第4話 勉強

「奇遇だな!」


 図書室の長机の一角に腰掛けたルイザに言われて、私は曖昧に笑顔を作った。


「そうですね」


 奇遇でも何でもない、密かにルイザの後をつけていた私が、満を辞してルイザの前に姿を現しただけのことだ。


 それというのも先日、ルイザはラドゥ・エーダーと共に課題をやる約束をしていたのが始まりだ。金曜日の放課後、図書室で──。わたしはその情報を盗聴で入手していた。

 二人きりで勉強だなんて許せない……怪しすぎる。エーダーは何か良からぬことを企んでいるに違いない。そういうわけで私はその日、Ⅰ-Aの人間と交流を深める計画を取りやめて、ルイザの追跡を行ったのだった。


「お勉強ですか?」


 私は何も知らない風を装ってルイザに尋ねた。ルイザはにこやかに頷いた。


「ああ、課題を共にやろうと誘われてね。彼はラドゥ・エーダー。私と同級なんだ」

「ナルホド」

「エーダー君。彼女はイオナ・ルスレアヌ。この秋から私と同室になった子だよ」

「そうだったのか。よろしく、ルスレアヌさん」


 エーダーは畏まって言った。実直そうな表情だった。


「こちらこそ……」


 私は再び曖昧に笑うと、あらかじめ用意していた質問を投げかけた。


「すみません、お二人でいらっしゃるところに。お邪魔でしたか?」


 エーダーは目に見えて動揺した。


「えっ、あっ、いや、その」


 一方のルイザはからからと笑った。


「あはは、気にしなくていいよ!」


 ふむふむ、と私は心の中で何度も頷いた。

 予想通りだ。

 エーダーは間違いなくルイザに気がある。だがルイザはそんなつもりはない。彼女はどの生徒にも分け隔てなく接する性格なだけで、エーダーに対しても特別優しくしているわけではない。


(残念だったね、エーダー君。ルイザ先輩は、そうやすやすとは陥落させられないよ)


 良かった。一安心だ。


「でしたら」

 私は遠慮がちに申し出た。

「私もそちらの席を使ってもいいでしょうか……? 空いた場所が見つからなくて、困っていたんです」


 エーダーは「あ……」と言ったきり口を噤んでしまったが、ルイザは快く「どうぞどうぞ」と言ってくれた。私はまんまと、ルイザの隣の席をせしめることに成功したのだった。


 にまにまと笑いながら持参した教科書を開いた私は、そこではたと困ってしまった。


(私がここにいたら、エーダーは反逆的な話を持ち出さないのでは?)


 二人きりでなら秘密の話をするかもしれないが、第三者がいては危険な話題は口にできないだろう。

 迂闊だった。エーダーの企みの邪魔をすることばかり考えていて、彼に証拠を吐かせる算段をつけていなかった。何という愚かしい失態か。セキュレシティとして恥ずかしい。


(うう……つくづく私って駄目な奴)


 私がショボンとしていると、ルイザが「どうした?」と声をかけてきた。


「何か悩み事か?」

「えっ、あっ、はい!」


 私は急いで言い訳を考えた。


「じゅ、授業が難しくって……。ここで復習しようと思ってたんですけど、その、さっぱり分からず……」

「なるほどね」


 ルイザが不意に顔を近づけてきたので、私はドキッとした。


「ふむ、両世界大戦の歴史か……。よければ私が教えてあげようか」

「えっ。いいんですか」

「構わないよ。エーダー君との課題が終わったら、君の勉強を見てあげよう。それくらいの余裕はあるよ」

「はわわ……」


 私は心が浮き立つのを感じた。

 ここに居座ることを許されたばかりか、エーダーと過ごした後の時間まで確保してくれるなんて。

 ──勝った。

 この勝負、完全に頂いたよ、エーダー君。

 ちらっと横目に彼の顔を窺うと、今度は彼の方が心なしかショボンとしているようにさえ見えた。

 おやまあ!

 他人様に対してこんなに優越感を抱いたのは、一体いつぶりのことだろうか!


 この機会をみすみす逃すなんてもったいない。エーダーの言質を取るのはまた今度にして、今はルイザと共に過ごすことを優先しよう。


 これでいいはずだ。だってこうすれば少なくとも、エーダーがルイザに悪い言葉を吹き込むのを防げるのだから。私はちゃんと仕事をしている。何も問題は無い。

 私は張り切って、第一次世界大戦前のロマニオの複雑な歴史が記されている書物に、目を走らせ始めたのだった。


 ***


 この日のルイザとの自主勉強時間は、あまりにも充実していたので、その後も私は度々ルイザに教えを乞うようになった。エーダーと違って、私はいくらでも口実を作ることができるし、ルイザとの距離感もずっと近い。講師役を頼むのはわけもないことだった。


「お時間を取らせて、一年生の勉強を見させてしまい、申し訳ないです。ルイザ先輩にはルイザ先輩の勉強があるのに。ご迷惑でしたら言ってください」


 そう言うとルイザは明るい声でこれを否定する。


「大丈夫だよ。いい復習になるし、私は私でちゃんと勉強時間を確保できているからね」


 優秀で懐の深い人間だからこそ言える台詞である。私は彼女への心酔を一層深めるのであった。

 そして今日も私はルイザと二人で図書室に行く。


「……結局、第二次世界大戦では、ロマニオは勝ったんですか? 負けたんですか?」

「えっ? ああ、君の場合は、そこからなんだね」

「す、すみません……この辺、ごちゃごちゃしていて、分からなくなってしまうんです」

「いや、構わない。まず、ロマニオは戦勝国だ、と認識しておこうか。その上で、経緯を把握していけばいい」

「分かりました」

「第二次世界大戦中のロマニオの政権は三段階に分けられる。

 まず第一段階、国王が主導権を握っていた時期。彼は戦争に意欲的ではなかったため、ロマニオは枢軸国・連合国の両方の手により領土を奪われた。

 次に第二段階、この混乱に乗じて政権を握ったのが、鉄衛団だ。彼らは枢軸国側としてロマニオを戦争に参加させた。

 それから第三段階。ここで共産党が権力を得る。連合国の一員であるソヴェティア軍がロマニオを占領した影響で、鉄衛団が権力を失い、代わりに共産党が台頭したのさ。この時からロマニオは連合国側として戦うことになった。

 ──だから、戦争が終わった時点で、ロマニオは戦勝国である連合国軍に所属していたのだし、その後はまあ……ソヴェティアの『よき友人』として共産主義国となる道を歩んだというわけだ」

「あれ、でも、なんか……教科書にはもっと色々書いてあります。年号とか日にちとか、偉い人の名前とか……」

「それは追って覚えればいいよ。一度にたくさん覚えるのは大変だろう?」

「それは、そうですが」

「人間の脳は、物事を三つに分けて考えると覚えやすいそうだよ。だからイオナはまず、この第二次世界大戦の三つの段階を覚えること。それができたら、細かいことを学んでいこうか」

「はい……!」


 私は嬉しくなって、つい大きな声を出してしまい、慌てて口を押さえた。


「凄い。ルイザ先輩に教わると、自分が本当にできるかもしれないって思えてきます」

「おやおや。『かもしれない』では困るよ。本当にできるように、君自身が頑張らなくてはね」

「そ、そうですね。ルイザ先輩のご協力を決して無駄にしないよう、精一杯努力します」

「ふふ、期待しているよ」


 そう言われて、私の多幸感は天井知らずの高まりを見せた。


「はいっ……!」

「さあ、今日はここまでにしようか。寮でフロリカが待っているよ」


 ああ、もう二人きりの時間が終わってしまった。残されているのは、寮まで歩いてゆくための僅かな時間だけ。名残惜しいことこの上ない。

 それでも、私は幸運だ。二人きりではなくとも、この人と寝食を共にできるのだから。その尊さを思えば、多少の不便は我慢できる。相手があの、嫌味なフロリカであっても。


 ***


 監視対象:ブクレシト短期士官学校Ⅰ-A。

 目立った反逆行為は無し。


 監視対象:ラドゥ・エーダー。

 怪しげな動きを確認するも、証拠はなし。要注意。


 監視対象:フロリカ・ポーペ。

 読書が趣味である。きついことを言う。


 監視対象:ルイザ・シャラル。

 目立った反逆行為は無し。

 学校には無遅刻無欠席。試験の点数はどれも九割を超えており、学年首位である。

 近頃は勉強に費やす時間を削って、早朝の走り込みに力を入れている。普段のコースを先月よりも一周多く走っている模様。それに伴い、訓練の時間における教師のルイザへの叱責の頻度が、二十パーセントほど減る。

 体作りのために食事の質を改善したいとの発言あり。但し食堂のメニューの改善は見込めず。代わりに昼食にはパンに加え何か一品──



「お前はー!!」


 ペトルは私の報告書を最後まで読まずに、私に怒りの眼差しを向けた。


「何だ、このふざけた報告書は!」

「ふざけてなんかいないよ。ちゃんとⅠ-Aのことだって調べたし……」

「文字数の! 割合が! おかしいだろうが!!」


 ペトルは憤懣やる方ないと言った様子で椅子を蹴立てて立ち上がった。それから、喫茶店の他の客の注目を集めてしまったことに気づき、「失礼」と咳払いをして再び席についた。深呼吸をして、再び私を問い詰め始める。


「何故、無罪と推定できるルイザ・シャラルのことを、こんなにも入念に調べているんだ? 他にもっと労力の割き方というものがあるだろうが」

「まあ……確かに……」

「そして何故、他の人物に関する報告が、こんなにも雑なんだ? 何だ、『怪しげな動き』って。これでは何も伝わって来ない」

「ああ、それは……エーダーはルイザ先輩に反逆的思考を吹き込もうとした可能性が……」

「それもルイザ先輩絡みかよ!」

「うん」

「『うん』じゃないっ! 怪しい奴がいるなら、そいつから優先的に情報なり証言なり何なり引き摺り出して来いよ!」

「……そう、だったね……」

「ああーっ、お前は! 何のために潜入任務についていると思ってる!」

「偉大なるニコレスク様のためです」

「そうだ! それがこんな……こんな稚拙な仕事ぶりで、許されると思っているのか……! このっ、馬鹿っ。セキュレシティの恥晒しがっ」

「ご、ごめんなさい」


 私は小さい声で呟いた。


「殺処分寸前の欠陥品で、ごめんなさい……」


 ペトルは、はっと我に返ったように目を見開いた。


「……べ、別に」


 彼の声もまた小さくなる。


「お前を貶したくて言ってるんじゃない。俺は単に、お前が心配なんだ」

「えっ? 私のことが?」


 私がびっくりして問い返すと、ペトルはまた怒ったような表情になってしまった。


「勘違いするなよ。これは、お前がちゃんと仕事ができないせいで、ニコレスク様にご迷惑をおかけするんじゃないか、それが心配だ、っていう意味だからな!」

「なあんだ。そうだよね」


 私はどこか安堵した気持ちになった。「とにかく」とペトルは顔をしかめたまま続けた。


「次からはもっと時間を有効に使えよ。ルイザ・シャラルのことはもういいから、他の怪しい奴のことを探るんだ。いいな?」

「了解」

「よし。……じゃあ、俺はこの後、任務があるから」

「そしたら、お会計は私が」

「いや、俺がもう済ませておいた」

「あ、そうなんだ。ありがとう」


 ふん、とペトルは席を立った。店員からコートを受け取って店を出る。私もそれに続いて外に出た。短い挨拶の後、ペトルとは反対の方向に歩き出す。


(これからはどうやって任務をやっていこうかな)


 コツコツとコンクリートの地面を踏みながら、思案する。


(ルイザ先輩のことはもう調べちゃいけないのかな)


 それはひどく寂しく、そして不安なことであった。私は、こう自分に言い聞かせた。


(……調べちゃいけないわけじゃない。だって、ルイザ先輩が反逆者じゃないっていう決定的な証拠は、まだ掴めていないんだもの)


 有罪の証明は容易く、無実の証明は困難だ。それを分かった上で、私はルイザの調査を諦めきれないでいた。詭弁のような望みに縋ってまで、追跡を続けたかった。


 何故なのか、もう自分の中で答えは出ている。


 私はルイザのことが好きなのだ。

 ルイザのそばにいたいし、ルイザのことを知りたい。

 もっと、もっと、もっと。

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