昼食を終えた僕は、トイレに行こうと廊下へ出た。

 少し歩くと、水が流れる音が聞こえてきた。それは廊下に設置された水道から聞こえてくる。

 何の気もなく視線を向けると、女の子が一人、水道を使っている様子を見つけた。

 変わっているのは、彼女が手を洗っているわけではなかったという点だった。


 彼女が洗っているのはラーメン用のどんぶりだった。

 一瞬思考が停止しかける。けれど、そう言えばカセットコンロと一緒に持ってきていた人間がいたことを思い出し、なんとか自分を取り戻せた。

 そう、その女の子はさきほどチキンなラーメンを食べていた人だった。


 ちょうど洗い終わったのか、彼女は水を止めて、どんぶりを拭き始める。と、その手が止まり、ふいに彼女は僕の方へと顔を向けた。

 きっと僕の視線に気がついたのだろう。


 その女の子は、なんというか暗い雰囲気のある子だった。

 薄手で紺色のフード付きノースリーブパーカーをブラウスの上から着ていて、しかもそのフードを目深に被っている。

 髪は長く、フードからはみ出したそれは胸下まで伸びていた。前髪も少し長く、右目が隠れてしまっている。

 目は鋭く、不機嫌に見えなくもない。


 この子、確か高二から転入してきた子だ。あまり、というかまったくと言っていいほど会話をしたことがないから、どういう子なのかはよくわからない。

 思えばはじめて会った時の印象も、よくわからない子という感じだった。自己紹介も名前しか口にしていなかった。

 ただ一つ言えることは、彼女がけして明るい性格ではなく、そして無愛想な人間であるということ。……いや、もしかすると他人と接するのが苦手なのかもしれない。

 彼女の名前は確か……。そうだ、神木かみきみおだ。


 そんな神木さんは僕をじっと見つめている。

 僕はどうしたらいいのかわからなくて、ただその視線を受け止め続けていた。

 神木さんは他人と接するのが苦手かもしれないといったけれど、実は僕もまた似たようなものだったりする。似たようなものなだけであってまるっきり同じではないけれど。


 僕はただ会話をしたことがない相手に、自分から話しかけるのが苦手なのだ。

 今回はよりにもよってどういう人間かほとんどよくわからない神木さんが相手だ。普段以上に声をかけるのに抵抗があった。

 すると、突然神木さんが少し驚いたような顔をした。はじめて見る表情だった。


「あんた、それ……、」


 そして、そう呟くように言った。


「……それ?」


 神木さんが何を言いたいのかわからず、僕は彼女に聞き返していた。

 それ、とは何のことなのだろうか。考えてみるも、これといって思い当たるものはなかった。


「……いいえ、なんでもないわ」


 答えが聞けるものだと思っていた僕は、けれど彼女の言葉に戸惑ってしまう。


「な、なんでもないって……。いやでも何か言おうとしてたよね?」

「別に、気にしなくていいわ」

「そう言われても気になるよ」

「あんたに言ってもきっとわからないことだもの」

「……え」


 なんだ、彼女はいったい何を言っているんだ。

 僕にはわからないってどういうことだ? 僕を見て何か言おうとしたということは、僕自身のことではないのだろうか。

 けれど僕に言ってもわからない。よく意味がわからない。


 ……まさか何かに取り憑かれているとかじゃないよね?

 神木さんは霊感があって、幽霊とかが見えるとか。そういうことじゃないよね?

 昨日までの僕なら笑って否定していたところだけれど、今朝天使に出会ってしまった今ならありえる気がしてくる。


「な、なおさら気になるよ! え、待って、悪霊に取り憑かれているわけじゃないよね?」

「違うわ。……いえ、近いと言えば近いかしら」

「近い!?」


 悪霊に近いものってなに!? 呪い!?

 ……あれ。

 一瞬、パンツの呪いが頭に浮かぶ。

 悪霊に取り憑かれると、呪い殺されるという。つまり呪いをかけられるのだ。

 僕の状況もそれに近い。なにせこのまま何もしなければ呪いで死ぬ状態にあるからだ。

 なら神木さんはそれに気がついたとでも言うのだろうか?


 ……いやいやいや、まさかそんなことはないだろう。

 霊感のある人に悪霊が見えるという話は聞いたことがある。けれど呪いが見えるなんて話は、少なくとも僕は聞いたことがない。

 ……聞いたことはないけれど、もしかしたらということもある。

 神木さんは呪いが見えるの? そう単刀直入に聞こうとして、けれど神木さんのほうがひと足早くに口を開いた。


「……冗談よ。だから本当に気にしなくていいわ」


 彼女はニコリともせずに言った。真顔だ。真顔で冗談だと言ったのだ。

 真顔で言われると冗談に聞こえないんですけど。怖いよ。


「冗談なら笑うとかしてよ」


 すると神木さんは口角を持ち上げて。


「冗談よ」


 と言い直した。

 でも口角を持ち上げただけだった。目は笑っていない。けして笑顔ではなかった。


「……本当に冗談なの?」

「しつこいわよ。冗談って言ったら冗談なの。理解した? Understand?」

「なぜに英語……、」

「返事は?」

「は、はい」

「はいじゃない!」

「え?」

「イエス、マムよ、そこは」

「えぇ……、」

「ほら、返事」

「イエス、マム!」


 背筋を伸ばして敬礼してやる。

 ……何のプレイだ、これ。


「……本当に言うとか頭おかしいんじゃないの」

「……、」

「とにかく、そういうことだから」

「……はい」


 神木さんは僕から視線を外して、再びどんぶりを拭き始めた。

 けれど未だに僕は納得ができずにいた。

 なんというか、はぐらかされているような、そんな気がするのだ。

 ……気がする、というだけで、確信できるだけの要素は何もなかった。


 僕の印象として、神木澪という人間は冗談を言う質ではない、と思っていた。笑った顔を見たことがないし、雰囲気もどこか暗い。だからそう思っていたのだ。

 けれど、もしかすると神木さんは冗談をよく言う人なのかもしれない。それは、僕には判断のつかないことだ。僕は彼女について何も知らないのだから。

 だから彼女が誤魔化したという確信を持てない。


 彼女の背中を見つめる。

 この背中にもう一度同じ質問を投げかけても、きっと答えが返ってくることはない。ならこの場は諦めるしかない。

 胸のつっかえを残したままその場を立ち去ろうとして、けれど一つだけ疑問がまだあることに気がついた。

 僕は神木さんに視線を戻した。


「あのさ、神木さん」


 その背中に声を掛ける。

 神木さんは振り返りもせず「なに」と無愛想に応じた。


「どうしてカセットコンロを持ってきてまで、学校でラーメン食べたの?」

「好きだから」


 神木さんはそう即答した。


「……それだけ?」

「そうよ、悪い?」


 神木さんはそこで僕に振り返って、ジト目で見つめてきた。


「……いや、別に」

「じゃあこの話も終わりでいいわね」

「うん」


 どんぶりを拭き終わったようで、神木さんは教室へと戻っていった。

 やっぱり、神木さんはよくわからない。

 そう、僕は再確認したのだった。

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