面倒臭いこと

 内向・外向という言葉がある。河合隼雄著『ユング心理学入門』によれば、もともとカール・グスタフ・ユングという人が作った言葉であり、河合隼雄氏の説明を引用すれば、ある人の関心や興味が外界の事物や興味に向けられ、それらとの関係や依存によって特徴づけられているとき、それを外向的と呼び、逆にその人の関心が内界の主観的要因に重きを置いているときは内向的といい、両者を区別した。但し、ここで注意しておくべきことは、人は誰しもこれら両者の特性を持っていることである。例えば、内向的な人が、しかしたまに外で歌うことを躊躇しないことといった要素を持ち合わせるということである。

 ここで何が言いたいのかと言えば、人間は平均的な存在ではない、ということを言いたいのである。これは当たり前だろ、と言う人もいるかもしれないが、どんな物事でも細かく見ようと思えば事態はそう簡単ではないことがわかる。実際の社会では憲法、法律といった一律の規則やまたは暗黙の了解ともいわれる慣習といったものが(実際にはどうであれ)誰にも平等に課されている訳である。しかし個人個人で見れば、話が変わってくるわけである。そもそも人によって向き不向きがあるはずではあるが、上から降り注がれる重荷はみな等しく平等に背負わされ、それを少しの苦労で背負える人が選ばれた人として歩むことが出来るように思われる。これは肉体的だけでなく精神的といった側面から言えることである。

 例えば、僕の場合は人と話すことが大変疲れる。たった数分間だけ喋ることだけでも家という縄張りに戻れば疲労感が湧き出て何もやる気が起こらなくなることが多々ある。これは家族といった親しいはずの人との会話でも僕の胸には一種の靄ができ、喉を詰まらせようとする。はっきり言って、こうやって文章を書いているほうが楽ではある。再び『ユング心理学入門』を参考にすれば、個人の素質による態度を逆転させると、はなはだしく疲労を覚えるらしく、そう言った意味では僕はかなりの内向性に傾いているように思われる。別に人のことが嫌いではないが、喋ることが億劫に感じられ、家に引きこもっては人と接する機会をなるべく減らしている訳である。大学には一応所属してはいるものの、たまに面倒臭くなることが多い。その中で一日少なくとも一回は人と喋ることを義務付けられたりしたら、僕の疲労は酷く、重く僕にのしかかるのだ。そして、いつの日か動くことすら出来なくなるようにも想像がつく。

 社会という集合体を維持するためにはもちろんルールは必要ではあるが、それがここ最近では必要以上に締め付けられている感覚がある。単位さえちゃんと取れればいい、というだけであとは勝手にやってくれ、と言われたら僕は万々歳なのだが、最近はそうも言ってられない状態に陥りつつある。個性を叫んでいる割には、縛り付けを強化してマニュアル人間を大量製造しているように見える。僕は緩い必要最低限のルールのなかで、好きなように過ごせばいいと感じるし、僕とは正反対のいわゆる外向的な人も好きなように人と接していけばいいと思う。しがらみに縛られることなくやっていきたい。考えなきゃいけないことを少なくしていきたい。

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