第5話 贈り物


 勉学と任務で忙しくしているうちに十二月になり、冬の厳しさが本格的になってきた。山の上にあるソロモナリアほどではないけれど、首都ブクレシトもそこそこ寒い。


「え? 帰らない?」


 ルイザとフロリカが驚いて私を見た。

 節約のために暖房のついていない部屋の中、私たちは揃って白い息を吐きながら、分厚いコートを着込んでいる。


「はい。年末年始の休みは短いですから。実家には帰りません」

「そうか」


 ルイザは複雑そうな顔で俯いた。一方フロリカはあけすけに言った。


「あら〜。もったいない。折角の聖誕祭なのに、家族に会わないで、一人で過ごすの?」


 私は口角がひくっと引き攣るのを感じた。

 宗教が禁じられている共産主義国にとって、宗教的行事の話などもってのほかだ。ロマニオでは、辛うじて聖誕祭だけは祝うことを許されているが、それもひっそりと行うのが不文律だった。それなのに、フロリカときたら……。私の非難の目線に気付いているのかいないのか、彼女はお喋りを続ける。


「最近は私の家でも、聖誕祭でご馳走は出ないの。出たとしてもサルマーレ(酢漬けキャベツで肉団子を巻いた煮物)くらい。それでも、父様や兄様、家族みんなが集まるのよ」

「フロリカみたいな軍人の家系でもそうなのか。やはりどこの家でも食料事情は厳しいようだね」

 ルイザは言った。

「うちも、お祝いらしいことはできないよ。でも、顔を見せないと、弟妹たちが皆寂しがるからね」

「そうよねぇ」


 ルイザに向かって頷くフロリカを見て、私はいくらかムッとした。


「いいんです。私は改めて冬季休みの時に帰りますから」

「あら、そう」


 フロリカはまるで気にしていない様子だった。


「でも、大丈夫なのか? 休みの期間中は、食堂も閉まってしまうし」


 ルイザが心配そうに尋ねたので、私はたちまち機嫌を直した。


「平気です。買い物をします。料理は一応できますし」

「買い物……ねえ」


 ルイザは苦笑いをして、フロリカと顔を見合わせた。


「まあ、幸運を祈るよ。くれぐれも体調を崩さないように」

「はっ、はい」


 そういえば、とルイザは思い出したように言った。


「君のように実家が遠い者の中には、帰らない者も幾人かいるようだ。交通費も惜しいと言ってね。この間紹介したエーダー君も、今年は寮で過ごすらしい」


 微妙に嬉しくない情報だ。あのような者と顔を合わせる機会があったところで、特にいいこともない。男子寮の盗聴中にうっかり使える情報を吐いてくれるのなら、まだありがたみがあるというものだが。


「何にせよ、今年も無事に年を越せそうで良かった」

 ルイザは言った。

「こうして生きていられることに感謝だな」


 ***


 先輩二人が揃って帰省するのを見送ってから、数日が経つ。


 敬愛するルイザが去ってしまって一人で過ごす真冬の寮は、殺風景で寒々しかった。コートを羽織って掛け布団に包まってもまだ、凍えるような心地がする。

 だが、いつまでも引きこもってはいられない。食堂は今日で閉まることになっていた。明日の朝食のために、どこかの店へ買い物に出かけなくては。

 行くなら早いほうがいい。午後にならないうちにしよう。


 長々と溜息をついてから、私は外へ出る支度をした。風の吹き荒ぶ屋外は、誰もいない室内よりもなお寒かった。

 これまでに何度か外出をしてようやく覚えた道を通って、近くで見つけたパン屋に向かう。

 店の前には長い行列ができていた。一、二、三、四、……十人、十一人、十二人。

 誰も彼もがくたびれた様子で、虚無を顔に貼り付けている。

 私は胸に不安を抱えながら、最後尾についた。

 ショーウィンドウから見えるパンの山は、とても小さく見えた。果たしてこれで全員に行き渡るのだろうか。


 案の定、私の番が回ってくる頃には、店内にはもう数えるほどのパンしか残されていなかった。私が幾つか買ってしまえば、もう丸パンの二、三個しか余らない。

 慣れない手つきで会計を済ませて後ろを振り返ると、パンにありつけなかった後列の人々が、やはり虚無を顔に貼り付けたまま、さっさと店から出て行く様子が確認できた。


 続いて向かった肉屋はもっとひどかった。私が着いた時に、全ての商品が売り切れてしまったらしい。大量のお客が手ぶらでぞろぞろと退散するところだった。


「あの」


 私はおずおずと進み出て店主に声をかけたが、すげなく追い返された。


「帰った、帰った。もうソーセージの一欠片も残っちゃいないよ。諦めな」


 結局、私の買い物カゴに入っているものは、粗悪で小ぶりな丸パンが三つだけ。これだけで明日一日を乗り切るのかと思うと、どうにも心細い。

 セキュレシティに身を置いてから久しく忘れ去っていた感覚──飢えへの恐怖が、微かによみがえった気がした。


(明日はもっと朝早くから店に並ぼう)


 そう決意して、女子寮の扉をくぐる。

 部屋の机には、堂々と盗聴の機材が置いてあった。これまでは、ルイザとフロリカの両名がいない時を狙って盗聴を行なっていたが、休みの期間中は、彼らに身分がバレる心配がなくなる。


 徒労感を抱えて、ヘッドホンを装着した。

 任務と訓練ばかりでろくな趣味も持ち合わせていない私は、空いた時間にも仕事くらいしかやることがない。

 ところが、校内にあまり人がいないせいか、誰の話し声も聞こえてはこなかった。盗聴先を次々と切り替えてみたが、ノイズ混じりの沈黙が広がっているばかりだ。


(少し、休もうかな)


 私は機材を片付けて、すとんと椅子に腰掛けた。

 フロリカが置いていった本が、何となく、視界に入った。以前中身を見せてもらった、エミノヴィチの詩集だ。


(何だっけ……あの、たとえ死んでも愛は残るとかいうやつ)


 気になってムズムズしてきた私は、恐る恐る本を手に取って、ぱらぱらとめくってみた。

 しばらくそうしていたが、あの詩は見つからなかった。

 目次はあったものの、肝心の題名を忘れてしまっていたので、探せなかった。

 探すのにも飽きてしまった私は、本を元の場所に戻した。


(……お腹空いた)


 せめて、今日だけはたくさん食べよう。

 ルイザのいない昼食には早くもうんざりしてきたところだけれど、体調を崩さないようにと言われているのだから、しっかり栄養を摂らねばなるまい。


 ***


 変化があったのはそのまた数日後、十二月二十五日の夜だった。


 結局その日も私は、ヘッドホンを着けていた。何もすることがないと、無意識に仕事をしてしまうものだ。

 人が残っている部屋を特定できたので、話し声を拾うのも容易くなっていた。


『お前さあ』

 たまたまラドゥ・エーダーの寮部屋からの受信設定をして、ボーッとノイズを聞き流していたところへ、男子生徒の声が飛び込んできた。この部屋に住んでいない人の声だ。確か、エーダーが懇意にしている友人のうちの一人。

『そんなにラジオのチャンネルいじって、どうするつもりだよ』

『決まっているだろう。地下放送を拾うんだ』


 答えたのは間違いなくエーダーの声だった。

 ギュンッと心臓が飛び跳ねた。


(はい!? 地下放送!?)


 政府に認められていない報道は、言うまでもなく重大な犯罪だ。報道することも罪ならば、聞くことも罪。

 報道基地は見つけ次第セキュレシティが潰しに行くし、企画者は漏れなく極刑に処すことになっている。それは私が一番よく知っている──何故なら私は将来的には純粋な戦闘要員を嘱望されており、セキュレシティの中でも汚れ仕事を数多く経験する立場だから……現にこれまでだって、実績は両の手では数え切れないほどある。

 また、一般家庭から地下放送の音が聞こえてこようものなら、あちこちに潜む密告者が即刻セキュレシティに通報して、その家族は全員しょっぴかれる。そういう現場にも、私は山ほど立ち会ってきた。

 そんな危険なものを、わざわざ、拾う?

 はあ、はあ、と呼吸が荒くなった。心臓もまだバクバク脈打っている。


(落ち着け……冷静に対処するんだ。欠陥品と言われたくなければ)


 私は、そっと、機器の録音ボタンを押した。それから息を殺して、二人の会話の続きを待った。


『地下放送って、お前っ……』


 そう言ったきり、相手は絶句した。それはそうだろう。命知らずにも程があるというものだ。


『公共放送なんてお決まりのプロパガンダしか流さないだろう。真実を知りたいのならば地下放送を聞かなくては。貴様はそうは思わないのか』


 エーダーは低い声で言いつつ、ラジオの周波数を調整し続けている。


『それは……』


 相手は言い淀んだ。エーダーは頓着せずに続ける。


『ロマニオの経済状況は最悪と言っていい。世界最貧国の水準に達しているとさえ言われている』

『そっ、それは、反逆者がニコレスクの邪魔をしてるからだろ?』

『まさか貴様、そんな妄言を本気で信じているとは言うまいな』

『よせって。どこで誰が聞いているか……』

『今は聖誕祭の休日だ。誰もいやしない。セキュレシティの連中も休んでいるだろう。だから話しているんだ』

『しかし……』

『まあ聞け。ニコレスクの独裁にはいよいよ終わりが近づいている。去年のブラーソの町での反乱は貴様を聞き及んでいることだろう。政府から出された、食費と光熱費を削減するという発表に対して、あのロマニオ有数の工場町が反抗したんだ。これは画期的な事態だよ。あの頃からロマニオは変わり始めた』

『ラドゥ、待て』

『もう限界なんだよ。ただでさえニコレスクは、西側諸国への債務返還のために、ロマニオ国民の食費すらも削り続けてきたんだ。そのせいで飢え死にした者がどれほどいるのか、計り知れない……。路上には孤児があふれかえり、一般家庭の者たちすら飢餓に喘いでいる。その横で奴は何をしていると思う? 国民宮殿だとかいう豪奢な城に引っ越して、妻と一緒に贅沢三昧だ。こんなことはどう考えてもおかしいだろう』

『……ラドゥ』

『この学校に通えている俺たちは、物凄く裕福な方なんだ。恵まれている。だが俺は自分さえ良ければ良いとは思わない。国民を守る軍人を志す身でありながら、国民を見捨てることなど、できはしない。だから、真実をちゃんと知る必要があるんだ。ニコレスクは……』

『やめろ。言うな』

『……ニコレスクは間違ってるっていう、真実を』


 永遠とも思える静けさが訪れた。エーダーは、いつのまにやらラジオを動かすのをやめている。

 私は神経を極限まで聴力に集中させていて、目の前が真っ白になっていた。

 何ということだ。ついにやった。信じられない。恐ろしい程にうまくいった。ただの偶然だけれど。私は決定的な証拠を手に入れた。まさか、ここまでぺらぺらと吐いてくれるなんて。こんなに馬鹿正直な反逆者に出くわしたのは、セキュレシティになって以来初めてだ。もしやこれは夢ではないだろうか。

 


『今のは──』


 エーダーの友人が緊張の滲んだ声で言った。


『──聞かなかったことにしてやる』

『……貴様』

『だからもう危ない真似はやめろ』


 彼は切実な様子で訴えた。


『お前には、お前を待ってる家族がいる。それに……』

『それに?』


 次の言葉に、私は不意打ちで頭蓋骨を砕かれたような心地がした。


『お前、ルイザ・シャラルが好きなんだろう。ラドゥ』


 集中が切れた。

 私は頭から機械に突っ込みかけて、慌てて体勢を立て直した。

 ヘッドホンからは『ひょわ!?』というエーダーの間抜けな声が聞こえてきた。

 しかしエーダーの友人が紡ぎ出すとんでもない台詞は、まだまだとどまるところを知らなかった。


『……いいか、ラドゥ。お前、さっさとシャラルに告白しろよ。そんでもって覚悟を決めろ。必ず彼女を守るとな。そうしたら二度と馬鹿な話はできなくなるだろうさ』

『馬鹿な話とは……! 貴様!』

『黙れ。俺はともかくとして、彼女を道連れにはしたくないだろ?』

『……!』

『な? 頼むから大人しくしていてくれ。友としての一生の願いだ』


 エーダーは無言になった。


『それじゃあ、俺は帰る。おやすみ』


 相手が部屋から出て行く音がした。

 私はハッとして、録音を停止した。


 それから呆然として、明日の背もたれにもたれかかった。


(え……告白?)


 ルイザに? エーダーが?

 何ということだ。

 エーダーがあまりにも奥手なものだから、その可能性をほとんど真面目に考えてこなかった。だがまさか、友人から発破をかけられるなんて。盲点だった。

 どうしよう。奪われると思うと、自分で自分の想いがいよいよはっきりと分かってしまう。


(嫌だ……先輩。ルイザ先輩。誰にも取られたくない……)


 私は居ても立っても居られず、部屋の中をぐるぐると歩き回った。


(ルイザ先輩。ルイザ先輩ルイザ先輩ルイザ先輩ルイザ先輩ルイザ先輩……。あの人を、守らなくては)


 高潔で寛大で親切で優秀で清廉で明朗なルイザを、守り通さなくては。

 あの人に不貞の輩が近づくのを許してはいけない。

 ラドゥ・エーダーのことは、排除しなければならない。この手で。


(……極刑に処さなくては)


 私は腰のベルトに手をやった。それから、自分が今はナイフも銃も所持していないことを思い出した。

 代わりに、机の上に鎮座している盗聴機器を見下ろした。

 それから、思わず、ウフッと笑った。


(今なら、赤子の手を捻るよりも簡単だ。あいつを粛清することなんて!)


 もし私に聖誕祭を祝うことが許されるとしたら、この録音は、正に最高の贈り物だ。

 ああ、何て素敵な夜!

 ニコレスク様に感謝を申し上げねば!!

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