極的に行い、その結果として事件が起こっています。直接手を下しているわけではないとはいえ、何らかの形で責任を問われることはあるでしょう」

 その覚悟だけはしておいた方がよろしいかと。そう告げると、やはり、とだけ呻いて田部氏は再び庭へと視線を投げた。


「まあねえ、あたしも変な客だとは思ってたのよ。ほら、ペットショップに来るお客ってのはさ、まず店に入ると、お目当ての子がいるにしたって、何となく奥までぐるっと見て回ってさ、他の生き物も見たりするじゃない。あなたしない? でしょお。だけどあの女の子はさ、見ないのよ。入ってすぐのところにアルビノアロワナいるでしょ。あああの子はうちの看板息子だから非売品なんだけどさ。まあ大概のお客さんは、まずケースも目立つ位置にあるし、さっき刑事さん達が入ってきたときみたいに、見るわけよ。あの子を。だけど、あの女の子はね、脇目も振らずにまっすぐ奥のここまで来て、あたしとバイトチーフの子が納品データ確認してたところに声かけてさ、いきなり、クロガシラウミヘビを売ってください、ってこうよ。すみません、とか、ちょっと伺いますが、とか前置き一切なし。お客さんだと思って、いらっしゃいませって挨拶するじゃない、それへ食い気味に、クロガシラウミヘビを売ってください、って繰り返して、面食らいはしたわよ。でもまあほら、こっちは客商売だしさ、少々お待ちください、って、今店にいるか、入荷予定があるか確認して、いつ頃なら入りますって答えるとさ、わかりました何日に来ますので取り置きしてください、って、乱暴もいいところよ。うちみたいな、ちょっと毛色の変わったペットは特に、人間と生体の相性ってのがあるから、そういうマッチングも見るわけだけどさ。ああ当然、ちゃんと一生面倒見られるだけの環境が整ってるのは大前提よ? でね、すぐ引き揚げようとするからさ、呼び止めてそこの椅子をすすめて、ヒアリングしたけどね、その間ももう腰が落ち着かないって風で、何でこんなに引き止められるんだって言いたそうなね。一戸建てで庭も広くて、耐震住宅だから基礎もしっかりしてて、大きな水槽を置いても大丈夫だって、そう言われちゃったらさ、断る理由はないわよね。取り置きはしますが、相性が合わなかったらごめんなさいってことで、取りあえず受けたわけよ。うちはどっちかっていうと魚がメインで、ヘビは扱わないこともないけど、たまにしか入れないからさ、商売仲間に方々声かけて取り寄せて、三匹。揃ったところで、予定より早いけど入荷いたしましたって連絡したら、返事がなくてね、どうしたもんかねって言ってたら最初に言った予定日に来て、今日来ますと約束してるんだから急かすような真似をされても困りますって、明らかに腹立ててる感じなのよ。おっかしいでしょ。欲しくて手に入れるなら、早く取り寄せてくれたんだな、ありがたいな、ってなるのが人情じゃない。それがさ、店に入ってくるともうブリブリ怒ってるんだから、わっかんないわよねえ。肝心の生体選ぶ様子も、相性とか自分が好きになれる子かとかよりも、元気かどうか、体が大きい小さいとかで見てる感じで、すごくぞんざいだったわね。で、パッと見てサッとこれ、って選んで、即金で買って帰って行ったのよ。これから一緒に生活する仲間と出会った、みたいな、そういう嬉しいとか、感情一切なくって、これ、よ。この子にします、とかでなく。変な人だったねえ、って言いながら、ちょっと早めにアフターの連絡入れてみようかって、様子が様子だったからさ、そういうことにして、お正月明けて、成人の日も過ぎた頃に連絡入れたのね。そうしたら、アクアショップ柳ですーって名乗った途端、ヘビ引き取ってもらえませんか、って。さすがにね、そういう人なんだろうなって薄々察したから、いつごろ伺いましょうかって訊いたら、明日、ってこうよ。ちょっと対応が難しそうなタイプだから、店はバイトチーフに留守番頼んで行ったわよ。車出して。実際広くていい家で、環境自体は嘘でないのはわかったけど、伺ってみたらもう玄関先で、ヘビは衣装ケースに入れて待ってて、お代は返却いただかなくて結構なので、あとはよろしくお願いします、って。他の生体がよければご用意しましょうかって訊いてみたけど、ああアフターケアの一環でよくあるケースだからさ、まあそれで訊いたのよ。そうしたら、いりません、って、結局それでおしまい。おかしな人でしょ。変だなおかしいな、とはあたしも思ってたのよ。とはいえ、お客さまなわけだしさ、軽はずみなこと言うのも憚られるじゃない? 何だかなあと思ってたけどさ、え、なあにあの女の子何かやらかしたの? そうじゃなくて、生き物。ふううん。ま、あたしに言わせれば、そんなの完全に人間が生き物と付き合うやり方を間違ったからって話よね。あ、お茶もう一杯飲む? 」

 

 饒舌なペットショップ店主の証言を見るに、どうやら件の若い女の精神状態は、お世辞にもよいとはいえないものだったのが窺える。夕刻に訪問した際の田部氏の証言と総合して考えるに、疲弊してだいぶ社会性が薄れていたようだ。

 女店主の証言を得てすぐ、ペットショップで購入時に記録した顧客データと、市の戸籍課へ照会を申請したデータを引き合わせた結果、奇妙な若い女の身元が判った。

 田部アカリ。三十一歳。職業はジーンバンクの外郭研究所の技師。

 父親からの証言が巻けたところで、すぐに研究所へ問い合わせ、訪問を希望する旨伝えたところが、運よく彼女の上司だった人物がつかまった。退勤するところだったというその人は、海水浴場での騒動を知っていたようで、湯田達の都合がよければこれからでも面会しようと言ってくれた。

 車を飛ばして二十分ちょっと。ちょうど田部邸とは裏山を挟んで反対側辺りに研究所はあった。駐車場から正面入り口へ入ると、ロビーで色の白い、痩せた男が人待ち顔で立っていた。

「先程はどうも、田部君の上司でした、河野です」

 にこやかに出迎えてくれた彼は、ひと気のないカフェテラスへ湯田と白井を案内した。エスプレッソマシーンでコーヒーを振る舞ってくれた。

 訪問の目的を手短に告げると、ああ、と河野はうなずいた。

「田部君は熱心ではあったけれど、何というか、彼女なりに、業務内容とは少しだけ方向が違う研究を手掛けたかったようでした。根が真面目なんでしょうね、やりたいこととは違うとはいえ、それでも仕事には手を抜けない。損な性分なんでしょう。それで苦労もしていたようですが」

「ご友人などは。同僚の中で親しくされていた方はおられますか」

「いなかったようですね」

 何せほら、彼女は研究がしたくて、手段としてここに勤めている節がありましたから、と河野はエスプレッソで唇を湿らせる。

「田部さんはどんな研究をしたいと希望されていたんでしょうか」

 白井が訊ねると、河野はちょっと顔を上げた。彼女は、と視線をカップに落とす。

「田部君が手掛けたかったのは、遺伝子の復元です」

「復元、とおっしゃると」

「そうですね、噛み砕いてご説明すると、一部分が欠けた遺伝子があるとします。これは、地図でいうなら部分的に白地図になっているようなもので、彼女はその、白地図の部分を、測量し実際に歩いて埋めて完成させるような、そういう研究を志していたんです」

「それができるようになると、どんなことが可能になるんですか」

「ひと言でいうなら、」

 進化の歴史をこの目で見られるようになるでしょうね。河野はそう言った。

「現代の僕らが化石標本でしか知らない動植物を、試験管の中で蘇らせることができるようになる。技術が確立すれば、もっと恐ろしいこともできるようになるでしょうね」

 それがわかっていたから、所長は彼女に研究を進めることを許さなかった。田部君の情熱は尊敬すべきものですが、所長の判断は正しかったと僕は思っています、と河野は眼鏡を外し、クロスを出してレンズを拭った。

 田部アカリが勤めを辞めたのは、去年の年明けから程ない頃だったそうだ。仕事始めで出勤してすぐ、所長室へ向かうと、黙って辞表を差し出したという。精神的にアンバランスなところが顕著になり始めていた矢先のことで、長期休暇をとって、その間に復職するか考えてはと取りなす所長に、もう決めましたので、とだけ答えて、田部アカリは退室し、私物をまとめて帰宅してしまったのだそうだ。暮れの休暇の間に研究所へ顔を出し、何やらやっていたようだが、それについては誰も詳しいことを知らず、本来の業務はといえば、いつ誰が引き継ごうと、見ただけで状況がわかるよう、きちんと整理されていたので、きっとそのために休暇中に職場へ出てきていたのだと、皆が納得していたのだが。

「あの海水浴場の騒動に、彼女が関わっているとしても、僕は納得こそすれ疑問には思いません。技術と知識については、彼女はそれだけのものを持っていますから」

 もし彼女が本当に関わっているのなら、どうにかして止めてやらないと。河野はそう呟いた。

 

 この数日で判明した諸々を聞いて、俺達は情報量の多さにちょっとオーバーヒート気味だ。

 またしても捜査会議の大部屋の隅っこに連れ込まれたのだが、今日は比企に襟首摑まれての参加だった。

「乗りかかった船だ、気になるだろう。ましてや肥後君にしてみれば、他人事ではないからな」

 湯田さんと白井さんが調べ上げた事どもは、捜査会議を大いに沸き立たせ混乱させていた。何せ、唐突に乱入してきた招かれざる客が「保険の保険」と言っていた筋が、得られた物証である、あの肉片のDNAの分析結果と補完し合う情報ばかりで占められていたのだ。

 えらいおじさん達は頭を抱え、桜木さんはこの場をどう取りまとめるかを考え、比企はしてやったりとニヤニヤしている。

「嬉しそうだね比企さん」

「嬉しいってゆうか楽しそうじゃね? 」

「比企ちん楽しい? 」

 ボソボソ囁き交わす俺達。比企はそりゃあ楽しいさ、と小声で答えた。

「何であれ、物理で殴ればいいとわかったんだ。実に私好みで結構なことだ」

 理非なきときは功ならし、せめて可なり。昔の人はいいことを言ったものだ、と比企は物騒な笑顔でうなずく。

「物事は難解であればそれらしく見えるが、所詮それだけの話だ。簡単なのが一番だよ。談判破裂して暴力の出る幕だ」

 うわあ…。ヤル気だ…。

 俺達がげっそりと青ざめたところで、室内が静かになった。桜木さんが立ち上がって、皆さん戸惑われるのもわかりますが、と宥めると、

「まずは例のサンプルの解析結果を聞きましょう。今朝方、県立大学の青砥教授が報せてくださいました。──教授、詳しくお聞かせ願えますか」

 そこでガヤガヤしていたおじさん達が、そうですねと静かになる。桜木さんに呼ばれて、髪を短く刈り込んで日焼けした、四十ぐらいの男の人が前に立って挨拶すると、何かのグラフとかをスクリーンに出しながら説明を始めた。

 しばらく俺達にはさっぱりわからない、何かの数値とかの話があって、それからやっと、結論としてどんな生き物なのか、わかりやすく説明してくれた。

 つまり、

「基本の体型はスピノサウルスのものを想像してください。成長すれば体長は一七メートル超、ワニのような顔と、一・六メートル以上の背鰭があります。尻尾の先は船の櫂のようになっている水生生物で、肉食の恐竜です。これに、クロガシラウミヘビのしなやかさと毒牙、コモドドラゴンの頑健さ、攻撃的な性質が加わっている。コモドドラゴンの遺伝情報があることで、シミュレーションの結果、水中が主な生活圏ではありますが、陸上での行動も可能と出ました。水中、及び水際であれば、おそらく人間など取るにたらぬ、餌でしかないでしょうね」

 大学の先生のレクチャーが具体的になっていくほどに、どんどん静かになる会議室。水を打ったような静けさを、不意にぽつりと誰かの呻きが破った。

「そんなもの、どうやって駆除しろっていうんだ」

 堰を切ったように再び、みんながてんでんバラバラに喚き出す。そのうち、自衛隊だ、と言い出した一人に、そうだそうだと同意する声が起こった。みんながわあわあと、自衛隊だ自衛隊だと大合唱。

 破裂音がした。

 ぴたりと口をつぐむ刑事さん達。

 天井に向けた愛銃をしまうと、ご安心ください空砲です、と比企は涼しい顔で抜かした。

「皆さん落ち着いてください。仮にも街の治安を一手に引き受ける警察官である皆さんが、そんなにうろたえていたら、市民は恐怖する一方ですよ。非常時にこそ皆さんは泰然としておられなければ」

「しかし、こんな規格外の生物が相手では」

 署長さんが反論しかかるのを、片手をあげて軽く制すると、お忘れではありませんか、とニヤリ笑った。

「今ここにいる私は何者ですか。マル勅の特級探偵、規格外というなら奴といい勝負です。規格外には規格外。どうです、自衛隊に出動を要請するのなら、私にやらせて失敗したときでも遅くはないのでは。万一しくじったにしても、実戦データは取れますから、行動パターンやスペックぐらいは解析できますよ」

 やるだけやって、それで駆除できたなら儲けもの、悪い話ではないでしょう──そう言って、比企は実に楽しそうにニマニマした。

 ふと見れば、ホワイトボードの前、偉い人の並ぶ端っこで、桜木さんが頭を抱えていた。

 いやほんと、苦労が絶えないなこの人。 

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