第23話 東雲の商人と夏祭りの準備 2
商談は若利の屋敷の客間で行われている。
開けっ放しの障子戸の外には独楽と天津がおり、何があっても直ぐ動けるように待機していた。信太はと言うと、話の邪魔になるからと小夜と一緒にいる。
「…………」
独楽は客間から聞こえてくる話を聞きながら、ちらりと天津の顔を見た。アガタ、と名乗った商人が現れてから、どうにも天津の様子がおかしいのだ。
やけに商人を警戒している天津の顔は、先ほどから強張っている。普段は表情豊かなので気にならなかったが、こういう表情をしていると、子供が泣き出しそうなくらいに怖い。
独楽は若利たちの話の邪魔にならないように小さな声量で天津に話しかけてみた。
「甘栗さん、怖い顔になっていますよ」
「む、これはいかん。某のナイスなフェイスが」
独楽に指摘され、天津はハッとして手で顔をさする。ぐにぐにと顔を解す内に、ほんの少し表情が柔らかくなった。
「どうでござるか? ナイスに戻ったでござるか?」
「うーん、もうちょいですね」
独楽が言うと天津は顎に手を当てて「むう」と鳴った。声の様子は比較的位置も通りである。少しほっとして独楽は話を続けた。
「あの商人、ひとまず神雷結界を通れたという事ですから、今ここで何かしようという悪意や敵意はないようですよ」
「今は、な」
含んだような天津の言い方に、独楽は「おや」と首を傾げる。
「あとで何かしでかすと?」
「……某が知っている商人は、金を積まれれば容易く裏切る者ばかりだったのでな」
天津は苦々しく言った。何があったのかは独楽には分からないが、天津の様子を見るからに、相当嫌な思い出があるのだろう。
商人に限らず、金を積まれれば容易く裏切る者というのは、独楽も過去に数人遭遇した事がある。その大体はそれに見合った風貌をしていたので、ある意味では納得――腹は立ったが――もしたが、今の所アガタがどうなのか、というのは判断が難しかった。
「……ふむ。東雲の商人は、継ぎ接ぎ世界の北から東の区画にかけて動く商人ですから、何かあるとしたらそちら側の関係ですかね」
「一番近いと、リベルタ区画でござるな。奪われた区画、でござるが」
独楽の言葉に天津はフッと遠い目になった。複雑な色をした目をした天津に、独楽が声を掛けようとすると、それよりも早く天津に問いかけた。
「そもそも悪意の定義とは何でござろうな?」
独楽は目を丸くした。神雷結界の事を言っているのだろうか、唐突にそう聞かれ、独楽は顎に手を当てた。
そして少し考えてから、
「他者の尊厳を奪おうと良からぬ事を企めば、それは悪意と言えるのでは?」
と答えた。悪意や敵意などは、改めて言葉にせよと言われると、なかなか答え辛いものである。悪やい敵意が分からないと言う事ではなく、定義が難しいのだ。
例えば、殺意や怨恨、憎しみなど、そう言ったよほど強い悪意や敵意であれば言葉にはしやすい。だが、それ以外の、ほどほど――と言っていいのか微妙なところではあるが――の悪意や敵意を明確に言語化する事が難しいのだ。
神雷結界が阻むもの、などと行ってしまえば視覚的には分かりやすいが、天津のように半分だけ挟まる者もいる。天津に何らかの悪意があるかどうかは別として、悪い人ではないというのは独楽にも分かった。
ならば悪意の定義とは何なのか。そう問いかけられて、独楽は改めてそれが思ったよりも曖昧なものである事を自覚した。
「予想外に小難しい話になってきたでござる」
だが、問いかけた当の本人は、キリッとした顔でそう言ってのけた。
「自分で振った話でしょうに」
「いや、意外としっかりした答えが返って来たので驚いたのでござる」
「人を何だと」
独楽が半眼になって睨むと、天津は誤魔化すように笑った。
「はっはっは。……なぁ、独楽殿」
「はい?」
「独楽殿は、ずっとここにいるつもりでござるか?」
ふっと、天津が独楽にそう尋ねた。その言葉に独楽は一瞬、若利の言葉を思い出した。
他の区画の者に。
その言葉がどうにも頭の中に響く。独楽は指で顔をかくと、
「……さあ、先の事は良く分からないですけれどね」
と苦笑した。曖昧な答えに、天津が少し首を傾げる。なぜ、と目で問いかけられて、独楽は続きを話し出した。
「ここにいたい、という気持ちはありますけど、ほら、クビになったらそこまでですからねぇ……」
そして空を見上げた。原色の絵の具を落としたかのような青空が広がっている。
「………………居心地が、良いんですよね、ここ」
たっぷり時間をかけ、独楽は正直にそう言った。
イナカマチ区画のゆったりとした長閑な雰囲気も好きだが、何よりも穏やかで気さくな住人たちを独楽は気に入っていた。出来ればずっとここにいたい気持ちにもなっているのだが、あくまで仕事で来た身だ。何らかの事で仕事を辞める事になってしまえば、他の区画から来たものを置いてはくれないだろうな、と独楽は思っていた。
それでも置いて欲しいと言えば受け入れてくれそうな気もするが、いらないと言われてなお居座る図々しさは、独楽はまだ取れない。聞く自信もなかった。
「ああ、確かに、ここは居心地が良い。……懐かしいほどに」
少しだけ目を伏せた独楽に天津は頷いた。そして空を、山を、村を、イナカマチ区画の風景をじっと眺め、目を細めた。何かを思い出しすような眼差しだった。
空が茜色に染まるころ、ようやく商談は終わった。
日も暮れてきたので若利が
「せっかくだから泊まって行くか?」
とアガタに声を掛けたが、彼は他にも回るところがあるのでと辞退して帰って行った。
天津は始終警戒をしていたが、特に何も起こらなかった事に独楽は少しほっとしている。
だが、一つだけ気になる事もあった。
アガタは帰り際に、
「ああ、そうだ。私から一つだけお節介を。時は金なり、と言いますし。何かやりたい事があるなら、急いだ方が良いですよ」
などと言っていたのだ。それが何を指しているのか独楽には分からない。しかしその時、僅かに天津の表情が強張るのが見えた。
普段ならば見逃すような些細な変化だ。
だがアガタが来た時からどうにも天津の様子がおかしかったせいか、ふっと視界の端に映ったそれが妙に独楽の印象に残ったのだった。
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