バックパッカーの男

朝ご飯をかきこんで、歯を磨いて、すぐにでも出発する予定だったのに、きずナの登場ですっかり遅くなってしまった。11時か。ここまでくると、午後からでもいいような。いいや、だめだ。重い腰をあげて、半ば足を引き摺るように玄関に向かう。


「行ってきます」


放置していたスカスカのリュック(中身は財布と筆記用具のみ。教科書やノートは学校に置いてもいいことになっているから、お言葉に甘えている)を背負い、外に出る。昨日よりは幾分か暖かいが、冬は冬。セーターだけではどうにも厳しい。だけど、上着をとるためだけに家に入るのはダルい。歩いているうちにポカポカしてくるとふんで、ひとまず駅を目指すことにした。


人っ子一人いない、寂れた路地裏に俺の足音だけが響く。一歩踏み入れた時から、ちょっとやばいな、引き返したほうが良さそうだなとは感じたものの、好奇心に負けてしまった。昼ならまだしも、夜にこの道を通るのは怖いだろうな。転がったゴミ箱や、埃をかぶった配線盤が恐ろしいバケモノに見えそうだ。とにかく、早くここを抜けよう。蜘蛛の巣がひっつくのも気にせず、ひたすらに足を動かす。前へ、前へ、前へ……。


コケた。


もう少しで通りに出る。そんな時に、何かにつまずき、盛大に膝を擦った。確認してみると、茶色い棒。『犬も歩けば棒に当たる』のイラストに出てくるような、何の変哲もない木の棒だ。こういう時の怒りって、どこに向けたらいいんだろう。じんじん痛む膝を見ながら、やるせない気持ちになる。


「……え、っと。大丈夫ですか?」


後ろから聞こえてきた男の声に、面白いほどビクッと体が跳ねた。こんな道を通行する物好きは、そういない。自分だけだと思っていた。だから、こんなところで誰かに会うなんて想像もしていなかったのだ。


「小汚くて悪いけど」


男は僕の前に回り込み、手を差し出した。大きなバックパックを背負ったその人は、土やら泥やらで薄汚れてはいたものの、不快さは全く感じない。その代わり、怪しさだけはビンビン感じる。そもそも、この人、いつから俺の近くにいたんだ?全く気がつかなかった。訝しげで、不躾な視線を送っていたのだろう。男は困ったような顔をして、手を引っ込めた。悪いことしちゃったな。一瞬罪悪感を覚えたが、軽率に手をとって、攫われでもしたら大変だ。相手は背も高いし、数々の死地を潜り抜けてきたかのような凄みがある。きっと、只者じゃない。


「残念ながら、君が想像しているような大それた者じゃないよ。旅行とオカルトが好きな、ただのバックパッカー」

「あ、ああ、そうなんですね……」


あれ、もしかしなくても思考読まれてない?俺、声に出していないはずなのに。思わず後ずさると、なぜか男は距離を詰めてきた。怖すぎるだろ。


「『』って、思ってる?」

「……!」


これ、やばいやつだ!!!俺の本能がガンガン警鐘を鳴らす。ああ、どうして、路地裏なんか入ってしまったんだろう。慣れ親しんだコースを通っていれば、今頃学校に着いていたかもしれないのに。そして何より、この男と出会わずに済んだのに!後悔が頭の中を駆け巡ったが、時すでに遅しだ。


「あの、あ、あのすみません。俺、い、急いでまして。がっ、学校へ行かなくちゃあの」


どもりながらも、なんとか言葉を発する。


「やっぱり!!」

「え?」


怯える俺を見て、男は嬉しそうに小躍りしている。意味が分からない。何が「やっぱり」で、何をそんなに興奮するところがあったのか。この人、危ないな。何をしてくるか、想像できない。警察を呼んだほうがいいかもしれない。手汗でびっしょり濡れたスマホをセーターの袖でぬぐい、電源を入れる。1、1、0。よし、これですぐにかけられる。次、変な動きがあったら、迷わず発信ボタンを押そう。誰にともなくうなずき、男の様子をうかがう。すると、突然。何を思ったのか、バックパックの中をがさごそと漁り始めた。出てくるのはナイフか?はたまた、電気の……ほら護身用で持ったりする……。なんだっけ?


「スタンガン!」


慌てて身構える俺と、キョトンとした顔の男。なんとも言えない空気が流れる。彼がまさに今、引っ張り出そうとしていたのは


「『週刊アチラガワ大解剖』?」

「そう! 知ってる!?」


付箋がたくさんついた雑誌をバラバラめくり、彼はあるページを押しつけてきた。『人の心を読もう!インジャパン編〜簡単に心の中をのぞくための6つのこと〜』……?タイトルの下には、怪しげな情報がつらつらと書かれている。


「すみません。知らないですね」

「そっかそっか、大丈夫大丈夫!」


丁寧に雑誌を閉じて返そうとするが、彼は受け取ってくれない。


「それ、あげる。出会いの記念兼布教活動の一環ってことで。面白いから読んでみ」


言うが早いか、手を振って大通りへ抜けて行く男。俺は雑誌片手に、どうすることもできずに立ち尽くした。

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