第8話 五人とひとりと海辺の事件 2章
昨日の今日で押しかけてしまってすみません、と挨拶する比企を、おじさんとおばさんがポカンと口を開けて見ている。
無理もない。テレビや雑誌ですら滅多にお目にかかれないレベルの美少女が、目の前の日常丸出しな六畳間にきちんと正座しているのだ。しかも、そのすぐ脇には、長身の爽やか系イケメンが、人のいい笑顔で控えている。
桜木さんは、説明が面倒だからという理由で、比企の従兄で保護者という触れ込みで同宿することになっていた。部屋をどうするかとなったが、俺達と一緒で差し支えなければ構わないという。もともと、五人で寝起きするにはやや広い部屋だったし、まあ桜木さんならいいよな、と全員が同意した。事件解決のために、密に連携が取りやすいよう接する時間を増やしておきたい、という計算も、なきにしもあらずだ。
事前にきちんと予約を取ったわけでもないのにお世話になるから、と、比企は新宿高野のフルーツゼリーの詰め合わせと、浦霞の一升瓶を手土産に持ってきて、おじさんおばさんに丁寧にお礼を言った。
「肥後君から、夏休みにご親戚の民宿を手伝っているのでよかったら、とご招待を受けていましたが、なかなか予定がはっきりせず、昨日になってやっとどうにか身動きが取れるようになりましたもので、ダメもとでお電話した次第です」
おじさんおばさんは、いやいや、そんな気を遣わなくても、と恐縮しきり。東京では報道してねえのかなあ、とおじさん。おばさんも、今この町は物騒だからねえ、とお客の身の安全を案じている。
比企はニコニコと、おっとりしたお嬢さん然とした表情で、ご心配なく、と請け合った。
「ごく簡単にですが、東京でも報道はされておりますし、みんなからは、何があったのか一通りの事情は聞いております。その上で、こうしてお邪魔しております。ご心配には及びません」
「いや、しかし正坊の友達で、しかも歳頃のお嬢さんだ、万一のことがあったら」
「そうですよう、こんなかわいらしい女の子が、何も物騒なところに来なくっても」
比企は自分の身を案じる二人に、大丈夫ですよと繰り返した。
「慣れてますから」
へ、と虚をつかれるおじさんおばさんだが、俺達はその言葉の意味を、嫌というほど知っている。
比企の部屋は二階の、海が一望できる角部屋。民宿「漁り火」で一番いい部屋をあてがわれた。物置ともう一間おいた隣は、年末年始の宴会シーズンくらいにしか使わない大部屋で、お客を泊めるのには不向きなので、俺達が寝泊まりしている。今日からは桜木さんも一緒だ。カラオケの機械もあるが、でかいサイズのテレビもあって、音をきちんと絞ってなら、自由に使ってよいと許可ももらっている。
俺達が弁当を売り、民宿の雑用を片付け終わった午後三時過ぎ。チャットで知らされた予定通りの時刻に迎えに行くと、比企はくたびれた駅の待合所で、すいかバーを食っていた。
頭にはワイドブリムの麦わら帽子、ノースリーブの白いチュニックと、淡いオレンジ色の膝丈ズボン、足元は白いサンダル。サックスブルーのキャリーバッグを脇において、側から見ればバカンスに来た深窓の御令嬢だ。まあ、中身はターミネーターとかマッドマックスとか、そっちの方が近いんですがね。
女マッドマックスは、俺達の顔を見るとひと言、アイスキャンディーというのは、こういう死ぬほど暑い場所で食べるとうまいものだな、とうなずいて、食べ終わったアイスの棒をレジ袋に突っ込んだ。立ち上がってレジ袋を、待合のすみのゴミ箱に入れて、じゃあ行こうか、と切り出す。
「ただいまあ。そこの自販機、紅茶がなかったから、あっちの角のお店まで行ってきたよ」
ぎりぎり俺達が気づいて立ち止まるタイミングで、桜木さん登場。来てたのか。比企はいかにも一人で来そうな感じで、チャットでのやりとりでは一切触れてなかったのに。
桜木さんも来たんだ、と結城がのほほんと言う。
「一昨日ぐらいまで、小梅ちゃんが君達と解決した案件の事務処理があって、やっと終わったと思ったら、昨日いきなり旅支度なんか始めてるもんだから、そりゃもう驚いたよねえ。それまで、お誘い受ける気配すらなかったのに」
「まじか」
「保護者に事後承諾って」
忠広とまさやんが呆れていると、本当にさあ、と桜木さんはこぼした。
「しかも小梅ちゃんの旅支度、君ら見たら引くよ。着替えとかじゃないんだもの。ライフルとか拳銃とか、部屋に置いてる武器全部出して、メンテナンスから始めるんだもの」
うわあ…。
「うわあ…」
思わず口から漏れるため息。俺のうわあ、を聞いて桜木さんは、
「八木君、あのキャリー、半分は銃と弾丸と手入れの道具だからね」
やんなっちゃうよなあ、とうなだれた。
「何がやんなっちゃう、だ。何のために呼ばれたのか、理解できないほどの空頭なのか」
渡された紅茶のペットボトルで水分補給しながら、比企がバッサリ斬り捨てる。
「この状況下で彼らが私を呼びつけるということは、戦争をやるということじゃないか。それがなんだこの格好は。なんでこんな戦闘に不向きな格好をしなくちゃいかんのだ」
どうやら比企は、今着ている服がお気に召さないみたいだ。いや、似合ってるけどね。これまで見た中で、一番まともな服装だと思うんだけど。
「だって旅行だよ。女の子はね、特別なお出かけのときには、かわいい服を着るものなんだよ」
「強制的に着させておいて、どの口がほざく。そんなに着飾らせたいなら、くたばってからあの世でいくらでも着てやるよ」
薄々感じてはいたけど、比企はまじでファッションに興味がないようだ。まあねえ、ゴージャスな高層マンションでジャージに下駄ばきで歩いてるぐらいだ。その辺どうなんだろうと思って訊ねると、比企はあっさり答えやがった。
「服なんか、外歩いてるときに白と黒の車を呼ばれなければ問題ないだろう」
がっくり落ち込む源。どうしても君たちの招待を受けるというなら、自分が買ってきた服を着ろと言われたのだ、と比企は立てた親指で桜木さんを指した。
「桜木さんありがとう」
源がなむなむと拝む。なんか、つくづく苦労が多いなこの
俺達がバイトしている民宿までの道中、すれ違った人全員が、見事にポカンとした顔で、桜木P渾身の比企を見て立ち尽くしていたのは、なかなかの見ものだった。
町の人やおじさんおばさんの反応も面白かったが、夕方、勤めから戻ったお姉さんの反応は、内心腹を抱えてゲラゲラ笑いたいのを堪えるのが大変だったものだ。
ただいまあ、といつものように居間へ入ってくると、昼間にタケが、集金に回ってたら駅前をすっごい美少女が歩いてたとか、わけわかんないこと言っててさあ、とうちわを拾い上げてバタバタあおぎ、
「そういや正国、今日だっけ、あんたのガールフレンドが来るの」
いっぱい食べる子だなんて言ってたけどさ、あんたぽっちゃりした子好きなの、とお盆から空のグラスをとって、麦茶をドバドバついで一気飲みした、そこで、俺達と一緒に夕飯をとっている比企に気づいた。
「えー、うっそお、タケが言ってたのこんな子よお。やーだ、うちのお客さんだったんだ。って、あれ、正国あんたのガールフレンドは? 」
おじさんが苦虫噛み潰したような顔で、まったく、とため息をついた。
「この瘋癲娘が。挨拶せんか」
「姉ちゃん、比企さんガールフレンドじゃねえから」
「え、」
そこで何かに気がついたお姉さん。あらやだあ、ごめんなさい失礼しましたあ、とけらけら笑って、正国の従姉のみちるですう、と挨拶した。
「いやもうね、この子達が、いっぱい食べる子だなんて言うから、ころっとしてかわいい子なのかしら、なんてね、勝手にイメージしちゃってたんだけど、やだわあ、すっごい美人じゃないのよ! モデルさんみたい! この子じゃあ、正国には無理ね。あんた達どうやってお知り合いになったのよ」
マシンガントークここに極まれり。捲し立てていたお姉さん、そこで桜木さんの存在に気がついた。くはッ! と呻いてから、頬を赤らめまさやんに、こちらの方はどなた? とクネクネしながら小声で訊ねる。
「桜木さん。比企さんの保護者」
面倒なので、情報量はこの程度で十分。お姉さんは、どうぞごゆっくりオホホ、と取り繕って、部屋に引っ込んでいった。
「桜木さん、お姉さんに口説かれたらどうするの」
なんか気になったので訊いてみた。いや、興味湧くでしょ。そこは。桜木さんは、そうだねえ、と笑って、
「まあ、食事くらいならやぶさかでないかな」
大人な回答に俺がどぎまぎしていると、八木君、と比企が釘を刺した。
「こいつは来るもの拒まず去るもの追わずだ、反面教師にしかならないぞ」
見事な唐竹割りで斬って捨てて、カンパチの刺身を一切れ、ご飯をもりもり食う。量がえげつないだけで、こいつ、食べ方はきれいなんだよなあ。だいぶ軽くなったお櫃と比企を交互に見やるおばさんだが、大丈夫いつもこんなもんです。
ごちそうさま、と手を合わせて、満足そうにお茶を啜る比企。
「お魚がすごくおいしいですね。私の知ってるお刺身とは、まるで違いました。ご飯もふっくらして絶妙な炊き加減で、本当においしかったです。この糠漬けも、漬け具合が丁度よくてびっくりしました」
魚の仕入れはおじさん、料理はおばさんが手がけているから、これには二人ともすっかり気をよくしている。食レポうまいね比企さん。桜木さんはと見ると、なめろうを食べて項垂れている。これ絶対僕真似できないやつだ、とか呟いてる。作るんかい。家で。いや、この人ならやるか。そうめんのつゆを自作する人だしな。
「こういうのってねえ、お魚も薬味も、全部新鮮なもので、手早く作るからおいしいんだよ。いくらがんばったところで、鮮度と経験で負けちゃうんだよ、くやしいよねえ」
「桜木さん、ここのご飯、東京に帰るとしばらくロスになるから要注意だよ」
結城が注意喚起する。そう、なるの。俺も去年、秋になっても思い出しちゃってダメだった。わかる。
だよねえ、わかる、と桜木さんもうなずいた。
夕飯のあと、俺達と桜木さんは一緒に風呂に入っていた。ここの風呂場、結構広いのだ。このメンバーになると、話は自然、町で起こっている事件のことになる。
事務処理の傍ら、忙しいなりにチャットルームを覗いていたのだそうで、比企から聞かされるまでもなく、桜木さんも情報は共有していた。
「まあ、君達のことは、何度かうちにも遊びに来てくれてたし、心配ではあったよ」
あのそうめんパーティーの後も、何度か宿題を片付けようと集まっていたのだが、桜木さんが料理を振る舞いたいと言うので、ほぼほぼ桜木さんのマンションで勉強会をやっていたのだ。ご飯すげえおいしかった。
で、まあ顔見知りの俺達を案じてくれていたものの、桜木さんの立場上、比企の監督官である以上、あいつが行く気にならなければ、独りでホイホイ動くわけにもいかない。
「新人の頃の指導教官が顔の広い人だから、事情を話して、どうにか手を回してもらって君達を助けられないものか、と思ってたんだけどね」
さあ書類仕事が終わったぞ、と思ったら、夕飯の買い物から帰ると比企が部屋で銃を分解修繕していたのだそうだ。
「ドラグノフなんて初めて見たよ」
「なんすかそれ」
「ロシアの狙撃用ライフル。あの子ロシア系だから、ロシア製の銃使うんだよ。あっちに親戚が大勢いて、そういう人たちに頼むから交換パーツとか手に入れやすいって」
服とかコスメとかに拘ればいいのにねえ、と湯船の中で顔をひと撫で、桜木さんはため息をついた。
「何してるの、って、驚きが極まると、それくらいしか反応できなくなるもんなんだね。そうしたら、戦友が困っているのに一人で平和なところでのうのうとなんてしていられるか、って」
え、と俺達は思わず声を上げた。
この前の、中学校の事件で、比企は俺達を戦友と呼んだ。共に行動する仲間だと。俺達も仲間だと思ってはいたが、そこまで重大だったり深刻だったりするまではいってなかったのだけど。ここへ呼んだのだって、来てくれればそりゃあ嬉しいし、まあ助けてもらえるかな、ぐらいだったし。大事な仲間ではあるけど、きっと俺達の感覚は、比企のそれよりもうちょっと軽かったのだ。俺は反省した。比企はたぶん、仲間とか友達とかを、すごく大事なものと考えているのだ。だから、俺達が危険なところにいるようだと見て、そして俺達が助力を願ったのを受けて、それでこうしてやってきたのだ。
武器を揃えて手入れを始めたというのは、比企にしてみれば、仲間を窮地から助けるために必要なものは何でも揃える、くらいの覚悟のあらわれなのだ。
ごめんな比企さん。俺ももうちょっと真面目に考えます。
えー、ここで女性にご報告。一緒に風呂に入って判明した事実があります。
桜木さん、すげえ鉄板腹でした。ダビデ像みたいでした。
つまり、イケメン・ガタイ・料理上手・エリート・気さくと、嫌味なほどのパーフェクトヒューマンだったのだ。ただし女の人に振られまくるのと、比企にめっさ振り回されていることで、苦労の質の面でバランス取れていなくもない、ような。
話戻すよ。いいよね。
で、まあ俺達、風呂から出たあとも部屋で、桜木さんに集めた情報を洗いざらい開陳した。すごいね、よく調べてる、と感心してくれたが、そこは良識ある大人、あまり深入りしちゃダメだよ、と釘を刺されはしたけど。
タンクトップやTシャツに短パンの俺達と、なんかおしゃれハイブランドなTシャツにパンツの桜木さんが、一緒に民宿の畳の部屋にいるってのもちょっとした不思議空間だが、そこへ更に比企が入ってきた。
前髪を頭のてっぺんで縛って、着ているTシャツには「サブミッション」と書かれているが、どこで買ったのかこんなシャツ。下はいつものジャージばきで、昼間の美少女丸出しなオーラはどこへ。と言いたいところだけど、それでも抗いようなく美少女なのは、ほんともうおそろしい子!
宴会用の十六畳間はとにかく広い。でかい座卓を一つ、俺達が使うように置いてあるが、それでも広い。部屋の半分くらいは布団を敷いてあって、俺達は布団の上でゴロゴロしたり、開け放った窓辺でコーラ飲んでたりポテチ食ったり、思い思いに寛いでいたが、比企はおばさんにもらってきたのであろう、カレンダーや生ビールのポスターを持って部屋に入ると、座卓の上のお菓子やペットボトルを隅に寄せ、ポスターやカレンダーを裏向きに広げ、セロテープで留めてでかい一枚にした。器用に…と言いたいどころだが、やや残念というか素朴というか、ザックリな仕上がりで町の略地図を描いて、それから端末でチャットルームを開き、確認しながら、どこで何があったのか、時系列に沿って番号を振りながらマーキングしていく。
ひと頻り書き込んで、ふん、と鼻息をつくと、マジックペンの蓋を閉め、今何時だ、と壁の時計を見やる。
「八時半」
忠広が答えると、そうかとひと言、比企がうなずいた。
「現場を見たいな」
そういえば、午後に町に着いてまっすぐここに来てしまったし、おじさんおばさんと小一時間ほど話し込んで、すぐ夕飯だったからね、まあ海を見に行ってとか、そういう暇はなかったよね。
「そうだね、じゃあ今日は遅いし明日の朝にでも、」
言いかけた桜木さんに向けた比企の視線は絶対零度。あのな、とため息をついた。
「今この町で起きている怪事件は、いつ起きている」
「え」
「まさか昼日中に猫やカップルが襲われて食われているとでもいうのか」
「それは」
「昼間に起きた事件が何件ある。昼間に謎の生物に襲われて食われた人や動物がどれくらいいる」
「い…ません」
押されてるよ桜木さん。ということは、と比企が畳み掛けた。
「この現象ないし事件は、一日のうちどの時間帯に起きているのか、あんたはどう推測する」
「ゆ夕方から夜、明け方まで」
よかろう、とうなずいて、比企はトドメをさした。
「然るに、この騒動の元凶を明かし対策を講じたくて呼ばれた我々が、調査に最適な時間帯に、なぜのんびりと惰眠を貪らねばならんのだ。むしろ私がゆっくりしたいと言い出したら尻を蹴り働かせるのがあんたの役割だろうが。心得違いも甚だしい」
馬鹿者が、と毒づいて、比企はさっと立ち上がった。
「行ってくる。貴君らは朝の仕事に備えて休んでいたまえ。桜木警視は好きにしろ」
俺達はともかく、つまり桜木さんには期待してないと。辛辣。
僕も行くよと桜木さんも立ち上がった。
そうとなれば、俺達だって行かないなんて
幸い、おじさんとお姉さんはナイター中継に夢中だし、おばさんは風呂だ。俺達は居間に、ジュース買ってきますとだけ声をかけた。
「おう、言わんでもわかってるだろうが、海にゃ近づくなよ」
はあい、と揃っていい子のお返事だが、まさにこれから、その命取りなあほの振る舞いをするのだ。
俺達はサンダルやビーチサンダル、桜木さんはエスパドリーユ、比企はと見れば、いつものあの下駄だ。おい大丈夫なのか。下駄で何ができるんだ。と内心思いながらも、俺達はコンビニに行くような顔で漁り火を出た。
去年の夏よりも静かな町を、連れ立って歩く。この時間なら、去年の今頃は民宿の窓から子供のはしゃぐ声や、大人が酒を呑んでわいわい盛り上がる声が聞こえ、コンビニに入れば、酒のつまみを買いに出た海水浴客の大人がいて、俺達みたいにバイトや海水浴に来た高校生がいて、もっと活気があったけれど。
さすがに怪事件のせいか、家の中からの声は聞こえるけれど、コンビニは静かで、客は俺達の他に醤油を買いに来た婆ちゃんだけで、その婆ちゃんもそそくさと買い物を済ませて引き揚げてしまった。俺達もジュース買ってすぐに店を出る。
ジュースを飲みながら、もう少し先へ歩いて海岸へ。コンビニで会計したときの、レジのニイちゃんの表情は傑作だった。比企に視線が貼りついてたもんなあ。目を丸くして凝視してたよな。たぶんあのニイちゃんには、お姫様とお付きの有象無象にしか見えなかったことだろう。ま、似たようなもんですが。
そして五分も経たず、俺達は海岸に着いた。
もっと、何もなくただ普通に散歩に出ただけであれば、人ひとりいない晴れた夜の海辺は、ロマンチックであっただろう。実際、確かにムード満点ではあった。静かな波打ち際、月光に煌めく海、優しく吹く海風、空に散りばめられた星。夜のデートに来たカップルであれば、浜辺で語らううちにちょっとエッチな雰囲気になることだろう。
でも生憎、俺達はカップルでもなんでもなく、どころか野郎が六人に、お姫様の皮をかぶった
比企は迷うことなく砂浜へ降りた。波打ち際を歩き、下駄履きのまま、躊躇せず岩場に踏み込む。海岸に響くのは、波音と比企の下駄が砂を踏む音だけ。
不意に、微かな鳴き声がした。
やや離れたところに猫がいる。打ち上げられた魚でも探しにきたのか。おわあ、と鳴いて、足が濡れないギリギリくらいのところをちょこちょこと歩いている。
ざばあ、と波が捲れ上がった、ように見えた。夜目にも黒々と、何かが立ち上がっていた。縦には少なくとも結城の二倍近くある。怯えた猫がしゃあ、と毛を逆立てて威嚇する。岩の上から海を見ていた比企が跳ねた。
横合いから大きな影を蹴りつける。反動を利用してうまく着地。一瞬よろけた影は、比企を摑もうと腕を伸ばした。たぶん腕だと思うんだけど。
「小梅ちゃん! 」
「比企ちん逃げろ! 」
「比企さん! 」
唐突な出現に狼狽える俺達。それでも比企に駆け寄ろうとする桜木さん。すげえ、さすが警察官。あの影結構でかいのに。しかし。
自分にのばされた腕を、比企は軽く首を傾げるだけで避けた。あまつさえ、どこから出したのかわからないナイフで切りつけて、肉を少し削いでいる。
「桜木警視! 標本を採った、収集保存! 頼んだぞ! 」
「ああもう、めちゃくちゃだろ君! 」
比企は空いたもう片手を腰の後ろに回した。ジャージに隠していた銃を抜く。
「監督官、発砲許可乞う! 」
「乞うっていうか、もうやるんでしょどうせ! 」
「あんなデカブツ、他にどうお引き取り願うんだ? 軽いカクテルと洒落たジョークでもてなすのか? 」
「わかった、わかったから! 効果がなかったらやめるんだよ! 」
「ヤボール! 踊るぞデカブツ、少しは私を楽しませろ! 」
なんだこのハードボイルドな遣り取り。てゆうか銃なんて初めて見た。比企はすげえイキイキした顔で、結城の二倍はあるあの影に、迷わず銃口を向けてぶっ放した。
え、待って何あの拳銃。マシンガンみたいな感じで発砲してる。シューティングゲームでいうなら、弾バラまき系というか。そして、硬いものが肉にめり込む生々しい音。俺達は思わず身を寄せ合って固まって、微動だにできずにただ見ていた。かろうじて源とまさやん、結城が竹刀構えてるだけでもすごいと思う。
その間に、比企が削ぎ落とした影の体の肉を、コンビニでジュース買ったときのレジ袋に詰める桜木さん。袋の口を縛って結城に預けると、すぐに比企の援護に向かった。影は、今度は腕二本で比企を狙っている。あ、やばい挟み撃ちにされる。
そこではっと思い出した。さっき、投げれば武器の代わりくらいにはなるだろう、と水を詰めて持ってきたあれだ。バッグのファスナーを開けるのももどかしく、どうにかペットボトルを引っ張り出した。少し後ろへ移動して、何歩か走って反動をつける。思い切り振りかぶって、俺はペットボトルを投げた。比企の頭の上を、放物線を描いて飛んでいくペットボトル。大きな影の、胴体? とでもいえばいいのか、ぼこん、と低い音がした。けれど怯んだとか、ダメージを受けたとかそういう様子はない。チクショウ。俺の渾身の一撃が!
ばん、という音がした。見れば桜木さんが、比企のよりでかい銃を持っている。比企を狙う腕の片方が勢いを失った。比企はすんでのところでしゃがみ込み横転。アクション慣れしすぎだろ、と思うが、おそろしいことに、あいつ今下駄ばきのままでこの大立ち回りなんだよなあ。
桜木さんが影を撃ち続ける。と、どこか弱点にでも当たったのか、影がよろめいた。身を捩って、海の中へと戻っていく。
やがて、影は海の中に潜り、すっかり見えなくなった。
わずか数分の出来事。夢だと思いたいが、お生憎様、桜木さんに預けられたあのビニール袋はしっかり結城の手にあった。
「うええ、誰か、誰かエンガチョ切ってくれよおお」
半泣きの結城が、手首にレジ袋をぶら下げたまま両手の指で輪っかを作る。おら、とまさやんがエンガチョを手刀で切ってやった。
漁り火への帰り道。俺達五人は、おじさんおばさんにことの次第をどう説明したものか、頭を悩ませていた。
だってさあ、この、ビニール袋の中身のことだってあるでしょ。
どうするよこの難易度激高な状況。
翌日、弁当を売りに来たはずの俺達は、気がつけば警察の応接セットに座らされ、署長さんとか刑事さんとかに囲まれていた。
どういうことだってばよ。
あれから民宿に戻ると、比企はおじさんおばさんに、魚を入れるトロ箱の要らないのと、氷をいっぱいもらって、あのビニール袋を放り込み、警察署の場所を教えてもらうと、そのまましれっと部屋に引き取り寝てしまったものだ。
取り残されてポカン顔の俺達と桜木さん。
俺達もおじさんおばさんもわけがわからず、でも時間もいい加減遅いので、何となく寝てしまったのだが。
比企は翌朝、俺達と同じ時間に起きてくると、おばさんにひと言、おはようございます、少々出かけます、と声をかけた。おばさんはあらまあ、と顔を出しかけて、そこで比企を見て鳩が豆鉄砲喰らったみたいな顔になる。
無理もないよ。比企の格好は、この前の事件同様のいでたちだったのだ。
黒地に大輪の赤い花が刺繍されたチャイナ服、黒い膝丈のバルーンパンツ。両脇にキャメル色の革のホルスターと、ごつい拳銃。頭にはハンチングをかぶり、手には足首丈のアーミーブーツと、この前も着ていた白いコートを持っていて、どう叩いても薄目で見ても、普通の高校生には見えなかった。
おばさんが弁当を持たせる間もなく、ゆうべのレジ袋片手に、行って参りますと比企は玄関をプイッと出ていった。慌てて二階から降りてきた桜木さんが、おはようございます行ってきます、と大急ぎで後を追う。
「いってらー」
とりあえず手を振って見送ったが、仕込みの間、まさやんを始め俺達全員、おじさんに次々質問を浴びせられたものだ。
あんまり訊ねるもので、結局イロイロ比企について話さざるを得ず、ゆうべのささやかな立ち回りも話さなくてはいけなくなった。比企さん、ごーめーんーなー。案の定、危ねえこたぁ二度とするなよ、と叱られはしたが。
いつものように弁当仕込んで、いつものように手分けして売りに出るところで、おじさんは民宿から軽トラ出してきて弁当積み込むと、坊主ども、と俺達に言った。
「ちょいと早く出るぞ。とりあえず今日は俺独りで売りに回る。おめえら、探偵のお嬢さん手伝ってやれ。何だ、証言とかなんか、必要なんだろ」
俺達は軽トラの荷台に、弁当と一緒に乗り込んだ。おじさんは最初に警察署へ寄って下ろしてくれた。警察の分の弁当を下ろすのを手伝って運び込むと、すっかり顔馴染みになった署長さんに何か耳打ちして、俺達に顎をしゃくって奥へ入れと示した。
カウンターの奥、デスクが並ぶ中へ入ると、応接ソファーに座っていた桜木さんがちょっと目を丸くして、比企は見ただけで状況を察したのだろう、表情ひとつ変えない。応接ソファーにでんと収まって、ここに来る途中で買ったのか、紅茶のペットボトル、それも二リットルのでかいやつを置いている。追い出そうとする制服姿のお巡りさんを、軽く片手を挙げるだけで制すると、ニヤリ笑って比企は言った。
「揃ったな戦友諸君」
探偵というより、何だか大軍を率いる将軍みたいだった。
悔しいけれど、女の子にあるまじきその太々しい笑みは、俺をひどく安心させたのだった。
「では諸君、始めよう。戦争の時間だ! 」
なんかテンション高くね? 気のせい?
桜木さんは額に手を当ててため息をついた。
「ごめんね、何だかすごく高揚しててずっとこうなんだ」
頭が痛い、としんどそうにつぶやいて、桜木さんはアイスコーヒーを啜った。
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