長縄 きずナ
結局、ほとんど眠れなかった。アラームを何度もやり過ごし、体を起こすことができたのは遅刻も遅刻の10時半。急いで準備したところで間に合うも何もない。完膚なきまでの遅刻。どう足掻いても、怒られる未来に辿り着くことは確定している。ならば、堂々と遅刻してしまおうではないか。皆勤賞を逃したショックからか、投げやりな気持ちになっている。
「
「今行くー。てか、誰が『人生にゲンナリ』だよ」
階下から聞こえてきた母さんの声に返事をして、無駄に時間をかけて制服に着替える。それにしても、母さん、ずいぶんのんびりしてるな。仕事が急に休みになったとか?珍しいこともあるもんだな。のびてだるだるになったセーターの毛玉を取りながら、ぼんやりそんなことを考えていると、何かが引っかかった。昨晩、髪を振り乱して汗だくで帰ってきた母さん。酒を煽りながら、明日の仕事について愚痴っていた気がする。
「あああああ、もう! 明日は朝っぱらから、あのひねくれジジイのところに営業よ!! 買う気ないなら呼ぶな! 帰り際に粗品のタオルをねだるな!!!」
そうだ、営業。営業があるって……。
「じゃあ……、下にいるのは誰?」
口からこぼれ出た言葉に、ぶるりと体が震えた。白昼堂々、空き巣に入られた?だとしたら、犯人は相当俺ら家族に近い人物だ。母さんの話し方を良く知っていて、なおかつ完璧に真似できる。そんな器用なやつ、知り合いにいたっけ。いくら考えても思いつかない。諦めて、自分の目で確かめたほうが早い。俺は万が一に備えて、できうる限りの武装(中学時代に使っていた、自転車用のヘルメット。小学生の頃、お守りのように持たされた防犯ブザー。ちなみに電池切れ)をして、忍者のように静かに一階へ降りる。母さんがいるのはリビングだろう。きっちり閉まったドアの向こうから、この状況にそぐわないアナウンサーの明るい声が漏れ聞こえる。ますます怪しい。母さんは節約にはうるさくて、嫌いなものといったら、誰も真剣に見ていないのに、お情けでついているテレビ。それから、大して暗くないのにも関わらず、毎回点灯する人感センサー付きライトだ。そんな彼女が、こんな状態のまま出かけるなんて考えられない。それすなわち?なんとなく察した俺は、ドアノブを回し、思いっきり奥に押した。
「おはよう、弦也。ご飯、テーブルの上ね」
ソファーにどかっと座り、テレビを見ていたのは紛れもなく母さんだった。やっぱりな。おかしいと思った。とは言え、少なからず泥棒である可能性も無きにしも非ずだったわけだし。武装を解除しながら、安堵のため息を漏らす。聞くと、出社してすぐに電子機器のトラブルが発生し、萎えた社長が急遽休みにしたらしい。それ、いいの?
「皿洗っちゃいたいから、なる早で胃袋にインして。やることやって、母さんは自堕落な一日を満喫するんだから」
「へいへい」
食事前に手を洗おうと腕をまくりながら、俺はキッチンの奥に移動する。と、視界の隅で何かが動いた。一瞬見えたのは、水色のチェック柄。アーガイル?タータン?種類は分からないけど、見慣れたチェック。俺が通う学校のスカートの柄だ。俺の家に気軽に足を踏み入れることができて、同じ学校に通う生徒。この条件に当てはまるのは、たった一人しかいない。幼馴染の長縄きずナだ。ちなみに、漢字で絆ではない。きずはひらがなで、なだけカタカナだ。なぜ、こんな名前になったのかというと、話せば長い。簡単に言うと、彼女のお父さんのせいだ。書きかけの出生届を、何を思ったか提出してしまったらしい。おかげで、きずなのなは二画目までしか書かれず、ナになってしまったというわけだ。彼女自身は、この綴りが気に入っていて、会う人会う人に言いふらしている。
「きずナ、無駄な抵抗はやめて出てこい。もう分かってんだよ」
「なあんだ。つまんないの。きずがせっかく驚かせてあげようと思ったのに」
母さんが職場の人から譲り受けた、バカでかい観葉植物の後ろからきずナがひょっこり顔を出した。ぱっちりまんまるな目、口元のほくろ、福耳。いつものきずナだが、一つだけ大きく変わったところがあった。
「あれ、毛は?」
「毛って言い方やめて。ねえ、どう? 似合う?」
腰まであった長い毛……髪が、顎くらいまでばっさり切ってある。驚いた。長いときより、断然こっち派だ。軽率に褒めるとウザ絡みが始まるから、うなずくだけにとどめておく。でもって、カタコトで「トリアエズ、ソコ、トオシテモラッテモイイ?」と聞くと、肩パンされた。痛い。
「もういい。先に学校行くから」
「そうだ、学校じゃん。きずナが遅刻って珍しいな」
「うるさい、さよーなら」
彼女はスカートをばさっと翻して、ズンズン部屋を横切っていった。朝っぱらから何だったんだ?
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