第91話 黒き男
ヒイロはとっさに背後を伺った。
観客たちが我先に逃げ惑う。
その観客たちの上空にポツリと浮かぶ黒い影。
――もしかして、増援機?
その影が身にまといしは漆黒のローブ。
さながらローブの裾が飛行機の羽のように風にたなびいていた。
「オイ豚! いつまで遊んでいる! お前の仕事はマーカスを殺すことだろうが!」
ステージに向けて発する声は男のもの。
どうやら、その男はテコイの仲間のようだ。
だが、ヒイロが以前いた【強欲の猪突軍団】のメンバーに、あのような男は見たことが無い。
いや、なんとなく見たような気もしないでもない。
どっちやねん!
ヒイロは、頭の中のおぼろげな記憶を懸命に探った。
――きっと、どこかで見たことがあるはずなんだけどな……
しかし、思い出されるのは湯煙の記憶ばかり。
そう、浴室の鏡に向かって下乳を洗うアリエーヌの姿であった。
――そういえば、俺、よく魔法回路をバイパスする練習していたっけな。
まだ、マーカスとして騎士養成学校にいた頃の事である。
夜な夜な寄宿舎の壁越しに透視魔法を唱えては鼻血を出してぶっ倒れていたものだ。
あぁ懐かしい性春の思い出、いや青春の思い出。
宙に浮かぶ黒きローブの男が大声を上げた。
「ブタァ! お前の狙いはあっぢだろうが!」
ローブから突き出された褐色の手が苛立つかのようにマーカスを指さしている。
というのも、先ほどからテコイはターゲットであるマーカスを放っておいて関係のないヒイロばかりを相手にしているのだ。
そのせいか、金色の眼光はあまりの怒りに耐えきれず打ち震えていたのである。
――この金色の目……どこかで……
だが、ヒイロはこの金色の視線に寒気を感じていた。
蛇のように絡みつくような視線。
確かに身に覚えがある。
「酒場での約束を思い出せ!」
その男が発した大声にヒイロは突然ピンと来た。
――酒場……だと……あぁどうりで見たことがあると思った。あいつカウンターに座っていた男じゃないか!
どうやらやっと思い出したようである。
まぁ、ヒイロ自身、酒場に訪れるたびにその男の姿は視界の隅に入っていた。
しかし、今まで一度もその男とは話したことはなかったのである。
男はヒイロが店に来た時から帰る時まで常に無言。
カウンターでグラスを磨く店主が話しかけてもただただクビを振るだけ。
何をするでもなくカウンターにじーっと座っているのだ。
だが、ヒイロはいつもその男の視線を感じとっていた。
自分の一挙手一投足を逐一伺っているような、そんないやな気配。
殺気とは違う……何か、なんというか品定めをするかのような……
まさに、まとわりつくような薄ら寒い視線である。
――もしかして、俺とおホモダチになりたいとか……
その視線に気づいたヒイロの背中にはゾクゾクとした寒気が走った。
――いやいや、俺はこれでもノーマルだ!
確かに俺のストライクゾーンは広いかもしれないが、一応ノーマルだ!
例えていうならば、俺は性春、いや青春と言う名のマウンドで白球を投げるピッチャーのようなもの!
しかも、スイングから投球までのスピードには自信がある速球派だ。
とにかく早い!
三コスり半といったところか。
そして、間違えてもらっては困るのだが、ボールはキャッチャーミットに投げたいのであって、ピッチャー用のグローブに投げたいわけではない!
ベッドという名のマウンドの上で繰り広げられる恋のキャッチボールを、決してピッチャー同士でやりたいわけではないのだ!
まして、ボールを互いのお尻にぶつけあうドッジボールなどもってのほか!
そんなヒイロの想いを知ってか知らずか、男の声はさらに荒立った。
「どっぢがいい! もういぢ度よく考えろ! また、醜い豚の姿に戻りたいのか!」
――何だって! どっぢがいいって! やっぱりか!
違う! そこじゃない!
――何だって! 戻りたいのかだって? いや普通、豚とゴキブリでは豚の方がまだいいような気がするのは俺だけか?
頭をひねるヒイロ。
――まさか……
疑いの視線をテコイに戻した。
――まさか……こいつ……テコイを
今のヒイロは【強欲の猪突軍団】を追い出されていたため、テコイがヒドラによって四肢を失い骨が露出するほどまでにボロボロになっていたことを知らなかったのである。
――こいつがテコイをゴキブリの姿にしたのか?
ようやくだが、やっとそれを理解したヒイロ。
その童貞は、もとい道程は間違っているが、やっと真実にたどり着いたようである。
小刻みに震えるテコイの目が上空の男を見上げていた。
「わかってますよ! 兄貴!」
その様子はまるで、ゴキブリのコスプレをした怯える子豚ちゃんのよう。
「ヒイロ、お前は後回しだ!」
テコイは慌てた様子でマーカスへと体を戻す。
テコイからすれば、また、四肢を無くしたあの体には戻りたくはないのである。
ゴキブリの体であっても自由に動ける今の方がよっぽどマシなのだ。
ヒイロはそんなテコイを乾いた目で見つめる。
――ゴキブリプレイってオモロイんかいな?
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