愚鈍と賢さ

 自分は感想を言うことが大の苦手だ。急に感想を言うように人から言われると、なんて答えればいいのかが分からなくなり、頭の中では言うことを何とか絞り出して、しかしそれを言っていいのかどうかの判断が分からないが故に、何も言えなくなるという状態に陥る。一方で周りの人はなんのこともなげにすらすら言えるように聞こえるのだから、極自然に僕と周りとの差は何なのかを考えてしまうわけだ。なんだかここには自明性みたいなものが自分には欠けているのかもしれない。アンネ・ラウのように少なくともある一定数の少なくない人たちにとっては分かり切ったと思い込んでいることが、まったくもって自分にとっては分かり切っていないのだ。ある種の関連性が自分には持っていないがゆえに、物事の連結が出来ない。現象学的に言うのならば、「世界に根を降ろしていない」。

 高校時代が特にそういった自身の特徴を突き付けられていた。幸い自分が言葉に詰まると、先生たちは自分の順番を一番最後にしてくれたので精神的には助かった訳である。しかし、この傾向は小学生の時から始まっていたから、小学校時代が一番苦痛だったかもしれない。ある時、人の前で発言を求められて(しかも求めた人はかなり偏屈な教師だった)しかし何も言うことが出来ず、長い沈黙がその教室を埋め尽くし、誰かの首を絞め続けた。当時の自分は言葉を上手くまとめることも出来なかったし、そもそも何を話せばいいのかさえ分からなかった。ある種の正解が自分の中に存在しなかった。

 感想からさらに拡大して、意見まで自分にとっては言いづらいものであった。ただこちらの場合は正解があるのかないのかなんて全然分からない世界であるから、まだ感想よりは言いやすい。ただ、感想がなかなか言えない、という状況はあまり周りの人には見られないものだから、その延長であるように見える「意見」という舞台にも強烈な苦手意識があった。何かを言えば誰かから反論される。勿論自分の意見が完璧だなんて思ってはいない。しかし、無慈悲に見えるその鉄槌は出る杭を打っているように見えてしまう。

 ただここまで悲観的に見てきたけれども、あくまで希望的観測であるけれど、逆に良いことがあるかのように見える。自明なこととされていることを自明と感じないのだから、そこに潜むある種の歪みなり自惚れみたいなものを嗅ぎ取れるのではないか、と。勿論それを言語化することはかなり難しいのだけれど、それでも一般の人々が土台としているものはかなりへんてこな形をとっているように思う。その中で僕だったら一石を投じてみたい。これを読んでいるあなたが形作っている世界を揺さぶりたいのだ。揺すぶった結果として一種の崩壊を導き、そこに再生の火が生まれいずるか、僕はその人間の成長過程を見てみたい。そのための準備として熟考することは悪くない。勿論ビジネスの世界では即断が求められる場合はよくあるわけだから、そこではあまり活躍できそうにないだろうけど、人間として人間らしく生きたいとき、それが必要となる人になるかもしれない。そういった人も必要だろう。

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