第一章.ああ非情なるパンツ

 それは夏休み間近のとある日のことだった。


 僕は茹だるような暑さの中、学校へと向かってゆっくりと歩いていた。

 僕以外に人は歩いていなかった。同じように通学中の学生すらいない。

 それもそのはず。始業時間はとっくに過ぎているのだから。つまり僕は遅刻しているのだった。


 今頃、世の高校生たちは一時限目の授業に勤しんでいることだろう。ご苦労様です。


 蝉が元気よく、それはもううざったいウェイ系の如く泣きわめいていた。メスのナンパに必死なのだろう。童貞のまま終わるのは蝉も人間も嫌らしい。

 そんな必死になっても選ばれないオスがけっこう多いというのだから世知辛い。なんて他人事みたいに言っているけれど、僕だってこの先どうなることやら。


 生まれてこのかた彼女なんてできたことはないし、愛の告白をされたこともない。チキンでもあるからもちろん告白したこともない。

 そんなこともあって、僕には自分に恋人ができるところをまったく想像できない。逆にこのまま童貞を貫いていく姿は想像できてしまう。


 小さくため息を吐き出す。朝から憂鬱な気分になってしまった。

 そんな僕を、石垣の上に寝そべった猫が見つめていることに気がつく。

 なんだよ、なんて適当な言葉をかけると、猫は顔を逸らした。そして大きく欠伸をした。なんだか馬鹿にされているような気もしたけれど、可愛いので寛大な僕は許してやる。


 それにしても暑い。汗が止まらない。はやく冷房完備の教室へ行きたいところではあるが、走る気力さえ夏の太陽に奪われていた。

 少し前の学生は冷房のない教室で授業を受けていたようだが、よく我慢できたものだ。僕なら溶けて消滅していただろう。


「くっそ、こんなことならサボればよかった」


 家で冷房の風にあたっていた方が有意義だったに違いない。なんて馬鹿なんだ。

 けれど戻るのもなんだか癪だったので、自分でもよくわからない意地で進み続ける。


 とはいえ文句くらいは言ってやりたい気分だったから、燦々と輝く太陽を睨みつけた。

 けれど太陽はやんのかコラとてでも言いたげに僕の瞳を焼いた。なんだか負けたくないと思い、手で庇を作ってさらに睨んでやった。


 我ながら馬鹿なことをしていると思った。

 ため息を吐き出して視線を戻そうとして、けれどその寸前に白っぽい何かが目前を横切った。

 不審に思ってその何かを視線で追った。


 それはゆらゆらと軟風に揺れながら、ゆっくりと落ちている。やがてそれは布のようなものだとわかった。白い、小さな布だ。

 しばらくしてその布は、僕の足元へポトリと着地した。


「……なんだろう、これ」


 気になって拾い上げてみる。するとそれは逆三角形をしていることがわかった。

 小さな三角形状の布だ。というか女性物のパンツだった。


「おいおい、まじか」


 空からパンツが降ってきたんですが。しかも可愛らしいパンツ。たぶんまだ大人になる前の女の子のパンツだ。

 いやいや、これはきっと幻だ。女の子のパンツが目の前に落ちてくる可能性なんてそうはあるまい。だからこれは夏の暑さが見せた幻に違いない。そうだ、きっとそうだ。


 ……幻ならいいよね。


 周りに人がいないか再度確認する。大丈夫だ。猫以外になにもいない。


「よし」


 女の子のパンツを拾ったらどうするか。そんなことは決っている。選択肢など一つしかないだろう。

 そうだ、これがたった一つの冴えたやり方だ!

 男なら匂いをかぐに限るッ!


 勢いよくパンツを鼻に近づけようとして――。

 ガツンと、頭を殴られたような痛みが走った。


 思わずパンツを取り落として両手で頭をおさえる。痛みはまだ続いている。

 それどころか視界がゆらゆらと回っている。平衡感覚がつかめない。前後左右がわからなくなる。


 なんだ、これは。意味がわからない。なんだ? 熱中症か? パンツの幻を見たのもそのせいか?

 なんだ、なんなんだ。


 やばい、そう思った瞬間。すっと。それは前触れもなく、頭痛がなくなった。

 ぐらぐらと揺れる感覚も、目眩もなくなっていた。


 いったい、なんだったのだろう。僕の身体に何が起きたというのだろうか。

 僕は訳がわからず、ただじっと地面に落ちたパンツを見つめる。

 頭痛はこのパンツの匂いをかごうとした時に起こった。ということはこのパンツが原因……?


 見ず知らずの女の子のパンツ。その匂いをかごうとしたからバチが当たった? まさか、そんなことはないだろう。

 ならこのパンツが頭痛を伴うような、強烈な異臭を持っていた?

 いや、それはないだろう。

 強烈な異臭を持っているのなら今この瞬間にも匂いを感じられているはずだ。そもそも僕はパンツの匂いをかいでいない。あくまでもかごうとしただけだ。

 ならどうして――。


 たっ、と。誰かが着地したような音がした。パンツの近くに足が現れていた。それは茶色いブーツを履いていた。それは異世界ファンタジーでよく見る、布だか革だがよくわからないブーツだった。


「とんだ変態さんですね」


 声が聞こえた。声の近さからブーツを履いた人物のものだろう。

 顔を上げる。するとそこには真っ白な膝丈までのワンピースを着た女の子が立っていた。


 見た目だけで言うのであれば中学生くらいだろうか。それほど身長は高くなく、その顔も少しだけ幼いように見えた。

 サファイアのような綺麗な碧色をした瞳。ショートカットの金髪。絹のようにきめ細やかで、雪のように白く透き通るような肌。

 海外の人だろうか。それにしては流暢な日本語を話していた。それならばハーフだろうか。


 それはとても可愛い、そう美少女と呼べる女の子だった。

 けれど、ただの美少女ではなかった。

 翼が生えている。それは真っ白な小さい翼で、肩甲骨の辺りから生えているようだった。

 そして彼女の頭上には光輪が浮かんでいた。

 そう。彼女の姿を空想上の存在であるはずの、天使の姿をしていたのだった。


 ……コスプレだろうか? いやそうでないとおかしい。天使は空想上の存在であるはずなのだ。

 けれど、彼女の翼は、そしてその光輪は作り物に見えなかった。というか光輪に至っては完全に宙に浮いていた。

 いったい、彼女は何者なのだろうか。


「聞いているんですか? 変態さん」


 女の子が言葉を紡いだ。

 彼女が話しかけているのは誰だろうか。振り返ってみても誰もいない。

 変態はどこにいるのだろう。

 不思議に思って彼女を見つめていると、ビシッと指を刺された。


「あなたのことなんですけど」

「……え? 僕? 僕は変態じゃないんだけど」


 失礼な子だな。僕はどこからどう見ても変態じゃない。


「あなたの行動は全部見ていました。わたしのパンツの匂い、かごうとしてましたよね?」

「……ちょっと何を言っているのかわからない」


 というかあのパンツ、この子のだったのか。


「誤魔化さないでくれますか?」

「いやぁ。そのね。なんていうのかなぁ。……ごめんなさい許してください」


 僕はその場で土下座を決めた。

 審査員が全員満点の札をだすほどに華麗な土下座だったはずだ。金メダル間違いなし! 表彰台の上でメダルをかじりたい。


 ……どうでもいいけれど、これ傍から見たらパンツに土下座をする変態では? なにそれキモい。


「顔を上げてください」

「許してくれるの?」

「まさか。キモいからやめてほしいだけです」


 酷いことを言う。

 それは確かに、自分でもキモいと思ったよ。キモいと思う気持ちはわかる。でも言葉にする必要はないと思うんだ!


「まあそれとは別に、そんなものを見にわざわざ降りてきたわけではないということもありまして」

「じゃあどうして?」


 土下座の姿勢のまま顔だけを上げて尋ねる。

 謝ってほしいから僕の前に現れた。そう思っていた。それ以外にあるというのだろうか。


 ……待て。今降りてきたと言わなかったか?


 視線だけを空に向ける。

 上から降ってきたとでも言うのだろうか? まさか、そんなわけ――。


 ……いや、そんなことより大変なことに気がついてしまった。

 スカートの中だ。目の前にいる女の子。そのスカートの中身が見えそうになっている。

 もう少しだ! もう少しで見える!


 瞬間、救いの風が吹いた。これがメシアの風か。アーメン。


 けれど、スカート中身を見ることは叶わなかった。正確に言うと、スカートの中自体は覗けた。けれどそこにあるはずのものはなかった。

 ノーパンとかそういう話じゃない。闇だ。闇があったのだ。

 どこまでを深く、見つめ続ければ吸い込まれると錯覚してしまいそうなほどに暗い闇。その闇が広がっていたのだ。


 パンツも秘密の花園も、夢見たお宝はどこにもなかった。


「なん、だと……、」


 ラピュ◯はなかった。

 桃源郷は幻だった。

 僕は文字通り目の前が真っ暗になっていた。


「残念でした。わたしたちはシャドウ・シールドで護られているので、性的な部分は見ることができないのですよ。少なくとも人間には無理ですね」

「……シャドウ・シールド?」


 たぶん彼女のスカートの中に広がる暗闇のことだと思う。しかしどういう仕組なのだろうか。

 だいたい、こんな仕組のスカートなんて聞いたことがない。スカートの中が光る物なら知っているけれど、それの応用だろうか。けれど、こんなに真っ暗闇になるものだろうか。


 ……どうでもいいけれど、シャドウ・シールドってどこかのトレーディングカードゲームに出てきそうな名前だな。


「あなたが見ている暗闇のことですよっと」


 よっこらせ的な感じで後頭部を踏まれた僕は地面に顔をぶつけた。けれど顔を横に向けることによって、地球とのダイナミックキスだけは免れた。

 ファーストキスの味はアスファルトの味がしたということになるのは絶対に嫌だった。やっぱり可愛い女の子とキスがしたい。……あ、これラノベのタイトルで使えそう。

 いや使わないけど。そもそも物書きじゃないし、僕。


「ほら、漫画とかでよく使われているじゃないですか。スカートの中を真っ黒に塗り潰す手法。あれを参考にしたんですよ。相手の視界情報を限定的に書き換えるんです。だからスカートの中が見えない。便利でしょ。……まあ見えないからといって、下心ありありで覗かれると踏み潰したくなりますよね。えい、えい」


 えい、えいじゃないんですけど。天使みたいな格好をしているくせにやることがやばい。


「……悪魔のような天使だ」

「何か言いましたか?」

「こんな風に踏まれると目覚めそうだなーって」

「……キモい」


 そんな言葉とともに僕は解放された。

 土下座の姿勢を解いて、制服のズボンを払いつつ僕は立ち上がる。


「つまりあれだね。謎の光とか湯気先輩に並ぶ凶悪な、あの黒塗りってわけだ」


 謎の光とはアニメでよく見られる、女の子の大事なところを隠す光。

 湯気先輩(命名僕)とは謎の光と同じく、女の子の大事なところを隠す不自然な湯気のことだ。

 二つともブルーなレイとかで消えるやつだ。つまりお金を払えばだいたい消えてくれる。消えないやつもあるので要注意だゾ。


「ああ、謎の光ですか。前はそれでした」


 放置プレイされていたパンツをようやく拾い上げながら、天使みたいな格好をした女の子は言った。心なしかパンツが嬉しそうしている気がした。いや知らないけど。


「謎の光もあったのか。……というか視界情報を書き換えるって、どうなってるのそれ」


 僕はスカートを指さしながら尋ねる。


「魔法ですよ、魔法」

「……は?」


 魔法? 今魔法って言った?

 何言ってんだ、こいつ。と思った。


「何言ってんだ、こいつ」


 というか口にも出していた。


「まあ信用出来ないですよね。人間って魔法を忘れてしまった生き物ですもんね」


 訳知り顔でうんうん頷いているけれど、こっちは意味がわからないんですが。


「論より証拠っていうことで」


 そう言って、目の前の少女は何もない空間で、ファスナーを引くような仕草をしてみせた。

 すると不思議なことが起こった。何もなかったはずの空間が〝開いた〟のだ。


 それは窓のようだった。窓の外から部屋の中を覗く感覚。つまり開いた空間の先には部屋があった。

 天使みたいな格好をした女の子は、その中へ持っていたパンツを放り込んだ。そしてファスナーを占めるように空間を閉じた。


 僕は部屋があった場所に手をやってみる。そこにはもう何もなかった。


「信じてもらえました?」

「……君は魔法使いか何かなの?」


 自分で言っていて、酷く現実離れした言葉だと思った。

 現実世界でこんなことを聞く時が来るなんて、これまで一度も考えたことはなかった。

 魔法なんて信じたくないと思ったけれど、目の前にいる女の子がやってのけたことを見てしまったら、嫌でも信じるしかなかった。


 さっき頭を踏まれた時、確かに痛みを感じた。そこまで痛かったわけではないけれど、確かに痛みを感じたのだ。それなのに夢から覚めるような感覚はやってこなかった。

 だからこれは夢じゃない。……と思う。


「わたしは天使。天の使いです」

「……天使」


 天使みたいな、ではなかった。どうやら彼女は天使そのものであるらしい。彼女の光輪や翼が作り物に見えなかったのは、それらが本物の光輪であり、本物の翼だったから。ということになるのだろう。


「そうです。天使です。……あなたのせいでずいぶん話が逸れてしまいましたが、ここへは天使としてあなたに大切な話をしにきたのです」


 そうだ。彼女がどうして僕の目の前に現れたのか、その理由をまだ聞いていなかった。まあそれは僕のせいでもあるんだけど。

 いったい彼女はどうしてここに来たのか。どうも僕に大切な話があったからということらしい。


「……大切な話って?」

「あなたはわたしのパンツ、つまり天使のパンツをその手に取り、あまつさえ匂いを嗅ごうとしました」

「それって関係あるの?」

「あります。天使の下着や性的な部分に触れ、不埒な行為をしようとする。その行為は禁忌です」

「……え?」


 き、禁忌。つまり僕は禁忌に触れてしまったというのだろうか。

 それならば、僕はどうなってしまうのだろうか? まさか、死をもって償えとか?

 確か北欧神話では簡単に人を殺したりしていたはずだ。


 実際の神や天使の世界がどんなものであるかはわからないけれど、その北欧神話のような感覚を持つ世界かもしれない。それも十分にありえるはずだ。


「ぼ、僕はどうなるの?」


 恐る恐る目の前の女の子に問いかける。無意識に、ゴクリと唾を飲んでいた。


「どうなるのというか、もう事態は進行しています」

「え?」

「罰というか、そういう類のものがあなたに落ちたのです」

「ま、まさか僕はもう死んでいるとか?」


 不安になって自分の身体を確認する。

 見たところ身体が透けているということはない。触れてみてもちゃんと実体はあるように感じた。

 いや、待て。幽霊になっていたらあてにならない可能性がある。当事者である僕や天使には実体があるように、身体に触れられるかもしれない。わからないけれど。

 わからないからこそ、判断のしようがなかった。


「いえいえ、まだ死んではないです」

「よかった……。え? ちょっと待って。まだ?」

「はい、まだです。ですがこのまま何もしなければ命を落とす状態にはあります」

「死ぬって、こと……?」

「そうですねー。死にます、dieです。あなたの人生、The Endってね」


 天使はなんてことはなさそうな感じで言った。そこに切迫した雰囲気はなく、どこまで言っても他人事という気持ちを感じた。それどころか少し面倒臭そうな表情だった。


「ちょっと他人事みたいに言わないでよ!」

「え、だって他人事ですし……、」


 何を当たり前のことを、という顔だった。

 ……いやいやいや。


「君って天使なんだよね」

「そうですね」

「だったらもっと慈悲深い感じでやってよ!」

「えー、面倒です。ただでさえ面倒な仕事が発生して嫌な気分なのに、そこまでしたくないです。元はと言えばあなたが悪いんですよ? わたしのパンツ食べようとするから」

「してないよ! 匂い嗅ごうとしただけだよ! 悪いか!」

「悪いですよね?」

「……悪いです」


 僕が全面的に悪かった。


「まあパンツを落としたわたしにもほんの一ミリの責任があるわけですから、こうして仕事が発生してしまっているんですけど」

「なら謝ってよ」

「嫌です」


 天使みたいな笑顔で拒否しましたね、この子。笑顔は天使なのに……。いや、というか天使だった。何だこの天使、本当に悪魔みたいだ。


「……そうか。僕は死ぬのか」

「はい。あくまでもこのまま何もしなければ、ですが」

「じゃあまだ助かる可能性はあるんだね!?」


 希望の光が射した。

 これは冗談でもなんでもなく、本当にそう思った。


「そうです。この呪いはそういう類のものですので」

「の、呪いなの?」

「はい、呪いです」

「……何の呪い?」

「パンツの、です」


 ……ん? なんだ、この子は今なんと言ったんだ?

 おかしいな、変な言葉を聞いた気がするんだけど。パンツがどうとか……。


 いやいや、気のせいだよね。そんな名前の呪いなんてあるわけがないじゃないか。

 柳原やなぎはらとおる、あなたは疲れているのよ。きっとそうよ、そうに決まっているわ。

 脳内で自分自身に言い聞かせて、僕は眼の前の天使を見つめる。


「……あのさ、ちょっとよく聞こえなかったんだけど。……何の呪いだって言ったの?」

「だからパンツですって。あなたは【パンツの呪い】にかかってしまったんです」


 ……は?


 意味が、わからなかった。

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