否定言葉・肯定言葉

 自分はちょくちょく言葉を逆に言ってしまう。例えば靴下を下靴と言ってしまったり、やる、と言おうとしてやらない、と言ってしまったりしてたびたび少し恥ずかしくなってしまったりする。またこれはやらない、と強く思っているにも関わらず、ついついやらかしてしまうことの多い気がする。これらを思い返してみると私たちの心や脳といったものはなんと不思議な気がしてならない。私たちは意識、または主体性を自ら持ち、自らの意思で行動していると思いがちだが、実際はなんてことはない、結構様々なものに振り回される。私たちの意識の外側も私たちを振り回すものである。


 そして面白いことに私たちの脳というものは否定的なものに対してはかなり情報処理が重くなる、またはされないことが日常からあるというのだ。なるほど、例えば僕は計算がある程度得意(算盤をちゃんとやっていた人には負けるが)だが、足し算だとするっとい行くのに、引き算になると多少頭を使わなくてはいけない。これは桁数が増えるたびに顕著である。そのせいで引き算は好きではないのだ。または、様々な言語には二重否定という表現方法があり、肯定的なことをあえて二回否定することで強調するというなんと分かりやすい例もあるぐらいだ。


 そしてかなり重い話になってしまうが、去年亡くなった祖母の話をしようと思う。祖母は一昨年の冬頃に迷惑を掛けたくないという言葉を母によく言っていたようだ。そのころ祖母は長年やっていたことが一区切りをした後だった。しばらくしてそんな言葉を言い続けていたが、数か月後に祖母が脳の病気になり、かなり進行が進んでいた。このまま放置すれば直ぐにでも死ぬことが分かってからは手術をし奇跡的に成功したのだが、今度は認知症ではないのだが、ぼんやりすることが多くなってきた。医者曰く確かに病気の結果記憶力などは失われてしまってはいるが、ここまで酷くはならないはずだ、とも言われた。それから少しずつ衰弱していき、そのまま亡くなってしまった。祖母自体は悪い人ではないし、なんなら自分も大変お世話になったが、この迷惑を掛けたくない、という言葉が一種の呪いとなって祖母を死に追いやったのかもしれない。もちろん呪いという言葉は比喩ではあるが、脳が否定語の処理を拒絶するならば、祖母には迷惑、という言葉だけが刻み込まれたのかもしれない。一時期言われ続けた母は突如降りかかってきた忙しさと祖母が倒れてからは食事を喉に通すことが難しくなった時期が半年以上あり、結果としてはかなり痩せてしまっていた。もちろんそれだけを結論に対する原因とは言うつもりは無いし、なんなら自分でも空想に過ぎない、とは考えている部分はあるが、それでもそう思わずにはいられない。


 重い話をしてしまったので、今度は明るい話でもしよう。あるアメリカの大学がある実験を行った。ホテルの従業員を二グループに分けて、片方のグループにはその仕事をすることによる消費カロリーを提示し、もう一方のグループには何も見せず普段通りに仕事をしてもらった。一か月後、消費カロリーを知った従業員は体重がちゃんと減っていると見なせるぐらい減っており、もう一方のグループは特に変化が無かった。彼彼女らは普段通りに仕事をしていたはずなのに、そうなったのだ。なかなか面白い結果になったのではないかと思う。また独り言の研究などもあり、その中の自己暗示は確実にかかるわけではないが、それでも実用性はある、ということも知られている。


 我々の意識というものはあやふやで、あると思っているはずなのに、我々はそれを自由に使いこなすことが出来ない。私たちの五感から得られる情報は意識に浮上せずとも情報処理されているとも言われている。ならば言葉を用いてなるべくいい結果になるようにした方がいいのではないかとも思う。様々な意見があるが、大体は二、三か月で効果があるようだ。

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