『LINK』_ トリコロール



少し乱れたオールバック

眼鏡を外してスーツを気怠げに脱ぎ捨てる

緩められたバーガンディのネクタイ

シャツから覗く喉元と鎖骨


椅子に凭(もた)れて微睡(まどろ)んでいる貴方



私の前で、

誰にも見せない姿を魅せて、

惚れない方がどうかしてるわ。


甘えちゃってもいいかしら


貴方に冒され恋の病に伏せるなんて、

なんて幸せ。






ーー


穏やかな息苦しさで目が覚めた。


……そうだ、自分の部屋か。


どうやら椅子に座ったまま眠っていたようだ。


立ち上がろうとしたとき、胸の上で何やらもぞりと動くものがあった。


「…香里?」


弱視と寝ボケでぼやけた視界でもこの距離でははっきり見える。

むしろ近過ぎて分からなかったくらいに。


小さな身体を丸め、私の膝から胸を占領し、安らかに寝息を立てているのは『終末』の茉園香里だった。


「息苦しさの原因はお前か…」


そのまま立ち上がり転がしてやろうかと思ったが、それは少々薄情な気がしたのでやめた。


それにしても、どうしてこんな事になっているのか皆目検討がつかない。



確か、臨地講習が終わった後、香里が私の部屋を訪ねてきたのだ。

彼女は疲れていた私に紅茶を淹れて、それから世間話を右から左にしているうちに眠さがピークに達し。


……どうしてこうなった?


抱えた疑問は解決するのも億劫(おっくう)だったし、今はどれだけ考えていても答えは出ない。


それより彼女を布団に寝かせてやろうとも思ったが、そうこうしているうちに彼女は起きてしまうだろう。


これを起こすと後々煩いので、もうこのままでいようと思い直した。


「……寝れん」


一度目覚めるとすぐには寝付けないものだ。

胸に重石が乗ったままでは尚更。


寝たい。

だけど起こしたくない。


でもちょっと起きてくれないかと淡い期待を込め、目覚めそうにない香里の顔をじっと眺めてみた。

長い睫毛、薔薇色の頬に、薄く開いた桃色の唇。

寝息に揺れる髪が煩わしそうだと、顔にかかる栗色の髪を払ってやると、まあなんと実に幸せそうに間抜けた顔をする。


とても『終末』として多忙を極める者とは思えない。


「要領よくやっているんだな」


才能がコンパクトに収まった小さな頭を撫でてやる。


「私が流れることがあれば、次はお前に全てを任せたいよ」


まあそんな日はまだ来ないだろうが。

この異常事態を色々と思考するのも何だか疲れた。


幸せ満開といった表情で彼女はどんな夢を見ているのだろう。


「寒くないか?」


尋ねたところで応えが無いのは分かっていたが、寒いからこんなにぺったりと私に引っ付いているのだろう。

布団の代わりにはならないがせめてと、彼女の華奢な身体に両腕を回した。


「ん……うふん」


香里は口角を上げ間の抜けた声を洩らし、しがみつくように私の胸に擦り寄ってきた。


「なるべく動くな。落ちるぞ」


ずれた身体を抱え直しながら彼女を窘(たしな)めた。


ふと、何かを呟くように動いた彼女の濡れた唇から何故か目が離せなくなった。


(ああ、そうだ、これだけは伝えておかなくては)


私は眠る彼女の柔らかい唇を親指でなぞり耳元で静かに囁いた。


「香里、よだれを垂らすなよ」


最重要項目を告げて、安心したら再び睡魔が訪れた。


ゆるく、ゆるく。


暖かさを抱き締めながら、私は意識を手放した。




次の日、起きると香里の姿は無かった。

私に気付かれず退くとは中々やるなと呑気に感心していた。



春の嵐の訪れに全く気付くことも無く。









ーー


工場と倉庫が限りなく軒を連ねる煙と灰にまみれた労働の街、通称「奈落」


異界の工業地域と呼ばれる奈落は、『忘却』が現世で回収してきた魂の残渣を原料に端末機器から薬品まで様々な製品を製造し、使者の生活と業務を支える重要な産業地区となっている。

ここは『忘却』とその他の職位を持たない使者たちが存在を繋ぐために流れ着く場所でもあり、異界で最も人口の多い過密地区である。



軽トラ、輸送車、屈強そうな青服の使者達が行き交う大通り、その路地裏に彼はいた。

暗がりに目の冴えるような真っ青のツナギ、背中にはハンディコードレスの真っ赤な掃除機。ベルトに繋げたホルダーには二丁の拳銃……のような消毒スプレーと消臭スプレーが収まっている。

各々にリベリオンやらエボニー&アイボリーと名付け、悪魔も泣きだす某スタイリッシュアクションゲームをリスペクトしている模様の青年。


知る人ぞ知る問題児、『忘却』大尊路輝晃だ。



そもそも、彼は何故こんな人目を避けるような裏路地にいるのか。


彼に問えばきっとこう言うだろう

「裏路地は自らの輝きを確認する場なのだ」と。



そう言っておいて裏路地にいる自分かっけーとか思っているはずなので、問答は意味を成さないのだが。


にじみ出ている高飛車な態度とは裏腹に、彼はたまに道に落ちてるゴミを拾い、強面の使者とすれ違う度に「っす」と律儀に挨拶をして我が家へ向かう。



彼が辿りついたのは格安物件が集まる地区。

その中に輸送トラックの大型コンテナが積み上がっている一画がある。

ぱっと見、資材置き場のような所だ。

しかしこのコンテナは一つ一つが家としての機能を持っている。

輝晃は積まれたコンテナハウスを素通りし、その一番端に一つぽつんと置かれたコンテナの前で立ち止まった。


「管理人・大尊路輝晃」と書かれた表札。

ここが彼の家だ。


輝晃はアート活動の副産物であるコンテナ群の内装を暇潰しがてら一戸一戸デザインし、デザイナーズ・コンテナアパートとして世間に公表したところ、その評判は飛ぶように奈落を駆けた。

安い・快適・オシャレだとすぐに満員御礼、常に空き待ちの状況だ。郵便受けには今日もたくさんの入居希望の書類が突っ込まれている。



彼が錆の浮いた鉄扉を開けると、鉄の箱の内部とは思えないほど温かみのある書斎のような部屋だった。

毛足の長い深緑のカーペット、レトロなソファと焦げ茶のニスが輝くローテーブル。

部屋の壁を埋め尽くす本棚と、それに沿うように積まれた資料とガラクタの山。


ごちゃごちゃが絶妙なセンスで整列した輝晃の部屋は、知ってか知らずか彼の苦手とする『運命』の斎藤賢輔の事務所によく似ている。



奥に据えられた大きな机には一つの茶封筒。

この中身は椎名の担当だった者の「人生の補足(新)」が入っている。


輝晃は現在、最近終えた仕事の書類整理期間という名目の休暇を過ごしていた。

その数日の間にすでに出来上がっていた「人生の補足(旧)」は暇を持て余した彼の手によって書類の域を超えた情報媒体と進化し、提出されるその時を待っている。


「あー、行きたくねえ」


輝晃は封筒を手に取ると眉根を寄せて一人ごちた。

今日は件(くだん)のDの合同会議の日だ。


浄土にいる『運命』担当の賢輔は、何故か俺のことを嫌っている節がある。

まあ、恐らく俺が才能の塊で、後々自分を脅かす程のビッグな使者になることを危惧しているのだろう。


いつの世も出る杭は打たれるものだ。

だから俺はめげない、挫けない。

出る杭を天高く伸ばし、広告塔にするくらいの勢いでないと俺の人生に示しが付かねえ。

……とでも思っているのだろう。


「さて、と。大尊路輝晃、推して参らん!」


叫ぶや否や、輝晃は勢いよく外へ飛び出し着の身着のまま浄土へと走り出した。





残された部屋の中。

入居希望の書類の中に一通別件の書類がぺら紙一枚で混じっていた。



FAX ポストに突っ込んでおいてくれ

送信先:大尊路輝晃 様

発信元:斎藤賢輔

件名:D合同会議開催について。


□至急 □参考 ■確認 □連絡 □回覧


送信枚数:本紙を含む 1 枚


本文:お疲れ様です。

端末で送ったはずだが、念のため今一度伝えておく。

後日開催の会議に来るのであれば正装で来るように。

正装という意味は分かっているだろうな。

間違っても以前のように作業着で来るんじゃないぞ。


以上








ーー


合同会議は浄土のとある会議場で開催される。

びしっとスーツを着こなす浄土の使者に混じって、着慣れないスーツに着られた一派が一つのビルに吸い込まれていく。


そのビルの入り口で俺はばったり賢輔と鉢合わせする。

俺は特段何とも思わなかったが賢輔は苦虫を噛み潰したような顔で俺を見下してきた。



「お前、送信書は見なかったのか」

「っす、お疲れ様。てめ、挨拶すっ飛ばして何の話だ?」

「……お疲れ様、お前は送信書を見ていないのかと聞いている」

「はぁ? んなモン見てねえよ」

「見てないにしても伝えたはずだ。正装で来いと」


賢輔は怒り心頭で俺の襟ぐりを掴み上げてきた。

俺は爪先立ちになりながらも賢輔の顔を睨み上げる。


「これが俺の正装だ」

「黙れ、この場においてそれが正装と言うのか。他に迷惑をかける前に出て行け」

「うっせえ、『死神』共の正装がアレなら俺だってコレでいいだろうが」


俺はスーツとドレスの人波の中に異様に際立つゴシックな様相の彼等を顎で指す。

賢輔はぐっと言い籠りながら俺を掴み上げていた手を離す。


「喚くな、常識で考えろ」

「ああもう、うるさい! 常識常識って、これだから年寄りは」


俺は掴まれて伸びた襟元を正す。

賢輔は眼鏡をくいと上げてあからさまに溜息を吐いてみせた。


「……はあ、残念だ。そんな塵(ちり)泥(ひじ)の塊のような格好では香里に近寄ることも叶わないな」

「なっ、何で香里が出て来るんだよ」

「先日、香里とお前の話をしていた。口に出して言ってはいないが、あいつもお前に会えるのを楽しみにしていたんだろう。なのにお前がそんな埃塗れではな」

「か、香里は見た目で人を判断するような小せえ奴じゃねえ!」

「そうかもしれんが、香里はハウスダストアレルギーだからな」


初めて知った香里の不治の病に、俺の時が止まる。


「えっ、……マジで、どうしよう」

「知らん。年寄りの言う事を聞かないからだ」

「賢輔、お前のスーツ貸せ」

「それ以上に恥を晒したいと希望するなら喜んで譲ってやろう」


賢輔のスーツを着て裾を曳いて歩く様を想像した俺は頭を振る。

だめだ、それでは今以上に香里が遠くなる。


「え、ちょっと、賢輔、俺どうすればいい?」

「せいぜい赤恥をかいて常識を学べ」


そう言い捨てて賢輔はかつかつと踵を鳴らして行ってしまった。

俺はがくりとその場にくずおれた。


(くそっ、賢輔に馬鹿にされ、香里には会えないだと。そのうえ有象無象が俺に情けの目を向けているなんて……屈辱だ!)



やがて喧騒に集っていた野次馬も場の収束とともにその輪を解いていく。

俺はまだその場を動けないでいた。


「……ダイソン」


そこに残った野次馬の一人が俺に声をかける。


「総司。逃げ遅れた馬鹿が手負いの虎に近づくと、どうなるか知ってるか」

「うーん、馬鹿だから分かんない。でも手負の虎の毛皮が心配で」


不用意に俺の前に現れたのは『書記』の枕野総司だった。総司はこまっしゃくれたことを言って地に膝を付いた俺の前に立つ。

先日ありがたい助言と睡眠導入剤を授けてやったのに、俺を見下すこの仕打ち、許さん。


「調子こいてっと噛みつくぞって意味だ」

「はいはい、じゃあ馬鹿が恩返しの衣を持って来たら虎はどうするの?」


総司はハンガーの付いたスーツ入れを目の前に置く。


「こんな事もあろうかと、ね。僕の予備で良ければどうぞ」


そう言って差し出されたスーツはやけに輝いて見えた。


「……総司、この間の貸し、これでチャラにしてやる」


俺は総司の手からスーツを受け取るとまだ人もまばらな大講堂へと駆け込んだ。


そう、すべては俺を侮辱したあいつへ復讐するため……


  



「あの、隣、いいですか?」

講義開演の十分ほど前に声をかけられた。

俺は早くから最前列中央に陣取り、復讐の時を待っていた。

虎視眈々と獲物を狙う俺の只ならぬ気配に近寄るものは皆無だったが、講演も差し迫った現在では空いている席もなかったのだろう。

許可を乞う者を無下にしない俺は寛容に相席を許した。


「良かった。できれば一番前に座りたかったの……って、ダイソンくん?」


名を呼ばれ、右に目を向けるとそこにいたのは香里だった。


「か、かかかか香里?」

「わあ、スーツだったから全然気が付かなかった」


口元で手を合わせて感嘆を示す彼女は、髪をハーフアップにして白いフリルブラウスに千鳥格子のデザインスカートという清楚かつ可憐極まりないビジネススタイルだった。


「スーツ、意外と似合うのね」


彼女の思わぬ賞賛が俺の息の根を止めに来た。


「香里も、来てたんだなっ」

「当然だよ。敢えて来ないのはダイソンくんくらいだよ。今日は来たんだね」

「ま、まあな。今回は、その、賢輔が泣きついてきたから特別だ」

「ふふ、相変わらずなんだ。それにしても何でこんなに前にいるの?」

「それは、その。あの」


香里に言って良いものだろうか。

いや、良いわけがない。

賢輔に言い負かされた復讐のためにここに居るなど、恥部を露出するようなものだ。


講義中に賢輔に睨みを利かせ、威圧感にトチる所を大衆に晒させ、質疑応答に質問攻め。

さらに失言があろうものなら追及と弾圧、という完璧な賢輔失墜三大計画をどうまろやかに伝えたものか。


「こ、ここは、賢輔がよく見えて、ちゃんと声を聴けるから……質問もしやすいし」

「えっ、ダイソンくん、今日具合でも悪いの?」

「いや、心配されるほどではない」


香里は俺の身を案じるようにおろおろと視線を彷徨わせていたが、やがて一点を見つめて頬を紅潮させた。

何事かとその目線の先を辿ると、壇上の裾から奴が現れたのだ。


「ほら、賢輔さんが来たよ」


香里はそわそわとその場に居直り、賢輔の登場に会場の喧騒も徐々に静まっていった。


ただ『運命』という理由だけではない。

現れただけでこれだけの人を惹きつけるカリスマ性。


認めたくはないがやっぱり賢輔の存在は一線を画すものだと再認識させられた。


まざまざと見せつけられたその光景に腹の底から不快感が湧き上がる。

それを飲み下し、深く息を吐き、俺は壇上の男を見据えた。






「ダイソンくん、すごい集中力だったね」


俺は眉間を揉みながら香里と懇親会の会場へと向かっていた。

講話中ずっと壇上の賢輔を睨みつけていたおかげで眉間の皺が取れない。

顔の筋肉も強張って普通の顔を忘れてしまったようだ。


「私、あんな論点があるとは思わなかったなー」


賢輔失墜三大計画。

壇上の賢輔は俺の鋭い眼光に不快感こそ露わにしたが、講話を仕損じることもなく淡々と近状と要綱と展望を述べきった。敵ながら天晴れ。


「私も聞きながら考えてたけど、まだまだ考察が甘いのよねー」


香里はむんっと腕を組み唇を尖らせた。


会食の行われるフロアに入るとずらりと並ぶ料理のテーブル。初めて懇親会に来たが、いつもこんなに豪勢なのかと俺は目を丸くする。

香里は慣れているのだろう、会場の様子には特に興味を示さず、まだ質疑応答についての感想に花を咲かせている。


「でね、最後の二人の質疑と応答のラッシュ、聞いてて熱くなっちゃった。どうしたらあんな風に熱い話しが出来るんだろう」


香里はぐっと拳を握って如何に議論が燃え上がったかを述べ立てた。


そう、残った質問タイムだけが俺の報復の場となり、計5問(ラウンド)に渡った質疑応答は様々な角度からの質問と的確な明答の応酬。甲乙つけがたい言論バトルが展開された。

法廷さながらの答弁が繰り広げられたが、俺は結局、奴に一矢報いることが出来なかった。


「二人とも、とっても恰好良かったよ」

「あぁはは、ありがとうございます」


香里は笑ってくれているが俺の心は晴れない。

そして懇親会場に入った途端、追い打ちをかけるように曇る心に雷鳴が轟いた。


「輝明、ちょっと来い」 


立食会場のフロアのその最奥、催し用のステージの上に奴は居た。


「ちっ、なんであいつはいつも壇上に居たがるんだ」

「呼ばれちゃったねダイソンくん。いいなぁ」


香里をはじめ、フロアに集まっていた奴らが緊迫する雰囲気に固唾を飲んだ。


俺は人波が分かれてできた道を壇上へと一進に向かう。

書類へ目を通している賢輔は俺が目の前に来たことを確認するとステージを降りてきた。


「……で、なんだよ」

「聴講お疲れ様。しかし、お前、何で今日はあんな前に居たんだ」

「講話お疲れ様。嫌がらせに決まってんだろコラ」


噛みついたように言うと賢輔は嫌味なしぐさで軽く首を振ってみせる。


「いつになったら俺はお前とまともな会話ができるようになるんだ」

「ああん?」

「……まあいい。お前は短気で常識と協調を大いに欠く問題児だが、その見識と判断力は『運命』に適するものだ。再三言うようではあるが、輝晃、俺と『運命』の仕事を手伝ってくれないか」


賢輔の言葉に周囲からどよめきが起きる。

『運命』は多くの試験をクリアしてようやく成れるもので、決して引き抜きによって採用されるものではない。

まして職位最下層と呼ばれる『忘却』が最高職の『運命』に抜擢されるなど、普通であれば有り得ない。

突然の大抜擢にその他共が騒ぐのも当然の話だ。


しかし、残念なことに自分は栄転になど興味はない。俺は賢輔に向かってすっと制止の手を突きだすとゆっくり首を振ってみせた。


「……だが断る。俺は世界を股にかけるビッグな男だ。世界が俺を求めているのに黙って机仕事してるなんて、世界的損失だと思わないか」


俺の崇高な思想に群衆がざわめく。

その確たる決意を見せつけられ、賢輔も観念したように頭を垂れた。


「……そうだな。やはりお前の存在は世界的損害だと思うよ」

「分かってんじゃねぇーか、賢輔。って、うん?」


なんか称賛されたようで馬鹿にされてないか……


「俺は天才だから簡単に枠には嵌らねぇんだよ」

「確かにお前は天災の類だな。自分で分かっているとは恐れ入る」

「賢輔、お前やっぱり俺を馬鹿にしてるだろう」


賢輔は長い溜息を吐き出し、あからさまにがっくりと項垂れた。


「輝明、なあ、そういきり立つな。俺はお前に敵意も無ければ軽蔑している訳でもないんだ」


賢輔はずれた銀縁の眼鏡を所定位置に戻し、俺をじっと睨みつけた。

そして再び軽い溜息を吐くと、賢輔は俺の全く予期しない行動に出た。


「ただ、今日のお前はすごかったと一言誉めたかった」


賢輔は幻聴と思わしき言葉を吐き、眼鏡の奥の目を細め、いつも下がった口角を上げ、俺の頭に掌を乗せてきたのだ。


「え、は、はあ? お前何してんの? 公衆の面前で俺を愚弄する気か?」


頭上の手を振り払うと賢輔は困ったように眉根を寄せた。


「愚弄? まさか、これは珍しく他意のない賞賛だ」

「な、な、なうっせえ、要るかそんなの」

「頑なだな。とにかく、お前があんな優秀な論者だったとは恐れ入った。それだけだ。もう行け」


賢輔は俺の頭をポンポンと叩き、フロアの方へ俺の背を押した。


「おい香里、こいつの世話を頼む」

「えー、賢輔さんは?」


ひょこりと出てきた香里は頬を膨らませて抗議するが、賢輔の「後でな」というすげない言葉に満足したようで、一転満面の笑みを浮かべた。


「何だよ、後でって。意味深だな」

「ダイソンくんは気にしなくていいの」


香里は歩き去っていく賢輔を見つめながら言った。

それは俺が蚊帳の外だと言っているようで。

何か無性に気に入らなかった。


「香里はあいつが好きなのかよ」


腹立たしさに感けて素気無い態度をとってしまった。

次にこれはいけない質問だと気が付いた。

焦りに戸惑い過ぎた時間は挽回や訂正を許さない。


「うーん、好きか嫌いかで言えば大好きよ」

「………」


聞きたくもなかった。

自分で聞いておいて馬鹿なことだ。

しかし香里にそうも屈託のない笑顔でそう言われれば、もうそれ以上を尋ねることすらできやしない。


「……俺だって、香里が大好きだよ」


そう一言を告げられればどうにかなるのだろうか。


微笑むふりに一生懸命で、俺の口は動かないまま。

気分だけが冷えていく。


「……ダイソン、それ本当?」


香里が訝しむような声を上げる。


「本当って、何がだよ」

「私のこと、好きなの?」

「え?」


思った事が口を突いて出ていたのだと知る。


「あ、ああ。俺は香里のことが大っ大大大好きだっ」


会場にいた者たちのどよめきが聞こえる。

しかし俺にはもうここが何処とか、今の状況とか、形振りとか一切考えてなどいなかった。


「大っ好きだ!!」

「うん、私も大好きだよ、ダイソンくん」


賢輔に見せたのと同じように香里は微笑んで言った。


ああ、塞いでいた気持ちが羽ばたいていくようだ。

観客達から沸き起こる歓声と拍手。

「畜生、ダイソンの野郎」というある種の怒号と、

「俺のかおりんがぁ」などと悲哀にむせび泣く声が混ざり合う。

そしてタイミングを計ったようにフロアにはパーティに相応しい音楽が流れ始めた。


「香里、踊ってくれないか」


今世紀最大の喜びを分かち合おうと俺は右手を差し出した。

香里は少しためらった後、俺の手に自分の小さな手を重ねた。

そしてはにかんだように俺を上目遣いに見上げ「やーだ」と微笑んだ。


「ありがとぅ……んっ?」


まさにシャルウィーダンスでオーケーなシチュエーションだったのに、俺の耳に何か場にそぐわない回答が聞こえた。


「香里、踊ってくれる……んですよね?」

「だから、やーだって、恥ずかしい。今日はダンスパーティじゃないんだよ」

「で、では、一緒にディナーでも」

「だーめ、私、今から賢輔さんのとこに行くんだもん」

「gへっ?」


ハッピーエンドではないのに会場からは拍手と歓声が沸き起こる。

「もう少し押せよダイソン」という檄が飛んだり「香里ちゃんえげつないわぁ」と暗涙にむせぶ声が響いていった。


みんなに見守られ、ぬか喜び、明るくフラれるなんて。


「行って、来いよっ、くっ」


こんな軽やかな失恋もまた他にないだろう。






ーー


壁の花とは、こういう場において踊りに誘われず、壁際に立っている女性を指すという。


しかし、自分が今見ているこれは例えるなら、怨念を纏い失意の底へと堕ちる堕天使。

壁にこびり付く泥と表すくらいが適当だろう。



Code Dの誰もが見ていた香里さんとダイソンの告白喜劇。

パーティの話題の種となったその一幕は既にZENNZA(前座)と銘打たれている。


渦中の香里さんは今やパーティの華で、あちらこちらに行っては話の中心になっている。

そしてもう一人の影役者、斎藤賢輔も主催者として挨拶回りに行っては真相を問われている。

そして一番派手に弾けてしまった大尊寺輝晃は壁の方で消し炭になっている。


「総司君、見ろよアレ。こりゃしばらく立ち直れないだろうな。俺なら無理だもん。死ぬわ」


パーティ参加者の一人として遠巻きにその塊を眺めていた自分の視線が向かう先を見て、『書記』の椎名が声をかけてきた。


彼は近所の公園で自殺した人の担当だったとかみやんから聞き、さっきから色々と話を聞かせてもらっていた。


「椎名さん、俺たちそう簡単に死ねませんからね。でもあれじゃ流石に可哀想だと思いませんか」

「まあな、茉薗さんにバッサリ公開処刑されて泣けず飛べずの曝し首だもんな。いっそあいつが『忘却』された方がいいんじゃないか」

「はは、確かに。ダイソンには良くしてもらったんでちょっと声掛けに行きたいんだけど……すごい近寄るなオーラですよね」


華やかに賑わうフロアの隅にうずくまるその黒い物体は、近付く者全てを噛み殺さんとするオーラを醸しているため誰もがそこを避けている。


「総司君も中々の苦労人だよね。まあ、行ってきなよ。ダイソンもあんな性格だけど、一人でうずくまってるより誰かと話したいと思うはずだから」

「そうですね。じゃあ行ってこようかな」

「骨は拾うよー」


椎名は大きく手を振って不安な門出を見送ってくれた。


ざわめく会話の輪から抜け出して、自分は誰も近寄れないでいた壁際のその物体に近づいた。

辺りの視線が自分に注がれるのが分かった。

心配と好奇とがない交ぜになった野次馬の目だ。


こんな視線の中なら流石のダイソンも動けなくなるような気がした。

自分は勇気を出して俯く背中に暗雲を背負った彼の名を呼んでみた。


「だ、大尊。寺さん」


あまりの重圧にうっかり苗字呼びになってしまった。しかし彼は俯いたまま。

自分はおずおずその場にしゃがんで下から彼を覗き込む。

ぼそぼそとしたダイソンの声が聞こえた。


「逃げ遅れた馬が、手負いの虎に近づくとどうなるか知tt」

「ダイソン、よかったら話聞くよ?」


そう言った瞬間、ダイソンがばっと顔を上げた。

涙の筋が幾本も頬を流れた跡があった。


「……総司、総司っ、ぐすっ……俺はなんて馬鹿なんだ」

「あー、よしよし。分かってる分かってる」


ダイソンは嗚咽を上げながらずるずるとへこたれて行き、自分のことを見上げて何度も溢れる涙を拭った。


「香里の気持、知ってたのに。俺、むしゃくしゃして。聞かないでいい事を」

「うん、見てたよ。よしよし、ダイソンすごい頑張ってた」


ダイソンはいつも男気の強い変人だけど、こうやってぐずつく背中を撫でていると見た目相応の少年に見えてくる。


「俺の気持、香里にっ、届かなかった」

「違うよ、香里さん私も大好きって言ってくれてたろ?」

「けど………ぐすっ」

「弱気なダイソンもたまにはいいけどさ、僕はいつもの強気なダイソンのほうが好きだよ」


古代より一押し、二に金、三で男。というアピール法が存在している。だからダイソンがいつもの調子を取り戻せばハッピーエンドは難くない。……と思う。

だって、ダイソンには何か幸せになってほしいし、きっと誰もがダイソンが楽しそうに活躍する明るい未来を何となく期待してる。

自分も型に囚われないそういう景色が見てみたい。

その願いが通じたのだろうか。ダイソンが顔を上げた。


未だにダイソンの顔面はいろんな液体にまみれているが、その眼にはきらりと煌く意志があった。


「ずびっ……総司、ありがとう。この借りはいつか――」


返す。という言葉を自分は両手で遮った。


「ねえダイソン、僕は形の無いものの貸し借りって面倒だと思うんだよね」

「そうか」

「うん、だから持ちつ持たれつで済ませてもらえるなら、自分はそれが楽なんだけど」


そう提案してハンカチを取り出すと自分はびしょびしょのダイソンの顔を拭いてやる。


「持ちつ、持たれつ……」

「ね。そんな方がいいでしょう?」


素直にハンカチを受け取ったダイソンは涙と鼻水を拭いてしばらく考える。

そして今世紀最高のはにかみ顔で笑って見せた。


「それは、新しいな。気に入った!」



その笑顔がものすごく、今の自分に刺さって。

どうしてだろう。

すごく、情けなくなった。


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