第94話 お前は……
――斬られるという事はこういう事なのか?
だが、思ったほど痛みがない。
アリエーヌは、うっすらと目を開けた。
赤く染まった視界がぼやけていた。
だが、徐々にはっきりとし始める現実世界。
アリエーヌの眼前には金属光を散らす潜水帽が影を落としていた。
「がは!」
突如、潜水帽の窓から吐き出される大量の血。
とたん、その影の下で小刻みに震えていたアリエーヌの表情が真っ赤に染まる。
それどころか先ほどから、アリエーヌの顔にはポテポテといくつもの血が滴り落ちていたのだ。
それはまるで潜水帽の外壁を流れ落ちる赤き滝。
下から見るアリエーヌには、男の背後へと吹き上げられている噴水が、まるで枝垂桜の垂れ落ちる花ようにはかない幻のように見えた。
ヒイロの背を包んでいた大漁旗のマントが袈裟のように切り裂かれ、深紅に染まっていた。
切れ目から覗く背中には深い傷。
それは肩から腹にかけ一直線に走っていた。
守衛たちをみじん切りにしたゴキブリテコイの力である。
おそらく傷口は肺、いや、動脈にまで届いているのかもしれない。
潜水帽の下でアリエーヌの目から涙があふれ出す。
とめどなくこぼれ落ちる涙が、頬に降り注ぐ血を洗い流していく。
「どうしてなのじゃ……どうして先ほどから、お前はワラワを庇ってばかりおるのじゃ……」
小さき呼吸音が、潜水帽の中でこだまする。
そんな潜水帽がゆっくりと落ちてきた。
アリエーヌのおでこに金属の冷たい感触が優しく伝わる。
「ハァ、ハァ、ハァ……お……お前は……こんなところで死んでいい人間じゃないだろ……」
「そんなことはない……ワラワには何もない……空っぽなんじゃ……」
「……お前は誰よりも優しい……誰よりも強い……他の奴らがなんと言おうとも……俺だけは知っている……」
――あぁ……やっぱり……
その瞬間、アリエーヌの視界は大量のあふれる涙で完全ぼやけた。
「お前は……マー……」
「マーカスたん!」
言いかけたアリエーヌが吹っ飛んだ。
そこに駆けつけてるドグスのババア。
「マーカスたん! 大丈夫かぁッッッ!」
悲鳴にも似たその絶叫。
おそらく今までの人生の中で一番早く走ったことに違いない。
驚くことなかれ! その速度! 7km/h!
早い! 早そうに見える?
でもね、小学一年生の女子の50メートル走の平均タイムが約11.8秒!
その時速は約15km/h!
これでも全速力!
おっそぉぉぉぉ!
でも、これでもドグスのおばちゃん……必死なのよ。
だって、目の前で横たわるマーカスたんは血まみれ!
そりゃ、その様子を見れば気が気でないでしょ。
ドグスはマーカスたんの体を必死にさする。
体にまとわりついた赤い血ノリがそのたびに伸びていく。
首の傷はふさがっているようだ。
それ以外には傷はない。
どうやら体にまとわりついている血は、マーカスとアリエーヌをかばったヒイロの血。
そのため、マーカスたんはいたって元気。
息子の息子もちゃんと元気なようである。
もしかしてこれは、男性特有の朝のおはよう現象?
ようやく目を覚ましたマーカスたん。
「ママ……ぼくちん……がんばったよ……」
――えっ? 何をじゃ?
瞬間、固まるアリエーヌ。
先ほどまであふれ出ていた涙が鳥取砂丘に吸い込まれるかのように瞬時に乾いた。
だがドグスは涙を流しながら、そんなマーカスたんの頭を懸命になでる。
「分かっとる! 分かっとるやさかい! もう、しゃべらんでええ!」
「はぁ、はぁ、はぁ……早くそいつとアリエーヌを連れてこの場から逃げろ!」
膝をつくヒイロが、かすれる声を絞り出す。
涙で顔面が崩壊しているドグスは、ヒイロへと目を向けた。
「ヒイロ……お前、まさかマーカスたんを救ってくれたんか? ウチら、お前を殺そうとしていたのに……」
――えっ? この男の名はヒイロ? マーカスとは違うのか……
アリエーヌは、潜水帽を覗き込もうとした。
しかし、血で真っ赤に染まった潜水帽の中は暗かった。
「はぁ、はぁ、はぁ、そんなことはどうでもいい。はやく……アリエーヌを連れて……」
そんな言葉を遮るかのように、テコイが剣についた血のりを振り払う。
「ヒイロ! お前、また俺の遊びを邪魔をしたな!」
「はぁ、はぁ、はぁ……アリエーヌは別だ!」
ヒイロは金属帽をテコイに向けるも、どうやら体を起こせない。
そんな状況に、テコイの背後に浮かぶ黒ローブの男が声を荒立てた。
「そんな奴はどうでもいい! とにかくマーカスを殺れ! 前任者を引きずり出すのだ!」
薄れゆく意識の中でヒイロは思う。
――前任者とは何のことだ?
だが、頭に来ているテコイには、すでに男の命令は届かない。
テコイは、思いっきり剣を振り上げた。
「やかましい! ヒイロ、お前だけは絶対に許さん!」
ヒイロめがけて剣が振り下ろされる。
「死ねやこらぁぁぁぁぁ!」
バシーン!
激しい衝撃音とともに転がる肉体。
その苦痛に肉体がもだえる。
そのもだえる様子はまるで芋虫。
ケツ突き上げて白目をむく格好は、もはや無様としか言いようがなかった。
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