跪くより花が欲しい

位月 傘

 ぼろ雑巾のようななりをしている割に、顔が可愛かったから。

「ねぇ、お父様、あれがほしい」

 宝石店と仕立て屋の間の、花も咲かないような路地裏にいる小汚い男を指さすと、父は初めてその存在に気づいたようだった。

 私よりひとつ、ふたつ年上だろうか。もしかしたら碌な食事をとっていないから発育が遅れているだけで、もっと年上なのかもしれない。

 髪はぼさぼさで顔はやつれ、服なんてひっかけてるだけのみすぼらしいものだったけれど、赤い瞳だけが爛々と煌めいていてまるで悪鬼のようだった。

「ね、キミだって、固い地面より暖かいベッドで寝たいし、怖い大人に怒鳴られるより、私に可愛がられたいでしょう?」

 路地に足を踏み入れて、顔を合わせるためにワンピースの裾を軽く持ち上げてしゃがみ込む。首を傾げてそう問えば、息も絶え絶えな少年は嫌悪をあらわに顔を顰めた。

「ひとでなしに玩具にされるくらいなら、死んだほうがましだね」

 気力があったなら唾でも吐いてきそうな態度だった。私にしか届かない掠れた声でよかった。おとうさまに聞かれていたら、きっと大変なことになっていたでしょうから。

 一緒についてきた使用人に指示して少年を抱えさせた。抵抗する体力もないようだが、やはり反抗的な瞳だけは死の淵をさまよっているとは思えないほどの輝きだった。

「これからよろしくね。名前はあとで決めてあげる」

 生意気な子のほうが可愛いなんて趣味はない。むしろ素直な子のほうがよほど可愛らしくて御しやすい。それでも雛鳥を守るために人を傷つける親鳥が健気に思えたり、手折ろうとした指に棘を刺す花がいじらしく見えたりするものだ。

 それにちょうど、私だけのものが欲しかったから。わたしにしかないものが欲しかったの。いつか大人になったら、あなたはどこか遠くに逃げてしまうのかしら。それまでせいぜい仲良くしましょうね。



 屋敷に帰って風呂に入れられて、身なりをある程度整えた少年はかなりみられる姿になっていた。不健康さが浮き彫りになっている体格はどうしようもないが、やはり顔立ちは絵画の天使のように端正であったし、なにより姿勢が良かった。

 宙ぶらりんになった足を揺らすこともなく、愛想のない顔で私を見つめてくる。

「ねぇ、キミの名前、何がいい?チャーリー?ジャック?それともオリバー?ルーシーなんていうのも可愛いかしら」

「……育ちは宜しいのに、センスはいまいちなんですね」

 空気が途端重くなる。お父様こそいないものの、私の部屋には二人の使用人が居た。同じ顔をした二人は、目の前の少年と同じように拾ってきた子たちだが、彼とは似ても似つかず、生に執着しているからなのか、私の誘いに二つ返事でついてきた。

 名家の使用人として働くにはそれなりの教養がいるし、本当は家柄も必要だ。いくら私の我儘が多少通るとはいえ、血を吐くようなとまでは言わないが、ここで居るためにはかなり厳しい躾をされる。

 それでもなお双子は愛らしくも私を慕ってくれる。しかし何事も死んだら終わりなのだから、特に不思議なことではないのだろう。

「まぁ、ひどいこと言うのね。それじゃあ、お手本を見せてくださいな」

 口元を両手で覆って、おどけて悲しんで見せる。意地悪を言っている自覚はあったけれど、彼は動揺する動作も見せずに、相変わらず背中に板でも入れられているようにぴんと背筋を伸ばしていた。

「……オフィーリア」

 少年は迷いなくそう言い切った。直感的に、それが彼の本当の名前なのだろうと分かる。路地裏にいたからてっきり自分の親も知らないのだ思っていたが、そうではないのかもしれない。

「オフィーリア、可愛い名前ね」

 そう言うとオフィーリアはぎろりとこちらを睨みつけた。どうやら相当名前に思い入れがあるらしい。首をすくめてみせると、我慢ならないといったように双子が声をあげた。

「お嬢様」

「うん?そうね、あとは任せるわ」

 私の面目というものもある。言葉を聞き入れると、彼らは表情は崩さずそのままオフィーリアを部屋の外に引きずり出した。次に彼と会うのはいつになるだろう。きっとしばらくは躾を施されるから会えないだろうけれど、私が連れ帰ってきた以上勝手に捨てることなんて出来ないし、他のお客様の前にお出しすることもできないから必然的に私専属になるのだろう。

 はてさて、いつまで反抗的な態度でいるだろうか。しかしあの性格を考えると早々に逃げだしてしまう可能性も考えられる。

 そんな予想を大きく裏切り、オフィーリアとはひと月もしないうちに再会することとなったし、研修中に彼が逃げようとするそぶりはなかったらしい。

「キミって優秀なのね」

「無駄口叩いてないで、さっさと準備してください」

「まぁ、ほかの人に聞かれたら大変なことになるから気を付けなさいね」

「どんなに態度が悪くても、この屋敷で一番仕事ができるのは僕ですから」 

「あら、頼もしい」

 両手を合わせて微笑むと、彼は鬱陶しそうに会話を終わらせた。その日は一日一緒に過ごしたわけだけれど、なるほど確かにオフィーリアは優秀だった。所作の一つ一つが美しいから、何をしても様になるというのも要因の一つなのかもしれない。もう少し肉をつければ、誰も彼が路頭に迷っていたとは信じないだろう。






「ねぇ、顔をもっとよく見せて」

「嫌ですけど」

 ある日の昼下がり、椅子に腰かけながら傍らに佇む彼にそう言ってみたら、まるで不可解なものでも見た顔をされてしまった。私は彼の顔が一等気に入ってるので傍で見たいだけなのだけれど。

「別に跪けって言ってるわけじゃないのよ?」

「そんなこと言われたら舌嚙んで死んでます」

 面倒そうに答える男は、いよいよ身長と年齢に見合った体になってきた。これで微笑みさえすれば、どこぞの令嬢に見初めてもらえるだろうに。まぁ、私のほうもそう易々とくれてやる気はないので、見せびらかしたりだなんてしないのだけれど。

「……この顔、どうせあなたも女のようだと言うんでしょう」

 彼はいつもより不貞腐れた顔と声音を浮かべていた。言葉につられてかまじまじとオフィーリアの顔を見つめる。その視線が不愉快だったのか、ぎろりと睨みつけられてしまった。

 しかしそれが恐ろしいわけでもない。私は私の言いたいときに好きな事を言い、振舞うのみだ。

「ねぇ、どうして女のような顔ではいけないの?それはキミが美しいことを何か損なう要素になりえるの?」

 鴉をペンキで白く塗ったとして、鴉でなくなるわけでもないし、美しい花を見てもっと明るい色なら好みだったのにと言ったとして、その花が醜くなるわけでもないのだ。

「どうしてって……そんなの、僕は知りませんよ」

「言われたから気にしているだけ?ならその方たちが愚かなだけよ。そんなことに囚われるくらいなら、いつか私に送る花の種類でも考えていなさい」

「……なんで僕が、お嬢様に花を?」

「だって素敵な見目の方にお花をいただくって、素敵なことだと思わない?」 

「…………はぁ」

 呆れたようにため息を吐かれてしまったが、先ほどまでの嫌悪を滲ませた表情は消え去っていた。どちらも苦い表情をしているという点には変わりないが、こちらのほうが柔らかい雰囲気で、お茶の時間には合っているだろう。

「それで、顔は見せてくれないの?」

「……嫌です」

「そんなぁ」

「……っふ」

 わざとらしく情けない声を上げると、耐えきれないといったように彼は笑いをこぼした。あざけりの色がないそれは初めて見たもので、またまじまじと顔を見つめてしまう。

 幻覚だったのだろかと思わせるほどすぐに笑みを引っ込めてしまった男は、いつも通りの生意気な口をきく。所有物にキャンキャンと吠えられたところで痛くも痒くもないが。

 彼の皮肉と小言を右から左に流しながら、そういえば、と思いつき口に出す。

「ここに来る前はどうしていたの?女みたいってその時言われたの?」

「あなた、デリカシーってものをどこかに置いてきたんですか」

「キミ相手に気にしたってしょうがないでしょう?」

 微妙な顔をしたオフィーリアと目が合う。何かおかしなことを言っただろうか。私が疑問を抱いていることに気づいたのか、視線をそらして彼のほうから話を戻した。

「ここの人たちにも言われたんです。特にあの双子はよく突っかかってきて鬱陶しいので、あなたのほうから何か言ってください」

「拾い子どうし仲良くできると思ったんだけど」

「嘘言わないでください。彼らは彼らだけで完結している仲なんです。他人が入り込む余地はないし、必要ともされてない。そんな中で自分の仕事を奪う相手が来たら嫌うに決まってるでしょう」

「まぁ、そうでしょうね」

「……本当に気づいてたんですか」

「失礼ね、そのくらい分かってるわよ」

「分かってて、僕を連れて来たんですか?」

「もちろん」

 信じられないものでも見るような顔をされたってそれが真実だ。私だって彼らを争わせようとしているわけではない。ただ争っていようとどうでも良いだけだ。

 そんなことよりも、わたしはキミが欲しかった。それに双子は癇癪を起したとしてもむやみやたらに暴れまわるような子たちではないし、オフィーリアだって一目でわかるほどの負けん気の強さを持っていたから、酷いことにはならないだろうと理解していた。 

「悪趣味ですね。僕たちに好意的なのはこの屋敷であなたしかいないんですから、あなたの周りに始終居られなくなった双子は肩身の狭い思いをしてますよ」

「あら、じゃあ代わってあげる?」

「冗談言わないでください。これは僕が優秀だから任された仕事です。悔しいなら僕よりも仕事ができるようになってから奪えばいいんです」

 驕るでも嘲るでもなく、オフィーリアは誰にというわけでもなくそう告げる。声音は凪いでいるが、瞳だけは初めて出会った時みたいにぎらぎらと輝いていた。やっぱり彼はこういう顔のほうが、珊瑚みたいな赤色の瞳が映える。

「そんなに私と一緒に居たかったなんて、知らなかったなぁ」

「は?どういう……………………違います。こんな面倒なお嬢様のお世話だったとしても他の雑用よりマシだというだけです。勘違いしないでください」

 おふざけのつもりだったが、そこまで必死に否定されるとさすがに少し傷つく。思わず苦笑いをこぼして弁明めいた言葉を言ってしまう。

「ふふ、そんなに怒らなくったって、キミが私を嫌ってるのは分かってるから」

「……別に僕は嫌いなんて、一言も言ったことないですけどね」

「……あら、まぁ」

 オフィーリアは私の態度がよっぽど気に食わなかったのか、それとも言うつもりのなかったことを口走ってしまったからなのか、いつものさらに数倍不機嫌そうだった。対照的に口を緩める私が気に食わないのかますます彼の機嫌は急降下してしまったようだ。

 それを理解していても、生意気な猫が懐いたときのような高揚感に、つい笑みがこぼれてしまう。

「今日のお嬢様は、なんだか人間みたいですね」

 ぽつりと呟いた音は、二人きりの広い室内では不本意だろうと響いてしまう。私も今日は随分と迂闊だが、彼のほうも負けてはいないようだった。苦虫を嚙み潰したような顔の男に、珍しく助け船をだしてやることにした。

「失礼な、私はずっと人間だったでしょう」

「……少なくとも、良家の子女に見られたいのならもう少し考えてから行動したほうがよろしいかと」

 彼は相変わらず私のことを憎らしい顔で見るし、私は私でへらへらと笑うのみ。いつもどおりだ、これでいつもどおり。だからどうか、私の失態を忘れてくれよ。私のほうも聞かなかったことにしてあげるからさ。

 





「キミ、相変わらず可愛い顔をしてるわね」

「ありがとうございます。ところで美人も三日で飽きると言いますよね」

「あら、随分と贅沢なひともいるものね」

 にっこり微笑んでみせると、呆れたように、今ではなれたようにオフィーリアはため息をついた。そんな顔をしながらも準備を進める手は止めず、品のない怒り方をすることもない。

「キミって本当、どうしてあんなところに捨てられてたのかわからないくらい気品があるわよね。実はどこかのご令息だったりするのかしら」

 いつもどおりの悪ふざけだ。だってかわいい子はいじめたくなってしまうから。

 また呆れた顔をされるか、それとも軽蔑を含んだ視線で見下されるか、今日は一体どっちだろう。しかし赤い瞳は予想外に真剣さを滲ませてこちらを射抜いた。 

「もし本当にそうだって言ったら、あなた信じます?」

「えぇ、もちろん」 

 迷いなくそう言い切る。だが本気で信じているというわけではなかった。もしかしたら私に対する意趣返しなのかもしれない。どちらにせよ、飼い主としては乗ってあげるのが道理だろう。

 だから私は、たとえ彼が天使を自称したとしても、同じように返しただろう。

 すぐに返事をしたのがそんなに以外だったのか、彼は揺れる瞳で問う。

「ほんとうに?」

「もちろん」

 だって嘘でも本当でも、どっちだって何かが変わるわけではないもの。念押ししてくる彼に微笑みかける。安心したようで力が抜けたのか、オフィーリアは大きなため息をついた。それが普段の呆れや怒り含んだものではなく、安堵のものだというのはすぐに分かった。

 先ほど信じてはいないと言ったばかりだが、この様子を見るにきっと彼の言っていることは嘘ではないのだろう。だったら次は私が問う番だった。

「帰りたい?」

「……帰る場所なんてもうありません」

「そう、よかった」

「……あなたって本っ当に、最悪ですね」

「素直でかわいいって言って」

 落ちてるものを拾うことはできても、去っていくものを追うことはできない。私の世界はこの広い家と、時々お父様にねだって許される街の一角のみだ。

 もういちど笑顔を作って見せると、今度こそ彼は嫌そうな顔になってしまった。

「もうほかのことは聞かせてくれないの?」

「なんでわざわざあなたに教えなきゃいけないんですか」

「ふふ、じゃあどうして教えてくれたのかしら?」

「お嬢様が何度も似たような質問をしてくるから答えたまでです。他意はありません」

 案の定すっかり不貞腐れてしまったようで、彼の瞳はたちまち冷え切ってしまった。残念、と口からこぼれる。一体どれに対してそう思ったんだろう。

「……まぁ、気が向いたらまたお話するかもしれませんね」

「『お嬢様がうるさかったら』じゃなくて?」

「いくらうるさかろうが話したくないことをペラペラ喋ったりしませんよ。僕があなたには話していいと思ったから、話したんです」

 まぁ、と口から声が漏れそうになってあわてて手で押さえる。ここで茶化したりなんてしたら、それこそ二度と教えてくれなくなりそうだ。 

 なんてことない顔をして作業を続ける男を見る。白いというより青白い肌は、赤みを持つと隠しようがない。そっちのほうが健康的にみえるね、なんて言ったら、ますます赤くなるだろうか。別の意味でだけど。

 

 



「ね、可愛いあなた。外に出ていいらしいから着いてらっしゃい」

「どうして僕なんですか。他にまっとうな召使いを抱えているでしょう」

「あら、キミだってどこぞの名家の子息だと自分で言っていたじゃない。それにほかの子たちはお父様と一緒に出掛けたくないでしょうし」

「僕だって親子水入らずの時間に割って入るような真似したくないんですけど」

「もう、どうせ誰かが着いていくことになるんだから一緒でしょう?それにあなたはセンスがいいから意見を聞きたいのよね」 

 オフィーリアは文句を垂れているが結局着いてくる。主と従者の関係なのだから当然だけれど。お父様は先に支度を済ませていたようだったから、媚びるように謝る。オフィーリアが背後で嫌な顔をした気配がするけれど、特に気にすることもなく腕を絡ませる。我ながらこの年の親子の距離感ではないなと思うが、もうこういう風にするのもすっかり慣れてしまった。

 ちらりと後ろを窺うと、私の行動にぎょっとしたような顔をしていたが、それに気づいたのは私だけのようだ。すぐにいつものしらっとした顔つきに戻ってしまった。

 いつもの仕立屋でドレスを選んで、それから隣の宝飾店でアクセサリーを見繕う。今日は路地に子供はいなかった。残念だ。

「ねぇ、オフィーリア、どれがいい?」

「……お嬢様でしたらなんでもお似合いになると思いますが、先ほどのドレスに合わせるならこちらがよろしいかと」

 周りの目があるからなのか、今日はやけにまともな執事然としていてつい笑ってしまいそうだった。これで笑顔でも浮かべてくれればそれこそ完璧だったのに、それだけはしないというような瞳の冷たさは相も変わらずだ。

 寄り道をする、なんてことは当然ないので、用事が済んだらすぐに家に戻る。ずっと閉じ込められるように過ごしていると狭苦しいが、こうやって別の建物に入るとやはり大きな家だと実感する。

「ついて来てくれてありがとう」

「本当に、急に言い出すのはやめてください。いつもは誰を連れてってるんですか?双子ですか?」

「私専属の使用人を連れていったのは今日が初めてよ」

「……因みに聞きますが、なぜ?」

「どれに対してかしら」

「全部に決まってるでしょう」

「もう、そんなに怒らないで。説明してあげるから」

「当たり前でしょう」

 そんなに不機嫌そうな顔しないで、と言えばますます不機嫌そうな顔になってしまった。でも怒っているというよりは、本当は不可解なのだろう。理解できないから怒っているのかもしれないが。

「キミを選んだのは、単にキミが適任だったから。振る舞いも度胸もね。どうして連れて行ったのかっていうのは、試したかったから。お父様がどこまで許してくれるのか」

「……娘が自分の使用人を連れることに許すも許さないもないでしょう。ひとりでなんでもするほうがよっぽどおかしいことですよ」

「普通はそうでしょうね」

 益々わけがわからないといった顔だ。それでも、どうせいつかは分かることだとしても、今は伝える気にならなかった。

 なおも言い募ろうとする男に、父に向けたように微笑んで見せた。

「今日はここまで、ね?」

「まだ説明してないことがあるでしょう」

「そうね。でもそれをキミに全部話す義理は私には無いでしょう?」

「僕が説明を受ける義理はあります」

「あら、どうして?」

「どうしてって……」

 可哀想な子なのだろうな、と思う。どれだけ心が気高くても、どんなに頭がさえていても、拾われた時点で逆らえないものがある。

 もう一度、とびきり妖艶に微笑んで見せる。ずぅっと昔に見た母親のような、ここ数年で張り付けなれたものを。

「私が私の持ち物をどこに連れて行こうと、ペットには関係のないことでしょう?」

 絶句するのは怒りからだろうか、それとも失望からだろうか。多少なりとも懐いた子猫を躾のために叩くのは、本意ではないのよ。

「僕の話を信じると言ったあなたが、僕のことをものとして扱うんですか?」

「そうよ、少し甘やかしすぎて勘違いさせてしまったかしら」

「……最低だ」

「あら、ずっと知っていたはずでしょう?それとも『死んだほうがマシ』だったかしら」

 オフィーリアの顔には怒りも軽蔑もなく、ただ失望だけが浮かんでいる。死の淵にあってさえ輝いていた赤い瞳すらも陰ってしまったのは、少しだけもったいないな。

 彼はこんな些末なことで再起不能になるほど弱い人間でもないだろう。きっとある日突然いなくなって、それでこれまでのことなんて忘れて、それなりに美しい女とそれなりの幸せを築くんだろう。

 オフィーリアは優秀で皮肉屋だ。だけど人でなしじゃないし、とびぬけた天才でもない。嵐のような悲劇にさえ見舞われなければ、否、見舞われたとしても枷さえなければ切り抜けられる男だ。 

「今日は下がっていいわよ、キミも疲れたでしょう」

「……では、失礼します」

 いつも通りの声だった。瞳だけが珊瑚のような鮮やかな赤から、血のように濁ってしまった。本当に、もったいない。

 でも、だからって。たった一つのことだけで、他のすべてが台無しにされるわけでもない。あのピンと張った背筋も、麗しい横顔も、淹れる紅茶の味も、変わることはないのだろう。その事実に安堵を覚えると同時に、少し空しくもある。

 だらしなくベッドに寝転ぶ。こんなところ見られたら、また怒られてしまうから、今だけ、ほんとうよ。

 見計らったかのようにコンコンと部屋の扉をノックされる。お嬢様、と呼び掛けられる声は聞き覚えのあるもので、緩慢な動作で体を起こし、入室の許可を出す。

「あら、何かあった?」

「お嬢様、いつも分かっているのにとぼけるのはやめてください」

「ふふ、ごめんね、エル」

 名前を呼べば双子は先ほどまで怒っていたのを忘れてしまったのか、花がほころぶように微笑んだ。元より怒りなど抱いていなかったのだろう、この子たちはそういうものだ。

 双子の名前はエル。『エル』と『エル』でも『エ』と『ル』でもない。二人でエル。ほかの使用人たちにはわかりにくいからと区別して呼ばれることがあることが気に食わないらしく、私にこうして呼ばれるのがエルは大層好きなようだった。

「今夜、旦那様がお呼びです」

「今回は少し間が開いたわね」

「寂しいですか?」

 エルがそういうから、私は思わず瞳をゆっくりと瞬かせる。エルは至極真面目にそう問うたし、今でもなぜ私が驚いているか理解していないのだろう。慌てて謝罪の言葉を述べる口を止める。

「どうしてそう思ったの?」

「えっと、だってお嬢様、旦那様のことを愛しているって言っていたでしょう?」

「そう、そうだったわね、そのとおりよ。ふふ、何もおかしいことは言っていないから気にしないでね」

「わ、わかりました。それでは失礼します」

「ちょっと待って」

 釈然としない顔で退室しようとするエルを引き留める。机の上に置いてあった洋菓子を一種類ずつ包んで、誰に見られているわけでもないがこっそり渡す。

「さっきだらしない恰好してたのは、内緒にしてくれる?」

「それはもちろん!あのいけ好かない男にも、他の誰にだって言いません!」

「いい子ね、でももうちょっとオフィーリアとも仲良くしてあげてね」

「それは……いくらお嬢様のお願いでも無理です」

 あまりにはっきりした物言いについ声を上げて笑ってしまいそうになる。随分と嫌われているものだ。双子は誰に対しても親交を深めようだなんて考えていないだろうが、私が言えば多少は受け入れたそぶりくらいはするものだったのに。

 私がオフィーリアを連れ込んだのが相当気に食わないのか、少しだけむっとした顔を隠すこともできない不器用な子は、いつもより強い声音で挨拶をして部屋を出て行った。

 再びベッドに寝転んで、目を閉じる。どうせ今夜は眠れないのだ。少しくらい、夕食前に、湯あみをする前に眠ってしまったって、きっと事情を知らない彼以外に怒られることはないだろう。





 夜にオフィーリアと会う、ということは今までも無かった。お父様に買ってもらったとびきり綺麗な服を身に纏って、軽く化粧をする。すでに夜も更けた時間、それにこの家の旦那様であり、彼らの雇い主の部屋の周りをうろつくような輩は屋敷にはいない。

 当然、私以外には、だが。かといって私だっていつも好き勝手出入りできるわけではない。ノックを三階、声は出さない。返事も待たずに扉を開けた。

「おぉ、マーガレット……」

 初老といっても差し障りのない見目の男性は、沈んだ瞳でこちらを見て、手を伸ばしてくる。迷うことなく腕の中に飛び込む。少女のような声音で、女のような仕草で微笑む。

「私はここに居ますよ」

 男を布団に寝かせ、傍らに腰掛ける。沈んだ瞳が嘘だったかのような穏やかな顔だが、それでもどこか別のところに居るようだった。

「ミアは……ミアはどこにいる?」

「もう眠ってしまいました。今日は2人でドレスを見に行ったのでしょう?その時のお話を聞かせていただきたいですわ」

「あぁ、そうか、そうだった。今度は君のドレスも見に行こう」

「まぁ、本当?そのときはとびきり素敵なものを選んでくださいね」

 男の語りはまるで懺悔のようだった。ならばここは告解室か、私は神の使いか。しかしこの世に許しを与えてくれるような神がいるのだろうか。他人に許しを与えるのが神なら、この身は今この瞬間、神に等しいのだろうか。

「今日はもう眠りましょう?私はどこに行ったりもしませんから」

 男の頭を柔く撫でる。子守歌を止める人間はどこにもいない。旦那様の顔を静かに見つめる。名残惜しいけれど戻らなければ。

 眠り込んだのを見届け、もう一度なぞるように髪を撫でる。足音ひとつ立てないように抜け出し扉を開ける姿は、到底令嬢には見えないだろうし、良くて悪戯が見つからないようにしていると勘違いされるだろう。

「……お嬢様?」

 夜更け過ぎの、誰もいないはずの廊下でオフィーリアは待ち構えていたように私の部屋の前に居た。どうしてこんなところに居るの、と無様にも出そうになった言葉をぐっと飲みこんで微笑んで見せた。

「今夜は奥様って呼んで?そうじゃないならマーガレットさまかしら」

「はぁ?あなたなに言って……」

「ふふ、キミが私の言っていることを理解できたことなんて、今まで本当にあったかしら?」

「僕は言葉遊びをしに来た訳じゃありません」

「あら、じゃあ夜這いかしら」

「昼間の続きです」

 少しは怒ってくれたって良いのに、オフィーリアは私の発言なんてちっとも気にせず、まっすぐ見つめてくる。憎しみの色は見えなかったけれど、親愛も同様だった。そこにはただ誠実さだけがあった。

「あのあと双子にも話を聞きに行きました。そうしたら今夜あなたを待てと」

 素直にあの子たちが助言をしたわけでもないだろう。エルは私がお父様を愛していると信じている。それにオフィーリアが本当のことを知ることになったところで、どうだってよかったのだろう。ただそれは不誠実な私にとっての手痛いしっぺ返しのようだった。

「……そう、いいわ、全部話してあげるわ。部屋に入りなさい。こんな夜中に、もし誰かに見られて誤解を受けたら大変なことになるでしょうけれど」

「ここに来た時点でそんなこともう織り込み済みです。いい加減諦めてください」

 早くしろと全身で催促してくる男に、ため息が出そうになる。一体どこで間違えたのか。いや、元より軽い脅しに屈するような御しやすい人間ではないことは分かっていたはずだ。だからこれはただの現実逃避に過ぎない。 

 ここでほかの使用人の目にさらされることは、彼だけでなく私にとっても危ういことだ。さっさと部屋に招き入れ、ベッドに腰掛けた。

「私、養子なの」

 お互いの顔が暗闇に紛れて良く見えなくても、オフィーリアが息をのむのが分かった。驚くのも無理はないだろう。私は『完璧』にこなしてきたのだから。

 これは尊大な自負によるものではなく、結果として私が今ここにいることが覆りようのない証明になっている。

「旦那様には奥様と、その奥様に瓜二つの娘がいました。誠実な父親に、美しく病弱な母親、心根の優しい娘の理想的な家族。旦那様の理想郷」

 私らしく、おどけたように話して見せるが、相変わらずオフィーリアは軽蔑もなく、凪いだ瞳で私を見ていた。それがひどく居心地が悪い。私のペースに乗ってくれないのは、ひどく恐ろしい。

「でも奥様とご令嬢は事故で亡くなってしまった。家族のことだけが大事だった旦那様は、『いなくなった』家族を探すことにした。そうして選ばれたのがそのお二人にそっくりだった、教会で暮らしていた身寄りのない私」

「あなたは養子として迎えいれられたんでしょう?それなのにどうして奥様だなんて……」

「それはもちろん、旦那様がとうの昔に狂ってるんですもの。実子も妻も、よく似た他人の区別なんてもう碌につかないのよ」

「それなら」

 今夜初めて瞳が揺れた。縋るような声だった。どうして誰も彼も、何も持っていない私にそんなものを向けるのだろう。

「それなら、あなたは誰なんですか」

 それは少なからず、私を驚かせる問いであった。だって彼が本当に知りたかったことはそんなことではないだろう。私は微笑む。深窓の令嬢のように、心根の優しい太陽の少女のように。

「旦那様の奥様のマーガレットで、そのご息女のミアよ」

「それはあなたではないでしょう」

「いいえ、私よ。どうしてそう思うの?名前が二つあるから?それとも生まれ持ったものではないから?」 

 どんな時であっても頭だけは回さなければいけない。私の虚像が見破られれば、ここにもう居場所はないのだ。今更教会になんて戻れない、戻りたくない。

「呼ばれた名の通りに振る舞い、同じものだと認識されているなら、私は間違いなく彼女たちと同じであるはずよ」

「いいえ」

 彼ははっきりと否定を示した。私の弄言を拒絶した。私の言葉を遮るように、もう一度目を見た。

「いいえ、あなたは彼女たちにはなれない」

「……どうして?」

 心底疑問だという風に、見えているだろうか。声は震えてない、挑発的な瞳も揺れてはいないと自覚しているのに、なぜだか見透かされてるような気分にされた。

 実際、私は心の底からそう問うてるはずなのに、彼を前にするとどうしてか嘘を吐いてるような後ろめたい気持ちに襲われる。ずっと虚言を弄してきて、そんな感情に呑まれたことなどないというのにおかしなことだ。

「だってそれが真実であるとあなたが信じ込んでいるなら、こんな風に僕に言い訳したりしないでしょう?自分が自分以外のなにかであると、自覚しているのでしょう?」

「キミって、本当にいじわるね」

「あなたが回りくどいことをするからですよ」

「……それでも、本当に愛しているのよ。嘘じゃないの」

 なんだかここまでこちらの言葉が彼に効かないとなると、どうにも気張っていたものが緩んでしまう。だから、言う必要のないことまで言ってしまった。オフィーリアは涙をこぼしたわたしを見てぎょっとしたようだ。わたしの愛だけは、たとえ強迫観念に駆られて植え付けられたものだったとしても、からっぽなのだと言われたくなかった。

 ただ、やられっぱなしは嫌だった。嫌というより、美しくない。だから無理矢理嗚咽を飲み込み、挑発的に微笑する。

「それなら証明してみせて。私がわたしだって」

 そうしたら、キミが一人の人間だってきちんと認めて、諦めてあげるから。 

「いつも面倒なことをおっしゃいますね」

「あら、レディの頼みを断るの?紳士であると言うのなら、そのくらいはやってみせなさいな」

「……仕方ないですね。所詮僕は使用人に過ぎませんし?命令されたら断れませんので」

「あぁ、それからね」

「はぁ……。まだ何かあるんですか」

「えぇ、とびきり大事なこと」

 少女のようなそれを『わたし』が口に出すには少し気恥ずかしくて、誤魔化すように笑みがこぼれた。

「ぜんぶ証明できたら、この世で一番綺麗な花を用意してくださる?」

 

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