Code_7『天使』天利寧々



大和は良い仔だ。

黒い艶やかな毛並みと長い尻尾。ぴんと立った三角の耳とひげ。軽い身のこなしで知らないうちにどこかに行って、知らないうちに甘えるように擦りよって帰宅を知らせる。


今までずっとそうだったし、これからもきっとそう。




ここは天国。

天国と聞いて、想像するのは何だろう。


神様や天使がいて、善人の死後行きつくところ。

光にあふれて白くてふわふわしたところ。


だいたいそんなところ。

今でもそんなところ。


昔はもっと違ったけど、それは、昔の昔も同じ事。


天国も現世のようにふらふら変わる。

でも根本は変わらない。

それは現世も同じこと。



私のお家は天国の入り口の近くにある。


「おう寧々ちゃん。今日は大和と一緒じゃないのかい」


声をかけてきたのはじじいだった。

天国の入国統括次長の治(じ)井(い)さん。 次長の治井だからみんないつも略してじじいって言っている。


失礼だとは思うけど、本人が普通にしているからそれで通っている。

本当におじいちゃんだから怒らないのかな。

もし、本人が怒ったらちゃんと治井さんって呼ぼうと思ってる。


「じじい、こんにちは。大和は昨日からどこかに行っちゃってるの」

「そうかぁ、あいつは天国の黒一点だからな。居ないと何だか背景が締まらんな」

「結構いないこと多い。この前もいなかったよ」

「あらそうだったかの。なあ寧々ちゃん。大和はどこで拾ってきたんだ?」


そう問われて私はうーんと小首を傾げる。


大和はどこから来たんだろう。

気が付いたら私の傍にいた。


「儂もあんな頭の良い猫は初めて見たからのぅ。いいなあ、猫」


大和は何者なんだろう。

縦横無尽に境界を渡り、数百年の時を生きる猫。


彼岸の世界にももちろん動物はいる。

天国には天国、地獄には地獄の動物という風に固有の生き物がそれなりの寿命を持って生きている。動物たちは誰かが連れて行かない限り世界を行き来しないけど、大和だけはなんか違う。


「大和は特別なの」

「ほほ、ミステリアスな所も可愛いのう、いいなあ、猫」


それからじじいはゆっくりと歩きながら一文を諳んじた。


「強請れよ、されば与えられんことも無い。と何かの教典にも書いてあっただろう、猫の方から家に来てくれんかのう」

「じじい違う。求めよ、されば与えられん。それじゃ回りくどくて流行らない」

「そうだったかの。そういえばよ、この前話してたセーショーはどうなった?」


ボケてるんだかしっかりしているんだか。

クリスマスの前、セーショーに会いに行く前にじじいに相談したことなど私はすっかり忘れていたのに。


「じじい、その話はもう終わった」

「そうか、彼も早く気付ければ良いのだがな。隣人を信頼し、目の前の義務に務めるべき。それが人の進化に繋がるものだと、どこかの神は言ったそうだ」

「そうだったけ」


そんなニュアンスの文、あったような無かったような。


「そんなもんだ。近しい者に猜疑心を持ち、その不安に惑わされる時間など無駄だ。相手を信頼し、己もまた信頼される者となれというものだった気がしない?」

「そこはふわふわさせたらだめ」


しかし自分もじじいも固定の宗教観念がある使者じゃないからその詳細はいつのまにかふわふわと、白い空の中に消えていった。



じじいと別れた私は、そのまままっすぐ家路についた。


歩いてだいたい一時間。

帰り着いた小さなアパートのどこにも、大和の姿は見当たらなかった。


「……はあ」


私は小さく溜息をつき、白くてふわふわのベッドに倒れこむ。


私は、セーショーのことを考えていた。

大和の事もそれなりに心配だけど、さっきじじいに言われて少し不安になった。


クリスマスの後。

私はあの時、セーショーはもうすぐ消えるんだろうなと悟った。


彼女に寄りすぎたセーショーは、きっともうすぐ訪れる彼女の死に耐えられない。

かみやんもそう言っていた。


そして今、セーショーは彼女のために在りもしない解決策を求めて足掻いている。


解決策などあってはならない。

私たち使者の存在と引き換えに叶えられる望みなど、あってはいけない。


あの隣人はもう信頼できない。

私はただ、目の前の義務を務め上げるだけ。






――


音重の家で、自分は悩んでいた。

新年も屠蘇に口を付けただけを祝い、それ以来、何をせずと日常を過ごす縁(よすが)の傍ら、自分はずっと彼女の隣を動けなかった。


彼女は日々弱っていくようだった。

本を読む今もページを捲る速度は非常に遅く、まるで腹の子に全てを吸い尽くされていくかのごとく痩せている。活気は失せ、憔悴が顔に濃く現れて、いまにも……


自分は膝を抱えて小さな小瓶を見つめていた。


不眠を抱える使者の常備薬。

速攻眠れる「ネムレール」だそうだ。

このふざけた名前の薬は、この前『忘却』のダイソンがどうしようもないアドバイスと共にくれたもの。


結局、合同会議ではダイソンに何の報告も出来なかった。

だって、何の進展もなかったんだから。


僕らは出会えず、刻一刻、彼女は死に向かい、自分は絶望に浸されていくだけ。


「はあ……」


掌で小瓶を転がすとカラカラと中の錠剤が騒いで回る。

ふいに暗い液晶画面に映る自分の顔も「飲めば楽になれる」と囁いているようだった。


ぱたんと縁が本を閉じる音に振り返る。

彼女は本を枕元に置き、大きなお腹に手を添えながら布団に潜り込んでいった。


最近の彼女は一日の大半を布団の中で過ごすようになった。


心配だけど、最期が近いからといって縁ちゃんに無理に思い出作りをさせたいとは思えない。

外に出たら事故に巻き込まれるかもしれないから。


むしろ自分にとってこの状況は幸せなのだろう。

一日中彼女を独占できているようだから。

このままゆっくりしていれば事故にもあわないんじゃないか、そしたら最期の日まで無事に生き残ることが出来るんじゃないか。


そして、できることなら。

運命に殺されてしまう前に……


「……えっ、」


心臓が大きく脈打つような衝動に目が覚める。


(今、自分は何を考えていた? )


「そんな……違う」


自分とかけ離れた思考に戦慄が走る。

掌から落ちた小瓶が妙に耳に付く音でカラカラと床を転がった。

カラカラ、カラカラ、と。

ここから出せと、白い粒が叫んでいる。


「違う違う、ちょっと疲れてるだけだけだよね」


そう言い訳しながら、自分の手が縋るように薬瓶に伸びていくのを見つめていた。


震える手で蓋に手を掛け、背徳感を覚えながらそっと捻った。

いとも容易く開けられた蓋から香る甘い匂い。

そして無垢な顔をして躍るように手のひらに零れてきた一粒。


なんて事はない。

ただの不眠症の薬にこんなに怯えることはないのに。

期待と不安が入り混じり手が震えてしまう。


ごくりと喉が鳴る

そして覚悟を決めて、飲み込んだ。


「……え?」


手から落ちた瓶がカラカラ笑いながら床を転がる。

ぐっと胸が詰まるような感覚、助けを求めようと立ち上がるが、その瞬間くらりと意識が遠くなった。


「あれ、ちょっと待っ、て」


ベッドに伏せる縁の上に倒れこもうとする身体は御すことも出来ず彼女の上に。

身体に力が入らない。

指一本動かすことすらもう難しかった。


「よ、すが、ちゃん」


声にならない自分の声。

心の中でごめんなさいと呟き、強制的に綴じる目から冷たい涙が零れた。



きっと疲れていた。

不安で憂鬱だった。

だからさっきの考えは何かの間違い。

だって、あんな悍(おぞ)ましいこと、自分が考えるなんて可笑し過ぎるよ。



そして、できることなら。


できることなら、運命に殺される前にこの子を殺してしまいたい。


なんて……


――

ーーー


目が覚めると……

気が付くとそこは白い空間だった。


白くてぼんやりしたところ。

思い当たる場所。

聞いた話によると天国とは確かこんなところなのだろう。


白くてふわふわ。

しかし際限ない白い海はどこと例えられるものでなく、ふわふわしているのは自分の意識だと断言できる。


たぶん、ここは夢の中なのだろう。

恐怖に背中を押され、飲み込んだ錠剤に誘(いざな)われた夢は科学的な虚無だった。


あれを飲んだらみんなこんな夢を見るのだろうか。

これで少しは目の下の隈も薄くなるのだろうか。

伸ばした腕さえ白に消える。


どうせならこんな意識も消して安眠したかったよ。


そう思いながら伸ばした手を彷徨わせる。

と、その腕が何かに触れた気がした。


「……っ」


何かに触れたと途端、視界に広がる白が勢いよく霧散した。


「よすが、ちゃん?」


目を開けると、彼女はそこに立っていた。


僅か二、三歩の距離。

彼女は驚いたようにこちらを見ていた。


名前を呼ばれ、縁はさらに目を丸くして小首を傾げる。


「えっと、誰、ですか?」


そう言われて困ってしまった。

今までこんなにも主張したかったことを問われて、すぐ答えることができないなんて。


「えっと、あの僕は……」


彼女に自分が見えている。

この声が聞こえてる。

なのに自分の存在を表す言葉が出てこないだなんて。


これが使者ということなのだろうか。

じっと見つめる縁を前に、自分は何もできないでいた。



「……私、あなたのこと、知ってる」

「えっ?」

「知ってるっていうより、何か、分かるよ」


当てずっぽうな言葉じゃない。

縁ちゃんは自分の瞳の奥に所在を探すようにそう言った。


「ぼ、僕は、縁ちゃんが生まれた時から、君のことを、見守ってきた、者です」


使者とか『書記』とかいう単語はどうしても口をついて出なかった。


「えっと、それは、どういう?」

「あっ。へ、変な意味じゃないよ。でも嘘じゃないんだ」


しどろもどろの回答にも、縁は意図を汲み取ろうと耳を傾けていた。しかし、自分たちの存在とか寿命のこととか、説明しようとすればするほど言葉が逃げていく。


「だから、その……あの……」

「わかるよ、いつもそばに居てくれたよね」

「……うん」


そして訪れた静寂。

何か言いたい、でも心地よい静寂。

ずっとこのままでも構わないと思うような。


「僕は……」


穏やかな静けさを意図せず自分の声が遮った。

縁がふっと顔を上げる。

目と目が合った。


「縁ちゃん。僕は、君が好きだよ。だから、ずっと一緒に……」



その瞬間、目の前が黒に反転する。

縁ちゃんの姿は消えて、自分はひゅんと萎んでいく気分に目を回す。



ーーー

ーー


目覚めると自分は彼女の横に倒れこんだまま何が変わったこともない。

何も、変わってない目覚めに少し落胆した。



彼女はまだ目覚めていない。

あの夢も、自分が見たいだけの都合のいい夢だったのだろう。

自分は重く気怠い身体を起こし、薬のせいでがんがんと鳴る頭を押さえながら外の空気を吸いにふらりと外へ出ていった。



「……結局何も変わらないんだ」





ーー


総司が外に出て行ってから数分後、縁は浅い眠りから目が覚めた。


「……」


変わった夢を見ていた気がする。懐かしいようで新鮮な夢。誰か知ってる人が出てきたんだけど。


誰だっけ


私はまどろみを振り払い辺りを見回す。


「……そうか、」


名前も知らない男の人だった。

年は同じくらい、記憶はぼんやりして顔も声もよく覚えていないが、一緒に居てとても心地よい気分になったのは覚えている。


夢の中で彼は「生まれた時から見守ってきた」と言っていた。

私もそれをすんなり肯定した。

だけど今思えばそれはとても自己都合な内容だったと思う。


現にこの部屋には誰の気配もない。そんな人がいたら警察ものだ。

所詮は夢かと思ったが、私は夢のありかを探し出したかった。


「なんで、あんな夢見たんだろう」


答えを求めるように再び微睡に身を任せたが、あの人は帰ってこなかった。










ーー

白い世界には今日も一点の染みもない。


あれから数日。

私はいつも通り仕事を終えて、その帰りに出会ったじじいと世間話をしていた。


「そう言えばよ、寧々ちゃん。大和は帰ってきたか」


尋ねられて気が付いた。そういえばまだ大和は帰ってこない。

私はじじいにふるふると首を振ってみせた。


「そうか、まあ今回は長いな」

「大丈夫、大和はちゃんと帰ってくる」


力強く言ったそばから不安がよぎる。

もう何日大和を見ていないのか、自分にも分からなかったから。


「そうだのぅ、しかし寧々ちゃん。あれ、なんで大和って名前なんだ」

「……大和は、大和だったから」


じじいは私の曖昧な答えに「そうか」と言って私の頭を撫でてくれた。


「命のあるものは綺麗な名を呼んでくれる者の元に帰ってくる、心配しなさんな」

「そんなこと、初めて聞いた」


見上げるとじじいはにこりと笑ってみせる。


「儂も初めて言ったからな。でも正論のようだろう」

「不確定すぎる。でも、ありがとう」

「うん、家でミルクでも用意しておきなさい。きっと帰ってくるよ」


じじいに見送られながら、私は家路についた。


窓を少し開けて、大和用の皿に浅くミルクを注ぐ。

こうしていると帰ってくるんじゃないかって、少しでも期待してしまう。

そう心を踊らせ、私はふわふわなベッドにもぐりこむ。


習慣になっているこの生活。

しかしこれが意味のない行動になって何日立ったのだろう。


なかなか閉じられない目を無理に瞑った。



そして朝になって落胆する。

この日も、大和は帰ってこなかった。





ーー

あれから何をせぬと音重家に戻り、自分は縁の部屋で薬瓶を手慰みに転がしていた。


カラリと瓶の中から軽い音で誘う錠剤が、また彼女に会えるんだと言っている。

昨日夢の中で縁と会えたのは総司の妄想の産物か、それともこの薬にそのような作用があるのか……


「いや、そんなこと」


だってそんな効果があるなら今ごろ世界はもっと大変なことになっていて、きっとこんな薬、市場から消滅しているはずだから。


カラカラ、カラカラ。


ふっとカレンダーを眺めた。

斜線に潰されていく数字を辿ると、今日は一月の十日。


あと二、三週間。

一月の末がおそらく縁の命日だ。


張り出すほどに大きくなった縁の腹。

おそらくこの子が生まれるとき、縁の命は散るのだろう。


……もう時間がない。



縁の方を見ると彼女は携帯の画面を見つめていた。

今日は誰かとしきりに連絡を取っているようだ。


相手は誰か分からないが、画面を見る縁の顔は心なしか楽しそうだった。

言葉を考え送信し、返信をそわそわと待つ姿は初めて携帯を持った時みたいで、懐かしく、微笑ましい光景。

昔の友人なのだろうか。誰にせよ、最近は暗い顔しか見ていなかったから彼女の気晴らしになるものがあるなら今はそれに縋りたい。


そして自分も、何か救われるものがあるならそれに縋りたい。



「僕も、また君と話したいよ」


カラカラと誘う錠剤。


自分は口寂しさを紛らわすように薬瓶を掴むと、容量も知らぬそれを手のひらに撒き散らす。

手のひらに躍る白い錠剤。

この前は一粒で一眠りに終わった奇跡。

これだけ飲めばどれだけ一緒に居れるだろう。


こんな事していいはずがない。

怖いけど、もう苦しいんだ。


もっと会いたい、ずっと一緒に話をして、まだ、側に居たい。


恐怖を飲み下すように手のひらの錠剤を飲めるだけ飲み干した。


錠剤が喉を下る感覚が消えると、罪悪感も意識もすうっと遠くに消えていった。




ーー

ーーー

ーーーー


「あれ、ここは?」

高く連なるビルの渓谷、車は残像を線にして走り去り、その淵を行き交う人々には顔も性格もなく、独特の喧騒は背後で静かな雑音となって鳴っている。



目覚めた自分が立っていたのは縁と二人過ごしたあの街だった。


「どうして、ここに」


戸惑いながら流動する人波をかき分け、自分はきっと居るはずの彼女を探す。


「縁ちゃん、縁ちゃん!」


手当たり次第に叫びながら灰色に舗装された道を走っていると、やがて人波が淀む場所に行き着いた。


人が何重もの垣根のように何かを取り囲み、その中心に置かれたものを見ようと蠢いている。


きっとそこに何かあると確信し、自分は人垣を割ってその中に入って行った。



人々に取り囲まれたその中心に居たのは探し求めた彼女だった。

学生の頃のように化粧して、お洒落でとてもきれいだった。

しかしその彼女の腹は臨月というべき程に出張っており、それが現在の彼女だと主張しているようだった。


「……よ、すがちゃん?」


名を呼ばれた彼女はぼんやりとした目を上げると自分の姿を認め、そして見知った顔に向ける笑顔で柔らかく微笑んだ。


「また、会えたね」


縁からの一言に、胸が震えた。

「また、会えたね」なんて、おそらく使者にかけられるべき言葉ではない。

背徳も歪んで、言葉に尽くしがたい感動に目の前が潤んでいく。


涙を堪えてふらつく足で彼女の前に立つ。

久しぶりに見る彼女の笑顔。


「え、どうして泣いちゃうの?」


彼女は困ったように笑って手を差し出してくれた。

自分は華奢なその手に触れた。

触れた感覚は無い。でもとても暖かい。



そして、夢の世界は曖昧な優しさで僕らに幸せを見せた。

残酷な景色すら笑顔で踏み歩き、愛する分身と同じことを繰り返し語らう。


きっと醒めれば虚しい光景。

でもその現実に頭まで浸る僕らにとって、今が最も素晴らしい生の一瞬だった。


ーーーー

ーーー


目覚める前。

二人手を繋いで、人の流れに沿って、あの街を歩く。

交差点で人の流れは再び淀み、目の前に人溜まりができる。


巻き戻し、再生、巻き戻し、再生。


何という事のない光景なのに、執拗なほど繰り返し見せられたら不思議に思ってしまう。


興味本位で覗いた人の輪の中。

そこには、どこかで見たような黒猫が一匹、息もなく横たわっていた。


「やま、と?」


黒猫の干乾びた金の瞳と目が合うと、その死体は口を開き、愛しい人の声を借りて言った。


……と どまれる われを かけて しのはせ……



ーー

「……っつ!」


急に心臓が動き出したかのように自分の身体が跳ね起きる。


冴えていく頭の中に黒猫の声が巡るが、その音の意味はどんどん頭から遠ざかっていく。


「なん、だったんだ。今の」


耳に残る気味の悪い言葉を振り払う。

しかし骸の発した音と心に刺さった不安が拭えない。

せっかくいい夢を見ていたのに。


自分は縁の姿を探して部屋を見回した。


「……あれ、縁ちゃん?」


さっきまでそこで寝ていたはずなのに。

水でも飲みに行ったのだろうかと思ったが台所にも風呂にも居ない。

家中を探したが縁の姿はどこにも無かった。


「…………」


嫌な汗が背を伝う。

今日に限って和孝さんも花枝さんも外出しているようで『書記』の静香と紗江子の姿もない。


なぜだろう、すごく、すごく嫌な予感がする。


「縁ちゃん、縁ちゃん!」


不安のままに家を飛び出して、自分は当てもなく縁を探しに走りだした。




しかし自分は気付いていなかった。

時間はかくも早く過ぎ去ることを。


縁の部屋、斜線に潰されたカレンダーを辿る。

斜線は一月の二十五日を潰して止まっていた。



自分は知らなかった。

もう、二週間も淡い夢に浸っていたことを。


そしてそのマスの端に張られた旅行鞄のシールのことも。





彼女が生まれたときには、既に定められた別れの運命。

その長短を他の命と比することも虚しく、

その出会いを悔やむことも、別れを否定することも意味のない哀しいこと。


どんなに苦しくても、

どんなに悲しくて死にそうになったとしても、

いずれこの思いは消えていく。


いずれ、雑多に紛れて忘れ去り、

やがて、時間をかけて乗り越える。

そうやって誰でも生きていくのだ。




だけど【その日】という凶器を喉元に当てがわれたら、

誰でも、嫌でも恐怖する。

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