下を見ること、上を見ること

 今回のテーマは「比較」である。

 「他人と比較するな」「自分を持て」なんて言葉を偶に見つけるのだが、概ね賛成ではあるものの、些か無責任でしかないように見える。そんなことが出来たらそのような言葉はとっくのとうに廃れてしまっているだろう。しかし現実世界そんなことが難しいのだから一向に消えないのである。気が付いたら他人と比較しては喜んだり、沈んだりしてしまうことは人間の性であるように見える。これを書いている僕だって日常茶飯事的にやってしまう。

 ならば他人と比較することは勝手にしてしまうのだから仕様がないと諦めた方が早い。それよりも比較しても「自分は自分」だと立ち直るスピードを上げる、あるいは「さりとて他人は他人」と自分を戒める思考を手に入れた方が断然楽ではある。消去は難しいが、機能を追加すること自体は人間は早くやれるものである。昔から言われる「欠点は長所」という言葉だが、これは真実である。物事は様々な観点から見ようと思えばすぐさま良いか悪いかなんて言えないことばかりだ。それを一点だけ取り上げて「これはいいものだ」とか「これは悪いものだ」とかを判断する人は生き急いでいるように見える。そしてその思慮が浅い部分が多い人間は思った通りに上手く物事が行かないと癇癪を起しがちである。そもそも得ている情報と判断材料となる知識が少ないままで物事を進めれば必然にどこかで行き詰まる。

 「比較」という構造自体がある観点からしか述べることが出来ないのだ。英語だと分かりやすいかもしれない。Tom is taller than Mary. のように左の文章は「身長が高い」という点でしか比較できていない。なので比較をすることは一点だけを見て判断するだけであり、他の要素を切り捨てている訳である。多角的に見ようとすれば、そのような単純思考は困難を極める。比較するための天秤が異なるのに比較をしようとするから判断が難しくなる。数学の問題を解くときでさえ、比較が出来ないのならば、片一方の情報をもう片方の情報に合わせて変形していく必要があるのである。しかし現実世界がそんなに簡単に変形出来るわけではないのでますます難しいのである。単純なことほど難しいことは無い。

 だから他人と比較しても「さりとて他人は他人、自分は自分」という思考を得ることは自分自身を含め物事、人などを様々な観点から眺めようとする気持ちを持つことである。例えテストの点数が周りと比べて低かったとしても自身の長所となる特徴をちゃんと掴めていたら、もちろん勉強は勉強で頑張んなくてはいけないがそんなに落ち込む必要は無いと思われる。ただ個人的には自身の性格で自信を取り戻すことはしない方がいい。それは自分が掴んでいる主観的な性格であり、行動が無ければ単なる思い込みである。実績はどうやっても必要である。

 少し話が変わるが、他人を引きずり落とすことを日常的にやっている人は少なからずいる。上のランクにいる人を自分と同じあるいはさらに下にしようとするわけではあるが、他人に干渉しているだけで自身の抱えている問題が変わるわけではなく、なんなら見ないふりをし続けている訳である。一瞬の快楽があるのかもしれないが、自分自身の問題が消えるわけではないのだから、その問題が視界に入ったならば忽ち現実世界に引き戻される。麻薬のようなものだ。一種の中毒性があるが、結局その後は苦しみ続けているだけだ。経済的に苦しかろうが、楽しく過ごしている人もいる訳だからそれを盾に言い訳し続けることは見苦しく思う。受験で落ちようがそれでも滑り止めのところで楽しく過ごしている人もいればそれをずっと盾に言い訳をして自分の問題を見ないふりして自身を傷つけ続けている人もいる。自分が大学を入り直せたことは勿論幸せなことだ。しかしその過程において長年原因不明の頭痛に苦しめられ、時には眠れない夜を度々過ごしてきたことなどの自分の抱えている問題に対して愚痴をあまり言わないでい続けたつもりだ。知り合いには目の病気を抱えて大学受験すらままならず希望していたところとは違う大学に入ったが今のところ楽しく過ごせている人もいる。比較した結果を昏い目的で用いることは感心しない。結局自身の問題を解決することどころか周囲に害悪をまき散らしているだけだ。「他人は自分ではない」という思考も少し拗らせればかなり違う結果を伴う。卑屈になっていい理由にはならない。そして卑屈になることは他人と自分を一点でしか見ていないのであり、根本的には「他人は他人」という思考を得ていないのである。自己の問題を解決できるのは、その問題に対してずっと正面から立ち向かってきた人であり、その道のりが困難だろうが突然光が差してくることもある。比較の結果をその問題から目を背けることばかりに使うことは息苦しくなる。

 そうなると比較という行為はあまりやりたくない。しかし元来人間に搭載されているかのように使ってしまうのだからどうするのか。上記に書いた通りどうしてもやってしまうのだから、その行為をしてしまうことを認めてしまった方が断然早く楽でもある。そのうえで「他人は他人」と考えて自分の問題に真摯に向き合うことでしかないように思える。他人はどうあがいても他人でしかなく、自分の抱えている苦しみを共有できるわけではない。完全に重なり合うことは無い。共感は出来ても共有は出来ない。そして多少なりとも余裕があれば他人がその人の抱えている問題に向き合うことが出来るように環境を整えるなどして手を差し伸べるぐらいが丁度いいのではないか、と僕は思うわけだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

メモ書き 蒼山詩乃 @aoyamashino

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る