第二章 闘争
第9話 任務
私は一旦、ソロモナリアに帰った。
モミやトウヒが鬱蒼と生い茂る山の中、小さな湖を臨む静かな場所にひっそりと存在している、秘密の養育施設。
施設に入ったら、まずは研究員のマリサ・フィエラルと会い、健康診断を受ける。
「この一年間、体調はどうだった?」
フィエラルは大雑把に切ってある赤みがかった長髪を無造作にまとめながら聞いた。私は畏まって答える。
「特に何も。風邪も引いていません」
「何日も連続してドラクラムを飲まなかったことはあるかい?」
「いいえ。平日はほぼ毎日飲んでました。一錠ずつですが」
「よろしい。禁断症状も出ていないね。命に別条もなし。じゃあ採血するから、腕を出したまえ」
血液検査の結果、特に大きな異常は見られなかった。
フィエラルは「貴重なデータが得られたよ」とほくほくしている。
それから身長やら体重やらも記録した。フィエラルは手元の資料に色々と書き込んでゆく。幾つかの質問も追加で行われた。
「ああ、それと。何か心境の変化とかはあったかい?」
最後にこう聞かれた。私は意味がよく分からず、瞬きをした。
「ええ……? どういうことですか」
「例えば、ニコレスク様への思いは変わったかな?」
「まさか」
私は大急ぎで首を横に振った。
「ニコレスク様への忠誠心は以前から少しも変わりません。私はこの身の全てをニコレスク様に捧げるつもりでいます」
そう断言してから、私は内心「あれ?」と思った。
学園生活の最中、私はたまに、ニコレスク様のことを忘れてはいなかったか? ──ルイザのことを、考えてばかりいたために。
……いや、だからといって、私の忠誠心に揺らぎはない。
「そうか」
フィエラルは記録用紙に走り書きをした。
「よろしい、よろしい、大変よろしい。これで、私の検診は終わりだよ」
「はい」
「これは追加のドラクラムだ。もちろん、君のための特別製さ。受け取りたまえ」
「ありがとうございます」
私は瓶をもらって、立ち上がった。
「さあ、上官のところにおゆき。君には何かしら指示が出されるだろう」
「分かりました。失礼します」
「何か変化があったら、すぐに言うんだよ」
「え? あ、はい」
私は研究室を後にした。
***
久々に会った上官からは、一ヶ月間の自主訓練を言い渡された。
「八月から君には、ブクレシトでの暗殺業務に入ってもらう。今はそれに備えてなまった体を鍛え直しておきたまえ」
そういうわけで、トレーニング三昧の日々が始まった。基礎的な体力作りに加えて、銃の練習、ナイフ術、気配を消して行動する練習など、やることは多かった。
体を動かしている間は無心になれた。そうして訓練に明け暮れている合間に、私はここ最近の世界の動きを、上官から教えてもらった。
まず、これはテレビでも報道されていたのだが、先月、ロマニオと親交のあるチャイニオ人民共和国にて、大規模な弾圧が行われた。ニコレスク様はチャイニオ政府の対応を称賛している。
またこれも先月、ロマニオの北西に位置する隣国マージャ人民共和国は、西側諸国と東側諸国を隔てる鉄条網を、一部撤去してしまった。「鋼のカーテン」とも呼ばれる境界線が開かれたのは、冷戦が始まって以来初めてのことだ。このことは情報規制によりロマニオでは報道されていないので、ニコレスク様は公には何も言っていない。だが好ましいと思っていないのは明白だった。マージャでは以前から、パルラントに続く形で民主化への「円卓会議」を行なっていたし、どうにも動向が怪しい。
そしてそのパルラント人民共和国では、既に民主化が認められたどころか、先月には自由選挙まで行われ、これまで議席を独占していたパルラント統一労働者党の勢力は大敗北を喫したという。要するにパルラントでは民主化革命が成功してしまったのだ。無論このこともロマニオでは報道されていない。こんなことが国民に知れ渡りでもしたら、ニコレスク様の政権を揺るがしかねない。
しかも、これらの不穏な動きに対して、ソヴェティア社会主義共和国連邦は、全く関心を示さなかった。マスクヴァル条約機構の軍を各国に進駐させることもなければ、非難の声明を発してすらいない。
これが昔だったら、ソヴェティア軍はすぐさま行動を起こしていたというのに。東ジェルマにもマージャにもそれからチェスコスロヴィオにも、ソヴェティア軍は進駐した実績がある。それなのに昨今のこの状況は一体どういうことなのか。
そして、情報の徹底的な検閲にもかかわらず、ロマニオの一部の国民は、民主化への世界の動きを敏感に感じ取っていた。これからは粛清対象が急増するだろうと、上官は言った。私は気を引き締めて、トレーニングに勤しんだ。
そのようにして、ソロモナリアでの日々が過ぎゆく。
真面目に訓練して、勉強して、……それでもやはり、退屈だった。寂しかった。
ルイザとあんな別れ方をしてしまったのが悲しくて仕方がなかった。
私が失敗をしなければ、今頃はお互い友人のままでいられたのに。仕事の合間に会いにいくことだってできただろうに。
軍隊に入ったルイザはどんな姿をしているだろうか。体を壊してはいないだろうか。もう二度と、あの愛しい人と、会ってお喋りをすることは叶わないのだろうか。
耐えがたく思われて、私は宿舎の自室で、毎晩声を殺して泣いていた。
***
やがて一ヶ月が過ぎた。
準備を万全に整えた私は、ブクレシトのセキュレシティ本部にやってきた。
配属先は、ペトル・カロレスコの率いる若手五人で構成された特殊部隊だ。
「お前は純粋に戦闘要員だ」
荷物を置いて出てきたばかりの私に、ペトルは早速説明を開始した。
「お前ほど動ける奴は他にはいないからな。指示は俺が出すし、下調べや後処理は後輩たちがやる。お前は余計なことを考えずに、ただ殺ってくれればいい」
「分かった」
「薬はちゃんと管理しておけよ。お前のだけ特別に調合されてるんだから」
「うん」
「それから銃とナイフと棍棒は……」
ペトルはあれこれと口やかましく小言を連ねた。私はおとなしく頷いていた。
「早速だが『仕事』がある。明日場所の下見をして、明後日は訓練、明々後日には決行する。詳細はこの資料にあるから」
ペトルがバサッと分厚い紙束を渡してきた。そこには標的の個人情報や襲撃場所の詳細などが記されていた。
「ちゃんと読み込んでおけよ。分からないことがあったらすぐ質問するように。それじゃあ、今日は休んで良し」
「はーい……」
ようやく解放されたので、私は本部の建物をぶらぶら歩いて、休憩所でお茶を飲んだ。それから、資料室に向かった。
セキュレシティのブクレシト本部に行ったら、調べておきたいことがあった。
まずは、ロマニオ軍の新規入隊者の情報。
私はぱらぱらと資料をめくった。
(ロマニオ陸軍第十小隊配属──ルイザ・シャラル。ふむ)
それからちょっと顔をしかめて、反逆者の名簿を引っ張り出した。
(ラドゥ・エーダー、刑務所行き。……フロリカ・ポーペ、自宅軟禁)
二人とも死んではいないようだった。彼らがどうなっていようが正直興味は無いが、ルイザが「許さない」と言っていたことだけが、どうしても気がかりだったのだ。
(……二人とも生きているなら、許してくれるだろうか)
確かめる術は、無かった。
***
三日後の昼、私たちセキュレシティ特殊部隊の面々は、各国の大使館が集結しているブクレシトの一角に向かった。標的が亡命する前に仕留めるのだ。他国の大使に怪我を負わせては国際問題になるから、襲撃場所は大使館より少し手前、標的の乗った車が通るであろう道の真ん中。
念のため、他の部隊と手分けして、複数の道筋を押さえていた。私たちの部隊はその中でも最も可能性の高い場所に陣取っている。
果たして、後輩の無線機に他の部隊からの連絡が入った——偽装用の車がこちらに現れた、本命はそちらに来る、と。
そして、道の先に、東ジェルマ産の銀色の車が現れた。作戦通り、ペトルが乗客を確かめに行く。その間に後輩が前後の車を引き留めにかかる。私は合図があるまで待機だ。
やがて後輩の一人が私に向かって手を挙げ、乗客の一人を車から引きずり降ろした。私はナイフを持って突撃する。二錠分のドラクラムによって得た速さで、風のように標的の元に参じる。そのまま頸動脈を掻き切ろうとして、ふと手が止まった。
「……イオナさん?」
「こいつじゃない」
私は呟いて、掴んでいた男の胸ぐらから手を離した。
「えっ?」
「顔が何か変だもん」
私は男の鼻先を指さした。
「どうした」
ペトルが駆けつけて来る。
「こいつじゃないよ、ペトル。似てるけど違う」
「何だと?」
ペトルは男の肩を踏んづけて、その顎の下に手をかけた。
べろりとマスクが剥げて、全くの別人が顔を現した。
「ありゃ!? やられた!!」
後輩は素っ頓狂な声を上げた。
「ペトル、他の車は?」
「もう通してしまった。クソ、瀬戸際でこんなアホみたいな偽装をするとは……」
「標的は今どこにいるんだろう?」
「とっくに大使館の前だろうよ。間に合うか……? おい、車を奪え。イオナをアメリーコ大使館前まで連れて行け」
「ううん、私はいい。ペトルは車で後から来て」
「は?」
私はポケットからドラクラムをもう三錠出して、噛み砕いて飲み込んだ。
「私は走って行く」
「……分かった。後で会おう」
「了解」
私は文字通り、車より速く走り出した。角を曲がって大使館前の駐車場に突っ込んで行くと、標的らしき集団が入り口に向かって走っているところだった。
多くの護衛の中に、標的の顔を確認できた。今度こそ間違いない。
私はダンッと地面を蹴り、その集団に襲い掛かった。護衛が驚いた様子で銃を抜いたが、それよりも早く、私のナイフが彼等の喉元を切り裂いた。仕留め損ねた護衛が私に向かって発砲したが、その弾丸を難なく避けた私は、残りの全員を片付けてしまうと、どさくさに紛れて大使館に逃げ込もうとしていた標的の背中から、一息に心臓を突いた。
「ふう」
私は渋い緑色の制服の袖で汗を拭った。薬を急激に摂取したせいで、脈拍が速い。それに、久々に人を殺したせいか、少し返り血を浴びてしまっている。
キキーッと音がして、ペトルたちが乗った車が駆けつけてきた。
「イオナ!」
「ペトル、みんな。終わったよ。片付けをお願いしたいんだけど……」
「お、おう……」
ペトルは不安そうに標的のむくろをあらためると、安堵したように息をついた。
「助かった。さすがだったな、イオナ」
「い、いいえ……」
私ははにかんで下を向いた。久々に褒められた気がした。
***
「急に薬を飲んで大丈夫だったか?」
帰り際にペトルが尋ねたので、私は首を傾げた。
「大丈夫って……?」
「だから、体に異常はないかと聞いてるんだ。隊員の体調管理は隊長である俺のつとめなんだよ」
ペトルは怒った様に言った。
「あ、うん、問題ないよ。ちょっと目が疲れたけど」
「目?」
「だって、ドラクラムを飲むと、目が良くなるでしょう」
「確かに動体視力は上がるが……そうか。それだけ速く動くと、視覚が追い付かないのか」
「追いついてはいる、かな……。お陰で、偽物を見破れたし」
「ああ。あれはお手柄だった。礼を言う」
「えへへ。……どうしたの、ペトル。今日は何だか優しいみたいだけど」
「なっ! 俺はいつも優しいだろうが」
それはない、と後輩たちが揃って否定した。
「ペトル先輩はどんな時もめちゃくちゃ厳しいじゃないですか」
「すぐ人のこと罵倒しますし」
「使えない使えないってそればっかり言ってますよ」
「私のことも、欠陥品って言うよね」
「えー! それはあんまりですよ」
「それはっ」
ペトルは少し赤くなっていた。
「お前らの出来が悪いからだろうがっ。ちゃんとした働きをした時は、ちゃんと褒めるぞ、俺は!」
「へーそうなんですか、知らなかった」
「じゃあ俺たちのことも褒めてくださいよ。ほらほら」
「な、舐めやがって……今日の任務じゃ、お前らは大した役にも立っていないだろ!」
「ペトル先輩ひどーい」
「ひどくなんかない! 事実を述べたまでだ」
わいわい喋りながら、私たちは本部までの道を悠々と歩いて帰った。私はにこにこしながら、仲間たちのお喋りに耳を傾けていた。
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