起章・なくしもの

 毎日通っている三年四組の教室に足を踏み入れるが、俺以外には誰も居ない。時間としては授業中であるものの、体育の授業なので、居なくて当然だ。いつも同じ教室を使っている連中は、今頃無意味な汗を流して、グランドを走り回っている事だろう。


 教室の扉は換気の為に開けっ放しだったため、わざわざ開ける必要も無い。誰かが机の上に置きっぱなしにしていたプリントが風に飛ばされていったが、俺には関係の無い事だ。無視して廊下の反対側にある窓枠へ腰掛け、ふと思う。


 雫と律が別れてから7年。律が死んでから3年が経過した。雫も成長して今や高校3年生。受験シーズン真っただ中で、直前に控えた夏休みの塾だのなんだのを、どうしようかと思い悩んでいる時期だ。高校3年生の6月。今更悩んでんのか、とどこからかツッコミが聞こえてきそうだが、そう、今更悩んでいるのである。進学か就職かも、何も決まっていない。と言っても、律が死んだ時に引きこもるほどのショックを受けて、しばらくの間学生生活を棒に振ったのだ。多少の出遅れは、寛容に見たい。


 とはいえ。


「なんとかしないとなぁ」


 意思が弱いというか意志が無いというか、雫は良くも悪くも自分の弱さを自覚しているせいで、未来に期待しない性質がある。そこだけは、なんとかしてやりたい。


「そんなに呆けて、どうしたんだい」


 不意に、考え事をしていた俺に、聞き慣れない声が向けられた。いや、いつもなら俺に雫以外の誰かが声を掛けてくる事など無いが、如何せん今は、この教室に俺しか居ない。必然的に、俺じゃないその声は、俺に声を掛けたのだと、気付かざるを得ない。


「…………」


 視線を向けると、そこには見知らぬ学校の制服を着た女が居た。長い黒髪。スレンダーな体躯。攻撃的な釣り目だが目鼻立ちが整っているからか、美少女と形容する事に抵抗を覚えない程度には、美しい女だ。


 だが、だからと言って「ひゃっほい君みたいな美少女がどうしたんだい、俺と一緒にランデブーとかどうだい?」なんて陽気に声を掛けられるような人間では無いので、冷静に考える。この場で俺に声を掛けてきている時点で色々と違和感はあるが、それは実際に声を掛けてきているため終わった事としよう。では、次の疑問だ。


「この学校は基本的に、関係者以外は立ち入り禁止だけど?」


 雫達が着ている女子の制服とまるっきり違うのだから、誤魔化しようが無いし、その女は誤魔化す気も無いのだろう。サバサバとした、乾いた声で笑った。


「細かい事は気にするな。君に頼みごとをしたくて来たんだ」


 と、女は言う。


 いや、素直に驚いた。まさか俺に声を掛けてくるやつが雫以外に居るなんて夢にも思わなかったし、それが顔も名前も知らない美少女と来れば驚愕を禁じ得ない。さらに校舎内に不法侵入してまで俺に頼みごとをするなんて、よっぽどだろう。そう、よっぽど。よっぽどの厄介ごとだ。雫の受験シーズンに厄介ごとなんてまっぴらなので、御免こうむりたい。


「とりあえず、まず名前と所属組織と役職を教えろよ。あと名刺な。基本だぞ。基本も出来んやつとは取引出来ない」


 意地悪で色々と言ったが、女は動揺ひとつせず、わざとらしく苦笑してみせた。


「困ったな、名刺なんて持っていないんだ。あとどの組織にも所属していないし、名前も名乗りたくない。――目的上、自分からは名乗れないんだ。だから役職名だけしか言えないのだけれど、役職……うん、まぁ、私の役職は『運命の人』あたりかな」


 え、想定よりずっとやばい人っぽいんだけどこの人。ちょっと怖い。


「あー、俺、運命とかとは縁が無いんで、お引き取り願いましょうか」


「はっはっは、なに、引き受けて貰えずともすぐにお引き取りするさ。長居は出来ないからね。ただ、その代わりに頼み事をする。……いや、私の願いを強制的に押し付ける。その面倒事を押し付ける相手の名前くらいは聞いておきたいのだけれど、教えてもらえるかな」


 面倒事って自覚があるなら簡便して頂きたいものだが、まぁ、言ってしまえばこの状況が既に面倒だ。毒を食らわば皿まで、というが、この場合は川に落ちてしまったので行きつくとこまで流れるしか無い状態ってやつだ。


「……一輝だ」


「……一輝ね。うん、わかった。じゃあ一輝くん。……一輝さんのほうが良いかな?」


「どっちでもいい。どうせ同い年みたいなもんだろ」


「多分違うけれど……君がそういうならお言葉に甘えて。敬称は苦手だからね。ともかくだ。君に押し付けたい頼み事は、とても明確な内容だよ」


「面倒事を面倒に引き延ばさないでくれ。なるべくシンプルに頼む」


「おーけー解った。ではさっそく」


 そう言ってその女は、自称運命の人は、どこか不敵に、不適に、いや、不安げに、そのどれもが正解で、そのどれもが正しくないような、そんな意味深な笑みを浮かべて言った。


「本日中に、小さな問題が起きる。それをなんとか、穏便に解決してほしい」


 と。


「…………おいおい、シンプルにとは言ったが、シンプルと曖昧はちげ」えぞ。


 最後まで言い切る間も無く、自称運命の人は教室から出ていった。


「…………質疑応答も無しかよ」


 呆れつつ、そしてどこか諦めつつ、後を追って俺も教室を出てみるが、既に廊下にやつは居ない。どこへ向かったのかも解らない。


 曖昧な問題提示。ヒントも無しと来た。こんなもん、頼まれたところでどうしようも無い。なるようになるしかならないわけだ。ともすれば、俺にはどうしようもない。


 と諦めるには、自称運命の人の予告した通りに発生した問題はあまりにも解りやすく、しかし小さく、けれど極一部の人間――世界で唯一の当事者にとってのみ、重大な問題だった。


 問題の内容は「所持品の紛失」被害者は「愛野雫」で、紛失したものは「木彫りのネックレス」


 ああ、そういえば、と、紛失したネックレスを探し回る愛野雫を見て、ふと思い出す。


 今日は、愛野雫と神辺律がお別れをした日から、ちょうど7年目になるのだったか。

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