第5話 五人とひとりと学校の怪談 4章
その夜、いまだ興奮冷めやらぬといった様子で、俺達のチャットルームは更新に次ぐ更新。上海亭で飯を食いながらわいのわいのと喋る、いつもの調子で、みんなが新しい書き込みを見てはそれに応える。
実際、この前の魚の怪物退治のときよりも派手だったし、あんな不思議な体験はそうできることじゃない。まあ、あのあと全員で、鏡に吹きつけたカラースプレーを拭き取って掃除したのだが。
準備よく持ってきていたウェスとクリーナーで鏡を拭いながら、比企は立花に、この鏡は今後どうする予定ですか、と訊ねた。
──このままここに設置し続けますか。
さあなあ、と立花は天井を仰いだ。
「どうするのかは、今後の職員会議の結果次第ですよ。何せ、この騒ぎでケチがついてるからなあ」
さもありなん。
だけど並んで鏡のスプレー塗料を拭き取りながら、俺は何かに引っかかっていた。
家に帰って夕飯を食い風呂に入って、チャットルームでワイワイやりながら、それでもどこかで俺は、その何かがなんなのか、ずっとどこかで気になっていた。
あの、鏡に囚われていた女の子はどうなったのか? だだっ広くて空っぽの病室に寝ていた体に還れたのか? なんで体は意識をなくして眠り続けていたのか? 階段から転げ落ちる直前、あの子に何があった?
それもまあ、気にはなる。とても。
でも、それだけじゃない気がして仕方ない。
「あー! くっそ! 」
ベッドでゴロゴロ転がりながら頭を掻きむしって、俺は起き上がると、チャットルームに書き込みを入れた。
チャットで俺の疑問をみんなにぶつけると、やはり各々思うところはあったようだ。
「確かに」「言われてみれば」「ヤギが珍しく頭脳派」「どうしたヤギいつもと違う草食ったんか」「鋭い」「見た目はヤギ、頭脳は人間。名探偵ヤギ」…ピコンピコンとコメントが入る。
そうだ。今回の件で比企は、自分から情報を開示することはなかった。訊かれれば答える、という姿勢で、あまり進んで語りたい感じではなかった。あの果断な豪傑娘が、あんなに歯切れが悪いなんて。
俺達はひと頻り、比企の様子について書き込みを重ねていたが、不意に結城が、そういえばさ、と切り出した。
教頭がなんかおかしいって言ってたの、あれどうなったんだろうな。
──それだ!
俺の背中がぞわあっ、と総毛立つ。
ずっと違和感があった。何が気になるのかわからなくて、でもずっと、ぼんやりした何かが気になっていた。その正体が、やっとわかった。
結城は普段ポヤンとしてるくせに、こうやっていざというときピンポイントで的確な指摘をする。しかも、当人は狙っているとかでなく、ごく自然にミラクルを起こすのだ。俺達はそれを「天然の馬鹿力」と呼んでいた。
疑問に手掛かりができれば、それはあっという間に形が定まるものだ。
俺達は各々引っかかっていた点を開陳し、まとめ上げて整理した。
五人を代表して、電話で直接疑問をぶつける役目は俺が引き受けた。
「もしもし」
「亀よ」
「いやそうじゃなくて。もしもし」
「ベンチで囁くお二人さん」
「だから違うって。あのね比企さん、今電話平気? 」
「問題ない。どうした八木君」
「あのさ、ほら、東中のあの鏡」
「ああ、彼女を無事に解き放ってやれたのはよかったよな」
「うん。よかったよな。…まあ、それはいいんだけど」
「どうした」
「俺達どうもまだ気になることが残っててさ」
「何が気になる? あの女生徒を助けられた、それではいけないのか」
「……比企さん、俺らにまだ黙ってることがあるだろ」
沈黙。
「黙ってるっていうか、触れないようにしてるっていうか」
沈黙。
「みんないくつか気になることはあったけどさ、結城が気づいた。あいつ、あれで結構色々見てるから。たぶん俺らの中で一番勘がいいかも」
沈黙。くそ、聴いてるのか。
「比企さん聴いてるか」
焦れて声が尖りかけた俺の言葉を、八木君、と比企が遮った。
まったく貴君らは鋭いな、と屈託なく笑って、そうだな、自分で戦友と呼んでいたのに、私はつくづく往生際が悪いな、と呟くと、
「真の決着をつけよう。明日…いや、まだ固めないといけないものがある、明後日だ。私と貴君と岡田君、肥前君、源君に結城君、みんな揃って終わらせよう」
明後日の十一時、公園駅の北口前で待っていてくれ。みんなには私からチャットで知らせておくよ。
比企はそう言って、それでは、と電話を切った。
そして翌々日、午前十一時。
駅前で俺達は、アイスキャンディーを齧りながら、あまりの暑さにじわじわ汗をかいていた。
「いやー、こう暑いとそれだけで死ねるね」
「これアイスより先に俺が溶けるわ」
「太陽のせいだって人殺した奴の気持ちが今わかった」
ちからなくぼやいていると、人なんか殺したって面白くないぞ、と後ろから声が聞こえた。
この前の金色のチャイナブラウスに黒パンツとアーミーブーツ、黒グローブという姿の比企が立っていた。
「物騒だな」
まさやんが言う。なんか殺したことがあるみたいな言い方だ。比企はまあなとお茶を濁して、それでは行こうかと俺達を促した。
「戦友だからな。もう隠し事はなしだ。道々話そう」
そして再び、あの空っぽの病室があった病院へ。
だけど比企は、一昨日のように真っ直ぐ病室へは向かわなかった。
最上階でエレベーターを降りて、ナースステーションへ足を向ける。中にいたナースに声をかけた。
「すみません、井野弥生さんがこちらに入院していらっしゃると聞いてきたのですが」
あからさまに不審顔のナースは、それでも比企が求めていた情報を漏らしてくれた。
「お嬢さん…弥生さんなら、一昨日の夜亡くなられましたよ。突然容体が急変して」
「数分間だけ、意識を取り戻した。それも明晰に。違いますか」
比企の言葉に、ナースが目を瞠る。どうして、と驚愕した。
「なんであなた、そんなこと」
「あなた方とは違う筋で弥生さんと関わりがあったので。その結果から推測しましたが、当たっていましたか」
では失礼します、と比企はあっさり引き返す。
待って、とナースが呼び止めた。
「なんでそんなこと知ってるのあなた」
「お話しするのは構いませんが、きっとあなたは信じられない。理解できない」
この世界には、そういうことが意外とたくさんあるんですよ──。
比企は振り返ることなく、タイミングよくやってきたエレベーターに乗った。
俺たちも後に続く。
帰りの電車内、比企はひとこと、駄目だったんだと天井を仰いで言った。
「あの病室に入ったとき、感じなかったか。匂いだよ」
「え」
勿怪顔の源。思い当たる節がありそうな様子なのは結城だ。俺がそういえば、と切り出した。
「なんか、病院だから薬の匂いっぽいのはあったけど、そういうのと別に、甘い匂いがしたような…」
「言われて気がつくかな、ぐらいの匂いだったから、気のせいって言われたらそれまでだけど」
結城もうなずきながら、俺の言葉に続く。比企はそうか気が付いたか、と窓の外へ視線を投げて、
「あれは腐臭だ」
「フシュウ? 」
「体が腐り始めて、悪臭に変わる寸前の甘い香りだよ。喩えていうなら、菊が朽ちていくような、そういう匂いだ」
うげげ。
「たぶん放っておけば、彼女は意識を失って数日かそこらで死んでいたんだ。ところがあの通り、大病院のお嬢さんだ、いつか目を覚ますだろう、きっと回復するだろうと、最先端の医療技術で体を保存されてしまった。時間を止められたようなものさ」
心は鏡の中に閉じ込められ、体は機械と薬で生かされて、結果、彼女の時は止まってしまった。
「だけど私が、凍った時間を動かしてしまった。とうに限界だった体に今更戻ったところで、せいぜい数分保てばいい方だ。そのぐらい、彼女の体は傷んでいた」
「でも生きてはいたんだろ」
忠広が探るように言うと、物理的にはなと比企が答える。
「血液やリンパを循環させて、点滴や流動食で栄養を与えて、物理的には生きちゃいるが、魂はとうに失せてる。ただ物理現象があるだけだ。──人間が住まない建物は朽ちるのが早いが、肉体と魂の関係もそれに似ている。モノとしては生きていても、そこに魂は通っていなかった。魂が閉じ込められている間に、体はただのモノに成り果ててしまったんだよ」
俺はぼんやりとイメージしてみる。
風化した石ころを拾い上げて、軽く握りしめてみると、石はクシャリと崩れて砂になる。
かろうじて形を保っているものに、無闇とちからをかければ壊れてしまうのだ。
たぶん、あの女の子…井野弥生の心と体にも、そういうことが起こったのだろう。だから、意識が戻った途端に死んでしまった。
体が耐えきれなかったのだ。
「結局井野弥生は死んでしまったが、当人にも家族にも、こうなったのはむしろよかったのかもしれないな。体とそぐわぬ心で生きるには、今のこの世界は冷たすぎるし、支える家族にもいずれ負担はのしかかる。イーレイはよいところだというからな、きっとあちらでは幸せにやっていることだろうさ」
なあ、とまさやんが訊ねた。イーレイってなんだ。
比企が答える。あの世だよ。
「イーレイははるか西の彼方、小鳥だけがその場所を知っていて、背に善き魂を乗せてそこへ飛んでいくんだ。世界樹に抱かれた、緑と黄金に溢れる場所だ。確か日本では、西方浄土と言うんだったか」
どちらであれ、私は行くことなど叶わないがな。
ちょっと寂しそうに言って、比企は笑った。
俺達はそのまま、東中のそばのファミレスで遅めの昼飯を摂った。
食べながら、比企は胸焼けしそうな話を聞かせてくれて、俺達はちょっと青ざめながら飯を食った。
昨日一日を、比企は情報集めに費やしていたのだそうだ。
「朝のうちに情報屋から報告が来てな、三十年前の件が起こった当時を知るであろう人物のリストがあった」
事故発生当時、現場近くに居合わせた人物、校舎内に居残っていた人物を洗い出したリストを見て、まずは近場に在住する人間から当たっていくことにしたのだと、比企は食後の紅茶を啜った。
まあね、その紅茶はドリンクバーで持ってきたやつで、ポットの紅茶がメニューにないので、比企はちょっとご不満気味でしたがね。なんかティーバッグをお湯に浸して、上から皿乗っけて、不思議な淹れ方してましたわ。ええ。ドリンクバーを見るのが初めてだったようで、比企は興味深げに、結城がメロンソーダ出してる様子を見ていて、ちょっとその間身の置き所がない感じだったのは面白かった。身長一九〇センチ、見た目だけならアスリートみたいな結城がモジモジしてるさまは、ひたすら間抜けで見ものだった。
比企は手始めに、市の南端、川沿いの老人ホームに入居している、八谷という元理科教師に会いに行った。定年後、俺と忠広が卒業するまで東中で嘱託の講師として勤め上げ、奥さんが亡くなったのをきっかけに、老人ホームへ入ったのだそうだ。
オンジというあだ名の教師だった。「アルプスの少女ハイジ」のアニメの、オンジに似ていたからだ。オンジ、そんな近所に住んでたんだ。
まず近場から、と思ったら、
「初手でアタリ引き当ててしまってな」
オンジは、あの社長さん以上に詳しく前後の経緯を話してくれた。当時すでに大人であり、教頭の先輩でもあったのだ、生徒には窺い知れぬことも見聞きするだろう。
途中、川沿いの国営城址公園前の和菓子店で和菓子を買い手土産に持参すると、オンジは大層喜んだ。
事前のアポなし、ぶっつけでの訪問だったが、オンジは歓迎してくれた。
東中学の在校生を装って、学校史を編纂する計画があるので、昔を知る先生方や先輩方のお話を聞いて回っているとかなんとか、口八丁並べ立てて、在任時にあった思い出深い出来事をお聞かせください、と水を向けると、オンジはうなずいて、あれこれ昔の話を聞かせてくれた。
「嘘ついたんすか⁉︎ 」
「いきなり虚偽! 」
結城と源が呆れ返るが、ご高齢の方相手だし、案内してくれたヘルパーさんによると、八谷先生は最近心臓が弱ってきているそうだったのでな、と比企はすまして答えたものだ。
「なんでも馬鹿正直に申告すればいいというものじゃない。自発的に気持ちよく話をしてくれるために条件を整えるわけだよ。まして高齢の方だ、負担を与えるなど以ての外」
諸君、これが交渉術だ、と比企は紅茶を飲み干した。
ひと頻り昔話に花を咲かせたところで、そういえば、と比企は本題を切り出した。
──先日、生徒会長を務めておられた先輩にお会いした際に伺ったのですが。
あんなに平和な中学校で、昔大変な事故があったそうですね。すっとぼけてそう言った比企に、ああ、あの事件か、とオンジはベランダの向こうを見やった。
「事件? 」
「事故じゃなくて? 」
「マジか」
「事故じゃないの」
「いや事故だよな? 」
ところが先生は事件性があるのではと思っていらしたんだ、と比企。
「あくまでも疑念でしかないし、根拠も何もない。個人的な印象以前の、うっすらとした勘でしかないから、形ばかり捜査に入った警察にも、一度だけ、気のせいだろうとしか話さなかったけれどな」
オンジが疑問を自覚したのは、
「きっかけは足音だ」
あの、助けを呼んだ女生徒が聞いたような気がした、と友人だった社長さん──進藤さんに話した足音だ。
「先生も聞いていらしたんだよ」
騒ぎに気付いて、職員室から真っ先に駆けつけたのはオンジだったそうだ。必死の女生徒は混乱していたせいで曖昧だったが、オンジは比較的まだ落ち着いていたので、しっかりと聞いていた。すぐそばの階段を駆けるように上がっていく足音。二階、いや三階か?
そこで我に返った。
次の紅茶を取りに立った比企が戻ると、自然、俺達の疑問は足音の主が誰なのかに移った。
オンジは三十年、その足音の主が誰なのか、ずっと考えていたのだそうだ。同僚や生徒を疑いたくはないが、だからといって都合よく、その日に限って部外者がいたとは考えにくい。けれど。
──あの子はどうなったんだろうなあ。在校中は、結局意識が戻らなかったが。
足音の主の正体同様、井野弥生が回復したのか、オンジはずっと案じていたのだ。オンジ、すげえいい先生だった。俺と忠広にはじいちゃんみたいにしか思えなかったが。
先日亡くなりました、と比企が告げると、そうか、とオンジは感慨深く呟いたそうだ。
ここで俄然、存在感が強まった謎の足音だが、他に聞いていたものはいないのか。
比企はここで、再度リストに当たった。
二階には誰も残っていなかった。
三階には二人。のちの教頭と、忘れ物を取りに戻った男子生徒だ。
この男子生徒は、隣県の県庁に勤めていた。こちらでは単刀直入に身分を名乗り、訪問の目的を告げると、彼は頭を掻いて、どうだったかなあ、と唸った。
何せ三十年前のことだ、そりゃあ確かにすごい騒ぎだったけどさ、いまいち記憶がねえ。
彼の言葉に、それでは、と比企は角度を変えてみた。
「事件当時、国語の先生が三階にいたと証言してますが、あなたが忘れ物を取りに戻ったとき、先生と鉢合わせたりしませんでしたか」
え、とそこで虚をつかれて顔を上げた彼は、そういえば、と何か思い出した様子で、額に浮いた汗をハンカチで拭った。
「いや、そうだ、会ってないよ。あの当時も散々刑事さんに答えたけどさ、三階へ上がったときも降りたときも、誰にも会わなかった。で、一階に降りたらあの騒ぎだ。たぶん僕が姿を見かけなかっただけで、どこか他の教室にでも入っていたんだと思います、とは答えたけどさ、でも、あの先生、三階になんの用があったんだろうな」
「下校していない生徒がいないか、見回っていたそうですよ」
「へえ。見回りね」
何か含むところを感じる口ぶりに、何か、と比企が促すと、おかしなこともあったもんだなとハンカチをポケットへ収める。
「見回りなら生活指導の先生が回るし、第一、普段まず頼まれでもしない限り、そんなことしないタイプの教師でしたからね」
夕方、下校時刻も近い午後五時四十分。
俺達は東中の校門前に立っていた。
よし、と校舎を見上げると、比企は購買にメガカツサンドといちご牛乳でも買いに行くような、なんてことない足取りで歩き出す。
「では行こう戦友諸君。これで
客用昇降口では、立花と校長が待っていた。
経過の確認に参りました、と言う比企に、立花は我々も立ち合おう、と断固たる口調で応じた。
「まだ終わってないんだろう」
「姿見に起きる現象はどうにかしましたよ」
比企の答えに、経緯は立花先生から伺いました、と校長が返す。
「確かにあの鏡については解決しましたが、それでも残る謎があります。それについてはどうです」
「まだ完全に終わったわけじゃないんでしょう。私にもわかりますよ」
比企は狼のような目で、ボソリと言った。
「愉快な結末ではありませんよ」
「構いません」
「場合によっては、学校の名誉は地に墜ちる」
「しかし」
「知ってしまえば隠しきれますまい。地域からの信頼に傷がつきかねませんがよろしいか」
怯む立花。校長は構いません、と重ねた。
「真実を知らないままでは、何をどう整理して生徒達に伝え安心させるか、判断ができませんから」
一瞬目を閉じ、それから比企はわかりましたとうなずいた。
「それでは参りましょう。あなた方には少々堪える結末だろうと思いますが」
「失礼します」
校長室に教頭が入ってくる。数日前に会ったときと同じ、胡散臭さすら感じるほどの爽やかな笑顔。応接セットで待ち構えていた比企と俺達、デスクの向こうの校長、その脇に控える立花を見て、軽く訝しげな表情を見せるが、それでも人当たりのよさそうな雰囲気は崩さない。
扉に向かった一人がけソファーに腰を据え、柄悪く足を組んだ比企が、どうも、と片手をあげて応じた。
「わざわざお呼び立てして申し訳ありません」
先日の一件が無事解決しまして、そのご報告に参りました、と言って、紅茶を啜る。
本当ですか、それはすごい、と教頭は大袈裟なほどに感心してみせた。どうもとひと言、比企が上機嫌に微笑む。
さあ始まったぞ。俺達は二人がけソファーや比企の後ろ、対面の一人がけで、互いに目を見交わした。
わざとらしく空いた、二人がけソファーの半分、比企の隣の位置。どうぞ、と比企はそちらを手で示して招くと、教頭はでは失礼して、と腰掛けた。隣にはまさやんが座っているが、これは比企の指示による配置だ。剣道と空手をやってるまさやんなら、何か起こっても即応できるからということだった。その背後はツーカーの結城と源が固め、比企と向かい合う一人がけには忠広、比企の後ろは俺。
それで、と比企が切り出す。
「怪現象自体はもう起こらぬよう、立花先生お立ち会いのもとで然るべき手を打ちました。ですが、いささか気になる点が出てきまして、教頭先生のお知恵をお借りしたく」
「おや、私でお役に立つならぜひ」
それはよかった。比企はティーカップをソーサーに戻して、応接のテーブルに置いた。
「先日、姿見を調べた際に我々も見たのですよ。例の、不可解な少女を」
ほう、と身を乗り出す教頭。それで、と比企は続けた。
「どんな因縁話があったものかと、それこそ鏡のメーカーから土地の来歴から、思い当たる筋は調べようと思ったら、三十年前の一件に行き当たりました」
「三十年前? 」
おやおや、と比企がニヤニヤする。
「ご記憶ではありませんか? 教頭先生も当時この学校で働いていらっしゃいましたよね? 」
そうだったかな、と教頭が視線を逸らせた。
「あれ、おかしいな。図書室に学校史がありましたが、あれを見ると、教頭先生はお若い頃にこの学校にいらしたと、記録されていますよ」
ねえ源君、貴君も読んだろう、と脇に立っている源を振り返ると、肩越しに手を差し出す比企。すかさず学校史と、二十九年前の卒業アルバムを差し出す俺は何者なのか。秘書か。
読んだ読んだと源が答えた。俺もと挙手する結城とまさやん。当然俺も忠広も見ている。
「昨日おとといで、当時の生徒会長だった進藤さんや、一昨年まで嘱託で、ここで教鞭を取っていらした理科の八谷先生にもお会いしましてね、お二人ともあなたのことをよく憶えておいででした」
色々お話を伺いましたよ、と比企は畳み掛ける。
「しかし、おかしな話だ。あなたは姿見を取り付けたのがいつ頃か、初めてお会いしたときにお訊ねしたら知らないとおっしゃった。いつだったかな、と。一方で学校史と設備投資の出納記録を読むと、姿見を取り付けたのは、三十年前の八月末。学校史には、新学期に間に合うように取り付けたとあります」
あなたこの学校にいましたよね、と比企は更にニヤニヤ笑いを強めた。
「いらしたのならご存知のはずだ。なぜあんなつまらない嘘をついたんです? ああ、ど忘れしたなんて話はなしですよ。仮にも教頭、校内の責任者第二位であるあなたが、校内での騒ぎやことの推移、プロに対処を依頼することはよくご存知だろうし、騒動の元があの鏡だとなれば、記憶が喚起されない方が不自然だ」
いかがです、と比企が水を向けた。
教頭先生、と固い声で校長が呼びかける。
「今のお話が本当だとしたら、私の目から見てもおかしいと思います。比企さんのご指摘について、あなたはどのような意見をお持ちですか」
教頭は、表情こそ変わらなかったが、頬が強張っているのが俺の目にもわかった。
無言。
では違う角度からお話ししましょう、と比企は卒業アルバムを開く。さっき校長と立花と一緒に確かめて、しおりを挟んでいたページだ。
「ここしばらく、この学校の生徒さん達の間では、こんな七不思議が囁かれておりましてね。ああ、ご存知ですか七不思議」
私は大陸育ちなもので知りませんでしたが、学友である彼らが、日本の学校にはよくあるのだと教えてくれました、と紅茶を啜る。
「校舎の御不浄の、特定の個室に花子さんという少女が住んでいるとか、誰もいない深夜の体育館でボールが跳ね回るだとか、なかなか興味深い話でした。この学校にもあるそうで、後ろにいる八木君の弟さんや立花先生からもお聞きしました」
そう、立花先生もご存知だったんですよ、と比企は金属プレートのしおりを弄びながら、
「あの姿見にまつわる噂もご存知だった。当然彼らも知っていたし、昨日お会いした八谷先生も、生徒会長だったOGの先輩、進藤さんもご存知だった。ここで興味を惹かれるのは、皆さん揃って口にするのは、今、噂を囁く在校生のそれとは違うヴァリアントの話なのですよ」
さあここからが肝心だ。比企はしおりをくるくると器用に指の上で回しながら続けた。
「これもやはり、教頭先生との初対面のときです。私が七不思議や、姿見にまつわる怪談話などご存知ではありませんかとお訊ねすると、あなたはこれもまた、知らないとお答えになった。正確を期すなら、さあ、どうだったかな、と」
立花先生だって耳にされていた噂だ、あなたも知っていたっておかしくはないでしょう。比企はいよいよニヤニヤ笑いを濃くしていく。
「先程、教頭先生が入ってこられる前に、校長先生にも七不思議についてお訊ねしましたが、ご存知なのはやはり、立花先生や学友達の話してくれたヴァリアントでしたよ」
そう。この部屋にいる教頭以外の全員が聞いた。比企は真っ先にそれを訊ねて、満足のいく答えを得たところで、決着をつけるので万全の体制で挑みたいと、事務のお姉さんに紅茶をでかいポットで頼んだのだ。そいつは今、応接テーブルのど真ん中に鎮座している。
お茶を飲み干した比企は、セルフサービスで次の一杯を注ぎながら、おかしな話ですね、と嘯いた。
「皆さんご存知の旧いヴァリアントなら、あなたが知っていてもおかしくないはずなのに。なぜとぼけられたんですかねえ。よしんばご存知なかったとしても、今噂になっているヴァリアントをお答えになったっていいでしょうに」
いつもは単刀直入、シンプルを通り越して愛想がないとも取られかねない話法のくせして、今日の比企はなんだか持って回った言い方をする。一つずつ外堀を埋めるように、出口を潰していくように。まるで、
──獲物を追い詰める虎みたいだ。
忘れていたんですよと、教頭は柔和に答えた。
「咄嗟のことでしたから。後になって思い当たったものの、今度の騒ぎとどう関連しているものか見当もつきませんでした」
まあいいでしょう、と比企はいなした。
紅茶をごくごく飲み干して、次の一杯を注ぐと、ではもう一つ、と切り替える。窓の外はすっかり日が落ちて、夕闇が立ち込めていた。まだあるんですか、と教頭は、笑みこそ崩さないがため息をつかんばかりだ。
ご心配なく、私の残弾はまだありますよと、余裕たっぷりに比企が応じた。
「教頭先生は、件の怪現象で姿をあらわす少女を見たことはありますか」
「…残念ながら」
立花先生と八木君の弟さん、更に我々自身もこの目で見ましたが、生徒さん達の噂通りの容姿でした、と比企は紅茶を啜った。
「キャメル色のブレザーに赤いリボンタイ、赤いタータンチェックのスカート、黒い靴下、髪型は両耳の上で髪を縛る、ツインテールというあのスタイルです」
教頭は微動だにしない。
「先程話題に出た、生徒会長だった進藤先輩にこのお話をしたところ、こうおっしゃいました。それは私が在校していた頃の制服だ、と。もし、教頭先生が今の七不思議のヴァリアントをご存知であれば、それに気がつかないはずはないんですよ。何せ教師になりたてだったあなたは、毎日のようにあの制服姿の教え子達に囲まれていたんですから」
無言。
校長室の空気は、ちょっと針先で触れただけで弾け飛びそうな、そんな感じの、痛い程の緊張でいっぱいだ。デスクの向こうの校長と、その隣に立つ立花の顔が、比企の話が進む程どんどん険しくなっていく。
比企の横顔は、満面のニヤニヤ笑いだった。
目は一切笑っていない。怖ろしいほどに冷たくて鋭い光が潜んでいる。だからこそ俺はひたすら怖かった。たぶん比企は怒っている。はちゃめちゃに激怒している。誰かがそばで、やり過ぎないよう見守っていてやらないと、きっと怒りに任せてとことんまで走り抜けてしまう。
それが自分でもわかっていたから、きっと比企は俺達を立ち合わせているのだ。
でも、なんで、何のためにそこまで激怒するのか?
今のうちにお話しいただく方が楽だと思うのですが、と比企はため息をついた。
「仕方ない。昔、戦闘は火力だと、じいやも指導教官も教えてくれたが、けだし卓見だったな」
こうなればあなたの意地と私の指弾、どちらが先に折れるのか、ですね。比企は目を細めた。
「さあここからが本番だ。開戦と行こうじゃないか! 」
行儀悪く組んだ脚の上にアルバムを広げ、朗らかにパンと手を打つ。
俺達は知っている。これから、比企はこれ以上ない程の、完膚なきまでのとどめを打つのだ。
また紅茶を飲み干して、次を注ぎながら比企は話を再開した。
名探偵、皆を集めてさてと言い、なんてよくいうけど、と、比企は紅茶を啜った。
「ああいうのやると疲れるんですよ。今日のこれだって結構な労働だ。かったるいし、早いところ終わらせたいんですがね、あなたはどうやら
うんざりした口調で言って、ポケットから出したのは、何か書類のプリントアウト。
「これはある筋から手に入れた、三十年前にこの学校で起こった階段転落事故の調書の抜粋です」
校長先生は先任者からの申し送りで、多少のことはご存知だったことでしょう、と比企が校長を振り返ると、はい、と答えがあった。「教頭先生もご記憶では」
「ええ、まあ」
ですよねえ、と比企はうなずいた。
「何せあなたは、事故当時この学校にいらした。それも、事故が起こったそのときに」
「え、」
「教頭先生、」
色めき立つ校長と立花を、比企は片手で制した。
「ここでもう一つ、興味深い証言がある。この事故に遭った井野弥生さんが階段から転落したとき、介抱しようと駆けつけた女生徒と、助けを呼ぶ彼女の声を聞き駆けつけた先生が、聞いていたんですよ」
先刻お話しした嘱託の先生ですよ、と比企はプリントアウトをひらひらと示す。
「件の女生徒は、聞いたような気がした、と、また先生は聞こえたが微かな音だった、と証言し調書にも残っている。もっともふたりとも、絶対とまでは言えない、きっと気のせいだと断っていたため、たった一度調書を巻いた際のこの証言は、さして重要視されなかった。そしてこれに続く証言が肝心だ」
もう一枚プリントアウトが出た。
「事故当時、校舎三階にいた男子生徒の証言です。『忘れ物を取りに戻ったが、三階へ上がる間も下へ降りる間も、誰にも会いませんでした。一階へ降りたら女子が階段から落ちたとすごい騒ぎになっていました』」
教頭の顔からは表情が消えていた。
比企は更に外堀を埋める。
「さて、この事故当時、もう一人三階にいたと証言している人物がいました。──ですよね、教頭先生」
校長と立花が教頭を凝視した。
何せ三十年も前の事件だ。周辺的なものをかき集めたに過ぎないが、それでも集まるほどに疑問が濃くなっていく。
「あなたは事故のあった時刻、三階の教室を見回って、居残っている生徒がいないか確認していたと証言していますね。なのに、この男子生徒は誰にも会わなかったと言っている。確かに学校は広いけれど、教室の数は知れている。しかも時間帯は下校時刻前、人が多くてすれ違いに気づかない、なんてことも考えにくい」
場所が場所だ、事件と事故、両面から検証を始めたものの、指紋に靴跡、髪の毛その他、無関係なものまでわさわさ出てきた。当の井野弥生についても、せいぜい新任の教師と折り合いがよくなかったという程度で、これといったトラブルにつながりそうな要素はなし。また教師の方も、限りなく灰色ではあるものの、生徒を階段から突き落とす動機にはなりそうにもなく、結果、ことは事故として調査され、決着した。
そして三十年。
転任によって東中を去った教師は、教頭として戻ってきた。
「三十年経ってあなたが戻り、季節は事故が起こったのと同じ春の終わりを迎えた。止まっていた時間が、あの状況を思い出して動き出した。──ところで教頭先生、」
井野弥生の顔を憶えておいでですか。
紅茶を飲み干して、次の一杯をまた注ぎながら比企が訊ねた。
卒業アルバムを開くと、そこは入学当時の記念撮影のページだ。クラス毎、桜の下で校舎をバックに映されている。
「各クラスの生徒が全員写っている写真です。この中にいると思いますが、いかがです」
教頭の顔がさっと白くなった。
「そうそう、あの姿見ですがね、取り付けようと発案したのはあなただそうですね」
そこで一瞬教頭が肩を震わせた。
「昨日お会いした八谷先生がよく憶えておいででしたよ。あなたは実に熱心に立案し実行に向けて行動していたと。普段は然程、生徒の指導に身を入れているようには見えなかったのに」
教頭がかすかに震えだす。
おやどうしました、と比企はアルバムを差し出した。
「あなたの初めての教え子達です。印象深い分、ご記憶も確かなのでは」
ニヤニヤ笑って紅茶を啜る比企。
何だこのサディスティックな感じ。この前よりもすごいぞ。俺絶対敵に回りたくない。コワイ!
比企がポケットから、今度は写真を出した。
「三十年前の現場写真です。あの姿見の下になる壁の辺りですよ」
俺のいる位置からもよく見えた。
廊下は静かにとか、学校によくある掲示物の下に、掠れたように、汚れたように何かがついていて、それをもっと近くで鮮明に撮ったものを見ると、血の痕だ。指先や掌にところどころ血がついたまま、壁に手をついたような。
どうされましたと比企が声をかけた。
「お顔の色が悪い。体調がすぐれませんか」
「教頭先生、」
校長が硬い声で呼んだ。
「何か答えられない事情でもあるのですか」
無言。
「教頭先生」
二人の様子を見て、比企がそっけない口調で投げつけた。
「小さい奴だ」
教頭の顔つきが変わった。
目を血走らせ、息を荒らげ、肩を激しく震わせている。やおら立ち上がると、比企に殴りかかった。
「うるさい! うるさいうるさいうるさい! 子供が偉そうな口を叩くな! 」
まさやんが抑え込む。
「生徒会長だった先輩が教えてくれました。井野弥生さんがあなたを評した言葉だそうですね」
そんなに御大層な人間だと思われたいですか。どこか揶揄うようだったさっきまでの口調とは打って変わった、厳しくて冷徹で、断固たるものに変わっていた。
「さあ、もう一度お訊ねします。井野弥生さんはここに写っていますか」
比企はアルバムを教頭の膝下まで押しやる。「どうです教頭先生。──さあお答えください、どの生徒ですか。指をさして見せてください」
教頭は、これ以上ないほど目を見開いて比企を見た。
鬼のような形相だった。
ふんと鼻を鳴らして、比企は教頭の頭を鷲摑むと、アルバムにぐいぐい近づける。
「よくご覧なさい。簡単なことでしょうに。さあよく見て。見ろ! 」
頭を摑んでアルバムに近づける。すげえな。
「なぜこんな簡単なことが答えられない。何が後ろめたい? あなたは何に怯えている、一体何を隠している。いい加減意固地になるのはおやめなさい」
比企は教頭の耳に口を寄せて囁いた。
「あなたがやったことは、この部屋にいる者すべてが知っていますよ」
教頭はその言葉に、ブルブルと激しく震え、比企に頬を張られぐにゃりと崩れ落ちる。
がくりと肩を落としうなだれて、そっと指をさしたのは。
俺達が見た、あのツインテールの女の子。
一夜明けて、午後三時。
テスト休みの後の登校日だった。
授業時間毎に期末テストの返却があって、終業式までハメを外さず生活態度に気をつけるようにとありきたりの注意があって、放課後。俺達はいつも通り、上海亭で小腹を満たしていた。
親爺はあからさまにがっかりした顔で、何でぃおめえらだけか、色気がねえ、と言いながら注文をとる。
源の頼んだラーメンが真っ先に届いて、お先、と啜り始めたところで、表の戸が開いて、親爺が愛想よくいらっしゃいと声をかけた。
「特盛チャーシュー炒飯セットと春巻お願いします」
当たり前に入ってきて、いつものように注文すると、当然の如く比企は俺達と同じテーブルについた。まあ、俺達ももう癖で、つい一人分席を空けているのだけど。
あいよ、とウキウキした調子で親爺が厨房へ引っ込む。
炒飯が出てくると、比企はいつものように淡々とした口調で、洗いざらい吐いたよと言った。
「あのあと、教頭を引き渡した市警の知り合いから連絡があったよ。自分からベラベラ喋り倒してるそうだ」
既に時効が成立しちゃあいるが、ことがことだからな、と比企はワカメ卵スープで炒飯を流し込んだ。
「傷害か殺人未遂かで意見が分かれるところだけどな」
ああ、と俺達はため息をついて、ぼんやりと天井近くで首を振っている扇風機を見やった。
アルバムの写真に映る井野弥生を指さし、教頭は、わざとじゃない、僕は悪くない、と自分に言い聞かせるように喚いては、前後の順がぐちゃぐちゃなまま、つらつらと堰を切ったように話し出したものだ。
それをつなぎ合わせた結果、わかったことはこうだ。
その賢さゆえに生意気な生徒だった井野弥生は、日頃教頭を指して「人間が小さい」と小馬鹿にしていた。授業を自分の思う通りにこなしたいがために、流れを妨げがちなお調子者や、内容についてゆけない生徒を無視して、授業態度が大人しく成績もよい優等生ばかりを相手にしていた様を指して、そう評していたのだ。
言われた方は面白くなかろうが、無理もないよ。
それでも昇格試験をパスしてしまえば、まあ出世はできてしまうわけで。世の中ってどうなんだかな。
とにかく、そんな具合にことが起こる下地はできてしまっていた。それが一年。
進級後の授業でも、ことある毎にこの教師と生徒は衝突していた。そして四月の終わり、あの夕方がやってくる。
その日の授業でも、やはりちょっとした悶着があったのだそうだ。成績こそよいが、教師をやり込めることもしばしばだった井野弥生に業を煮やして、教頭はついに授業の邪魔をするなら外に出ろと怒鳴りつけたのだという。わかりました、と言って立ち上がり、彼女は教室を出た。そして、すれ違いざま。
──人間が小さいですね。
その場で爆発しなかったのは、他の生徒がいる授業中だったからだ。
放課後になった。
二階の教室で、産休中の顧問に代理を頼まれていた書道部の活動を見て、部員達が下校するのを見送ってから職員室へ戻ろうと階段を降りた、そこで井野弥生が二階からやはり下へ降りるところに行き合った。
呼び止めて、踊り場で立ち話となる。
外へ出ろと言われて本当に出るものがあるか、と嗜めると、先生、外へ出なくたって腹を立てるじゃない、と答え、そのままくるりと背を向け、階段を降りかけるそのとき。
──やっぱり小さい人間。
気がついたらその背を押していたのだそうだ。
ああいけるな、と、その感覚だけがふと頭をもたげた。
落ちていく背中。反射的に振り向きかけて、そのまま彼女は一階の廊下に倒れ。
頭を思い切り打ちつけたのだろう。額が割れたのか。血が流れていて、頭を押さえながらよろめいて起き上がり。
倒れかかって壁に手をつく。指についた血の痕が、姿勢が崩れるまま擦れる。
昇降口の方から悲鳴が聞こえて我に返った。
「で、大慌てで三階まで駆け上がった足音を聞かれていたんだ」
手近な教室に飛び込んだところで、例の男子生徒が向こうから歩いてくる足音を聞き、廊下からは死角になる壁と机の影に身を隠してやり過ごした。
通りものにやられたんだ、と比企は言った。
「魔がさしたんだよ」
そこにいるのは二人だけ。誰の目にも届かない状況。
「ふっと無意識にやってしまった。そして、自分のやったことに気がついてしまった。気がついて、怖ろしくなって、そして逃げ出した。事実から。自分の罪から。何より、そういうことをしでかした自分自身から」
記憶に蓋をして、白を切り通し、自分さえ欺いて三十年。
「罪からも過去からも逃げおおせはしても、結局逃げられなかったんだよ」
忘れることはできても、記憶を消すことはできないからな、と言って、比企は炒飯の最後の一口を頬張った。
なあなあ、と結城が訊ねる。
「忘れるのと記憶を消すのと、どう違うんだ? 」
ああ、と比企は卵スープで炒飯を流し込んで、特盛ワンタン麺を注文してから、まるで違うさ、とあっさり答える。
「忘れるっていうのは、それがどこにしまってあるのかわからなくなって引き出せないだけで、記憶自体はちゃんと脳のどこかにしまってある。だからどこにあって、引き出すのにどの鍵が必要なのかがわかれば出してこられるのさ。ところが元がまるっきり消えてしまったら無理だろう」
倉庫の鍵を無くすのと、倉庫自体が火事で丸焼けになるのとの違いと一緒だと比企は言った。
なるほど。記憶が喚起されるきっかけさえあれば、いやでも思い出してしまうというわけか。この場合、倉庫を潰して無くしてしまおうと思ったら、死んでしまうしかあるまい。壁を鏡で隠したのも、あの血の痕を思い出したくなかったからか。いくらきれいに汚れを落としても、上から塗り直しても、そこに見えるのが壁では、いやでも記憶は蘇る。
「しかし、突き落としたときに顔を見られてたなら、何としても相手が意識を取り戻す前に殺しちまおうと思いそうだけどな」
「やだまさやんコワーイ」
「いや思うだろって」
比企はあっさり、あの教頭さんには無理だと断じた。
「一度だけ、見舞いに行ったそうだけどな。でも何もできずに終わったそうだよ。そこまでの肚を据えられなかったんだ。そんな人間だ、自殺一つ満足にできずにここまできてしまった」
自殺ってのは、人を殺すよりも結構なエネルギーが必要なんだよ。と比企はお冷を飲んだ。
「生きるも死ぬも、結局根本のところでは選べずに、ただ流されてただけ。あの教頭さんの時間も止まっていたようなものだ」
ああまったく、と片手で自分の肩を揉み、これだから人間相手の頭脳労働は疲れるんだ、とため息をついた。
「お前は万事荒っぽいと師父からお小言をいただいてな、外堀を埋められるだけ埋めて固めてみようと、コロンボ警部式で行ってはみたが、もう御免だ。あんな疲れることを毎度やっているコロンボ警部は大したものだな、私には真似できん」
誰だよそれ。そう思ったのは俺だけではなかったようで、全員が誰、と頭を捻っている。比企は顔を顰めた。
「貴君らは『刑事コロンボ』を観たことはないのか。嘆かわしい」
そこでタイミングよく出てきたワンタン麺を啜ると、騙されたと思って動画を検索してみろ、と比企はため息をついた。
入り口のサッシ扉に冷やし中華のポスターを貼りながら、親爺がおっ、と振り向いて破顔する。
「懐かしいねえ『刑事コロンボ』! お嬢さんもご存知だとはねえ」
そんなにか。そんなに有名なのか。
結城がポスターに気づいた。冷やし中華かあ。
「もうすぐ夏かあ」
そうだ。いつの間にか、季節は初夏を過ぎ、梅雨に差し掛かっている。俺達の時間は、季節は、こうしてつるんで飯を食ったり馬鹿やって遊んでいる間にも過ぎてゆくのだ。
時間が止まったところで、その先はろくな結果ではないことを、俺達は知った。
なあ、と結城が提案した。
「終業式終わったら、冷やし中華食おうぜ」
賛成。そうだよ、どうせ時間を止められないのなら、存分に楽しむ方がずっといい。
俺は通知表の結果への不安はひとまず忘れて、この夏をいかに楽しむか、それへ想いを馳せた。
そうだ、どうせならオンジに会いに行くのもいいな。忠広も誘って。あとで比企にオンジの老人ホームの場所を教えてもらおう、と俺は思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます