第一章 マスター(8)

 気丈に返すラスタス。だが、彼女が深い悲しみを押し殺していることをバルジは見逃さなかった。

「私からは以上だ。辛いだろうが…」

「いえ…」

 ラスタスはバルジに目を合わせることもなく、深々と敬礼する。

「失礼します」

 そのまま足早に室を後にした。


 司令棟を出ると、空は墨を流したようにどんよりとしていた。

 軍帽を目深に被り、俯きながら早足で歩く。次第に足が速まり、いつの間にか駆け足になっていた。誰にも見られたくない、誰にも悟られたくない―

 逃げるように宿舎へ走り、自室に飛び込むなりドアを後ろ手に閉め、そのままずるずると床に座り込んだ。

 とたんに、溜まっていた涙が一気に溢れてきた。

「うっ……」

 堰を切ったように溢れる涙が、頬を濡らしていく。


 ミランダ―

 ラスタスがまだ少女だった頃の親友である。

 また、ラスタスを初めて”フライング・カフェ”に連れて行ったのも彼女であった。ラスタスにとって初めての、心許し合える友。

 ラスタスが士官学校へ入り、マスターとして生きることになって以来、ふたりは会うことはなかった。最初は手紙をやりとりもしていたが、次第に音信不通になっていたのだ。

 それから数年。

 ミランダが、まさかマスターになっていたとは、それも敵国の!

 しかも、自ら制裁を加えていたとは!

(…ミランダ……)

 床に座り込んだまま、涙を流し続けるラスタス。

 ぽんちゃんはテーブルの上からただ、ラスタスを見守るしかなかった。ぽんちゃんの表情もまた、哀しそうで。




 中立地帯《フィールド》内の森に、ぽつんと佇む木造の小さな白亜。

 それは、教会だった。

 その教会を守る初老のシスターは、いつものように戸を開け、庭の掃除に取りかかろうとしていた。外へ出たとたん、辺りにふわりと緑の香りが漂った。辺りは色とりどりの野生の花が咲き誇っていた。もうすっかり春だ。暖かな陽気を胸一杯に吸い込む。

 爽やかな空気の中、ふと遠くに目を遣ると、何やら人の影が見えた。

(あら…、ラスタスかしら?)

 シスターは弱っている目を凝らし、人影を見つめる。よく見ると、それはラスタスよりかなり小さい。しかも、青、…鮮やかな青色が印象的だ。

 人影が鮮明になり、教会の敷地内に入ってきたとき、ようやくそれは認められた。子ども― 女の子。

 青色の短い髪を振り乱して、ひとりの少女が、息せき切って走りこんできた。

「あ、あの……、すみません…!」

 少女はシスターの目の前で足を止め、荒い息をついている。

「どうしたのですか」

 シスターは持っていた箒<<ほうき>>を地面に置くと、優しく訪ねる。

 少女は息も絶え絶えに、シスターを見上げて訴えた。

「助けてください!」

「えっ」

「お願いです、助けてください!」

 ただ事ではない、そう直感したシスターは、しゃがむと少女の両肩に手を置き、

「大丈夫ですよ、ここは安全です。どうぞ中へ…」

「待ってください、もうひとり…」

 少女は何度も後ろを振り向き、しきりに気にしている。

「もう一人…もうひとり!」

「落ち着いて、大丈夫、大丈夫だから」

 シスターがなだめたそのとき、敷地内にもうひとりの少女が入ってきた。赤色の髪を振り乱して、まっしぐらに走ってくる。

「あ、こっちこっち!」

 青い髪の少女は手招きをすると、赤い髪の少女もシスターの元へ一気に走り込む。途中、足がもつれてつまずきそうになる。

「あらっ、大丈夫?」

「…はい!」

 赤い髪の少女は息を切らしながらも、しっかりとした声で答え、青い髪の少女の横に並んだ。

「安心なさい。ここならもう大丈夫ですよ」

 シスターは優しく微笑む。

「お名前は?」

 少女は一瞬何か言いかけた。が、すぐに口をつぐんだ。

 その後、思い出したように、

「シアンです」青い髪の少女は言った。

「マゼンタです」赤い髪の少女は言った。

 シアンは、髪の先がぴんと伸びたおかっぱで、色は明るめの、空に近い青色だった。服も、青を基調とした鮮やかなスタイルだ。

 マゼンタは、内側にウエーブのかかったセミロングの赤毛。着ているワンピースも赤。対照的な色のシアンと並ぶと、その赤はより一層鮮やかに見えた。

 色は正反対ではあるものの、背格好は同じ。おそらく双子だろう。歳は九、十歳くらいだろうか。まだ頬に赤みの残るその少女は、幼いながらも、その瞳はしっかりとした光をたたえていた。

「シアン、マゼンタ…いい名前ですね」

 シスターは微笑んで、教会の扉を開く。

「さあ、入って。ゆっくりなさい」


 ふたりの少女は、シスターから出された食事を全て平らげた。お腹が空いていたのだろう。

「ごちそうさまでした」シアンは言った。

「ありがとうございました」マゼンタは言った。

 ふたりの少女の顔は、先ほどよりも落ち着いていて晴れやかに見えた。すっかり子どもの顔だ。

「どういたしまして。ところで…。あなたたちは、どこから来ましたか」

 シスターが訪ねたとたん、ふたりの表情が固まった。

「………」

 押し黙り、口をつぐんでいる。

「あの…」シアンが口ごもった。

「ん?」

「あの…、思い出せないんです」

「わたしも、わかりません…」マゼンタも答えた。

「思い出せないの?」

「はい…ごめんなさい」シアンが言った。

「ごめんなさい」マゼンタが言った。

「いいえ。お父さん、お母さんは?」

「お父さん、お母さん?」

「ええ、…きっと家で心配していますよ」

「お父さん、お母さんって…なんですか?」シアンは言った。

「なんですか?」マゼンタは言った。

「えっ…」

 その言葉を聞いて、シスターの胸が痛んだ。


 この子らは、記憶を失くしている。

 人は、過去にとても辛い出来事があったとき、その記憶を脳の奥底へ仕舞ってしまうことがあるという。二度と思い出してしまわないように。

 もしくは何らかの事故かなにかで、記憶自体が抜け落ちてしまったのかもしれない。あどけなさを残したふたりの少女は、見た目からは想像も付かない過去を背負っている…。

 いずれにせよ、ここで彼女らの出自を詮索してはならない、シスターはそう判断した。

「シアン、マゼンタ」

 シスターは、まるで自分の子どもに語りかけるようにやさしく語る。

「お父さん、お母さんはね…。…そのうちわかると思いますよ」

「ごめんなさい」シアンは言った。

「ごめんなさい」マゼンタは言った。

「いいえ、わたしのほうこそごめんなさい。しばらくここにいて構いませんからね」

「本当ですか?」シアンの目が輝いた。

「いいんですか?」マゼンタの声が明るくなった。

「ありがとうございます!」二人は口を揃えた。

「ええ、…ええ、いいですよ…」

 喜んでいるふたりの姿を目にするうちに、シスターの目頭が熱くなった。

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