友情と恋愛

 波長が合う、という表現があるけど、自分の考えでは波長が同形で振幅が増幅されるのが友人で、逆にフラットになっているのが恋人だと考えている。人間自体は波動を増幅させることで自分自身のアイデンティティを増幅させ、しかしフラットにすることでその増幅による疲労を解消する、というイメージがある。日本だとフラットになっているんじゃないかと思いがちだろうが、自分の中では逆にそのアイデンティティを増幅しているように見える。同調することによってその集団に対するアイデンティティは獲得されている。彼氏彼女という関係もまた集団ではないのか、と言われると確かにそうなのだが、彼氏彼女や夫婦の場合は少なくとも最初は互いが互いを規定し合うしかないわけであり、それを見届ける第三者がいない。それは不安定なものであり、そこに関するアイデンティティはいつ崩壊してもおかしくない。なので不安定なアイデンティティは自己の存在性を高めるものではない。むしろアイデンティティを崩壊させる一つの方法として存在する。しかし、人が彼氏または彼女が何故そばにいると安心するのかと言われれば、それはアイデンティティを強調する必要がないわけだ。強調する必要が無ければアイデンティティの増幅による疲労はない。集団に所属するためのアイデンティティはあくまで自己を無理矢理引っ張り上げるものであり、そこに疲労が無いわけではない。しかし、不安定なアイデンティティは存在しないのと同値である。すると互いで規定しあうそのアイデンティティの中では自己のありのままの姿でいられる。欧米スタイルだとプラトニックな関係とか言われているが、あれもまた人に見せつけるものでしかないと思うし、人に見せつけている時点でそれもまた集団の中の集団でしかない。

 しかしやはり不安定なものでしかないので、惚気たりして対外に宣伝することによってアイデンティティを確保しようとする。なので彼氏彼女の関係から法律的や一般認識的な夫婦という枠組みに固定されてしまうとそれもまた疲労を引き起こすものでしかない。しかしそれでもその不安定性をぬぐいきることはできない。互いにでしか規定できない関係は維持は難しいが、残ればそれはいい結果をもたらすものだと思う。しかし無くなってしまえば疲労を積み重ねる必要はないわけだから離婚という選択肢が浮上する。

 ずっと理屈をこね続けたが、つまり何が言いたいのかと言うと、付き合いたいと思うならば波長が合うのではなく、自己の波長がその人と会うと無くなっていると感じる人を探す方が良い。もちろん完全相殺をすることは出来るはずが無いので、正確には波長の振幅がかなり小さくなる場合がいい。そして付き合い始めたら、その安らぎを得続けたいならば、周りに過度に宣伝することはしなくていい。あくまで二人は妙に仲がいいな、と思わせるぐらいで良いと思うし、問われたら答えるぐらいが丁度いい。

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