Code_5『死神』上谷紅紫


夏の夕刻。

しかしまだ陽は高く、住宅地のアスファルトからは蜃気楼が揺らめき熱気が蒸し上がる。


この季節は足を使う営業職にとって地獄の時期だ。


私は中小企業のサラリーマン。

うだつの上がらない平社員を自覚してもう何年になるか。


こんなありきたりな人生を変えようと決意した頃もあったが、もう四十後半。

夢を追う才能も自信もなく、今までずるずると仕事をして生きてきた。


今日も契約は取れなかった。


業務成績はうだつの上がらぬ平行線どころか、着実に窓際に追い詰められていく。

新入社員の若造にどんどん追い抜かれ、頭を下げるお得意様も私より年下ばかりだ。


とぼとぼ擦り切れた革靴を引きずり会社への道を行く。


「今から戻っても退社時間まで結構あるな」


遣る瀬無い頭は朦朧(もうろう)としているが、せこい考えだけは良く浮かぶものだ。


ゆっくりゆっくり歩いて戻ろうと思ったところで、「カナカナ…」とひぐらしの鳴く音が聞こえた。


その声を追って辺りを見ると、今まで気付きはしなかったが、団地の角を曲がったところにひっそりと小さな公園を発見した。


今時の子供はこんな所では遊ばないのだろう。ぶらんことすべり台しか遊具のない誰もいない公園で、ぶらんこがひとりでに揺れている。


まるでこっちにおいでと言わんばかりに。


招かれるように公園に入って、彼は揺れるぶらんこの前に立った。


鎖に繋がれる二枚の横木。

一つはきーこーと鎖を鳴らして風に揺れ、もう一つは目を閉じたように静止したまま。


この場合、おかしいのはどちらなのだろう。


まあ、しかし。定時を待って公園で暇を潰すなんて、窓際社員の典型例じゃないか。


(これは面白い)


今まで自分なりに真面目に勤めてやってはいたが、自分の乗ったレールは所詮、どこにも到達することなく途切れて落ちるものだ。

夢も才能も無かった私だが、社会に抗い、運命に胡坐(あぐら)をかく真似事に興じてみてもいいだろう。


そんな愚考に絆(ほだ)された。


私は揺れるぶらんこの鎖を手に取り、重い体重をその横木にのしかけた。


(……やってやった!)


ただぶらんこに腰かけただけ。

しかし私はこの瞬間、会社の規範を犯し、社会の秩序からはみ出した者となった。

ヒーローに成れない者は無法者(むほうもの)になるしか存在を誇示できる術がないのか。

違う。そのどちらとも結局は表裏一体。

私は今、社則を犯すことで英傑(えいけつ)となったのだ。


自然に笑みがこぼれた。

傍から見れば落ちぶれた会社員がぶらんこに乗って顔を引き攣(つ)らせている絵にしかならないのだが。今、私は自分の運命を乗りこなしている征服感に幸福を感じ、人生の中で最も栄華な時を過ごしていた。


傾く斜陽をスポットライトに、私は一人、悠然(ゆうぜん)とぶらんこを漕ぐ。


風を感じハイになっていた所にふと嫌な風を感じた気がした。


「……何だ?」


西日の差す公園。

闇が訪れるにはまだ早い時間だが、目の前に暗い闇が落ちている。

闇は煤(すす)を撒いたように広がり、熱に煽られるように真っ黒な蜃気楼が揺らめいた。


そして、目の前に黒い影が現れる。


「えっ……」


影は朧(おぼろ)を霧散(むさん)させ、ゆっくりと影の正体を露(あら)わにした。


「ひっ……し、死神?」


言い伝えをそのままその通り絵に描いたようなその姿。

鋭く美しい身の丈程の大鎌を携え、漆黒のローブに身を包んだ死神がそこにいた。


「ああ、俺が見えるの……まあ良いか」


目深に被ったフードは顔をすっぽりと覆い隠し、顔どころか性別すら分からなかったが、その声は男性のものだった。

唯一見える口元が蠱惑的(こわくてき)な笑みを作った。


「お疲れ、椎名(しいな)。彼の最終宣告をしに来たよ」


彼は私にではなく、誰もいないはずの私の背後に「椎名」と呼び掛けた。

まさか他に彼のような者がと、恐る恐る振り返ったが誰もいない。


困惑している私を見ると、死神の口元が柔らかく微笑んだ。


「あんたは、もうじき死ぬんだ」


静かに紡がれた彼の声はとても優しかった。しかし、宣告された内容は全く穏やかではない。


「…ま、待て。私は死ぬのか?」

「そうだ、誰もがいつかは死ぬ。分かっていたことだろう?」


死神は小首をかしげて、さも当然の言葉を口にした。


「おい、何故だ、それは何時(いつ)だ、おい、教えてくれよ」


私は立ち上がり、死神の方へ縋(すが)り寄る。

しかし、いくら近づこうとしても彼に触れることはできない。

彼は蜃気楼(しんきろう)のように遠ざかり、触れても、消えてしまう。


「滅多にない現状なんだけど、内容を本人に教えるのは規則違反なんだ。俺はあんたと違って無法者にはなれないんで」


彼の言葉に私は顔から火の出る思いだった。

私が社会の則(のり)を犯し逆賊となった私の独りよがりを彼は知っている。


「お、お前っ」


フードを剥ぎ取ってやろうと試みた手はやはり虚しく空を掻くだけだった。しかし、彼が私の手を避けた瞬間にびゅうと風が吹き、黒いフードが脱げて彼の顔が露(あら)わになる。


「……」


一目見るだけで毒気が抜けるほど端正な顔立ちの青年だった。

俳優などのような俗な容姿とは違う、何というのだろう。この世には属さぬ端麗(たんれい)さがあった。

特に目を引いたのは深い赤紫色の瞳だ。

少し伸びた黒髪に遮(さえぎ)られてはいるが、斜陽(しゃよう)に煌めくその深い紅は息を呑むほど美しい。


私は死の恐怖も忘れ、彼の浮世離れした凄艶(せいえん)さに魅入っていた。


しばらくの後、死神はふっと顔を背けた。


「椎名、また来る」


そう残して彼は踵を返す。


「死はもうすぐ訪れる。人生を、悔い無きように」


ゆらりと彼の足元から黒い陽炎が現れた。禍々(まがまが)しい程に沸き立った陽炎がずぶずぶと死神を呑みこんでいく。


「待っ、て、くれ」


唖然としていた口から辛うじて絞り出した言葉に死神がちらりと振り返った。

しかし、その制止の言葉に何が変わるわけでもなく、彼の姿は闇に呑まれて見えなくなった。


「………」


後に残された私は、沈みかけた夕陽に照らされる公園で放心状態だった。



空っぽの心にひぐらしの鳴く音が寂寥感(せきりょうかん)を伴って響いた。


「…私は、死ぬのだ」


陽も落ち、公園の街灯に明かりが点(とも)る。


薄く欠けた月が黄みを帯びて真夜中に浮かぶまで。

私は一人ぶらんこに揺られていた。







ーー

地獄の大釜に溜められた黒い液体がごぽりと波打つ。

その中からゆっくりと現れたのは漆黒のローブを纏い、身の丈の大鎌を持った一人の男。



「はぁ、もうこんなに淀みが溜まってるよ」


つい最近、と言っても数年前。

地獄の大釜を掃除しやすい回転釜に買い替えたばかりなのに、もうこんなに汚れが溜まってしまっている。


「去年のお盆は忙しかったからなあ」


ローブの肩口をぽんぽん叩いて黒い煤のような汚れを払い落とした。

どっこいしょと釜から降りて家路を行く。


農耕に失敗した畑や、手入れのなってない田園で構成されたオフロードを少し進むと、ただっ広い敷地にでんと横たわる一軒のボロ屋が見えてきた。


このオンボロ長屋が『死神』の寮。

って言っても入居者は自分一人だけだが。


【八(はち)大(だい)市黒縄(こくじょう)四丁目畏(い)鷲処(じゅうしょ)~テンペスト黒縄~】 


立派な門構えに墓標のように立てられている表札には住所と洒落たアパート名が御影石(みかげいし)に金字で彫刻されている。

寮の鉄扉を開くと、ギギキィーと錆(さび)の浮いた鎹(かすがい)の軋む音が玄関チャイムのように辺りに響き、中に入ると扉は泣き叫びながら独りでに閉まっていった。


この鉄扉、五割(フィフティー)自動(オート)扉(ドア)と言って、開けるのは手動だけど閉まるのは自動という微妙なハイテクを盛り込んだナウな扉なのだ。

と、この寮の管理人が自慢していた。

自分は自動(オート)施錠(ロック)の方がいまどきだと思うのだが。


「ああ、紅(こう)紫(し)か、おかえり」


悲鳴(チャイム)の音に呼ばれて寮の受付カウンターの奥から出迎えてくれたのは、寮母ならぬ寮父兼管理人のヤマさんだ。


甘(かん)草色(ぞういろ)の作務衣(さむえ)を着こなし、しわくちゃな外見に似合わず、立派な黒ひげを蓄えたマッチョな爺さんで、このホーンテッドマンションの炊事や掃除、破損箇所の修復など、様々な寮事をこなす肉体派の好々爺。


「ただいま、ヤマ爺」


自分は持っていた大鎌をヤマ爺に渡す。


「おかえり、ティリアン。今日もお前は別嬪(べっぴん)だな」


ヤマ爺は大鎌(ティリアン)をうっとりと眺め、背後にある鎌架(れんか)に大事そうに納める。


「まだ研がなくて大丈夫だよ。最近はあんまりアクの強い魂がいなくて刃こぼれしないんだ」

「まあ、良いことなんだろうな」

「そうだね」


ヤマ爺と話しながら俺は鬱陶(うっとう)しそうにローブを脱いだ。

重たい印象はがらりと変わり、紺色のストライプシャツとハードブリーチの細身のデニムという楽な格好。

自分の服装を見てヤマは諦めたように目くじらを立てる。


「まぁた、そんな明るい服を下に着よって。降格しても知らんぞ」

「いーの、仕事中に脱ぐ訳じゃないし」


自分はローブをささっと畳み、小脇に挟む。


「脱がされたらどうするんだ?」

「そんなヘマはしませーん」

「まったく、お前くらいだよ。爽やか気取ってる『死神』は」

「まあね、たしかに」


現世の古今東西、死神というキャラクターにはある一定の固定概念がある。


黒くて鎌持った人。

大体こんな感じ。


さっきのサラリーマンのように、死期が近づいた現世の人間になぜか見えやすくなるのが『死神』だ。だから見えても良いような見てくれをするべきと、『死神』は時代が求める死神らしさを徹底して追求している。

その結果が七天の中でも異常にぶ厚い『死神』の規約書。

この大半を占めるのが容儀についてだ。


概要を挙げると、

・現世での業務中は指定のフード付きローブを着用すること。

・中着は華美な服装を避け、ローブからはみ出さないものとする。

・ローブを改造する場合は制服改良届を提出し、管理部三名の承認を得ること。

・肌の露出は手および頭部のみ許可する。

・装飾は個人の自由であるが、金やラメなど死神らしさを損ねる服装は不可。


などなど。

ちなみに俺はこの制服、コスプレすぎて嫌い。


以前の規約ではもっと酷くて、髑髏(どくろ)の仮面の着用も義務付けられていたけど、現代の死神の構図の多様化と業務上の障害という点によって改正された。


その他、仕事の相棒となる鎌についても規約がある。

例えば、

・鎌の柄は保持者の身長と同等、刃は腕と肩幅を足した長さと同等であること。

・波刃、鋸刃等、凹凸のある刃は不可

・装飾は華美でなく、業務に差し支えのない程度とする。

とかね。

そしてこれらが順守されているか、また『死神』としての技能が基準以上であるかを定期的に管理部が判定している。不合格と認定されたら降格、三回不合格が出たら退職という厳罰に処される。


そんな規矩(きく)準縄(じゅんじょう)に縛られた『死神』という職務、厳しいのは容儀だけではない。

その業務内容も中々に酷なのだ。


実務における多様で専門的な知識と実力が必要で、精神、肉体の鍛錬に勤(いそ)しみ、危険とストレスに暴露される毎日。

制服が黒い所はだいたい仕事も真っ黒いというだけに、この業界もどす黒いブラック企業なのだ。


「はあ…」


そんなことを考えていたら何となく憂鬱で、受付のカウンターに頬杖をつき溜息をもらす。


「なんだ、辛気臭い。現世の仕事で何かあったか?」

「いやぁ、今日宣告をしてきた人は小さかったなあ、って思って」


ヤマ爺はカウンターの中をごそごそしながら聞き返す。


「小人か?」

「はは、いや、背丈じゃなくて人間性」

「ああ、人間であるうちは器の大きさなど多寡(たか)が知れておるだろう」


「まあそうだけど、その中でも……ね。彼みたいに、人生の何にも気付けず終わってしまうなんて、もったいないよね」

「そう思うのは理解者のエゴだ。知らん者が理解を説かれても反発するだけだろう」

「はいはい、体験者の苦言は未経験者には異国の言語なんでしょ」


耳にタコが出来るほど問答した内容を先取って言うと、ヤマ爺は「その通り」と大きく頷いた。


「ところで紅紫、お前今から暇か?」

「残念、今から副業。なんで?」

「いや、大した用じゃないんだ。屋根に汚土(おど)が溜まってきたから掃除を一緒にせんかなぁと思って」

「あー、もうそんな季節かぁ」


ここ地獄には現世で言う雪や黄砂のように、上から汚土という泥が落ちて来る。

溜まりすぎるとこんなボロ屋ならすぐ屋根が落ちるため、シーズンになったら泥かきをしないといけないのだ。


「うーん、一人じゃ面倒だしね。分かった。帰ってきたら手伝うから待ってて」

「おう、すまないな」


さっくり話をまとめると俺は小走りに長い廊下を自室へと向かい、一番奥の襖(ふすま)を開ける。


生活感に溢れた十畳くらいの部屋。

どうせ皺(しわ)にならないからと、持っていたローブを適当に布団の上に投げて置いた。

そして副業に赴くためにぱぱっと着替えて携行品を鞄に詰め、さっさと部屋を後にする。


五分もしないうちに長い廊下をとんぼ返りだ。

煙草を咥(くわ)えていたヤマ爺が自分の姿を見て、ふぅーと白い息を吐きだした。


「モデルってのも大変だな」


趣味じゃないヴィジュアルの服、これが地獄の民族(モード系)衣装(ファッション)なのだから仕方ない。

紅紫は窮屈(きゅうくつ)だとばかりに黒いシャツの襟元(えりもと)をはたはたさせて「まあね」と短く答える。


「まあ、がんばんなさいよ」


ヤマ爺は煙草を咥え直し、ティリアンを取って渡すとひらひら手を振り見送ってくれた。


「はーい、いってきまーす」


そして俺は地獄の大都会、閻魔(えんま)の庁(ちょう)に向かうため、再び回転釜の中に入っていった。






閻魔の庁は……そうだな、現世の渋谷に似ている。


流行に彩られた街並み。

整然と乱立するファッションビル。

絶え間なく行き交う街の人々。

逆に渋谷と何が違うかと問われると難しい……事も無い。


なぜなら普通の人などそこにいないからだ。

ここは地獄。

ここにいる者の殆(ほとん)どが『死神』やその他の使者などで構成され、皆一様にヴィジュアル、パンク、ロック、ゴシック系などの服装に身を包んでいる。


最も有名なファッションビルは「109」ならぬ「010」。読み方はれいいちれい。ではなくりんじゅうだ。


その010(りんじゅう)ビルの上方。

一番目立つ広告塔に自分の顔が写ったポスターがでかでかと掲げられている。


あれは五月の010ビルのイベント「薔薇(ばら)五月雨(さみだれ)」の広告用で撮ったものだ。

軽く髪を濡らしてうつ伏せている半裸のアップ写真だったはずだが、かなりの加工が入り、バラの散った血だまりに寝転がされ「薔薇色に血濡れた君が好き」と随分と寒いコピーを入れられている。


(俺、殺人者みたい)


白い目でポスターを眺めていた時、背後で黄色いざわめきが聞こえた。


「あれ、見て。紅紫じゃない?」

「わっ、マジだ。ちょーヤバい」

(うわ、マズイ)


モデル業をしていれば当然、人目に付くのが面倒くさい。

しかも、ああいう手合いに捕まったら神災が発生して仕事に行けなくなってしまう。

ちら、と視線だけで背後を確認すると、パンク系の女の子二人はポスターの自分を見ているだけだった。

安心したのも束の間、背後の会話はものすごい方向へ移動する。


「ねー聞いて。この前ぇ、Code Dにいるトモダチがぁ、現世で紅紫の遺影見つけて、写影で撮って送ってきたんだけど、まっっっじで、かっこよかった」

「うそー、それオリジナル? マジ怨(うら)めしー」

「ホントホント。もうガチでヤバいよ」

「マジー、あのさぁ、紅紫って没(ぼつ)何年?」

「結構するよね、二世紀は行くんじゃね」

「うそー、まぢパねぇ、惚れるし」

「あのさ、その写影、雑誌に売れるんじゃね?」

「あっ、それ神発想。「DEATH」に売り交渉してみよっかなー」

「儲けたら010で新作の服奢(おご)ってー」


二人の声は盛り上がりながらも遠くなっていく。


「……俺の遺影とかあるわけないじゃん」


あって壁画か絵巻物だよね、と内心でツッコミ、紅紫は目的のスタジオへ向かう。


「御愁傷(おつかれ)様(さま)でーす」


挨拶とともにスタジオに入ると、自分に気付いたスタッフが同じように「御愁傷(おつかれ)さまー」と返す。

あ、これ業界用語ね。


今日は地獄のリアルクローズを追求するファッション雑誌「DEATH」の撮影だ。今回は特集のモデルを任され、一日通しで打ち合わせと撮影をやっていくらしい。

長丁場になることを想定してか、スタジオ入りするなりすぐに打ち合わせが行われた。


今回のテーマは【長雨(ながさめ)の失楽園、両極に戯(たわむ)れる三時の憂鬱(ゆううつ)】らしい。

毛ほどもイメージがつかないお題に、俺は内心で戸惑っていた。

しかし、こんなことはまあ良くあることなので、平静を装い「良いタイトルですね」と微笑んで監督のセンスを褒める。


この業界にいて学んだこと、それは困った時は周りの言葉に耳を傾けることだ。


こういう場は主にプロフェッショナルの集まり。

自分が意見しなくともイメージやアイディアなど周りから自然に湧き出てくるもの。

現に今、この不可解なタイトルを基に芸術家の粋を極めた議論が展開されている。

そして自分はその話の中から理解できる単語を拾って、彼らが求める自分の役割を見出していくのだ。



結局、今回のタイトルは、

【罪に引き裂かれた二人。楽園を追われ、哀しみの雨の中で違う道を歩き出す。そして再び巡り合う甘い憂鬱】

という風に意訳された。


どうしてこうなったんだろう。妄想の屈折と飛躍の経路を思考しているうちに、スタッフ達は各々で想像を形にするため関係各所に走り出す。


全三章からなる構成。急遽(きゅうきょ)女性のモデルを探すということで、まずは第二章、【楽園を追われ、哀しみの雨の中で、二人は違う道を歩き出す】の部分を撮るらしい。


どうやら霧雨が煙(けぶ)る熱帯雨林の中をむわむわしながらムラムラなものを撮るそうだ。

パンクな革のジャケットにレオパードのストール、そしてダメージ加工の入ったスキニ―ジーンズをブーツインという不快度指数の上がるような衣装に着替えさせられ、意訳すら見事に払拭(ふっしょく)したルール無用のセットに立つ。


芸術家の思考回路はさっぱり理解出来ない。


フラッシュと霧雨の嵐の中でオーダーに応えること一時間。

密林で迷走した俺は監督の「はい、イイ画撮れたよー、御愁傷(おつかれ)様(さま)」というカットを貰い、やっと革ジャケの呪縛から解放された。


「いやぁ、紅紫。今日もすごくイイよ。さすが今世紀最高のモデルだな」


次の衣装に着替えて椅子に座って濡れた髪を拭いているところに、ホクホクとした顔で監督がやって来た。


「あ、御愁傷様です」


挨拶しようと立ち上がる自分に、監督は「休んでていいよ」と制す。そして自分の隣に自前のディレクターチェアを持って来て座り込んだ。


「今日は随分とイイ感じだね。今回の趣向をしっかりイメージ出来てる」


監督は肘置きに頬杖をつき満足そうに言った。

まあ一生懸命やってはいるが、趣旨趣向を理解できているかと言われれば誰より分かっていないだろう。

身に覚えのない称賛をされて監督の審美(しんび)眼(がん)をちょっぴり疑った。


「監督のご指示あってこそです。自分はそれを体現しているだけですから」

「はは、相変わらず謙虚だな。でも君にそう言われると嬉しいよ。今回はね――」


と続くテーマの解釈を監督は延々と捲(まく)し立てる。「へぇー」「そうなんですか」「すごいですね」と相槌を打っていると、背後からバタバタと慌ただしい足音が近づいて来た。


「か、監督―、頼まれてた猫、拾ってきましたー」

「おお早かったな」


おつかいに走っていた顔見知りのスタッフが抱えていたのは、どこかで見たことあるような黒猫だった。


「ねこ?」

「ああ、紅紫には黒い猫が似合うと思ってな」

「猫なんてワードはどこにもなかったと思うんですが――」


最後まで言いきらないうちに監督が「芸術家とはね!」と鼻息荒く、前のめりに言葉をかぶせてきた。


「芸術家はね、掟(おきて)を打破(だは)して真髄(しんずい)を得るものなんだ。時に自ら建てた塔を崩すことをも厭わない。気の向くまま、我が心の命ずるままに表現するのが本物なのだよ」


(ちょっと今の発言、監督の職権乱用じゃない?)


掟は破る為に在るなんて、最近のアウトローでも恥ずかしくて言わなさそうなセリフだ。

それにしても、今回のテーマは在って無いようなものなのか。僅かに掴んだ世界観すら崩壊する感覚に目眩を感じながらも黒猫を受け取る。


「うーん」


脇腹を抱えてまじまじと見るとやっぱりそうだった。すらりとしているが大型で、短い毛並みは見事なほどに真っ黒。右四本、左三本の長いひげと、触覚のようにひょーんと伸びた金の眉ひげ。俺のことをじとーっと見てくる緑と金の混じる瞳のメスの猫。


「……お前、大和(やまと)だろ」


ぼそっと呟くと、黒猫は不機嫌そうな声でぐーと鳴いた。


「何でお前がここにいるの。もしかして天ちゃんも来てる?」


大和は「のーう」と鳴くが、これは否定(ノー)でなく肯定(イエス)。


(それはまずいだろ)


地獄に『天使』が来るなんて、そんな……目立ち過ぎる。


嫌な想像をした所で、何か感じ取ったのか、大和の耳があちこち向いて長い尻尾が大きく揺れた。やがてスタジオの外に喧騒が広がる。


「や、大和!」


スタジオに天使が現れた。純白のシフォンのワンピースを着た金髪の少女は一目散に俺のもとへ駆け寄ってきて、俺の手から黒猫を奪い取った。そしてぎゅーっと抱きしめた後、恨みがましいじとーっとした目で俺を睨む。


「やっほー、天ちゃん」

「………誰……かみやん?」


どうやら気付いていなかったようだ。

この子は同じCode Dの『天使』、天利寧々。

顔を忘れられるほど疎遠(そえん)な仲じゃないけど、自分に気が付かないくらい慌てていたのだろうか。


「かみやん、知らない人みたい」


それは服装とメイクが見慣れないせいだろう。

身を屈めて寧々と視線を合わせるが、彼女は大きな大和を盾にして、金に縁取られた緑の瞳を伏せてしまう。


「あらら、ほら、俺だよ天ちゃん。人見知り発動?」


逸らした視線に笑顔を向けると、寧々はいつものじとーっとした目でこっちを見た。


「その格好、変」

「はは、俺もそう思う」


初鼻からダメ出しなんて、なんて辛口な子だろう。

それを肯定する自分もどうかと思うが。


「さて、それはさておき。どうしたの、一人でこんなとこまで降りてきて」


尋ねると寧々はまた目を逸らして嘘を吐く。


「……大和を、探しに来た」


本当は何をしに来たんだか、むすくれながら話す彼女の柔い頬を指で突く。


「違うでしょ、いくら放浪癖(ほうろうへき)のある大和でも一人じゃここまで来れないよね。俺に何か用だった?」

「違う、大和を探しに来たの!」


寧々の可愛い照れ隠しも追及すると怒りだす。今はもう何も言わず、もう少し時間を置いてから尋ねようと思った時だった。


「……素晴らしい」


ディレクターチェアに腰掛けて事の顛末(てんまつ)を見ていた監督がゆらりと立ち上がる。


「来たよ、降りて来られた。芸術のぉ神がぁ!」


インスピレーションでも降って来たのだろう。スタジオ内を震撼(しんかん)させるような声で監督が叫び出した。


「紅紫、今すぐ着替えて撮影だ!」

「えっ、はい?」


監督は後光(ごこう)が差しているかのようにまばゆく輝いている。


「ご、ごめんね天ちゃん、ちょっとここで待ってて」


寧々の頭を撫でながら自分の座っていた椅子を勧めると、監督の発する光線がいっそう光度を増した。


「紅紫! この子と一緒に撮るぞ」

「…へっ?」

「スターッフ、さあこの子を着替えさせるんだ!」


寧々も自分と同じように唖然(あぜん)としている。

監督は寧々の了承など待たずにスタッフに指示を送り、美術さんがセットを入れ替え、衣装さんが駆け出した。そしてやって来たスタッフが大和を取り上げ、同じように寧々も攫(さら)われて行った。


異議を唱える間もなく、まるで綿密に計画していたかのようにすべてが一瞬に入れ替わった。


「パーフェクト!」


監督の歓喜の声に振り返ると、黒のゴシックドレスと同じ意匠のヘッドドレスに召し替えられた寧々が、まるでアンティークの人形のように立ち竦(すく)んでいた。

急に衣装さんに攫われて怖い思いをさせられたのか、寧々の白い肌は蒼白という表現が似合うくらいに蒼褪(あおざ)めている。


「か、かみやんっ」


寧々は自分に気付くと、初めて立った赤子のように両手を伸ばし、しっかり自分を見据えながらもおぼつかない足取りで歩み寄って来る。


「天ちゃんっ」


その姿に居ても立ってもいられず、ぷるぷる震える寧々の元に駆け寄って抱き締めた。


「あー、怖かったねー。でも可愛いよー」

「かみやん、私…黒。大和っ」


よほど混乱しているのだろう、寧々は目を泳がせながら思いつく単語を羅列する。


「大丈夫。大和はあっちの椅子の上で寝てるから」


びくびくしている寧々の小さな頭を「よーしよし」と言って撫でてやる。彼女の揺れる緑の瞳がうるうると滲んできた。


「かみにゃん……うっ、ふわーん」


寧々は自分の腕にしがみついて泣きだしてしまった。

気持ちいいくらいに大声をあげて泣くから、スタッフ達も「あれ、ちょっと、どうしよう?」的な雰囲気になっている。


「あらら、天ちゃん。ほーら泣かないで」


寧々の背中をぽんぽんとあやすように叩いてやる。きっと、張り詰めていた緊張が切れてしまったのだろう。一人で無茶してこんな所まで来るから。


「大丈夫、俺がちゃんと一緒にいるから」

「うー、か、かみにゃん」


その「かみにゃん」って舌足らずな言い方。

どストライク。


めっちゃカワイイから。という意見は心の中だけに。


寧々が落ち着くまで宥(なだ)めている最中、遠くで監督が「ちょっとぉー、カーメラさーん!」と五月蠅く叫んでいるが、全くお前のせいだよ。という意見もまた心の中だけに。



それから数分。

まだぐずってはいるが、泣きやんだ寧々から体を離す。


「はあ、天ちゃん。落ち着いた?」

「うん。ありがと、かみやん」

「じゃあ折角だけど、それ着替えて天国に帰ろう。監督には謝っとくから」


「待ちたまえ諸君」


監督に「この子帰ります」って一言わなきゃなと思っていたら、丁度彼の方から話を切り出してきた。


「紅紫、そしてお嬢さん。私は君達に礼を言わなくてはならない」

「はい?」


何をしたかは知らないが、監督から謝罪は受けても礼を言われる筋合いはない。

彼は残光を撒き散らしながら一筋の涙を流し、悟りにも似たその表情で監督は話を続ける。


「今日、諸君らは私の想像力を遥かに高みへと導いてくれた。ここに厚く礼を言おう」


監督は握手を求め、ノリで差し出した自分達の手を固く握りしめた。


「君たちに出逢えて…良かった」

「あの、監督? この子をもう天国まで帰してやっても良いですか」

「ああ、きちんと送り届けたまえ。撮影は終わりだ」

「えっ、でもまだ二章しか撮影していないんじゃ――」

「いいや、もう十分だ。私は気付いたんだよ」


あ、やっぱり何か悟ったんだ。


監督は着替えたばかりの寧々を着替えさせるようにスタッフに言いつけ、寧々はまたちょっとおどおどしながらもスタッフについて行った。


「紅紫、やはり君は最高の被写体だよ」

「はあ、ありがとうございます?」


脈絡のない賛辞に理由は問わず曖昧に礼を返す。

監督の続く称賛を聞いていると白いシフォンワンピースに着替えた寧々が、小走りに自分の元に駆けて来た。


「やはり天使だ。紅紫、お嬢さん。最後にもう一回だけ撮らせてもらっても良いかな」

「天ちゃん、大丈夫?」

「…私、出来ない」

「ポーズなど取らなくても、さっきみたいに紅紫と話しているだけでいい。自然体で構わないんだ」


珍しく監督が食い下がるが、寧々はうんと言わない。


「お茶とお菓子を出そう。ただそこでゆっくりしてくれればいいんだよ」


監督があんまり必死なので、度が過ぎる前に自分が助け船を出した。


「天ちゃん、ごめん。俺今日朝から立ちっぱなしで疲れたから、ちょっと休ませてもらってから帰ってもいい?」

「……うん」


寧々がこくりと頷くとともに監督は「セーット!」と叫ぶ。

心得たスタッフがどこからかふかふかなソファと小道具のアンティークの机、寧々の好きそうなふわふわのケーキと紅茶を持って来た。

その匂いにつられた大和がソファに上がりケーキを狙う。


「あ、大和、食べちゃダメ」


自分より先にセットの方に走っていった寧々に苦笑しながら後を追う。


「はあ、どっこいしょ。天ちゃん、今日の地獄見学、楽しかった?」


自分もソファに腰掛け、大和を窘(たしな)める寧々に尋ねた。


「…不快だった」

「それはまた……でも言うほど悪くは無かったでしょ?」

「……不快だった」


と言いながらも、おいしそうにケーキを頬張る寧々に、やれやれと穏やかなため息をついた。


「で、なんでここに来たの?」

「……」


再び蒸し返された質問に、寧々のフォークを動かす手が止まる。


「地獄に『天使』がいたら、それは目立ったでしょ」

「…かみやん…」

「ん?」


言いにくいことなのか口ごもってしまった。

なぜか顔を真っ赤にして俯く彼女に「なに?」と尋ねて顔を寄せると、寧々は決心したように俺をじとっと睨みつけた。

内緒話をするように口に両手を添えて俺の耳元に近づいてきた。そして大声で叫ぶ。


「セーショーの所に一緒に行って!」


スタジオ内の時が止まった。


「てんっ、ちゃんっ、この距離でその音量はないよ」


一拍置いてその状況に気がついた寧々はさらに赤くなり恥ずかしさのあまり大和をぎゅっと抱きしめて顔を伏せた。

俺はきーんと鳴る耳を押さえて寧々の沈む頭をぽんぽん叩く。


「……ごめん」

「普通に端末で言えば良いのに」

「この間、最終宣告まで行かないって言った」


寧々は前回セーショーこと枕野総司を殴ってから彼と二人になることを避けている。

だから誰かと一緒じゃないと会いにくいのだろう。

しかも前言撤回が嫌いな寧々のことだ。きっと電話や電報じゃ自分にどう頼んでいいのか分からないから、わざわざ地獄まで言いに来たのか。


「分かった、じゃあ一緒に行こう。早い方がいいなら、次の回収に行った時に」

「うん」


一段落ついた所で寧々はケーキを食べ終えた。自分の手をつけていないケーキを寧々の方に寄せてやる。


「ふふ、かみやん、ありがとう」


今のがケーキのお礼じゃないのは分かってる。

寧々の小さな頭に手を載せてやると、白いワンピースの裾をはためかせ嬉しそうに足をぱたつかせる。


そんな屈託なく笑う天使を、俺はこんなにも愛しいと思う。この笑顔の前には仕事での悩みなどちっぽけなものだ。今日はいいことに気付けた。


「あのね、俺は守るべき人がそう言ってくれるなら、どんな時も頑張れるよ。だから、天ちゃんは笑ってて」

「うん、頑張れ、かみやん」


そして二人で笑い合い、少し話をして、涙する監督に「御愁傷(おつかれ)様(さま)でした」と言ってスタジオを後にする。そして目立つ寧々を人目につけないようにひっそりと天国まで送り届けた。





――

あれから数日。

テンペスト黒縄宛に送られてきた「DEATH」の新刊誌をヤマ爺から受け取り、部屋で寝転びながらページをめくる。


「あ、こんな最初からなんだ」


数ページ捲った所から【長雨(ながさめ)の失楽園、両極に戯(たわむ)れる三時の憂鬱(ゆううつ)】と飾り文字で銘打たれたページより始まるようだ。

その背景、よく見ると大和が写っていて、俺の愛鎌(ティリアン)の切っ先に真っ赤な林檎が刺さっている。


こんな使い方、聞いてないよ。


たしか今回のサブは【罪に引き裂かれた二人。楽園を追われ、哀しみの雨の中で違う道を歩き出す。そして再び巡り合う甘い憂鬱】だった気がする。


妙にイラっとする心を抑え次のページに進む。


第一章【罪に引き裂かれた二人】だ。

黒いドレスの寧々が顔を真っ赤にさせて自分の腕にしがみついているシーン。

あの時、自分は天ちゃんの背中をぽんぽん叩いていただけなのに、なんか黒く染まっていく天ちゃんの羽に手をかけている俺。というえげつない加工が施されていた。


(ああ、確かにこれは罪深いな)


凄惨(せいさん)でいて官能的。

なかなかの表現に納得しながらページをめくる。


そして【哀しみの雨】に打たれたむわむわしている自分の写真が数ページ。完全に監督の自己満足の世界観を展開していた。【違う道】という表現は、完全に密林の中に迷走している。

他にも、蒼褪めた寧々が床にへたり込んでいる画を上手く加工して、それらしく仕立てたものなどが数枚。


ぱらぱらとある程度のリズムで進め、最後の一ページ、【そして最後に巡り合う甘い憂鬱】の場面に目が釘付けになる。


いつの間に撮った写真だろう。

いつもの白いシフォンドレスを着た寧々を膝に乗せて二人で笑っているという一枚だ。

珍しく何の加工も無い普通の写真だが、二人で笑っているだけの幸せそうな雰囲気に魅入ってしまった。


「やるじゃん監督」


いつもなら雑誌は見たら捨ててしまうのだが、今回だけは指南書だらけの本棚に丁寧に仕舞い込んだ。



後々、この雑誌が「DEATH」の市場最高売り上げを記録し、巷で『死神』ご法度のエンジェルテイストのコスチュームが密かに流行した。

さらに写真集の人気と相まって、監督の書いた「新訳・楽園追放」という小説が社会現象を巻き起こす。


しかし、その後、雑誌の続編は出されなかった。

なぜなら、モデルの上谷紅紫は活動休止を発表したからだ。



「紅紫、お前、もう副業はせんのか?」


作務衣(さむえ)姿で玄関の汚土(おど)を掃除していた紅紫に、ヤマ爺が後ろから声をかけた。


「うーん、しばらく休もうと思ってる」

「何だ? 人目につくのが億劫(おっくう)にでもなったのか」

「違うよ、今は本業に力入れたいんだ」


俺は泥掻きをする手を休め、ヤマのほうへ向き直る。


「俺たち使者にとって時間は容姿を損ねる要因じゃない。またモデルになろうと思えばいつか戻れるよ。でも『死神』は一度失敗したらもう戻れない。余裕こいて鍛錬を怠った奴から消えていくからね」


そう言って泥だらけの軍手を脱いで掌を見つめた。


「俺は、消えちゃいけないんだ」

「ほう、今のお前は、気が抜けとると感じておるのか?」


ヤマ爺はからんからんと下駄を鳴らして紅紫の隣に立った。


「まさか。だけど、今のままでいいか迷ってる。やっぱり不安になるんだ」

「使者として過ごす日々は言うなれば第二の人生。使命さえこなしておれば何をしても誰が咎めることも無いのだがな」

「まあね。でも、もし魂を回収できなかったら、もし、暴走した魂に仲間を傷つけられたら。きっと副業に現(うつつ)を抜かしてたって後悔するだろうし、そんな自分を許せないよ」


万が一にも起こり得る惨状を想像して呵責する紅紫の心を察し、ヤマ爺は目を瞑る。


「同朋の示(しめし)となり、彼等を守るのも『死神』の役命だからな」

「そういうこと。俺は決めたんだ。だからヤマ爺。温かく見守ってて」

「相分かった」


俺は守らなくてはいけない。

「頑張れ」と言ってくれたあの笑顔を。

あの笑顔やみんなとの平和な日常が続くのなら、自分の追い求めていたものは二の次、三の次。

無くなったって構わないと思うほど。


「話は分かったが、紅紫。それでは些(いささ)か手持無沙汰だろう。今度、一緒に回転釜の掃除でもしようか」


ヤマ爺は何か裏のありそうな顔で自分の答えを誘う。


「…報酬は?」

「そうさの、久しぶりに一肌脱いで手合わせでもしてやろう」

「やった。じゃあ本気で相手してよ」

「馬鹿言え、お前のようなヒヨッコに本気など出せるか、二割程で手合わせてやるから光栄に思え」

「はーい。じゃあ明日、俺が現世から帰ってきてからね」

「ふん、良く出来た孝行者を持つと、爺は喜ばすのに苦労する」

「はは、閻魔(えんま)様に稽古付けてもらうなんて、俺すっごく嬉しいよ」


俺につられたのかヤマ爺も目尻の皺を深めて笑った。


「閻魔はもうおらん。ヤマ爺と呼べ」


そう言って、ヤマ爺は喝(かつ)を入れるように俺の背中をバシッと叩いた。





ーー


「あれ、かみやんと天ちゃん?」


十二月二十五日。

今日はクリスマス。


こんな年の瀬に近所の公園で首吊り自殺があったらしい。

朝から警察やローカル記者やらが音重家の前を行ったり来たり。落ち着かない外の景色を部屋の窓から眺めていたら、鎌を携え黒衣を纏う背の高い『死神』と、段ボールを抱えた白いパフスリーブのドレスを着た小さい『天使』が現れたのだ。


「やっほー、セーショー。夏ぶりだね」

「……」

「あ、うん、久しぶり、かみやんに天ちゃんって……どうしたの?」


最終宣告にはまだ早いと思って訝(いぶか)しんでいると、黙ってた天ちゃんがおずおずと口を開いた。


「……セーショー、挨拶に来た」

「えっ、挨拶参り?」

「何かニュアンス違うよセーショー」


尤もな勘違いに苦笑うかみやんの隣で、俯いた天ちゃんが固い表情でぼそっと呟く。


「……この前は、殴ってごめんなさい」

「えっ……ああ。あれは僕のことを思ってなんでしょ。天ちゃんは悪くないよ」


総司がすんなり許してくれて安心したのか、寧々は小さく安堵のため息を吐いた。


「それよりかみやん。挨拶って、クリスマスの挨拶?」

「まさか、さっきそこの公園でCode Dの対象者が首吊ったから回収に来て、そのついでに天ちゃんの訪問に付いてきただけ」

「あ、じゃあその段ボールの中……」


天ちゃんが持っている段ボールを見る。

天ちゃんは小さく頷くと中に入っているものの名を告げる。


「Code D_986 千葉(ちば)明弘(あきひろ)」

「あ、ここら辺に同じCodeの人がいたんだ」

「基本『書記』はそういう情報入って来ないもんな『書記』の椎名って知らないか」

「うーん、あっ、たまに家に来てたかも。眼鏡の若い……」

「あーそうそう。『書記』としてもお前と同じくらいの経歴の奴だったんだ」

「……そうだったんだ」


紗江子さんと静香さんに愚痴こぼしに来ていた来客の一人にそんな名前の『書記』がいた気がする。

同じCodeだって知っていたら何か弾む話が出来たかな。


「まあ、もう上に帰ったけどな」


かみやんはそう言って天井を指す。

現世の一つ上にあるのは三途。

その椎名さんが行ったのは、おそらくもう一つ上の浄土だろう。

最終報告を記して綴じた「人生」を『運命』の斎藤さんに提出しなくちゃいけないから。


そして、自分もいつかは……


「そう言えば、あの子、具合はどうなんだ?」


かみやんが話題を変える。あの子とは縁ちゃんのことだ。


「いま妊娠八か月だよ。今日は朝から具合が悪いって寝てる」


妊娠八か月と聞いたところで天ちゃんは段ボールを抱えたままぱたぱたと足音を鳴らしてどこかに行った。たぶん縁ちゃんの寝ている部屋だろう。


残った男二人は寧々が走り去った方を向いたまましばらく無言のままだった。


「あと、二か月なんだな」


ぽつりと紅紫が呟く。


「…それ、どっちの事?」


返した声は思った以上に冷ややかだった。

かみやんがゆっくりと自分を振り返る。

きれいな眉を顰(ひそ)めた物悲しい様子で。


「たぶん、どっちも。だな」


彼女の出産予定日と縁の死亡予定とは大体同じ期間にあたる。

縁ちゃんが子供を産むと決めた時からこれが何を意味するのかおおよそ予想は出来ていた。

出産のリスクと定められた事故死。

実によくあるパターンじゃないか。


「ねえ、かみやん。一つ聞いていい?」


俯いたままの総司がぼそりと尋ねた。


「なに」

「運命って変わることってあるのかな」


紅紫は一度総司を見る。俯き目を合わせない彼にどう言ったものかとしばらく黙考した。


「……対象の生き様と、『書記』の報告の如何(いかん)によっては僅かに変わることもあるだろう。でも、『運命』が終わりを宣告したら、それは何があっても絶対に動かない」

「そう、」

「……基本『運命』の定めることは絶対だ。そして誰にも変えられない。俺が見てきた千年の中でそういう事例は一つも無かったよ」

「……そう」


そう、相槌だけ返して俯いた。

今日はまともに目を見て話をしていない。

会った時も、話している時も、何だかずっとその目を見れない。


再び静寂の訪れた室内にぱたぱたと軽い足音が近づいてくる。


「かみやん、お腹、大きかったよ」


嬉しそうに微笑みながら寧々はかみやんの横に寄った。


「そうか、じゃあ用事も済んだし、もう戻ろう」

「え、うん。分かった」

「じゃあセーショー、また、最終宣告の時に」

「…うん、またね、天ちゃん、かみやん」


かみやんは名残惜しそうな寧々の手を引いて踵を返す。

その瞬間にかみやんと視線が合う。

ちらりと目だけで振り返ると、彼の眼の奥にはちりちりと燻ぶるものが光っていた。




ーー


天国へと連なる階段。

以前は糸で、紐から梯子に昇格し、階段に変わったと思った矢先、文明化の煽りを受けてエスカレーターになっているのは既に周知の事。

今や浄土からたった五分の散歩道だ。

紅紫と寧々はその純白のエスカレーターに乗りながら、白んでいく空に昇っていく。


「ねえ、天ちゃん。運命を変えることは出来ると思う?」


二人とも思うことがあって自然と無言を続けていたため、唐突に振って来た質問に寧々は紅紫を見上げた。


「出来ない……こともない」

「だよね、あるとすればあの件」

「Code Ωの破滅」


寧々は段ボールを抱え直し、重たい口ぶりでかの惨劇を口にした。


「…だよね」


全て杞憂で終わればいいが、二人は後に起こるであろう悲劇を沈黙の中で予想していた。


「斎藤さんに報告だけはしておこうかな」

「それが、良いと思う」







ーー

二人が行ってしまった後、総司は眠る縁の隣でさっきの話を思い出していた。


彼は嘘をついた。「運命は変わらない」と。

しかし、『運命』によって多くの運命がねじ曲がった過去を、自分は一つ知っている。


運命を変える事象は全くない訳ではないのだ。

しかし、これはきっと誰に尋ねても答えは無いのだろう。


彼女の死期が近づいて来るのが怖くて、最近まともに休んでいない。


子供が産まれて彼女が死ぬのか、

彼女が死んで子供が産まれるか。


どうせだったら前者が良い。

最近、縁ちゃんは早く赤ちゃんが生まれてほしいと微笑むようになった。

だから、どうせなら母親になって人生を綴じてほしい。


頭を巡るのは彼女を助ける術を見つけること。


洗い直した不透明な風習。

寿命の宣告から最終宣告まではなぜか間が開く。

対象の最期の日は動かないというなら、最初の宣告の時にその日を伝えてしまえばいい。

なのにわざわざ報告を二回に分けると言う事は、その間に何か変更がある可能性があるからじゃないのか。


でも残された時間は少ない。改革を起こす手立ても思案する時間も自分は持ってない。


「……このまま、終わってくのを見てるだけなんて、嫌だな」


縁ちゃんの子供も同じCodeだった。

『書記』の子とも仲良く出来ると思ってた。

共通の知り合いの話に花を咲かせて、お互いを見守り合って、幸せに暮らす日々を、笑い合う瞬間を、夢見ていたのにね。


「縁ちゃん、僕、どうしたらいいんだろ」


最近、彼女はずっと眠っているような気がする。

こういう日が続きながら、気付いたら眠るように彼女は死んでいた。

いや、そんなことは無いと思いながらも、死に対する底知れぬ畏怖が背筋を這う。

暗い部屋で膝を抱えた。


「……っわ」


不意に自分の端末が震え出した。


「な、何?」


画面を見ると件名には【Code Dの合同会議開催のお知らせ】と書かれてあった。


数年に一度、不定期に催されるCode Dメンバーの会議兼懇親会だ。

開催日は一月後。

その時、自分の中に一筋の光が駆けた。


「…そうだ」


おそらくこの会議には彼も来る。

彼は『運命』の事も把握している。

そしてきっと何か打開策を講じてくれるはず。


(たぶん)


無理だと一蹴されるかもしれない。

でも残された時間考えると他に手段は無い。



メールの画面とにらみ合うこと数分。

自分は【参加】の文字を打ち込んだ。

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