黒龍の詩

うたかた あひる

序章

墜ちた神

 「主上、彼をどのように」

「既に処刑台の上にいるのだろう?」

「はい」

「直接話がしたい。そのままにしておいてくれ」

「御意」

 二つの影がゆらりと揺れる。そのうちの一つが建物から出てきた。


 神界はある事件に揺るがされていた。

 はるか遠い昔から、人間と魔物の世界を知る神界の者たち。その者たちが耳を疑うような大事件である。

 「まさか、あいつが」

 建物から出てきた者はひとりごちた。彼もまたその衝撃に足を震わせながら、再び処刑台へ向かう。

 この処刑台は急遽作られたものだった。本来なら必要のないもの。わざわざ人間界に行ってその形状や使い方を調べたくらいだ。

 残念ながら彼らは全知全能ではない。彼らはただ、便宜上自分たちを「神」と呼んでいるだけだ。言うなれば世界の管理人であり、傍観者でもある。

 それだけの存在に、何故思考や感情があるのか。そんなものがあるせいで、こんな事件が起きてしまったのだ。


 彼は処刑台を見上げた。そこには無様に磔にされた黒い狐がいる。

 「もう少し、待ってくれ。すぐに王が来る。直々にお前と話をしてくださるから、何か弁解すべきことがあるなら遠慮なく言え」

 彼が罪人──いや、罪神と言うべきか──に、やけに親切なのには訳がある。事件を信じたくないのだ。

 彼はその場から立ち去ろうとした。

「待て、カミナリ」

 黒い狐は口を開いた。あまりにもはっきりとした口調に、カミナリと呼ばれた彼は驚愕した。

「俺は悪だ。それはもう認めてる。俺は故意に悪事を働いたんだ。言い訳は全部言った。これ以上何もないから、さっさと俺を処刑しちまってくれ。これ、痛えからよ」

 黒い狐はにんまり笑っていた。磔台の上で口を歪ませるその姿は、確かに邪悪だった。

 「……なんにせよ、王の赦しなくしてお前を殺すことはできない」

 カミナリは落ち着いて答えた。

「そうかい」

 黒い狐が答えたとき、カミナリの背後から王が歩いてきた。

「どうやら、元気そうだな」

 王は黒い狐を見て言った。黒い狐は服従を示すかのごとくうなだれた。

「王、俺……わたしにはもう何も話すことはありません。先日お伝えしたことが全てです」

 王は黒い狐の足元まで近づいた。

「わかっている。わたしはお前の話の確認に来たのではない。お前の処置と、今後の話をしに来たのだ」

 黒い狐は細い目を見開いた。

「わたしは生かされるのですか……」

「そうだ。一つずつ、話をしよう」

 王は懐から紙のようなものを取り出した。

「まず、お前は今後その真の名を名乗ってはいけない。名乗ればその瞬間、お前の真名は罪に汚され、意味を成さなくなるであろう。すなわちお前の死が訪れる」

 黒い狐は震えた。彼らにとって真名ほど大事なものはない。

「よってお前には、仮の名を与えよう。罪を犯した者としての名だ」

 黒い狐はすっかり意気消沈して、王の次の言葉を待っていた。

「お前の名は、『黒狐(くろぎつね)』だ」

「……さほど、変わらないのでは」

「変えるほどの価値はない。名はただお前という存在を示すための記号のようなものだ」

 黒狐はみじめに耳を垂れた。生かされると聞いて、王が大目に見てくれたのだと思ったが、案外そうでも無いことに気づいた。王は完全に、黒狐に失望しているようだ。

「次にお前に与える罰だ」

 王は黒狐の目を覗き込んだ。

「お前のその視力を取り上げる」

「視力を、ですか」

 黒狐は心底驚いた。狐は視力を奪われたところで、嗅覚や聴覚さえあればそれほど不便を感じることもない。やはり王は、黒狐に甘い気がする。黒狐は王の考えていることが全くわからず、ただ困惑するばかりだった。

「最後に、お前にはある任務を与えよう」

「任務……?」

 黒い狐は何が何だか、といった顔で聞き返した。

「そうだ。とても重大、そして難しい任務だ。完遂できたら、お前の罪は赦される」

「そんな大事な任務を、なぜこのわたしに」

「お前にしかできないことだからだ」

 王はそう言うと、カミナリに何かを渡した。カミナリは一瞬、怯えたように首をすくめ、そして王と場所を変わった。

「黒狐……これからお前の視力を奪う。覚悟を決めろ」

「死ぬ覚悟ができてたくらいだから、今更もういい」

「そうか」

 カミナリはうなずいて、白い目隠しを黒狐に巻き、口に棒を噛ませた。そして錐のようなものを、その、眼孔に突き刺した。

 黒狐は噛み締めた牙の隙間から、激しいうなり声を漏らした。その形相は恐ろしく、カミナリが思わず同じように呻いたほどだった。

 目隠しが外され、再び黒狐が目を開いたとき、すでに世界は何もかもぼやけて、輪郭さえも定かではなくなっていた。

 「黒狐、よく聞きなさい」

 王は黒狐を縛りつけている縄を外しながら言った。黒狐は未だ残る痛みに顔を歪めつつ、王の言葉に耳を傾けた。

「これはわたしにとっても――そして、この世界にとっても大きな試練なのだ」

 王はそこで初めて、表情を変えた。それは悲しみに満ちた、慈しむような表情だった。無論その表情は、黒狐にはもう見えない。

「お前の任務、それは――」

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