意見を持つこと

 意見というものは実に殺傷能力のある武器である。それと同時にどうしようもなく修正が難しい脆弱性も孕んでいる。個人レベルではもちろん、組織レベルであっても結局欠陥の無い意見なんてものは存在せず、我々に一本道を与えるどころか様々な選択肢を押し付けて逃げていく、どうしようもない卑怯者のように見える。

 しかし、意見を持たない方がいいか、と問われればそうではない。それは生きていないことと等しい。付和雷同となり果てて、そこに主体性が介在していない限り、彼らは誰かの奴隷に等しい。意見は別に誰かに知らせる必要はないが、持っておいて損はない。意見というものは我々個人個人の軸を構成する一本であって、それが無ければ途端に人生を送る理由が手元から零れ落ちてしまい、奈落の底で彷徨うこととなる。つまり意見というものは人生における私たちの現在の集大成ともいえるのではないか、と思うわけである。すると意見をアップデートすることは可能であることがわかる。

 しかしこのアップデートをするためにはどうすればいいのか。私が思うに人生経験と勉強である。ごく当たり前ではあるように感じるけれども、今一度自身に向けても言っておきたい。私たちは日常からあらゆる情報を脳に蓄積して、そのデータを元に判断する。例えばとある人が同じような行動をほぼ毎日していれば、その人はそういった習慣あるいは癖を持っていると判断できる。あるいは成功体験を積み重ねることによって、こうすれば上手くいく、といったことがわかる。しかし人生経験だけでは足りない。それは目に見える範囲でしか扱えないし、しかも自己から一歩も離れることが無いのだ。自己を客観視することが難しい。そこで勉強という方法が出てくる。それは己とはまた違うベクトルからの観測あるいはベクトルそのものであり、それを受け入れることによって自分の持っている意見を修正することが出来る。しかし勉強にもデメリットと言うべきかどうか分からないが難しい点があり、その一つとしてあくまでそれは自分自身のものではないのだから最初の頃は異物として認識してしまうだろう。その結果それを受け入れることは苦痛であり、それを回避するために勉強嫌いになる人がいるのではないか、と思う。ただ注意しておきたいことは人生経験と勉強のバランスは極端になってしまえば意味を失ってしまうことだ。人生経験に傾きすぎれば他人と相容れない攻撃性と脆弱性がかなり強い意見を持ち、その意見を失うリスクが高すぎるし、逆に勉強に傾きすぎれば、判断が出来ない木偶の棒となる。結局勉強したものだけで勝負することとは他人についてまわる付和雷同的な存在と化してしまい、それは意見ではなくなるのだ。さらに勉強した結果が常に正しいわけではない。研究が間違っていることが往々にしてあるのだ。

 ならばそのバランスをどう保てばいいのか、ということになるが、人生経験と勉強の往復運動が必須となる。例えば経験的に得たものを客観的に見るためには勉強したり研究したりする、あるいは勉強した結果を自分自身に当てはめてみる。これを繰り返すことによって人間強度が増すのではないかと思われる。その結果として自身の持つ意見というものは洗練され、さらに他人の意見に対しても極端に突っかかることがかなり減るのではないだろうか。誰かが言ったことは正しいのかもしれないし、間違っているのかもしれない。その判断を下すにはそこそこの時間がかかる。まあもちろんのこと、極端に言ってしまっていることに関しては脆弱性がもろに見えてしまっているので、そこをつくこともまた優しさかもしれないが。

 ここまでは自身の意見の生成の話をしてきたが、今度は発信について自分が思っていることを話そう。意見を述べることは無責任にしてはならない。これに尽きる。今までも述べてきたが、意見と言うものは完全な、それそのものを否定することができないといったたぐいのものではない。そういったものがあったのならば、今私たちの抱えている多くの問題は解決しているはずだ。これを真理と呼んでもおかしくないだろう。しかしどう頑張っても穴ぼこだらけなのだから、そこには100%常に役立つわけも正しいわけでもないのだ。自分の話は100%正しいし役に立つと思っているのならば、そいつは考えるという行為すらしてないだろう。ただ単に与えられたものを崇拝している狂信者の類だ。ヒューリスティックでいいのだ。意見なんてものは現状、大体が当てはまっていればいいのだ。とは言ってもますますマイノリティが大舞台にたてるようになった現代からすればそれすらも難しいであるかもしれない。こうやって書いているように、色んなものに当てはまるように努力することが求められている。しかし何度も言っているように穴を全てなくす完璧な理論は存在しないわけである。ならば批判があることを前提で話すしかない。これが責任を持つことである。しかしここで直接強く言うことは反感を過剰に買う可能性があるのだから、西洋では「確かにーーだろうけど、ーーーー」という表現を多用されるが、それを知らなければいつまでも日本人は西洋では強く自分の意見を言えさえすればいい、なんて誤解を持ち続ける羽目になる。

 そもそもの話、我々はこの先の人生で何が起こるか分かるはずがない。占いはあくまで予言であって当たることも外れることもあるので確定してはいないのだ。科学もそうだ。あくまでこうだ、と考えられているに過ぎないのであって、それが急激な変更をもたらされることだってありうる。科学も思想の一派に過ぎない。ただまだ縋るには他の拒絶的な態度を示すものと比べたらマシだから、という理由他ないのではないだろうか。その前提があってこその科学であり、完璧なものではないのだ。ならば何が起こるか分からない未来のために我々がすべきことは、柔軟性を持った方針、要は意見を持ち、作り直し続けることだ。ただ根底はあまり変えることなく、という前提があるが。その支えとして科学や思想、宗教を援用していいのであって、縋るだけでは意味が無いのだ。勉強のし過ぎで頭でっかちになってはいけないが、かといって勉強しない方が良いなんて言う極論もまた間違っている。

 するとやはりますます教育が大事になっていくことがわかるだろう。全体としての教育レベルを上げることはもちろん、その教育方法にも変化、進歩が求められている。ただ日本の場合は同調圧力などといった日本独自に近い暗黙の了解などが存在しているのだから、難しいだろうが。西洋のやり方をただただ踏襲するだけでなく、それに日本人の気質などを考慮しながら徐々に変化させるべきだろうが、僕の場合はまだ勉強不足であることが多すぎてどういう意見や提案が良いのか、まだ判断がつかない。読者の皆様はどう思っているのだろうか。




追伸:僕のこの文章もまた完璧ではないのだから鵜吞みにしないだろうが、ここにあえて書いておく。

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