どれくらい走っただろうか。気がつくと、僕は自分の家の前に立っていた。


「そろそろ手を放してくれませんか?」


 天使が呆れたような顔でそう言って、そういえば手を掴んでいたと思い出す。

 ごめんと言って手を放した。

 どうでもいいけれど、天使に触れた人間ってそんなに多くはないんじゃないだろうか。天使って普通に触れるんだな。

 そう意味もなく思ったあとで、僕はため息を吐き出した。


 走ったせいか、それとも心労か。あるいはその両方か。なんだかどっと疲れが押し寄せてきて、思わずその場にしゃがみ込んだ。

 夏に走ったとあって、じっとりとした汗で服が身体に張り付いて気持ちが悪い。喉も渇いていた。

 ふと傍に立つ天使を見上げると、どうしてか彼女は一筋も汗をかいていなかった。

 なんでだよ。


「……天使って汗かかないの?」

「もちろんかきますよ。でも今は冷風の魔法を全身に纏っているので、汗をかくほど熱くないんです」

「なにそれ、羨ましい。僕にもその魔法かけてよ」

「嫌です」


 天使はニッコリと笑った。僕は腹がたった。


「ここってあなたの家ですよね」

「あ、うん。そうだよ」

「じゃあ話はあなたの部屋でしましょう」


 そう言って、金髪ショートカットの天使が家の扉を開いた。


「普通、人の家の扉を勝手に開けるかな……、」


 僕のそんな言葉を無視して、天使を勝手に家に入っていった。

 僕はため息を吐き出して、それに続いて玄関をくぐった。


「ただいまー」


 ブーツを脱ぎ始めた天使を横目に、僕は家の奥に向かって声を掛ける。この時間に玄関の鍵が開いているということは、妹が帰ってきているはずだった。

 予想通り妹は帰っていたようで、リビングの方からドタドタと駆けてくる音がして、リビングへと続く扉が勢いよく開かれた。


「兄ちゃん、おかえり!」


 うしろで一本だけ結んだ髪を揺らしながら、妹はそのまま玄関へ駆けてきた。ポニーテールより下で結べられた髪は、猫の尻尾のように細くて、先端は肩甲骨の間辺りまで伸びている。

 今年で十一歳になる妹は、同い年の中では少し背が低い。活発で明るく、大陽のような笑顔を浮かべる。


 柳原やなぎはらあおい。愛する可愛い我が妹だ。

 可愛い。マジで可愛い。中学生になったらすぐに彼氏ができるんじゃないかと不安になるくらい可愛い。


「ただいま、ただいま」


 そう改めて口にして、僕は靴を脱いだ。

 天使はすでに家に上がっている。僕もすぐに続いた。


「葵、挨拶しないと」


 葵の反応がなかったから、彼女の方へ顔を向けて言う。と、妹が固まっていた。

 ボトリと、葵が握っていた無線のゲームコントローラーが床に落ちた。


「ど、どうしたの? 葵」

「……兄ちゃんが、女の子連れてきた」


 目の前に隕石でも落ちてきたような顔をしている。衝撃すぎて呆然としてしまうような、そんな顔だ。


「そんな、世界が終わったような顔するほどのこと? 第一初めてじゃないでしょ? 昴だって何回も来ているじゃないか」


 そうだ。昴はよく僕の家に遊びにくる。葵だって何度も会っているはずだ。

 それなのにどうしてそこまで驚くのだろうか。


「だって昴くんは昴くんじゃん!」

「え、なに、どういうこと?」

「昴くんは女の子だけど女の子じゃないから!」


 ……この子はいったい何を言っているのか。可愛い。


「えっと、だから! 昴くんは昴くんなの!」


 よくわからないけれど、昴は昴らしい。なんじゃそりゃ。

 葵の中では、昴は普通の女の子とは何か違うということなのだろう。気持ちはわかった。

 昴は確かに女の子だ。けれど女の子らしい行動をあまりしない。だからなにか違うと思う気持ちはよくわかった。


「そっか。でも昴に同じこと言わないであげてね。一応女の子なんだから」

「……わかった」

「いい子だ」


 床に落ちていたコントローラーを拾って葵に渡し、彼女の頭を軽く撫でてやる。


「で、その人誰?」

「えっと、ただの知り合いだよ」


 似の轍を踏まないように、友人と哨戒するのは止めておいた。


「こんにちは」


 天使はそう言って葵に頭をさげた。

 葵はまだ衝撃が残っているようで、少しぎこちない感じでどうもと頭を下げ返した。


「僕たちは上で話があるから、葵は下にいてね」


 そう言って、僕は天使を連れて二階へと続く階段を上った。


「あなたと違っていい妹さんですね」


 最後の段を上がりきったあとで、天使はそう言った。


「そうだよ。めっちゃ可愛いでしょ」

「……シスコン」

「よく言われる」


 そうして僕たちは、僕の部屋へと向かった。

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