第8話 蜜月
フロリカがいなくなって、ルイザは目に見えて落ち込んでしまった。可哀想なルイザ。私がその心の穴を埋めてあげなくては。
私は寮部屋のベッドに座って悲しみに暮れる先輩のそばについて、献身的に話を聞いた。
余計なことは絶対に喋らないように気を付けた。涙を流すルイザも美しいな、とは、思っていても口にはしなかった。反対に、フロリカ先輩はきっと無傷で帰ってきてくれますよ、と思ってもいないことを言って、ルイザを落ち着かせるのに努めた。
ついでに、ぎこちない手つきで、背中をさすってあげた。
「ありがとう」
ルイザは洟をすすった。
「イオナは優しいな」
「いえ……」
私は束の間、顔を伏せた。褒められた嬉しさでにやけてしまうのを隠すためだった。こんなことで褒めてもらえるなら、私はいくらだって優しい言葉をかけてあげられる。
ルイザはこの日私に五回も「ありがとう」と言った。
いい感じだ。
ルイザが私を頼りにしている。
そのままもっと私に依存して、離れられなくなればいい。
***
二人きりの時間が格段に増えて、私は幸せだった。
ルイザのことが日増しに好きになる。
朝も昼も夜も私はルイザといられる。
至上の喜びだ。
私はルイザの、朝目覚めた時に目をこする癖が好きだ。ベッドから抜け出すときに無意識に寝ぐせを治す手つきが好きだ。おはようと眠そうに言ってくれる時の柔らかい笑顔が好きだ。一緒にランニングをしている際の規則正しくも荒い息遣いが好きだ。運動を終えた後、朝の冴えた空気の中で上気している頬が好きだ。私の助言に従って徐々に運動能力が向上していく様子を観察するのが好きだ。帰ってから運動着から制服に着替える時のボタンを留める丁寧な仕草が好きだ。すっかり目が覚めて動作にそつがなくなる所も好きだし、廊下を歩く規則正しい靴音も好きだし、教室前で別れる時のシャキッとした笑顔も好きだ。
昼休みには私がルイザを迎えに行く。最近は立て続けに二人もルイザと親しい人が逮捕されたので、生徒の間ではよくない噂が立っている。ルイザはセキュレシティと繋がりのある密告者なのではないかと、誰もが警戒し、彼女と距離を取っている。だから彼女はあまり他人と話そうとしなくなった。私だけが唯一安心して喋れる学友だ。私が顔を出すとルイザは安心したように肩の力を抜く。そういう気丈な所も、私だけに弱さを見せる所も好きだ。私だけのルイザ。私だけの。
軽食を取りながらルイザは色々と話をしてくれる。私は静かに聞き役に回る。私には隠し事が多いから話せることも限られているのだ。代わりに私はルイザのことなら何でも知りたかった。午前中に受けた訓練の内容や、一年生の頃にどんな事件があったか、実家の弟妹たちがいかに可愛いか、お金を稼げたらどんなことがしたいか、軍人をやっていくに当たって不安なことは何か、幼い頃の忘れられない思い出は何か、昨日見た夢はどんなものだったか、行ってみたい国はあるか、どんな花が好きなのか、好きな食べ物は何なのか、好きな動物は、好きな色は、好きな音楽は、好きな服は、好きな銃は。とりとめもなくお喋りをするルイザの横顔を見ることが好きだという私の内心は秘密だ。
放課後は私は先に寮部屋に帰っている。ルイザにも一人になりたい時があると思うからだ。できればルイザの発する言葉一つ、吐息の一つも聞き逃したくはなかったけれど、それではルイザが不快に思うかもしれない。それにルイザにだって私に見られずにやりたいことがあるだろう。だから私は部屋で一人で机に向かってヘッドホンから流れて来る情報に耳を傾ける。ルイザがどの時間帯にどの場所にいることが多いのか把握することに努める。今日はどの程度自主トレーニングをしているだろうか。普段に比べてどれほど疲れているだろうか。怪我などしていないだろうか。怪しい人に声をかけられていないだろうか。私以外の人と親しくしていないだろうか。
ルイザが戻る頃合いを見計らって私は盗聴の機材を仕舞い込む。戻ってきたルイザの好みの濃さのハーブティーを淹れてあげる。雑談をするか無言で過ごすかして、食堂で粗末な夕食を摂る。スプーンを口に運ぶルイザの一挙手一投足を私は見逃さないようにしたい。いつもより食べる速度が遅かったら、その日は早く眠るように進言する。ルイザには健やかに過ごしてもらいたいのだ。ルイザの心身の健康を気にかけている、ということだけは本人に伝えている。私が心配の言葉を口にすると、ルイザは微笑んで私に礼を述べる。彼女のそんな優しい性格も好きだ。
ルイザには何の憂いも無く、心の赴くまま、幸せに生きていて欲しい。私のことを頼って欲しい。そうでなくても、少しだけ大切に思っていてくれると嬉しい。誰にも邪魔はさせたくない。
彼女が夢のためにひたむきに努力する姿は美しい。親切なところが愛おしい。凛とした精神が尊い。ルイザの全てを私は知りたい。陰ながら彼女のことを支え、守り抜きたい。
願わくは、孤独でいて欲しい。私だけのものになって欲しい。そばには私だけおいていてくれると嬉しい。それでいて、私のことは何も知らないままでいて欲しい。私の勝手な感情で彼女を煩わせたくないから。
いつも見ていたい。聞いていたい。感じていたい。そばにいたい。離れたくない。それがたとえ、あとほんの数ヶ月の、限られた時間の中であったとしても。
一度だけ、休日に散歩に出かけた時、ルイザに「好きです」と言った。
同じ顔をした建物がずらりと並んでいる街の一角にある、自然豊かな植物園を散策している時に。
「私、ルイザ先輩のこと好きですよ」
ルイザは少しだけ目を見開いてから、破顔した。
「どうしたんだ、急に。……私もイオナは好きだぞ」
「はい。ありがとうございます」
ルイザの好きと私の好きは全然違うのが分かって、少し寂しかったけれど、それでも私は満足だった。
***
もう五月になる。
明日から二年生は、合宿で遠くの演習場まで出かけてしまう。
本当は行って欲しくないけれど、やっぱり邪魔はしたくないから、私は笑顔でルイザを送り出すだろう。
ルイザが持って行くカバンの底を加工して盗聴器を仕掛けた。これだけではほんの少しの情報しか得られないけれど、何もしないよりは遥かにましだ。彼女が留守の間は盗聴と録音の再生で寂しさを凌ごう。
私はいつものようにハーブティーを淹れて部屋に戻った。明日に備えて体を休めてもらおうと思い、お湯は熱めのものにしておいた。
「お待たせしまし……た……」
私はお盆を床に取り落とした。カップが粉々に割れ、お茶がぶちまけられて足にかかったが、気にしている場合ではなかった。
盗聴用の機器が、机に並べられていた。ルイザはそれをじっと見つめたまま、立ち尽くして動かない。
「ルイザ先輩」
絶望に襲われて、私は力無く呟いた。
「どうして……」
仕舞い忘れたはずがない。ルイザが戻る前に、きっちりカバンの中に隠しておいた。それなのに今そこにある。ルイザが勝手に私のカバンを開けた? そんな悪戯をルイザがするはずがない。する理由もない。あるとすれば……。
私は大急ぎで部屋中に目を走らせた。
ルイザのカバンもまた、開けっ放しで床に転がっていた。中身も散乱している。カバンに施した加工──内側の底を少し削って盗聴器を埋め込み、分からないように似た素材で蓋をしておいた。それが剥がされている。そして盗聴器があらわになっている。
──私の馬鹿。
仕掛けたことが知れてしまったのだ。私の細工がうまくなかったばかりに。一般人に気付かれた。何という失態。これではいくら欠陥品と罵られても足りないくらいだ。
「これは」
ルイザの声は掠れていた。
「どういうことだ?」
「……あの……っ」
「密告者、じゃないよな。これはそこらにいるようなただの密告者の持ち物じゃない」
「それは……っ」
「イオナ、まさか君は、セキュレシティか?」
「ち、違います」
「違わないだろう」
「違いますっ」
私は必死に弁明した。
「き、きっと、誰かが私を貶めようとして、わざとカバンにこんなものを入れたんです! それは私のものじゃありません」
「そうだろうか」
ルイザはこちらを見ずに言った。
「君には秘密が多い。出身のことも過去のこともほとんど話さない。普段飲んでいる薬のことも。そしてこの部屋には、何に使っているか分からない謎のカバンが、ずっと置いてあった」
「そ、それは」
「聞かれたくないことを無闇に詮索するものではないと思って、あえて何も聞かずにいたんだ。でも君は」
ルイザは何かをこらえるように言葉を切った。それからまた口を開いた。
「フロリカとエーダー君を逮捕させたのは君だな」
「! い、いいえ……」
「私の周囲の者ばかり連れて行かれると思っていた。違ったんだ。単純なことだった。私ではなく君の周囲の者が、連れて行かれていたんだ。そして君の次のお目当ては、私ということだ」
私はヒュッと息を飲み込んだ。
「いいえ!!」
思わず大きな声を出していた。
「私がルイザ先輩を逮捕なんてするわけない!」
「じゃあ、これは何なんだ?」
ルイザは床に落ちている盗聴器を指差した。
「……それは……私が、何というか、個人的にルイザ先輩のことを知りたくて……」
「何のために? セキュレシティの任務とやらのためかな」
「そういうわけじゃないんです……」
「何であれ、君の言うことは何一つ信用できないな」
ルイザが冷たく言い放った言葉は、私の胸に深々と刺さった。
「……」
「セキュレシティの子どもたちは幼い頃から洗脳教育を受けているという。精神に影響を及ぼす薬も摂取し続けているとか。──そうでなくても、君が私をずっと騙してきたのは事実だ」
「……あ……う……」
行ってしまう。
折角、私だけのルイザになったのに。
全て失われてしまう!
「ま……待ってください」
「待たない。私を密告しようとした以上、君に心を許すことはできない。それから、私の友人を密告したことも許さない」
「……!」
私は呆然として身動きができずにいた。目からぽろっと水がこぼれた。胸がズキズキ痛んだ。
私が無言でいる間、ルイザは何やら考える素振りを見せた。そしておもむろにこう切り出した。
「……自分の安全のためにも、君と一緒に住まうことはもうできない。私は他の部屋を間借りするよ。それからもう私には話しかけないでくれ。余計なことを言って証拠を捏造されたら大変だからな」
「……」
「それじゃあ、私は荷造りをするから」
「……」
私は一言も発さずに、その場に突っ立って、ルイザが荷物をまとめる様子を見ていた。
私と過ごした思い出が、着々と片付けられていく。
作業はすぐに終わり、ルイザはカバンを持って戸口の方へ歩いてきた。
「どいてくれ」
私は、割れたカップを踏みしめて、道を譲った。
ルイザは出て行った。
そして二度と戻ることはなかった。
***
私がセキュレシティであるという噂は、すぐに学校中に広まった。誰も彼もが私を腫れ物のように扱うようになった。私が近くにいると誰もが怯えた。Ⅰ-Aの教室は常に緊張状態にあったし、廊下を歩いていたら露骨に避けられた。
私は授業を怠けるようになった。
部屋にこもって、ずっとヘッドホンを耳につけていた。
ルイザの参加している授業の音を聞くためだ。
部屋に一人きりだったし、もう身分は明らかになってしまっていたから、何にも隠す必要はなかった。
放課後は部屋を出て、ルイザを探しに行く。絶対に気づかれないように、その姿を遠目から確認する。
ずっと見ている。
最初のうちは、構内で偶然ルイザと遭遇することもあったが、ルイザは私に目もくれなかった。それはつらいことだったし、自分がルイザの視界に入ってルイザの気分を害するのは嫌だったので、私はルイザに会わないように細心の注意を払うようになった。
夜はまた盗聴に戻る。ルイザの引っ越した部屋を特定するのは容易かった。その部屋の人たちとルイザが楽しそうに談笑するのに耳を澄ませる。ひどい気分だった。ルイザと話せる人のことが、はらわたが煮え繰り返るほど憎かったし、羨ましかったし、妬ましかった。
そしてルイザの声は狂おしいほどに美しく、懐かしかった。聴きながら私は黙って泣いた。
まもなく、卒業式の日がやってきた。
この日まで私は一度もルイザと口を利いていなかった。
私は見物人に紛れて式の様子を見に行った。
ロマニオの国防相がわざわざ顔を見せたらしく、壇上で何か演説をしている。参席者は厳粛な面持ちでそれを傾聴している。
私は目だけをきょろきょろさせて、ルイザの後頭部を見分けようとした。他の生徒よりもやや低い所に位置する、金髪の頭を。
だが、結局それらしき人は見当たらなかった。
やがて式は終わり、卒業生は退場することになった。
列をなして出てゆく若人たちの中から、私はようやくルイザを見つけ出した。私は見物客の肩に隠れて、そっとその顔を拝見した。
生真面目そうなその表情は、一瞬のうちに見えなくなってしまった。
それでもうおしまいだった。
私は講堂を後にした。
その一週間後、私は全ての荷物を持って一◯七号室を後にした。
ブクレシト短期士官学校の門をくぐって、待機させていた車に乗り込んだ。
振り返ることなく、学校を去る。
私の特別な一年は、幕を閉じた。
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