表現とフィルター
ファンタジー世界ではドラゴンや魔力やマナといった考えなど、いわゆる科学的ではないものが多数出てきている。一概には言えなことを前提として、それらは元来僕らの主観的な知覚から生じたものでしかない。にもかかわらず科学がここまで発展してきた現代においても、僕らはそれらに魅了されているものだから不思議なものである。我々は理性では空想上のものだと分かり切っているはずなのに、それに恋焦がれるわけだ。
基本的に僕らは物事を表現するとき、常に何かを切り捨てている。文字を書いている時も絵を描いている時も音楽を作っているときでさえそうだ。その切り捨てているものを一般的には「微妙な感覚」とかで表現しているが、これでは説明が出来ていない。するとこの切り捨ててしまっているものは、表象不可能なものであるのだろうか。少なくとも直接的には言えない。よく使われる技術としては、比喩だったり象徴を用いていたりする。これらの技術によって僕らは完全には再現できないとはいえ表そうと努力している。その表現の裏側には何かがある、と読者に思わせる。あるいは作者自身にさえ思わせるのかもしれない。書いたものが、全部が全部作者だって理解してないし、何なら気が付いたら出てきたものであるのだから分かりようがない。またそういった比喩や象徴が全く種類の異なる別の比喩や象徴と繋がるとき、それが一見意味不明に見えても僕らはそこに何かしらの意味を見出そうとする。そこに意味があると僕らは無意識に理解しているのだ。臨床心理学的にいえば、「道(タオ)」があることを理解している。
ではドラゴンや魔力、マナなどといった概念もまた同じような比喩や象徴と同じように言外に伝えようとしているものがあると分かるだろう。それらを単なる物質と認識した瞬間にそういった比喩や象徴性は消え去り、現実と化して物語的には面白くなくなるかもしれない。我々は自身で補完して物語を楽しむ。そういった要素が消え去ったとき、ぎゅうぎゅうと締め付けられる現実がやってきて、単に役割を演じるままになる。そしてその役割を終えれば全てが消える。後には何も残らない。するとそれは物語として読者あるいは作者にさえ価値を与えるものとして存在するのだろうか。村上春樹はプロットなど作らずに第一稿目については出てきたものを書いていると言っているが、それが案外正解であるような気がしてままならない。
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